くま
1
全身が毛深いというのは落ち着く。体を毛布にくるんで、体温を逃さなくしたときの安心感がある。
嗅覚も鋭くなっていて、彼女の部屋の匂いが前より鮮明に感じられた。
イチゴとぶどうがちょっと熟れすぎたのと、木が腐ったのが混ざって薄くなったような匂いだ。今日はイチゴの熟れ具合が少し濃い。
これが熊のぬいぐるみに入ったときの感覚か。笑顔でいっぱいの恋人、愛永が目の前にいる。
「リンク」という指輪を左手中指の第二関節の奥にはめて、手を合わせると、体から意識が抜けていき、転送先の入れ物の中で自我を動かすことができる。
転送先は無生物に限られるから、実際に動いたり話したりはできないが、五感は意識のうちに含まれて転送され、入力が余すところなく引き継がれる。意識を通じて登録した一人の人間と言葉のやりとりができるのも嬉しい特徴だ。
遠距離恋愛を続けて二年が過ぎる私たちは、飛び上がる思いでこのアイテムを購入した。決して安い買い物ではなかったが、こういうのは買った後の幸せをイメージして、細かい調整は後にするのがいい。
説明書によると、転送できるのは一週間に一回、二時間まで。それを過ぎると、精神と身体のバランスに異常が生じる可能性があると記載されている。
愛永がいつも一緒に寝ているという熊のぬいぐるみは、転送先として違和感がなかった。深い意味はなかったし、そのときの会話の流れもよく覚えていない。自然に受け入れることができた。今日も指輪のメモリを最大の二時間に合わせて、手を合わせる。
今、布と綿で作られた熊の中に私はいる。
手足は動かせないし、声を出すこともできない。
でも間違いなく彼女の部屋の中にいるのだ。
半年に一度しか来ることのできなかったこの場所で、リンクを使い始めてから毎週彼女の顔を見ている。
今日は一緒に映画を見た。とくに面白いところはなかったけど、「あの先生役のおっさんの髭がきもかった」とか「最後の夕日が綺麗だったね、今度見に行きたいね」などの浅い感想を交わすだけで幸福感が滲んでくる。
その前は、ずっと彼女の学校の愚痴を聞いた。私にしか話すことができない内容を打ち明けてくれる。私を必要としているんだという思いを受け取って、とても満足した。
パソコンで資料つくりをしているのを傍らで眺めているだけのときもあった。キーボードを叩く指のしなやかさ、考え込むときに下唇を突き出す彼女の癖、肘をクロスさせる変なストレッチ。「あっ、ちがった」「もう、うまくいかない」という何気ないつぶやきが、胸の奥を暖かくする。資料が完成したら、「やっと終わったー!」って言ってギュっと抱きしめてくれる。
いま私が入っているこのくまのぬいぐるみと、彼女と私が出会ったのは同時だった。
大学四年生に上がる少し前の春休み、サッカーの交流試合の帰り、博多駅へ向かう地下道の少し奥にある小さなディズニーショップの前を通りかかったときのこと。目を見張るような幼げな美人が、ぬいぐるみ売り場の前で佇んでいた。横顔だけでも整った目鼻が際立っているのがわかる。たぶん、さして興味もないディズニーの前に目がいってしまったのも、彼女の美しさがそうさせたのだろう。無意識に美人センサーにひっかかったのだ。試合後で疲れていたのもあって、5秒ほど立ち止まっただけで惜しみげにその場は去ったが、大学の中で出会っていたら間違えなく声をかけていただろう。
望みというのは案外すぐに叶うときもあるらしい。かけ持ちで所属していたボランティアサークルの新入生歓迎会に、その美人はいた。サッカーに差支えなく、人の役に立つのは気持ちがいいし、下心が全くなかったと言えば嘘になる。軽い気持ちで入ったサークルに、ここまで謝意を捧げたくなったのは初めてだ。
「あの隅っこにいる子かわいくね?」
品定めはすでに始まっている。上級生たちは抜け目なくビール片手に視線は新入生女の子だ。
