3. 錦糸町 とんつう
きっかけは、私が転勤になった当時の課長だった。
「東京勤務になりますけど、東京の味なんてどこも……」
学生時代東京にいたくせに、そんな傲慢なことを言い放った私に、「ここがよい」と課長が勧めてくれたのがとんつうだ。
課長は、酒も煙草もやらぬ。 酒は一滴も飲めぬ体質だ。
それでいて合気道と柔術の達者だから、食にかける意気込みは並々ならぬものがあった。
そんなことで、ひょいと訪れた店では、若く精悍そうな店長と、明るそうな店員たちがひっきりなしに駆け回っている。
初めて行った日は、確か会社の人と二人だった。
その2日前、接待で六本木の焼肉屋に行ったのだが、味はよかったが雰囲気が悪く、くさくさしていたのだ。
その店の店長は店員を怒鳴り、店員たちは暗い目つきで肉を運び、酒を注いでいた。
接待としては明らかに失敗、味がまあよかったのが不幸中の幸いだった。
では、と行ったとんつうはどうであったか。
場所としては、いささか駅からは離れている。
錦糸公園、オリナスの近くであり、焼肉屋も多い中、やや不利にならざるを得ない。
それでいて、店は満員だった。
ここではキムチやチャンジャもうまいが、何より肉だ。
メガネやカイノミといった知らない名前が並ぶメニューには、「当店ではお勧めできない肉は出しません」と誇らしげに書かれている。
実際に、店長に聞いてみると、どれも美味だが、中でもその日の仕入れ、客の腹もち舌もちに合わせ、これがどうですか。
と、良い肉をすすめてくれるという。
酒もそうだ。ここでは、酒だけで勝負するような酒は置かぬ。
肉をうまく食わせ、客を楽しませるために、酒を選び、酒を出す。
昔のアニメのような原始肉や、七輪を三つ並べて焼くスカイツリーハラミのような肉も出すが、
本領はやはりロースであり、ハラミであり、その他諸々の肉であり、諸々のホルモンであり、肉吸いなる吸い物だ。
その肉の柔らかなこと、味わいの豊かなこと、甘み、タレ、辛味、酸味、いずれも素晴らしい。
例えばハラミを頼めばその肉はあくまで柔らかく、さっぱりとしていささかも苦しくならぬ。
そして最後はその名も『締めの肉』『締めのハチノス』という肉だ。
締めの肉とは、極上の牛肉を薄く切り、甘みのあるタレで焼いて溶き卵にくぐらせ、飯にかけて食べる。
その風情は一種、すき焼きにも似ているであろうが、それよりもさらりと口に入ってくるのだ。
がっつりとパンチの効いた肉をどれほど食べていようが、その肉は静かに口に入り、静やかな後味を残して去っていく。
その代わり、それを食べて後、さらに肉を頼むことはできない。
頼めばしてくれるが、客の側が満足しきってしまい、その気がなくなるのだ。
『締め』とはそういう意味で、まさに宴席のクライマックスにふさわしい肉なのである。
会社関連のみならず、畏友とも何度もここに入ったが、毎回ここの肉には驚く。
そして店の清潔で明るく、明朗なこと。
店員諸兄姉の楽しそうなこと。
店長は上記の課長いわく、『肉の目利きでは当代冠絶』とのことであるが、それだけではなく、よほどに店員の教育、明るく働けるかに気を配っているのだろう。
客が来ない日は店員が身銭を切って肉を食べたり、ほかの焼肉店を回って味の研究をしているそうな。
そのような店長が率い、店員が並ぶこの店を同時代で食べられたことは、幸福である。