第5話
生後1ヵ月と18日目の昼、それは唐突にやってきた。
私が鍛錬場と呼んでいる漆黒の塔は、城の敷地内にあり正式名称を“八賢の塔”という。その名の通り、魔族の中でもっとも優れている8人の賢人を集めた塔である。主に魔界の研究と、賢人の知識欲を満たすために建てられた9階建てのこの塔は、9階部分の展望室を除き各賢人につきワンフロアが宛がわれているらしい。よって、塔は階層ごとにその内装も違えば雰囲気も全く違うという、不思議な造りになっていた。
どこのダンジョンかと思うであろう。私も初めて聞いた時は、いつか攻略してやろうとわくわくしたものである。しかし、2階に住む賢人オーガスト・オリバーに出会った瞬間、そんな気ははるか彼方銀河の向こうに吹き飛んだ。どうやらこの塔、中を開けてみれば八賢の塔とは名ばかりの、救いようのないモンスターを集めた収容所であったのだ。
オーガスト・オリバー。通称、オーガスト・“山羊面”・オリバー。山羊面とはうまくいったもので、山羊のごとき白鬚をたくわえた老人オーガストは、色欲魔として有名な魔族であった。実力だけは確かなこの老人は、一見するとただの好々爺なのが、口を開けば口説き文句しか吐かないような御仁で、それも性別が女であれば誰彼構わず口説くのが彼の礼儀らしかった。全盛期は、甘いマスクも相まって相当なもてぶりで、唯一なびかなかった女性は当時の魔王陛下くらいだ、と噂されたほどなのだとか。いまでこそ、その美貌も皺の中に隠れてしまっているが、手の早さだけは相変わらず衰え知らずのようだ。
だが、それだけならまだいい。まだ許せた。
私はオーガストと初めて出会った日の事をよく覚えている。あれはもう、いま思い返しても不幸としか言いようがない。なにを隠そうこの山羊ジジイ、初対面の私に
「やあ、これは陛下の妹君。ご機嫌よろしゅうございますなぁ。今日は天気もよい事であるし、このような辛気臭い塔にいるのも勿体ない。どれ、このオーガストと一緒に、流行りの甘味を食べに行きませんかな?」
とのたまったのだ。―――全裸で。
後で知った事なのだが、オーガストは色欲魔としての名を欲しいままにする一方で、露出狂としても名高い人物であったようだ。君はどこぞの草彅君か。そんな特殊すぎる称号を集めてどうする気だ、と正座をさせてじっくり問い詰めたい。
結果、あまりの気持ち悪さに発狂した私は、思わず魔力を爆発させ、塔の窓という窓を全て破壊してしまった。この暴走のせいで魔王城内を覆う結界に穴が開き、さすがに蒼ざめて顔を引きつらせたオーガストは2週間の謹慎処分に、私は丸3日間部屋から出られなくなるという事態に陥ったのは、まだ記憶に新しい。いまとなってはいい思い出、とかも言えない。全然よくない。
それにあの後怒り狂ったブルーナが、オーガストを殺しに行くと言い出して、宥めるのにかなり骨が折れたのだ。ピ――をピ――してピ―――してやる!と、それはもう放送禁止用語満載で殺気立ってくださった。本当に殺りかねない勢いだったため必死で止めたが、このおかげもあってか、逆に私は冷静を取り戻す事ができた。まあ、次やったら止めないけど。むしろ旗を振って送り出す気満々だけど。
この事件以来私は、オーガストとは顔を合わせていない――噂では私への接近禁止令が出たようだ――が、もはや塔の攻略を放棄したのだった。
そして私はいま、そのいわくつきの塔の最上階にて、よろこびを噛みしめていた。
最上階――つまり展望室は、私が普段魔力の制御を習得するため、魔獣と戦っている場所で、ちょっとやそっと暴れたくらいではかすり傷一つ付かない強度を誇る。部屋の内部はなんの飾り気もなく、塔の入り口の扉と同じ素材で造られている滑らかな床は、訪れる者の姿をくっきり映し出す。三角に尖っている天井からは、クリスタルでできたシャンデリアが、青白い魔蝋燭の焔を反射させながら吊り下げられている。
そして壁面は、展望室という名に相応しく360°ガラス張りになっており、魔界を広く見渡せるようになっていた。塔に纏わりつく、冷灰色の雲さえなければの話だが。
実はこの展望室、展望とは名ばかりの部屋であるのだ。ガラスの外を見ようにも、塔を取り囲む雲のせいで、なにも景色を楽しむ事ができないようになっている。見えるものと言えば、重く垂れ込める雲とその中で時々光る紫色の稲妻のみ。折角のガラス張り――私の魔力の暴発にも唯一屈しなかった貴重なガラス張り――が台無しである。
魔族のセンスって本当に意味不明。ブルーナいわく、これはこれでいいらしい。心地よい閃きだと思いませんか、とうっとり稲妻を眺める彼女と私の間には、越えられない壁があるようだ。
が、いまはそんな事はどうでもいい。心の底からどうでもいい。遠くの国で、誰かがくしゃみをしました、というのと同じくらいどうでもいいのだ。
ではここから本題に。なんとこの度わたくしロザリアは、生後1ヵ月と18日目にして、とうとう魔力の制御に成功しました!
「バンザーイ!!どうだ、参ったか!私の溢れる才能を前に、屈服せざるを得なかったそなたは、なにも恥じる事はないぞ。私が天才すぎただけなのだからな!自分でも才能がありあまり過ぎて怖いぜ、はっはっはっは!!」
この世界のなんと美しい事か。塔を取り巻く冷灰色の雲は瑞雲のごとき輝きを帯び、稲光に至っては人智を越えた神々しさを覚える。今日ばかりは塔内の空気も、アルプスの白い峰の頂で深呼吸をした時のように、目の覚める感動と清涼感に満ちていた。
私は勝利の雄叫びを上げながら、目の前で緑色の煙に包まれて倒れる魔獣の周りをスキップで跳ね回る。心なしか、倒れている魔獣の顔も穏やかな気がする。それもそうだろう。ブルーナという世にも恐ろしい魔族に攫われたと思ったら、こんなに心優しく才能の溢れる私に殺してもらえたのだから。むしろ、起き上って感謝の言葉を述べてもおかしくない。
「ブルーナ、見てた!?私、ついにできたよ!」
「もちろん、しかと見届けましたわ。さすがはロザリア様でございます」
ブルーナの棒読みのお世辞も、私の耳には絶賛の声として届く。
「でしょ?でしょ!?」
「ええ、成魔族の仲間入り、おめでとうございます」
「おうよ!これでやっとお兄様に会えるゾ!!うひょひょぉぉぉぉ、――い!?おべっ!!!」
スキップのついでに小躍りも加えた所、足をもつれさせて盛大にこけたが、なんのこれしき。そんな事でいまの私の気分を下げる事はできない。というか、こけてない。喜びのあまり地面にキッスを送っただけ。え、別に涙目なんかじゃないよ。違う違う……涙目じゃないっつってんだろ!うれし涙じゃ!ほっとけ!