二十人が一斉に席につけるほどの大きな長机の隅っこに彼女はいた。ひと目見ただけで釘づけになるほどの美人であることは、男たちの目線が表している。薄めの唇と真っ白な肌、くっきりとした二重瞼に大きめな黒目。ちょっと不似合な化粧が今日は凛々しさを際立たせている。そんな美人をオオカミたちは放っておくわけがない。
「じゃまず歓迎会ということなんで、自己紹介タイムー!」
七人いる新入生が、順番にぎこちなくも明るい自己紹介がされていく。彼女の番だ。
「山岸愛永です」
たぶん、隣と向かいの席の人間にしか聞こえなかったのだろう。
「家は近くなの?」
「学部はどこ?」
「ボランティアに興味があるの?」
マシンガンのような質問攻めに、答えたような答えていないような、小さくて消え入りそうな声を発するだけだ。離れて座っている私にはなにも聞こえない。ただ、居心地の悪そうな伏し目がちな表情をうかがえるだけだ。きっと彼女は人見知りなんだろう。大学に入ったばかりだしサークルも初めてで、飲み会のような宴会も未知のことで、恥ずかしさで硬くなっているのだろう。
三十分も経たないうちに、私のそんな目論見は違っていたことがわかった。会話のやりとりが、並みの人見知りのレベルを超えている。もともとこんな飲み会にくるような人間ではないのだ。オオカミたちは、二番手三番手の美人に狙いを切り替えている。この飲み会という場では、盛り上がるということが優先されるらしい。ノリの悪い可愛いだけの女の子は蚊帳の外だ。
トイレから戻ってくると、彼女の向かいの席は空いていた。隣の女の子は中央の盛り上がりに加勢していて、山岸愛永はひとりでオレンジジュースをすすりながら机の木目を眺めている。私は自然と、その向かいの席に座った。
「ねぇ、クマのプーさん好きなの?」
「・・・え?・・・」
「この前、博多駅の地下のディズニーショップにいたでしょ?」
「・・・・・・」
まずかったかな。真っ白なほっぺたがリンゴのように赤くなった。穴があったら入っているだろう。
「いや実は俺もさ、ニモが好きでさ、たまにあのショップ行くんだよ。ほら見て」
前の彼女にもらった携帯ストラップに救われた。
「あ・・はい・・。プーさん・・・好きです」
この瞬間、彼女の目が少しだけ明るくなった。とびきりな美人であることとは別に、彼女のことをもっと知りたいという気持ちが、浮かび上がってきた。
「住吉のキャナルシティのディズニーストア知ってる?あそこもたまに寄るんだよね」
これも前の彼女とのデートで一度いっただけのことだが。
「あ・・・知ってます。今度限定のプーさんがその店で出るみたいで・・・」
「そうなの?!ニモは出るのかな。よかったら一緒に行かない?」
彼女のほっぺたはさっきのリンゴよりもっと熟れて赤くなった。ただ、目の奥の輝きは、プーさんの話をしてからは静かに灯りだした気がする。
「え・・・はい・・・」
その場ではそう答えるしかなかった、しかたなかったんだもん、という言い訳は、3回目のデートで聞いた。限定のプーさんを買うための2時間の待ち時間は、サークルでは見ることのできない笑顔で満たされていた。実家暮らしで門限が12時のこと、本当は美術科のある大学にいきたかったが、つぶしが効かないということで父に反対され、今の総合大学に不本意ながら入学したこと、ずっと美術部だったこと。男の人とこんなに話したことは初めてだということ。
ニモの限定品はあいにく売っていなかったが、二人だけの限定された空間はそこにはあった。
誰にも見せない素顔を見せてくれているようで、私は愛永に魅かれてく。
その限定のプーさんのぬいぐるみを今度からは抱いて寝るらしい。プーさんになりたいなあ、なんて冗談を飛ばしていたが、リンクがある今では、現実になっている。
ボランティアサークルで本当にボランティアを真剣にやりにきている人間は少数だ。障害者施設などで簡単な手伝いをするといった活動の帰りはだいたい飲み会だ。行きつけの安い赤ちょうちんの飲み屋では一升の焼酎が一日で空になる。ある日も募金活動の帰りはお決まりコースの足取りで飲み屋に向かう。愛永はいつも知らない間にいなくなっているのだが、この日は珍しくついてきた。相変わらず目鼻の整った顔立ちをした人形が、景色のようにその場に座っている。ちょっとづつではあるがサークルに慣れてきたのだろうか。
