第7話
お兄様と初めて会った次の日、私は熱を出して寝込んでいた。ブルーナいわく、「陛下の強大な魔力にあてられたため」らしい。
一般的な魔族は、魔力を制御する事で無駄な消費を抑えている。ところが魔王という存在は、体内に保持する魔力が多すぎるせいで、制御して完全に放出を抑えると行き場を失った魔力がどんどん体内に蓄積され、大爆発を起こすのだそうだ。だからそうならないためにも、魔王は常に周囲に高濃度の魔力を放出し続ける必要があるらしい。つまりお兄様の近くに行くという事は、このはた迷惑な魔力に包まれる事を意味していた。
するとどうなるか。これは至極簡単な話だ。浸透圧を想像してもらったら早い。低濃度の私が高濃度のお兄様に会えば、高きから低きへ流れる水のごとく必然的に、お兄様の魔力が私の体に流れ込む。ちょっと慣れてくれば、その流れを弱める魔法の膜を作れるようになるらしいのだが、魔力の扱いに関しては素人に毛が生えた程度である私は、当然そんな技術など持ち合わせていない。
したがって、勢いを殺せないまま流れ込んだ魔力により、体内の魔力濃度が急激に上昇し、体に変調を来すのだ。魔力の低い魔族の中には、膜で防護しても何の効果もなく、お兄様の通った道を歩いただけで昏倒する者もいるみたいだけど。
自爆テロならず、他爆テロ――それも同時多発――を無意識にやるとか、お兄様ったらなんて恐ろしい子なの、と胸に抱いたくま吉の絶叫をBGMに震える私を、ブルーナはよくある事なので心配はいりません、とあっさり切って捨てた。もっとも、心配はいらないと言った張本人が、私の呻き声ひとつで枕元にすっ飛んでくるような心配ぶりでは、全くと言っていいほど説得力がないが。
扉が開く音がして、ブルーナがワゴンを押して部屋に入ってくる。ノックは当然のごとく無視――以前その事を指摘した時に、「なにかやましい事でもあるのですか、羨ましい」と、怒っているのか褒めているのかわからない口調で反論されて以来、私も指摘を諦めた――だ。ワゴンの上には、水と何枚かの清潔なタオル、それに氷水の入った真鍮製の丸い桶が乗せられている。
「ロザリア様、どこか苦しい所はございませんか?」
「ん…」
私は布団に包まった状態で、曖昧な返事をする。
「冷たいお飲物はいかがですか?」
「んー……」
「氷枕をお取替えしましょうか?」
「………」
「お身体をお拭きしましょうか?」
「……………」
「ロ、ロザリア様!?しっかりなさってくださいませ!いますぐ医者をお呼びし――医者ぁぁぁぁぁああああ!!!」
「ブルーナさん!?お願いだから寝かしてくれないかな!!」
さっきからずっとこの調子で、体がだるいのも相まって苛立っていた私は、とうとう怒りを爆発させた。
と言うのも、ブルーナはどうやら心配するあまり、ついにオカンの亡霊を降臨させてしまったようなのだ。あれやこれやと気を揉みに揉んで、人が寝込んでいる枕元を行ったり来たりと、冬眠から目覚めた熊のごとく全く落ち着きがない。あるいはお腹を空かせた肉食獣だ。しかも挙句の果てに、返事をするのが面倒くさくなった私が無視を決め込んだ途端、まるで瀕死の患者扱いをするのだから始末に負えない。一体私にどうしろと!?
