傘のこと
僕は彼女からもらった傘を差して帰宅した。
僕は当時一軒家に住んでいた。綺羅星のごときお嬢様方の住む邸宅とはくらぶべくもない一般的な造りだが、このご時世会社できちんと勤めて家族を養う家を建てるのがどれほど大変なことかアラサーになった今身に染みている。
2階にあがり、自分の部屋で傘を広げまじまじと観察してみた。
僕が普段使う傘なんてものはビニール傘か1000円もしない折りたたみ傘くらいのものなので傘の値打ちはよくわからないが、彼女からもらった傘はすごく高級なもののようだった。
派手な見た目ではないが、空色の傘生地にペイズリー模様が品よく控えめに刺繍されていおり、撥水性も抜群。玄関で2、3回開閉しただけで傘についた水滴がほとんど飛んでいったことに感動した。傘に感動するのは後にも先にもこの時だけだろう。骨も軽くて丈夫そうだ。
ちょうど僕の折りたたみ傘はいつだかの荒天による強風に煽られ見るも無残に破壊されていたので、良さそうな傘をもらえて超ラッキー!……とはならなかった。
冷静になって考えてみると、彼女は僕が2日連続で寮の前に現れるなんて知る由もなかったはずだ。当然あの傘は僕にあげるつもりで用意したものでは決してないわけで、彼女の普段使いの傘であった可能性が高い。
天気予報もろくに確認せず早朝から外へ飛び出し彼女の登場を期待していた哀れなストーカー予備軍に対し、彼女は傘の形をした厚意を投げてくれたのだ。
……大した会話をしたわけでもなく、彼女からしたら素性も分からないような男がこんな高そうな傘をもらってしまってよいものか?本当はすごく大事にしていた傘だったのではないか?いや、大事なものを3階の窓から投げたりするか?
お嬢様からすればこの高級傘もビニール傘感覚なのかもしれないが、僕としてはこの傘をこのまま僕のものにしてしまうのは良くない気がした。彼女は僕にプレゼントをしたくてこの傘を投げたわけじゃない、雨に打たれるおかしな男を哀れんだにすぎない。
お礼を言って返そう。そう決めたものの、いかに返すか、それが問題だった。
ヴァーリア女学院は俗世とは隔絶された空間であり、実家から通う生徒は運転手つきの高級車で登下校し、寮に住んでいる者はそもそも校内の敷地からでてくることはほとんど無い。警備も厳重で、毎年僕の通う北高の男子生徒が女学院への侵入を試みるも必ずガードマンに捕まって厳重注意を受けるという憂き目に会っていた。まぁどんな施設だろうと不法侵入はよくないと思うが、人間というのは未知であったり未踏である場所にロマンを抱くものだ。男なら尚更。
再び寮の前へ赴き3階の窓から彼女が現れるのをひたすらに待つ。彼女が現れたら窓を開けてもらい、僕がそこめがけて傘を投げる。スローイングの正確さが重要だ、安い傘でも買って練習してみようか。
……僕は本当にバカだと思う。彼女にちょっと下に降りてきてもらって手渡しすればいいだけだ。いかにお嬢様方が外部との接触を厳しく制限されているとはいえ、正門の前まで来て傘を返してもらう程度なら問題にならないはずだ。次の土日に実行しよう、うまく彼女が現れてくれるといいけど。そう思っていた。
しかし、彼女との再開は僕の思惑とは違う形で訪れた。
彼女から傘をもらった日から3日後――確かそうだったと思う――、僕は街にある大きな書店へ行くためにバスに乗った。
バスに乗りどの席に座ろうかと車内を見回すと、最後部の左端に彼女うつ向いて座っていた。周りに乗客はいなかった。
「あっ……!」
僕は思わず声を上げる。彼女の顔があがり僕と視線がぶつかる。
「あなたは……」
「や……やぁ。奇遇だね……」
「……ええ」
彼女は明らかに元気が無かった。前に会った時の彼女とは明らかに様子が違う。とはいえ、何かあったの?なんて聞く資格なんて僕にはない。
傘のことを切り出そうと思った。本当はこの場で返すことができればよいのだけど、僕はこの時彼女の傘を持っていなかった。まさかこんなところで会えるなんて思ってもみなかったから。
ただ、こうして直接話をする機会を得たことで、傘を返すのに都合のよい日時を調整することができる。
僕は話をするために彼女に近づいた。
「あの、こないだのかさ――」
「すみません!お金を貸していただけないでしょうか……」
なにからなにまで予想外だった……。