第2話
『魔界とは、人間界、天界と区別するためにつけられた名称で、大陸や国といった概念はなく、人間界で言う所の地獄に相当するものである。人口は一部の精霊族を除き、主に魔力を有する種族で構成されており、性格は極めて残酷かつ非道である。時折愛情を持つ魔も存在するが、そのほとんどが、知能が高く人型を保つ魔族に限られており、獣の姿で獣の心を持つ魔獣は本能にのみ従って生きる。そしてそれら魔の頂点に立つ者こそ、魔王と呼ばれるのだ』
私は読みかけの本を閉じ、臙脂色のソファの背にもたれかかった。革張りの、ほどよい弾力が私の小さな身体を支える。その上を、ノートパソコンと同じくらいの大きさの本が、ずっしりとのしかかってきた。退けるのも煩わしくて、私は『新訂版魔界大百科』と金文字で書かれた本をそのままに、表面に浮かび上がっている蝙蝠型の立体的な装飾をぼんやり眺めた。
思い出すのは、昨日の事である。
牛と犬を足して2で割ったような筋肉質の動物が、低い体勢を保った状態で唸り声を上げる。食いしばった口からは鋭い犬歯が覗き、皺の寄った額には尖った角が生えている。肩の筋肉は盛り上がり、1歩でも間合いに踏み込む者がいれば、いつでも飛び出せるように張り詰めさせていた。私はその奇妙な獣を、なんとも言えない表情で眺めた。
「本日の魔獣は、北の森ノルデベルゲンより捕獲して参りました、洞の番人ノムでございます」
まるで、フルコースを振舞う高級料理店のシェフのような厳かな口調で、ブルーナが紹介してくれる。そんなブルーナに、私はただ生返事をする事しかできなかった。
「はぁ」
「ノムは、足は遅く知能も一般の魔獣に比べて劣りますが、筋力だけは目を見張るものがございます。また視覚がほぼ機能していない代わりに嗅覚が鋭く、一たび目を付けた獲物は5、6キロ離れた先まで嗅ぎ分ける事ができると言われています」
「へぇ」
「幼体はさほど危険がございませんが、成体は身体に魔力を帯びる事で敵から身を守る習性があります。これは魔族であれども、不用意に触れてしまえば火傷をしてしまうほどの危険性があり、触る際は手に魔力で防御膜を作る必要がありますのでご注意なさってください」
「…ほぉ。あ、いや、うん。それはわかるんだけどさ、でもこれ――」
「ノムにございます、ロザリア様」
ブルーナがすかさず訂正する。
「…このノムとかいう奴さ、なんか…小さくない?」
「ええ、幼体ですから」
ブルーナはあっさり肯定した。にっこりと微笑む彼女に、相変わらず威嚇を続けるノム。しかしその威嚇も、高々子猫程度の大きさの魔獣では、大した迫力もない。私はその小さな魔獣を憐みの目で見つめた。
「幼体ってさ、つまりあんまり危なくないって事でしょ?」
「ロザリア様のお身体に傷をつけられては大変ですから」
どの口が言うか。普段私を散々乱暴に扱っている奴が。しれっとした表情で言うブルーナを、私はじっとり睨みつける。
「でも、それじゃあ私の魔力だと一瞬で蒸発してしまうよ。ただでさえコントロールできない魔力なのに、毎回毎回宛がわれる魔獣がこんな小物じゃ、私も制御感覚の掴みようがないじゃない」
そうなのだ。なんだかんだ言って過保護な彼女は、用意する魔獣も小物か幼体のものばかりで、これを正しい力で倒せと言われても、素人相手にいまからエベレストへ登って来いと言っているようなものなのだ。途中で挫折して終わりである。だからこそ私は声を大にして言いたい。いや、そこはまず南アルプスからであろう、と。
そう鼻高々に正論を申し上げると、どういう訳かブルーナは死体のような顔色の頬を上気させて、両手を胸の辺りで組んで見せた。その瞳には、キラリと光る涙が浮かんでいる。
え、なんなの怖い。
困惑する私が口を開いたものの、言葉になる前にブルーナが発した歓喜の叫びにかき消された。
「まあロザリア様!私はいたく感動致しましたわ!つまり、もっと力を試せるような、例えば最凶最悪の魔獣ワクスガルトのような大物を連れて来いと、こう仰りたいのですね!!」
「……えっ?」
こう仰りたいもなにも、そんな事思った事すらないけど!?しかもワクスガルトってあれじゃん!本気で怒ったら、ひと山吹き飛ばすような駄目なやつじゃん!
