第6話
お兄様と会う当日。結局私は、胸いっぱいに膨らむ期待と動悸で、一睡もできぬまま夜を明かした。と言っても、魔力の制御ができるようになったいま、別に眠る必要はないのだけれども、なんとなく前世からの習慣が抜けきらずにいるのだ。いっそこのまま健康優良魔児でもいいかと思っている。ブルーナは、そんな人間の真似事みたいな行為は一刻も早くやめさせたいみたいだけど。
でもね、よく考えてごらん。仮に魔界の1日が24時間あるとして、その全部を使ってもいいよと言われたらどうするかって。暇で暇で仕方がないでしょーが。
パソコンもゲーム機もない、テレビもない。映画もなければ、漫画だってない。あるのは妙に残酷な、いわゆる魔族向けの血生臭い小説――作中で必ず2人は死ぬ――か、もしくは思いっきり残虐な、魔界について書かれている専門書の数々のみである。辛うじて童話集までは読めたが、それ以外はさすがの本好きの私でもご遠慮願いたい代物であった。
その他にも魔族ならではの野外スポーツがあるみたいなのだが、魔族ならではと付いている時点で、どうせ碌なものではない事だけは確かだ。健全の“け”の字もない。よくてR指定だろう。
どうだ、おわかりいただけただろうか。魔界には、娯楽と呼べるものが絶望的に少ないという事を。と言う訳で、私はいままで通り惰眠を貪る事で、持ち時間を消費するしかないのだった。魔族はつらいよ。ロザ次郎、望郷篇いざ開幕。
魔王城の中央に位置する謁見の間。周囲を漆黒に輝く、何本もの巨大な柱に囲まれたその部屋に、1人の男と少女が向かい合っていた。
阿鼻叫喚図が描かれた天井ははるか高く、柱に取り付けられた灯りがその全体像を薄っすらと照らすせいで、不気味さが一層際立っている。傷一つない床は黒曜石のごとき透き通った煌めきを帯び、色濃く落ちた柱の影を映し出している。そこに模様の類は一切みられない。
男は地面から階段を上った高い位置に置かれた純白――黒色しかない部屋の中で一際目立っている――の王座に座り、体のラインがわからない、ゆったりとした作りの長衣から長く伸びた足を大儀そうに組んでいる。一方ベビーブルーのドレスに身を包んだ少女はというと、下座でひっそりと跪いていた。
耳が痛くなるような沈黙の中、私はこめかみを流れ落ちる汗も拭う事すらできずに、ひたすら目の前の男を見つめ続けた。目の前で静かに座る男――当代魔王陛下にして、私の兄であるオーウェンは、薄く形のいい唇を動かした。ゆっくりとした動作で、肘掛けについた手に頭を持たせかければ、美しい濡れ羽色の長髪が兄の白い顔に一筋かかった。
「よくぞ参った」
低く、艶のある美声が、それほど大きな声ではなかったというのに、耳にはっきりと届いた。なんの、感情も、籠らない声だ。その瞬間。
――ゾワリ。
私は肌が粟立ったのを、どこか他人事のように感じた。見えないなにかが重くのしかかるような威圧感に、体を小さく震わせる。咄嗟に返事をしようにも、口の中が乾いていてうまく舌が動かせない。呼吸すらするのが苦しい中、一呼吸置いてようやく出た声も、蚊の鳴くような微かなものにしかならなかった。
「は…、魔王陛下におかれましては、ご機嫌麗しく…」
妖しい輝きを宿す宝石のように冷艶な美貌を持つこの男は、もしかしたら私の返事をさほど期待していなかったのかもしれない。それほどまでに、切れ長の紅い瞳にも、空気を震わせる声にも一切感情がなかった。ただひたすら淡々としていて、事務的に会話を行っているように見えた。
その姿に、私が思い描いていたような肉親の情など、男の前では幻のように儚いものであると、嫌でも実感させられる。ここには、私を無条件に甘やかしてくれる兄などいない。いるのはたった1人の、氷のように冷え冷えとした空気を纏う魔界の王であった。私は心の中で、無意識的に縋っていたなにかが、崩れつつあるのがわかった。
「この度の――、お前の成魔族への仲間入りを歓迎する」
「ありがたく存じます」
「よい。…お前、名はなんと言う」
ああ、この人は私の事などなにも覚えていなかったのだ。頭の隅で、そんなつまらない事をぼんやりと思う。そこには、少しの衝撃と落胆が混じっている。だが、口は誰か別の人格に乗っ取られたかのように、正しい返答をしていた。
「ロザリアと、申します」
「ロザリア、な」
「はい」
道具を品定めする時のように小さく呟かれた兄の言葉はもはや、どこまで行っても無機質でなんの温度も感じられない。
「ロザリア、お前に北の宮に住む事を許そう」
北の宮とは、私がもともと部屋をもらっていた離宮とは違い、本宮の一部にあたる。兄の私室もその場所に位置し、北の宮に限っては魔王の身内しか住まう事を許されていない、魔王城の中でも特別な区域となっていた。兄は一応私が身内である事を覚えていたらしい。しかし、私は兄に会う前とは違い、それを手放しで喜べるような気持ではなくなっていた。
「それとこれからは勉学の時間を増やせ。精々、王族の名に恥じぬよう励む事だ」
「…仰せの、通りに」
それだけ言い終えると、兄は思案げに細めた。その視線は、どこか別の所を見つめている。相変わらずの無表情であったが、兄はもう私の存在など道端の小石と同等に、どうでもいいらしかった。目の前で私が刺殺されようと、嬲り殺されようと、兄の視界に再び私が映る事はない。なんとなく、そんな感じがした。
私は唐突に、兄は、兄であるはずの男は、私に価値がなくなればすぐさま捨てる事ができる、冷徹で残酷な正真正銘の魔族である、と理解した。
おそらく、兄はなんの躊躇いもなく私を殺せるだろう。それも、使えない道具を処分するのと同じくらい、容易く無感情に。それが例え兄の気まぐれであっても、他の誰も兄に逆らう事はできない。なぜならば、私を凪いだ瞳で見据えていた男は魔界の王にして、生まれた瞬間からどの魔族よりも絶対的な強者であるのだから。
私は自分が恥ずかしくなった。いったい、兄という存在になにを期待していたのだろうか。いったい、魔族という私の知識の範疇からかけ離れた種族に、なにを望んでいたのだろうか。もしかすると、心のどこかで肉親がいると聞いた時から、会えばよくやったと抱きしめてくれるものだと勘違いしていたのかもしれない。
私が勝手に理想像を創り上げて、勝手に現実の世界に落胆しただけだ。それだと言うのに、体の中に穴がぽっかりと開いてしまったような喪失感を、拭う事はできなかった。
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謁見の間の扉が音を立てて閉じた途端、それまで張り詰めていた気が抜けて、私はその場に崩れ落ちた。
「――っロザリア様!!」
入り口脇で控えていたブルーナが、すかさず私を抱きかかえてくれる。耳元で小さく、よく頑張りましたなどと慰めの言葉をかけてくれたが、意識が朦朧としているせいでほとんどの言葉が頭の中を素通りする。私はただぐったりとブルーナに体を預ける事しかできなかった。
私はこの時やっと、ブルーナが強硬手段を取っても私の成長を促そうとしていた意味を知った。―――――全ては私が、兄である魔王に殺されないためであったのだ。