「今日も一日お疲れさまでしたー!」
この活動終わりのこの瞬間が部員同士のつながりを保っているのだ。愛永はまた長机の端っこに位置取っていて、今日も乾杯に差し出した手はストローのささったオレンジジュースを握っている。
活動中に見かけた人間の評論が半分、学校での愚痴が四割、ボランティアへの思いを語るのが1割。そんな色合でその場の会話は進んでいき、2、3人が潰れだしたくらいの時間である。
愛永が何か紙切れを持ってモジモジしている。リタイアで何人か減ったので相対的に私と愛永の距離が縮んだ。
「なに持ってるの?」
「これ・・・」
「ん? ニモ?」
「はい、ニモの限定品が今度、あのディズニーストアで出るみたいで、引換券をプリントしてきました・・」
“あの”というフレーズが耳の下をくすぐった。ニモはどうでもいいが、この場では見られない笑顔が、頭の隅でちらついた。目の前にある愛永はそんな表情とは程遠く、またリンゴのほっぺただ。引換券は、みんなから見えない角度の、机の角から差し出されている。恥ずかしいのだろう。
俺も、みんなには届かないように小さな声で言った。
「ありがとう」
「・・いえ・・」
「門限大丈夫?時間も時間だし、帰ろうか。送っていくよ」
「・・え・・」
「えーみなさん!山岸さんが門限近いんで、俺送ってくるわ!」
少し居心地の悪い視線を背中に浴びながら、うつむき加減のお人形さんを連れて飲み屋を出た。
駅までは少し回り道だが、5月のややひんやりした気温は、静かさを求める。街の喧騒から遠ざかっていくと、自然とゆるやかな土手のある、しんとした夜道に出た。半月が雲の隙間から顔を小出しにしている。愛永が口を開いた。
「ああいうことやめてもらえますか。」
「ん?ああいいことって?」
「さっき店出るとき・・・。注目されるの嫌いだから・・」
「ああ・・ごめん」
川のせせらぎと、砂利を踏む音だけがそのあたりには響いて、二人は川下に向かっていく。
「二人になりたかったんだ。」
またリンゴのほっぺが、ふんわりした月明かりのもとに顔を出した。
「・・・そういうのも・・・」
「いやなの?」
「・・・」
十メートル間隔で並んでいる街頭を4つほど左手に追い越した。4回照らされた愛永の顔は、バツが悪いような、くすぐったいような表情が順番に入れ替わりしているのが見えた。
少し右手にずれた脇道に、自動販売機を見つけた。
「なにか飲む?」
「お店で飲んだんで、いらないです」
「まあまあ、ちょっと待ってて」
ミニッツメイドのリンゴジュースとアクエリアスを買ってきた。
「いらないって言ってるじゃないですか。」
言っておきながら、受け取るのがこの子の性格だ。私はアクエリアスを喉に通しながら、また砂利道を踏む。リンゴジュースの栓は開かないままだ。
「さっきの答え聞いてなかったな」
「え?」
「二人になりたかったっていうの」
「・・よく、わかんないんです」
「わかるわからないじゃないよ。ただ、みんなと一緒にいるより、キミと二人になりたかっただけだよ。それがいやなの?」
「いえ・・・男の人にそんなこと言われたことないから、困るんです・・・」
「でもさ、今はどう? 困るもなにも、二人で土手を歩いてる。あ、ほら、月がきれいだ。今一緒に見てるんだよ。」
「きれいですね・・・」
ためらいがちに顔を出していて半月が、今はくっきりとまざまざとこっちを見ている。
「たぶん、俺はもっとこんな時間をキミと過ごしたいんだ。またこの引換券で一緒にニモを買いに行ってくれるとしたら、それは恋人としての最初のデートって言っていいかな。」
愛永は手に持っていた開かずのリンゴジュースを落とした。土手を転がり落ちて、河川敷まで止まらない。あわてて取りに行こうとする愛永の手を後ろから握って、引き留めた。目を見つめる。
