8. 浅草 金寿司
池波正太郎は言う。
女職人が一人、静かに鮨を握っている。何か今日のよいものを、といえば、たとえば貝をぶつぶつと切って出してくれる。それがうまい。
池波が往時通った店なのだから、もちろん古い。
馬場啓一氏が尋ねたとき、ビルにしようかという話があったそうだが、どうもそれは立ち消えになったようだ。
その代わり、池波が味わった味を今でも楽しむことが出来る。
古い店だ。
けばけばしくネオンで飾り立て、ネクタイをきちんと結んだ職人たちが握る現代の鮨屋ではない。
私が行ったいずれでも、ほかに客はいなかった。
昔ながらのストーブが、カウンターの後ろでちんちんと湯気を立てている。
そこでテレビを見ながらビールとつまみを頼むと、いかにも江戸の人らしい威勢のいいおばあちゃん――間違いなく、池波の会った女職人だ――が、貝を切って出してくれた。
個人的に、貝は大好きだ。
口に含んでみると、さすがに旨い。
「なかなか最近はいい貝もなくなっちゃってさ。でも、自信のないものは出せないからね」
矍鑠たる老職人は、そういって私のような若者にもにっこり笑って見せた。
味を知らぬ若造には適当なものを出せばいい、という驕りはそこにはない。
1,000円、という、浅草でも破格の安さの鮨をつまみ、昔の職人技であろう、甘い煮切りやほろりとほどける鮨飯、酢締の味わいの妙、そして鮨そのものの素晴らしい味。
それらを楽しみながら彼女は言う。
「この店も仕舞いになるかもしれないが、出来るだけいいものを、いい値段で出したいんだよ」
数年前のことである。