「承知致しました。このブルーナ、命に代えても必ずやロザリア様を満足させられる魔物を捕まえて参ります!」
「命に代えんでよろしい!!というか、そんな恐ろしい事望んで――」
「では今日の授業は中止という事で、お部屋までお送りしましょう」
「――ねえ、話聞いてる!?」
軽々と私を抱えたブルーナは、魔方陣を使って一瞬で塔の入り口まで移動する。そこから大股で歩き始めた。城の敷地内は空間に罠が仕掛けてあるせいで、不用意に瞬間移動できないからだ。しかし徒歩とは言え、足の長い彼女がのっしのっしと歩けば、常人が走るのと同じくらいの速さが出た。ブルーナの腕の中で、歩調に合わせて小さくお尻を跳ねさせる私は、舌を噛みそうになり、仕方がないので口を噤む。
その後ろを、魔方陣に巻き込まれたらしいノムが追いかけて来た。小さいくせに、一丁前に険しい顔つきをしている。いいのか、これ。とブルーナを窺ってみるが、全く気にしていない様子だった。というか、いまはそれどころではない!と全身で表現している。
まずいぞ。非常にまずいです。
私は、冷や汗が頬を伝うのを感じた。なにがまずいかって、こうなったらこの侍女は猪突猛進となってしまう事を知っていたからだ。実は魔族は、普段感情がないように見せかけて、非常に感情の振り幅の大きい生き物で、感情が高ぶりすぎると周りが見えなくなるのだ。
事実、過去に高い高いをねだった私に、可愛いバロメーターが振り切れたブルーナによって、何度も魔界の空高く打ち上げられたのは記憶に新しい。最後はほとんど失神しかけていた私を、上空3000メートルを飛行中であった龍に助けられ、恐怖の高い高いは幕を閉じた。しかし、それ以来私は感極まった魔族、特に容赦のないブルーナには気をつけるようにしていた。
「いや、あのっ!ち、違うから!」
果てしなく嫌な予感がした私が、部屋が近づき歩調が緩まった隙を見て慌てて否定をするも、安心しろと言わんばかりの表情で頷かれた。
「心配はございません。私が魔獣ごときに負けるなど、魔界の青空、天界の暗雲、つまり9割9分9厘ありえませんので」
「そうじゃねーよ!」
「でしょうね。あと私が留守にする間、ロザリア様には座学のための新しいご本を用意致しますので、それを熟読なさっていてください。私が帰り次第、試験を行います」
どうしよう………この人話通じない。
そうこうしている間にも、部屋は近づいている。
「待て待て待て、ちょっと落ち着こう!ね、お願いだから」
「私は充分冷静ですよ。ではロザリア様、ごきげんよう」
「よくない!全くごきげんよくない――…ああ!」
私を部屋の前に降ろしたブルーナは、私の言葉を華麗に黙殺し、爽やかな微笑みと共に去って行った。
「……………」
「キュ、キュー…」
残されたのは、プルプルと体を震わせる私とノム。先ほどまで元気に威嚇していたノムも、般若の形相の私を前にしては、その元気も萎んだらしい。尻尾を身体の下に巻き付けて、キューキュー鳴いている。だが、それがどうした。未だ怒りの治まらない私は
「………話聞けやあああああああ!!!」
「ピギャッ」
「あ、ごめん」
ろざりあ は ほうこう を はつどうさせた。のむ に はちまん の だめーじ。のむ は しょうめつした。
………弱っ。
翌日――。
「ぎいやあぁぁぁぁぁぁああああなんかでかいよぉぉぉぉぉおおおお」
「ロザリア様、お逃げしているばかりではいけませんよ」
「無理無理無理!死ぬ!死ぬって――ぎゃあぁぁぁああああ!!」
ブルーナは本当にワクスガルトを連れて来やがった。ざけんな。
余計な事を言わなければよかった―――。そう深く後悔をした私であった。