「・・・」
振りほどいて土手を下っていく愛永。あとから私もついて下っていく。ジュースの缶のそばには、背の高いタンポポと、小さいタンポポが寄り添って咲いていた。
二人は手をつないで、駅まで歩いていく。
2
遠距離恋愛は2年前からのことだが、もちろん望んだことではない。
無事在学中に就職を決めることができた私は、卒業してからとくに不自由なく仕事に打ち込んでいた。小学校から続けているサッカーのおかげで、勝負に勝つための身のこなし方、努力の方法、チームとしての居場所の保ち方は手についていたので、法人向け不動産の営業という職は向いていたようだ。
1年間、福岡の支社で勤めたあとの、東京の本社への転勤だった。扱う仕事も大きくなり、昇給もあった。愛永と離れるのはその場ではつらいが、将来結婚のあと、潤沢な収入と一軒家の生活を思い浮かべる。単純に社会の上で地位が上がっていくのが快いというのもあったが。
転勤のことを話したとき、愛永は合意を渋るかと思ったが、案外すんなりといった。私と付き合うようになり、なにか自信が湧いてきたという。自分も好きなことに正直になる純粋さを持ち始めたのだ。親の反対
のせいで実行に移せなかった、美術の勉強を本気でやるために、卒業後には専門学校の入学を決めた。
離れた場所で、目標を理解し合い、応援できあえる関係にあったのだ。
東京に来て3年目に入る。仕事は順調だが忙しさを増す。扱う案件も多くなり、会社の利益に大きく関わっている自覚も湧いてきて、ますます仕事に打ち込むようになる。先月も休日はほぼ無かったと言っていい。プロジェクトチームで一緒になった同僚の木下も、「永井さんのおかげで、野村証券との会合もうまくいったよ。引き下がらないあの態度は、心強かった」と、打ち上げで漏らしてくれた。
今度の土地投機に関する三菱地所との取引も、重要な役を持たされるので、課長の期待を裏切るわけにはいかない。今週はトータルで5時間も寝ていないが、めっきり疲れきっている、というわけではない。
たぶん、忙しさが増したぶん、愛永と会える回数も大幅に増えたからだろう。ぬいぐるみを通してではあるが。
愛永も、最近は課題が立てこんできて、こないだは「西洋の絵画空間論」とやらのレポート作成に躍起になっていた。英文での資料が多くあるから、脳がちぎれそうだとか言っていた。
お互いがお互いを支えていて、週に一回、日曜日の転送の次の日は、不思議と気力が湧いてくる。きっと愛永も同じように元気な顔で学校に向かっているのだろう。
東京の本社に勤めて半年が過ぎるころ、その気力の回復が週に一回では足りなくなってきた。
「あれ、今日は土曜日でしょ?」
「ああ、ちょっと昨日の営業でヘマしちゃって。課長は大丈夫だって言ってくれてるんだけど、もやもやして来ちゃったよ」
「説明書には週一回って書いてあったでしょ? ケンちゃんの体がおかしくなったら心配ですよ」
「大丈夫だ。全体の仕事自体はうまくいっているんだ」
そう、よかった、と愛永は言ってくれた。実は私も今日会いたかったの、とも。
次の週は金曜日の仕事終わりで転送し、その次の週は水曜日と日曜日だ。会うたびに愛永も喜んでくれて、実際の距離は離れているが、より密に寄り合っている気持ちがする。
ある会合が、私の営業チームの不手際で、契約を取り消された。責任はおおいに私にあって、会社に損失を生んでしまった罪悪感から、ずいぶんやつれてしまったことがある。その日は吸い込まれるようにリンクを中指にはめて、愛永のもとへ魂を飛ばし
た。
「今日も疲れた・・・」
「どうしたの?元気ないね・・」
「ああ。手続きの遅れが先方の反感を買って、俺のせいでおじゃんだよ・・」
「そう・・。たいへんなんだね。ねえ覚えてる?二人でよく行った土手」
「土手って言うなよ、河川敷だろ」
「土手だよ!」
「どっちでもいいけど、土手がどうした?」
