第4話
常に薄暗い魔界が、更に暗くなって夜行性の魔族の行動が活発になる夜。
9時を過ぎた頃、私はベッド上にて、くま――というよりは、くまをしこたま殴ってから形を整えたような、くまっぽいなにか――のぬいぐるみを片手に寝そべっていた。このぬいぐるみ、見た目はあれだが触り心地は非常によく、例えるならば猫のお腹に顔を埋めた時のような快感を得られるため、ブルーナからプレゼントされて以来、くま吉と名付けて重宝していた。
ただし、丸いお腹を押すと断末魔のごとき悲鳴が聞こえる点は、少々いただけないが。こんな所まで無駄に魔界クオリティ。
そのくま吉の柔らかい体を抱きしめてうとうとしていると、扉の向こうからブルーナが現れてベッドの端に腰掛けた。今日も今日とて景気の悪い顔色だ。その手には紫色の本を持っている。そして
「今日のお話は“ジャックと血塗られた宝玉”です」
と言って、その本を広げた。
幼少期の恒例行事、寝る前の読み聞かせの時間である。
本来、魔族たる者睡眠を必要としない。更に言うと睡眠どころか、食事すら必要ない。魔界の大気には高濃度の魔力が満ちていて、魔族はここから自動的に魔力を補給する。これが食事の代わりであり、睡眠の代わりなのだ。要するに一般的な魔族は、これで魔力の補給が事足りている事になる。ところが0歳児となるとそうはいかない。起きている間常に放出している魔力を補うためには、どうしても睡眠が必要なのだ。いまだ魔力の制御まで追いついていない私の体は、取り込む量より放出する量の方が多いからだ。
もしこれを放ったままにして置くと、いつの間にか電池が切れたロボットのようになってしまって、最悪死に至る。私の放出量だと、徹夜できる最低のラインは2日間なのだそう。だから私はお昼寝もすれば、夜だってしっかり8時間睡眠を取っているのだ。魔族には珍しい、健康優良児の完成である。
不健康がステイタスの魔族にしてみれば、私の生活習慣は甚だ論外だろうが。ふんっ、ちゃんと睡眠を取った方が頭の良い子になるって、科学的にも証明されてるから別にいいもん。
ちなみに私のお兄様である魔王陛下は、生まれた時から制御ができたらしい。さすがお兄様。神童、いや魔童っぷりを存分に発揮しておられる。と感動していたら、それを教えてくれたブルーナに、含みのある目で見つめられた。おそらく、早くお前も習得しろと言いたいのだろう。だが、お兄様を見習って私も、なんて簡単にできたら私もこんな苦労なんかしていない。ブルーナには、大器晩成型だと思って諦めてもらおう。
「そこで邪悪なる蛇は、こう言いました。お前の心臓と引き換えに、この宝玉をやろう。間違ってもなんの罪もない赤の他人を犠牲にしてみろ、俺がこの鋭い牙でもって宝玉を噛み砕いてやる。さて、これにはさすがのジャックも困り果ててしまいました。宝玉は欲しいが、心臓を取られてしまっては生きていられる保証もない」
「え、困るのそこ?」
「かと言って、他人の心臓では蛇を満足させられないらしい。蛇を殺して宝玉を奪おうにも、どこか内面の善さが出て、完全な悪になり切れていない蛇を殺す事は躊躇われた」
「確かに!確かになんかいい奴っぽいよね、この蛇!」
「ジャックは嘆いた。ああ、他人より少しばかり心臓に毛が多い事を自慢したばかりに、こんな残酷な取引になってしまうとは…!」
「いや、完全にあんたの責任でしょ。なに懺悔してるの、本当に魔族?」
幾度目かわからないツッコミを入れた所で、とうとうブルーナが溜め息をついた。完璧超人な彼女にしては珍しく、どこか疲れた表情で目頭を揉んでいる。その顔色も死体を通り越して、もはや一度死んで生き返ったゾンビのようだ。あまりの血色の悪さに、一体どこのアメリカ映画なのよ、と私は一瞬たじろいだ。
間違いなく出会い頭に一発食らってもおかしくないような顔つきでは、大丈夫か、と声をかけるのも躊躇われる。いや、もしかしたら魔族的観念からすると、こう見えてとんでもなく調子がいいのかもしれない。と見せかけて、やっぱり悪いのかもしれない。どっちなんだ、魔族よ。
「……ロザリア様」
しばらく無言で伏せられていた瞳が、湿度95%になって私を見据えた。あ、悪い方っすわ、これ。私の疑問は、一瞬で解明した。
「なに」
「ただいま読み終えましたのは、118ページの3行目でございます」
「知ってる」
「読み始めてから、約1時間が経過しました」
「みたいだね」
「…早くお休みになってくださいませ」
「いやいや、こんなにツッコミ所の多い童話を前にして、難しい注文をしないでよー。一向に眠気が来ないんだもの。魔族だもの、ろざを」
あれだね。純粋な子供の頃ならまだしも、私の精神年齢はすでに大人だからね。穢れなき心で童話を楽しむには、手遅れと言っても差支えないほど汚れきってしまった。重箱の隅をつつきたくって仕方がないのだ。だって大人だものなあ。ろざを。
「詩人風に言っても、駄目なものは駄目です。死にたいのですか」
最強の脅し文句を使ってきた。事情を知らない人が聞いたら、ただの脅迫である。
「やだ。それはやだ」
「では――」
「でも物語の続きも気になる」
いじけてくま吉をギュッと抱きしめる。くま吉はわかっているよ、とでも言うように断末魔の叫び声を上げた。うん、お前はよき友だ。
「でも、もだって、もございません。続きはまた明日読んで差し上げますから」
「えええええ」
「なんならいま、この童話の結末をお教えしましょうか」
にっっっこり。効果音が付きそうな微笑みが、ブルーナの顔に広がった。瞬間、私は高速で――それはもう掃除機に飲み込まれる塵のごとき速さで――布団の海に潜った。
「おやすみナサーイ!」
「わかればよろしい」
ブルーナは無表情に戻ると、本を閉じて立ち上がった。手をひと振りして、部屋の明かりを暗くする。そして、布団に潜っている私の顔が外に出るように布団を整えると、その枕元にくま吉を添えてくれた。
「お休みなさいませ」
「ん、おやすみ」
ブルーナが足音もなく立ち去った後、私の胸中には小さな疑問がよぎった。
――なんだか最近、ブルーナのいいように操られてる気がするんだけど、気のせいかしら。
だがそれも睡魔が私を襲うまでで、ひとたび眠りに入ってしまえば、些細な悩みは魔界の空に消えていった。
人はこれを鳥頭と言う。