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9. 市原 カウベル

 千葉県市原市。

私は以前、ここのあるコンビナートで勤務していた。

ちょうど震災前後の頃だ。

地震直後、爆音が響き、黒煙が天をもくもくと焦がしたとき、「これは死ぬかもな」と思った。

事務屋である私ですらそう思ったのだから、工場の現場で、地震で緊急停止した装置を必死に維持し、津波が来るかもしれない恐怖におびえながら、黙々と自らの――最後かもしれない――任務を果たし続けた人々の胸中はどうだっただろうか。


 東北の震災。


津波にあわれた方々は言うに及ばず、死は、決して工場においても遠いものではない。

いや、遠いものにするためにこそ、工場は安全を口やかましく言い、教育を施し、社員とそうでないとを問わず、危険な場所を見つけては改善し続けている。

コンビナートで唯一、事故を起こした工場も、たまたま検査をしていたが故のことだったという。


 そして、さらに爆発しかねないところを、工場の人々はまさしく命をかけて食い止めた。

冗談抜きで、『命を懸けた』のだ。


 今では、誰もが笑い話にするが、その奥で死を覚悟した一瞬があったのだという。

このときのために、自分が数十年磨いた技術はあったのだ、とも言う。

私と、よく喫煙所で話していた、今はもう定年退職された方は、


「若い頃に教えてくれた係長の言葉が、ぱっと思い浮かんだよ。

もう40年も前の教えだったんだけどな。

まあ、結果的に自社(うち)じゃなかったが、多分向こうにも同じような連中がいて、食い止めたんだと思うよ」


とわはは、と笑った。

方々には、いずれも頭が下がる。


 カウベルは、そんな人々が憩いに訪れる店だ。


店はと言うと、駅からは遠く離れている。歩いていくのは不可能ではないが、バスあたりで向かうのが適切だろう。

自然、そこには近隣の住民のみが集うことになる。


 ここはステーキハウスだ。

旨い肉をやわらかく下処理し、味良く切り、焼く。

ただそれだけのことを、熟練の技に引き上げた老店主たちが二人で切り盛りしている。

その肉の良さ、やわらかさ、味わいの良さ、後味の良さ、そして肉汁の芳醇さ。


味を知らないとはむしろ幸せなことなのだなあ、と転勤した今は思う。


 子供の誕生日を、ここで祝った。

ゆっくり出来るようにと、店主は奥の座敷を空け、私たち家族と、私の両親、あわせて5人を迎えてくれた。


まずはしゃきしゃきしたサラダだ。そしてスープ。

そして少しの箸休めにあわせ、肉が来る。

酒をあまり飲まぬ私の父に合わせ、酒はビールのみ。

のどを潤したときにちょうど良いように、肉が焼かれる。

まだ三歳になっていなかった娘のためには、特製のお子様ランチを出してくれた。

肉はたたかれて子供でも食べやすいようにしてくれ、小さな旗がライスの上に載っている。

温度も、肉の味を損なうことなく、子供が食べられるように抑えてあった。

それでいて、味わいは肉そのものなのだ。



 食後にはアイスが出た。 さっぱりとしたバニラの味に、偏食のひどかった子供も肉から野菜からご飯から、一粒残さず平らげた。

  

 出る間際、娘がちょこちょこと歩き、礼をした。

幼い娘なりに、喋れない自分がどうやって感謝を表せばよいのか、考え抜いたのだろう。

そのときの店主お二人の笑顔は、忘れられない。


そして、出る。

良い店と言うのは、店に入る前から出た後まで、全てにおいて幸福感とともになければならぬ。

そういう、店として当たり前ながら難しいことを、この店はごく自然に続けている。

美しい調度を見ながら、私はもう、次に来るタイミングを計っているのだ。

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