「一緒に行こうよ。たまにはお散歩しよう!」
この体では愛永の部屋しか行ったことがなかったので、正直不安があったが、仕事の疲れも思い出の場所に行けば少しは楽になるかもしれない。ちょうど夕暮れの時間だった。あ、きれいー。と愛永。
「あのこの前見た映画の夕暮れと、うーん、どっちがきれいかな」
「そうだなー。こっちのほうが雲がいいかんじだな」
「色もいいオレンジ色だね」
夕日に照らされて影が伸びる。二つあったその長細い影が、今日は一つだ。好きだった大き目の砂利を踏むことも、できない。ただ、伝わってくる体温が、当時は手のひらからだけだったのが、今は小さくなった体が抱えられていて、腕全体と体全体で、体温を感じあっている。
「このへん、だったね。最初にここに来て、ジュース買ってくれたの」
「ああ。懐かしいな」
「実は・・まだ持ってるんだ・・」
「は?なにを?」
「あのときのミニッツメイドのリンゴジュース。」
「なにしてんだよ」
笑いながら答えたが、笑顔は伝わっていない。
「あ、タンポポ! たしかあの時も咲いていたね」
夕日を背にして体は背の低い草むらの上に降りた。目の前には背の高いタンポポと低いタンポポが寄り添ってそよ風に吹かれている。私と愛永もずっとこのタンポポのように儚い二人でいたい。
「そうだね。」
「あ、声に出てたか」
照れ隠しをしようとしたところで、自分の部屋に戻ってきた。次の転送までは二日間しか開けなかった。頻度は、徐々に上がっていき、ぬいぐるみの中にいる自分の方が、自分でいられるような気がしてきた。
3
「永井さん。永井さん!」
どこかで聞いた名前だな・・・
「永井さん、頼まれていた企画書です。完成したので見てほしいのですが」
と言って部下の加藤は、私の目の前の机にホッチキスで束ねられた紙の束を置いた。
ああそうだ。私は永井だ。永井健司だ。自分の名前を忘れるとは、どうかしている。疲れているのか。たしかにここ一か月はまともに睡眠を取った日はない。いつも朝の目覚めでは、体の細胞一つひとつに鉛の粒が埋め込まれているのではないかと思えるくらいだるい。ブラックコーヒーとドリンク剤で騙し騙し仕事のために身体を動かしている。ただ、なぜか食欲だけは衰えていない。とくに紅鮭が美味しくてたまらない。
「永井さん?大丈夫ですか?」
「ああ。ちょっとボーっとしてた。悪いな、後で見ておくよ」
「お願いします。最近疲れてるんじゃないですか?」
「・・・ああ、そうみたいだ」
「来月に控えてるプロジェクト、順調に準備は進んでるみたいだし、絶対成功させましょうね」
私より二年あとに入社した加藤は、向上心から手足が生えたような人間だ。研修をトップの成績で終えて私の部署の後輩になってから、よく働いてくれている。
仕事が山場にさしかかりつつあるのだ。ここらで精を出していかないといけない。
「あれ、永井さんってそんなに毛深かかったでしたっけ? 小指の第一関節まで長めの毛が・・・」
「ん?・・・ああ、そんなことより午後の会議の資料頼むぞ」
今日もまだ十一時なのに、朝剃った髭がもう伸びている。いつか愛永と見た映画の先生役になっていしまう。毛深いほうではないのだが、二十七歳にもなって体質が変わるものなのか。不思議と左手の中指だけは毛が生えていない。
まあ、そんな不安も、愛永に会えばきれいにどこかへ放って埋めてくれる。今日も会いにいこう。
「あれ、今日は元気ないね」
「わかるのか?」
「ケンちゃん、お仕事うまくいってないの?」
「順調なんだ。順調すぎて、寝る時間まで削って働かなきゃいけなくて」
「無理しちゃダメだよ。ケンちゃんは頑張り屋さんなんだから、ちゃんと休むときは休まないと。だから今日は私が癒してあげる」
自我の入っただけの熊のぬいぐるみと、人間の体が向かい合うだけで、言葉以外の何かが通じ合っている。実際の距離は1000キロ以上離れているが、心という存在をこんなに臨場感をもって近くに感じたことはない。
