第8話
昨日抜けた分2話連続の投稿です。
私がお兄様と拮抗できる存在?
「それってどういう…」
するとブルーナは、無言で立ち上がってワゴンの上にあった真鍮の桶を取り、再び椅子に腰かけた。私は桶の中が見えるよう、枕を背に体を起こす。ブルーナが桶の上で手を翳すと、中の氷水に魔界の姿が浮かび上がった。最北端のサガンから下って北の森、大地の裂け目、毒の沼、氷の山脈、魔王城、眠りの森、南の湖……。まるで生きて氷水の中にあるかのように、鮮明な映像である。
「魔王というのは、元来人と比べて遥かに多くの魔力を保持する魔族の中でも、とりわけ大きな力を持っています。それこそ、魔王が本気を出せば魔界の半分が焦土と化し、山は砕け水という水は干上がり、空間に幾つもの歪が生まれるくらいに」
私が感心して見とれていると、ブルーナは話しながら映像の上で手を振った。その瞬間、まず魔王城を中心とした大地のおよそ半分が全て黒焦げの更地となり、毒の沼や氷の山脈や湖があった場所は跡形もなく蒸発して消え去った。サガンは衝撃波で粉々に砕け散り、大地の裂け目からは赤々と燃え盛る溶岩が噴き出している。空気は砂埃や気化した毒によって汚れ、そして魔界全体は所々に出現した歪のせいであべこべな形になっていた。
「へ、へぇ」
私は思わず頬が引きつるのを感じた。言葉を返そうにも、喉の奥に引っかかってうまく出てこない。それを見たブルーナが、薄っすらと苦い微笑みを浮かべた。
「いくら制御しているといえども、魔王とて完璧ではありません。力が暴走する可能性は充分あります。そこで万が一のために存在するのが、魔王の兄弟なのです。彼らは常に魔王の味方であり、また王の暴走を見張る管理者のような存在でもあります。…陛下の妹君であらせるロザリア様も、ですよ」
「…想像つかないけどなぁ……」
「いまはそれでよいのです」
いまいち私がお兄様と並び立っている姿を想像できなくて、うーんと唸る。むしろ、奴隷のように虐げられている私と、極悪非道にして鬼畜なお兄様の方が、よっぽど想像しやすい。しかしブルーナは、それでいいのですよと、何度も頭を撫でてくれた。
「でも…、じゃあ、他の家族は?」
兄弟がいるならば、親だって当然いるはずだ。その親はどうなのだ。そう問えば、淡々とした答えが返ってきた。
「魔王の血族は、長たる魔王に逆らう事はできません。が、それは位を退いた王であっても同じ事。したがって新しい王が生まれて世代が替わると、先代の魔王とその配偶者や魔王の兄弟たちはみな、いらぬ諍いを避けるために城を出なければなりません。……そして想像もつかないほど遠い土地で、残りの生涯を兄弟たちと生きる定めとなっているのです」
「…さみしくはないの?」
その口調からすると、私もいずれはその土地で、ひっそりと隠居しなければならない運命にあるという事なのだろう。ただでさえ暗く陰鬱な魔界で、住み慣れた場所を離れて誰も知らないような土地で生活するのは、辛い事ではないのか。
ポツリと呟くように尋ねると、ブルーナはその方が幸せなのです、と言った。
「そうでもしないと、今度は魔王と先代との間で戦いが勃発するからです。そこに、親子の情など関係ありません。どれだけ我が子が可愛くても、あるいは憎くても、あるのは魔族の本能のみ。先代は負ける事がわかっていても、戦わずにはいられないのです。ですが、そんな無駄な戦いで魔界が破滅するよりかは、静かな場所で安穏な生活をする方がずっとかましでしょう。だからこそ、必要な措置なのですよ」
「でも、そんな事をしたら残された子供は……お兄様は………」
「…ええ。残された魔王は味方もいない城で、たったひとり生きていかねばなりません。そうならないためにも、魔王の兄弟は歳を近くして生まれるのです」
そこでいったん言葉を切ったブルーナは、抱えていた桶を元のワゴンへ戻しに行った。桶の中身は、氷水が入っていたはずなのに、気がつけば消えてなくなっている。もしかしてさっきの…、と思ったがそれを聞いたら余計に熱が上がりそうだったため、私は黙っておく事にした。
「通常魔族の子供は、数十年置きにしか誕生しません。魔界全土の魔族を含めても、この事実は変わりません。ところが魔王の兄弟だけは別です。魔王のために生まれ、魔王と共に生きる彼らは子孫を残せない代わりに、生まれる時は魔王と5年を置かずして生まれるものなのです。しかし……」
私はヒュッと息を飲んだ。心臓がバクバク言って、全身から血の気が引くのがわかった。おそらく私の顔色はブルーナ並に白いはずだ。ブルーナの、痛ましげな視線を見ていればわかる。くま吉を握る手に力が入った。
ブルーナもブルーナで、言っていいのか悩んでいる様子だった。口を開いては閉じてを繰り返している。
やがて、今日はここまでにしましょう、と言いかけたブルーナを遮って、私が掠れた声で「言って」と促すと、一度は口を引き結んで難しい顔をしたものの、いずれは知る事だと悟ったのだろう。諦めに似た溜め息をつき口を湿らせた後、ゆっくりと話し始めた。
「――しかし、あなたが生まれたのは魔王の誕生から……約100年も経った後でした。その間に陛下は、すっかり心を閉ざされてしまわれました。不用意に近寄る者や、価値のない者は容赦なく殺してしまえるくらいに…」
やっぱりだ。私は確信した。
王となるべくして、望まれて生まれたはずのお兄様には、初めから誰一人として味方がいなかったのだ――。