私の怒声で我に返ったのか、はたまたオカンの亡霊にお帰りいただいたのか。つい大声を出した後盛大に咳き込むと、ブルーナは彼女にあるまじきしおらしさで、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
「申し訳ございません……」
落ち着きを取り戻したブルーナが、氷水で絞った冷たいタオルで、そっと額の汗を拭ってくれる。その温度が気持ちよく、私は束の間目を閉じて、されるがまま大人しくしていた。
熱は依然高く、あと1、2日はこの状態が続くかもしれないそうだ。それでも血のおかげか、お兄様の魔力を浴びた割には比較的症状が軽いらしい。少し前、ブルーナに引きずられるようにしてやってきた医者が、息も絶え絶えにそう言っていた。その後、医者自身も別の医者に診られるはめになっていたが。
最後には、むしろ恍惚とした表情さえ見せていた所からして、精神科の助けが必要かもしれない。とりあえず、私が寝込んだというだけで、謂れのない暴力を受けた残念な医者が無事である事を祈る。南無三。
濡れたタオルが私の体温で温くなり、静かに額から離れた後、ブルーナはもう一度同じ言葉を口にした。
「申し訳、ございませんでした」
薄っすらと目を開けると、複雑な表情を浮かべたブルーナが私を見下ろしていた。いつもは空から龍が降ってきても動じなさそうな彼女が、視線を行ったり来たりさせている。そんな彼女が珍しくて、私は首をかしげてみせた。
「なんでブルーナが謝るの?なにも悪くないでしょ」
「いえ…、私が先に魔王陛下について申し上げておけばよかったのです」
ブルーナは、私が少なからず落ち込んでいたのを、的確に見抜いていたのだ。
氷水に浸したタオルを絞る音がして、再び額にひんやりとした温度が戻ってくる。私が身体を起こそうとすると、布団を首元まで引き上げられて、やんわりと押し戻された。仕方がないので、私はくま吉を胸にぎゅっと抱え直した。
「そんなの…、私が勝手に思い込んでいた事だし」
くま吉のくったりした手を振って否定するが、ブルーナの表情は優れないままだった。顔色はいつだって優れないのに、表情が優れない彼女を見るのは初めてかもしれない。
そしてブルーナは、静かに語り始めた。
「……。魔王陛下は、生まれ落ちた時から全魔族の絶対的存在である事を強要されます。魔族の社会はまさしく実力主義が主体ですから、なおさら情に流されるような事があってはならないのです。…いまでこそ陛下の血筋が王を名乗る事ができていますが、いずれ魔王に相応しくない子供が生まれた場合、即座に他の魔族が頂点を奪い取りに来るでしょう。そこに、仁義などと言う甘い言葉は存在しません。むしろ虎視眈々と、相手の喉元に食らいつける機会を狙っているのが普通です。魔族とは、そういう生き物なのです。だからこそ陛下は――――」
「………」
長い間誰も信用できず、常に警戒心を絶やせない。いくら感情に疎い魔族であっても、それは辛く苦しい事だ。それが上に立つ者なら、なおさらだ。触れれば切れるような冷たさは、自分自身を守る唯一の術であったのかもしれない。
外からポツポツと窓を叩く音が聞こえてくる。時折遠くで鳴る雷の音が、静まり返った部屋に響き渡った。普段ならば、雨が降り始めた途端絶好の洗濯日和だと言って、嬉しそうな顔をするブルーナが、今日ばかりはそれすらも聞こえないようだった。
「私は…あなたを利用しました……」
「うん…」
これはお兄様と会った時から薄々感づいていた事だ。ブルーナにも考えがあっての事だろうと黙っていたが、よくよく思い出してみればブルーナは私の前でお兄様がどのような人物で、どのような性格をしていて、なにが好きでなにが嫌いかといった詳細は、一切話してくれなかった。私と一緒にいた者なら、私がどれだけお兄様と会うのを楽しみにしていたか、わからないはずはなかったのに。
後から聞けば、私はこの時お兄様とそっくりな凪いだ瞳をしていたらしい。
ブルーナは私の瞳を見つめると、一度目を伏せてからやがて決心したかのように言葉を紡いだ。
「…魔王と血を分けた兄弟は、魔王を裏切る事はできません。ところがそれと同時に…、―――魔王と拮抗できる唯一絶対の存在でもあるのです」
「……え?」