その日は、時間がいっぱいになるまで愛永の乳房の中に小さなカラダがすっぽり収められた。人間の体では絶対に味わうことのできない抱擁感がそこにあった。乳房を堪能できるのは両手や顔面に覆うくらいが通常は限界だが、足の指先から頭のてっぺんまでの神経がすべて乳房の圧に包まれる。あのイチゴが熟れた匂いと、谷間のほんのり蒸れた汗の匂いも手伝って、精神の高揚は頂に達した。
自分の体に戻ったあと、果てるまで手淫が止まらなかったことは言うまでもない。
朝、また鉛のような体を鈍く起こす。右手には異常な量の陰毛が絡みついていた。
4
三日前に切ったはずの爪が、もう一センチほど伸びている。先端に進むにつれて、爪は鋭利な形状を成し、触れようとするもの何もかもに爪痕がつく。部屋には蜂蜜の大きな空ビンが積み上げられた。鍛えた覚えもないのに筋肉の発達が甚だしい。胸筋の膨張と肩周り、二の腕の太さでワイシャツを着るのも一苦労。髭の伸び具合というより、全身の体毛がもう処理しきれず、剛毛で身が包まれてきた。かろうじて左手の中指だけに皮膚があらわれている。
愛永と会う頻度が徐々に上がっている。リンクを使い始めた当初は週に一回程度だったが、最近は毎日会っている。たしか説明書には週一回が推奨の使用頻度として記載があったと思うが、愛永の顔を見れると思うと、そんな推奨はどうでもよくなる。
「永井さん」
そうだ。愛永に会えるのだから、推奨とかわけがわからない。なぜ好きな人と会う頻度を制限されなくてはならないのだ。
「永井さん!」
毎日会えるのならそれ以上の喜びはないのだ。愛永が好きなんだ。それ以外に必要なことはない。誰にも邪魔はできない。邪魔はさせない。ああそうだきょうも
「永井さん!どうしたんですか?!昼間からハチミツパンケーキを5個も食べちゃって。さっき特盛の焼鮭定食も食べたばっかりじゃないですか」
「あ、ああ。いや、仕事は頭を使うからな。糖分を取らなきゃな・・・」
「永井さん、最近おかしいですよ。髭も伸びっぱなしだし、さっきも目の焦点が合ってなかったですよ」
仕事は佳境に入っている。一等地のビル建設にむけて、税金面に関して国土交通省の役人との会談がこのあとに控えている。
ここでこけるわけにはいかない。愛永と結婚して、潤沢な年収を確保しつつ一軒家で幸せに暮らすため、今の仕事に気を張っていかないと。
「加藤。そんなことよりさっきのプレゼンはなんだ!大事なテナント呼び込みで誤植したレジュメなんて配布しやがって!」
「す・・・すいません」
「プロジェクトこけたらお前のせいだからな!しっかりしろ!!」
「はい・・・気をつけます」
俺はいつも通りやっているはずだ。何もおかしいところはない。愛永と毎日会って、癒されているのだから。周りのやつがおかしいのだ。俺が、課長の右腕として叩き上げないと。そう、右腕で、叩き、上げ、ないと。そういえば、熟れきったイチゴを潰すと、どんな音が出るのだろう。
気がつくと、自分の机が原型をとどめていない。両手の拳がジンジンする。まさか、俺がやったのか? 営業二課の社員が全員宇宙人を見たような目でこっちを見ている。課長に呼び出されて第二会議室に入ったところでまた意識が途切れた。
そのあと、どういった道のりで森の中にきたのか知れない。体の機能がおもむくまま、何かを追いかけている。ニャー、という鳴き声が鼓膜を揺らし、両腕と顎の筋肉が張りつめて動作したまでは覚えている。
今は自宅で、味わったことのない喪失感と嫌悪感が同居しながら、爪にめり込んだ血ドロのようなものを茫然と眺めている。イチゴを潰してしまったんだろうか。ぶちゅ、と音を立てて出てくる汁で、両手いっぱいと口周りが濡れていた。
ピー。留守電の再生が流れているようだ。課長の声がする。「精神科に行きなさい。今日をもってうちの会社の社員録からお前の名前は消しておく。田舎へ帰れ」
外国語を聞いているように、声があるのはわかるが意味を認識できない。できないできないできないできないできないできないできないできないできないできない。
リンクを使うことはできた。
居慣れた部屋に体があって、見慣れた顔がそこにはなくて、博多の喧騒から少し外れたこのアパートの静寂が、しんとして耳にうるさい。ガチャ。
「マナエ」
「ケンちゃん?あれ、もう来てたの?」
「マナエ、セックス、したい」
「もう、最近はそればっかりなんだから。何かあったの?」
「おっぱい、ほしい」
全神経が乳房に収められ、肌色と、うすい桃色の突起で視界が埋められる。イチゴの熟れた匂いもいつも通り甘くて、耳周りの毛が、かすかなマナエの吐息でそよがれる感覚。もうこれ以上になにもいらない。
両太ももの間にちょっととがった自分の鼻先を埋もれさせたのは今日が初めてだ。ほんの少し、血の匂いがする。イチゴの熟れた匂いがここでは一番濃い。舌が出せなくてもどんな味がするかはわかる。この中から、オレたちの子が生まれるのだ。子孫を残すのだ。シアワセな、カゾクヲ・・・
「ケンちゃん?今日はなんかおかしいよ」
おかしい?おかしくない。オカシイ、オかシイ?仕事もうまくいっているしマナエとも愛し合ってる。オカシナところなんてない。餌もとってきてるし、お前と住むための立派な巣を作っているところダ。
「オカシクナイダロ」
「おかしいよ。いつもだったら、今日の仕事どうだったとか、係長のハゲは眩しかったかとか、変わったことないか、とか話聞いてくれるじゃん。こんなエッチなだけののケンちゃん見たことないよ・・・」
「ハナシ、ききたくナイ」
「どうしちゃったの?まってまって、今日はもう体に戻ってぐっすり寝たほうがいいよ。再来週にはぬいぐるみじゃなくて、本当に東京へ私が会いに行くんだから!」
「ウグウ、あいにいく?」
「そうよ。大学も休みでテストも終わるから、東京に会いに行くの!この前言ったでしょ?」
「会エる、マナえに、アリ、ぐぐ、ガガルル・・・」
「どうしたの?ケンちゃん?なに唸ってるの?」
「・・・グぅ・・・・・・」
「ケンちゃん?ケンちゃん?!」
「・・・ガ・・グ・・・」
「もうもどって!おかしくなっちゃう!両手を離して元の体にもどって!」
何度も呼びかけた。悲壮と沈痛、号泣が込められた獣のような呻き声が、だんだん小さくなっていくのを止めることができなかった。
愛永はあの土手を転がり落ちた、ミニッツメイドのリンゴジュースを取り出して、ぬいぐるみの前に差し出した。
「ほら!あのとき買ってくれたジュースだよ?覚えてるでしょ?・・・なんとか言ってよ!」
布と綿で作られたクマのぬいぐるみが愛永の目の前にある。健司が転送してきてから二時間はとっくに過ぎていた。
愛永はタクシーに飛び乗った。パジャマとサンダルで、手には財布と携帯電話とくまのぬいぐるみだけを持って。大学の試験を追試に回してもいい。その日のうちに東京行の乗車券を購入しようとするが、時刻は二十二時、新下関までの列車しかない。空港までの距離を考えてもとても間に合いそうにない。
博多駅の改札前のベンチで、限定のくまのプーさんが少女の腕の中で、綿がもげそうなくらい抱きしめられたまま、朝日を迎えた。
六時五分の新幹線に飛び乗った後は、嘘かと思うくらい時間が長く感じた。途中でパジャマのまま来てしまったことを思い出したが、プーさんの悲しげな表情を見るとどうでもよくなる。まだこの中に健司は入っているのだろうか。手汗のしみ込んだぬいぐるみをかかえたまま、品川駅に着いた。
ピンクと水色のチェック柄のパジャマを着た少女は、雑踏のなか、視線を送り続けてくる人ごみをかき分ける。東京から帰る間際、いつも健司が見送ってくれていたのがこの改札だ。予定していた帰りの新幹線をいくつも遅らせて、別れを惜しんで健司を困らせ長居したこの場所を、今日は一時も止まることなく通りすぎる。いつもの路線の道順を逆に辿っていくが、二人で見たこの景色が、同じものとは思えない。よく途中下車して、駅ナカのカフェでうだうだ甘えていたこともあったこの駅も、早く通り過ぎてくれと願ってしまう。
最寄駅に着いた。マンションは駅から走れば5分で着く。西口の階段を降り、こじんまりした商店街を通りぬける。ギリギリでサンダルが脱げてしまわない速さで走ろうとするが、汗で滑って左足につっかけていたのが飛んでいってしまった。息を切らしながら拾おうとすると、傍らに咲いた綿毛のタンポポがたまたま目に入ったが、綿毛は飛んでなくなってしまっていた。
マンションのふもとに着いた。階段にまたつまづきそうになりながら、彼の部屋のある3階の奥まで駆ける。息を整えて、絡みつく唾液を飲み込んだ。ドアノブに手をかける。鍵が開いている。
部屋は真っ暗だった。玄関でボロボロになったサンダルを脱ぎ、暗闇に裸足で歩み寄る。
「なんだろう、これ・・・」
足の裏に、ふわふわしたものが引っ付いた。毛の塊だ。壁伝いに進むが、なにか引っ掻き傷のようなものが手の平の感触で伝わってくる。記憶を頼りにして部屋の中に進んでいく。
異常を感じたのは臭いだ。締め切った部屋に慌ただしく漂う動物的な臭い。生魚を何日も放置したような血臭さが、ねばりつくように襲ってくる。嗚咽がこみ上げてきて、その場を逃げ出したくなるほどの異臭だ。動くのを渋る両足を叱りつけて、小刻みに歩を進めていく。
ゴロン。裸足の足先から、それが空のビンであることがわかった。一つや二つではない。注意深く障害物を分け入っていくが、そのあたりには尋常ではない粘り気が進行を阻む。洗濯のりか、はちみつか。いや、明らかにその粘質から、体液らしい臭いがこみ上げてくる。また吐き気が襲ってきた。
ベッドがある部屋には、少し開いているカーテンの隙間から、かろうじて日差しが入り込んでいて、室内の一部を認めることができる。暗さに目が慣れていて、よく見ることができない。臭いの元を辿ろうとすると、ぼうっ、と、だんだんそれは浮かびあがってきた。
回りの空気が歪んでいるのがわかった。激臭の主張はそこから発せられているらしい。なにかがうずくまっている。両脚は胸の前に折りたたまれている。顎は枕の上に乗せられている。壁に飾られたマナエの写真に体が向いている。
・・・この瘴気に満ちた部屋の主だ。
愛永の膝の筋肉が機能しなくなった。持っていたぬいぐるみが手からすり落ち、全身の統制がとれなくなり、崩れ落ちた。両手の平と左頬と髪の毛が、床の粘液で覆われた。
「・・・」
不思議と、臭いは気にならなかった。体の神経も少し戻ってきた。そのあいだ、部屋に差し込む日差しの角度が、ずいぶんとずれた。
愛永はベッドの上にある瘴気の主の背後に腰を下ろし、腕を回しこんで抱き付いた。生ぬるい体温が伝わってくる。健司のぬくもりはこんなだったろうか。確かめるために、腕でしがみついたまま、ゆっくりと体を起こし、仰向けにして顔を確認しようとした。射し込む光に照らされて、口の周りが輝いている。液体がカピついているのだ。赤いもの、白いものが乾ききってまとわりついている。耳の下あたりまで裂けている口が獣を連想させた。口周り以外は毛で覆われていて、人の顔とは似ても似つかない。
「私のケンちゃんじゃない・・・」
窓際の仕事机に置いてある写真立てを手に取る。シンデレラ城の前でピースサインをしている二人が笑顔でこっちを見ている。引き出しを開けて、いつかプレゼントしたペアルックのネックレスも持った。思い出の品物を集める。
クローゼットの一番下の引き出しを開けると、リンクを買ったときの箱が、キチンと収められていた。
毛の塊の左手があるべき部分で、金色の指輪が光ったような気がした。愛永は気づかないふりをして部屋を出た。
博多駅に降り立った愛永は、その足で地下道を歩き、ディズニーショップに向かった。パジャマ姿の少女を、人は避けるように歩く。
「すいません、そののうえほうにあるぷーさんください」
「あ、はい・・ありがとうございます。こちらは、ご自宅用ですか?プレゼント用ですか?」
「ぷれぜんとようで」