食卓にあがった無能な天使
「平坂 黄。黄色の黄、一文字で、コウと読みます。よろしく」
新しく入った中学で、教壇に立って挨拶をする。
真心こめて、丁寧に。いやほんと、よろしくね。
時季外れの転校生に、教室内がざわめく。
まあでもね、転校生なんてそんなもんでしょ。
あたしにだって、事情も都合もあるんです。
そんなひやかしの視線をあびるのには慣れっこだ。
学校を転々とするのはいつものことで、今度の学校でも、目立たず騒がす、無難に適度に、やっていけたらいいかなって思っている。
あたしの地味キャラは完璧だ。
新しいクラスメイトの顔を見回す。
短いあいだだけど、よしなに……って、――うわあ。
ぽかんと間抜け面をさらしている一人の少年と目が合った。
少年は、嬉しそうに。ぱあっと花がほころぶように。
「こーちゃんだあ!」
と、叫んだ。
あたしの喉が、ごくりと鳴る。
ええ、そうですね。あたしの名前はこーちゃんです。
そしてあなたは、大地くんですね。
少年は、クラスでもひときわ存在感を放つ見目麗しさだった。
カラスの群れに、ハトが混じってる、みたいな。
日本人離れした明るい茶色の髪は、わたがしのようにふわふわしていて、肌も白くてきめこまかい。
あけっぴろげな笑顔はお日さまみたいで。
きっと誰もが、天使のようだと思うだろう。
実際、彼は、体半分天使なんだけど。
あたしはにわかに気を張り詰めて、あたりをうかがう。
――まさかここ、天使の巣窟だなんて言わないでしょうね。
「こーちゃん、久しぶりだね。大きくなったね!」
脳天気な半人前の天使は、素直な驚きをもって声をあげる。
あたしは曖昧に会釈を返した。
ええ、久しぶり。ざっと五年ぶりくらい?
「天原、知り合いかあ?」
クラスの男子が大地を小突く。
一気にテンションの下がったあたしをよそに、彼はきっぱり言い切った。
「うん。友達」
突っ込みは無用だ。
ぎくしゃくとした動きで教壇を降り、教師にうながされた席へと座る。
通りざま、「いまどき、おさげって何だよ」なんて、つぶやくヤツもいたけれど。
おまえこそなんだよ。セーラー服には、おさげだろう。
あたしに関する批評は、あまりかんばしくはないようだ。
総じて、「地味」とか。「貧弱」とか。
女生徒に至っては、「大地くんの何なのさ」とか。
アホかってんだ。
とはいえ、全体的な雰囲気は悪くはない。
隣の席になった真面目そうな女の子が、「よろしくね」と微笑んだ。
素朴な、桃みたいなほっぺたの女の子だ。
うわぁお。おいしそう。
彼女、このクラスの委員長なんだって。
この子と、大地がいるせいかな。
教室内は雑然としてるわりに、ほのぼのとした空気が流れている。
こうしてあたしは、このクラスの一員となった。
休み時間になると、お定まりのアレがやってくる。
「どこから来たの」とか、「どうして来たの」、とかいうやつ。
いいよいいよ、なんでもきいて。
しかし今回、いつもと違う質問も。
「天原くんと仲いいの?」
いいえ、ちっとも。
「うーんと、小学生のころ、同じクラスだったことがあるの」
ウソなんてつかないよ。
今と同じく転校をくり返していたあたしは、一時期いっしょに机をならべた。
短いあいだだったけど、天使と人間のハーフなんて珍しかったから覚えてる。
昔から、人目をひく外見もしてたしね。
天使なんて、みんな目立ちたがりばっかりだけどね。
机に群がるクラスメイトをかきわけて、当の本人もやってきた。
「こーちゃん。まさか転校生がこーちゃんだったなんて、びっくり」
あたしもびっくり。気が合うね。
「今日はいっしょに帰ろう。このへん案内してあげる」
あけっぴろげな善意に、後光がさして見えそうだ。
「ごめんね、今日は引っ越しの片づけとか、いろいろ予定があるの」
「手伝おうか?」
「大丈夫。気にしないで」
「じゃあ、落ち着いたら行こう」
頭の上には輪っかが見えそうだし、犬のしっぽみたいに、ばたばた羽ばたく羽根も見えそう。
「気が向いたらね」
こんなに目立つヤツと並んで歩くなんてまっぴらだ。
けど、この気持ち、大地に説明してもわかってくれないだろうなあ。
「うん、約束!」
「約束はしません」
約束とか、契約とかって、好きじゃないの。
身軽でいたいわ。
その後も、大地はことあるごとに話しかけてくる。
何を浮かれているんだか。ちょっとしつこいんじゃない?
ちゃんと、目立ちたくないってこと、伝えないとね。
そしたら大地はこう言う。
「目立つことなんかしてないよ」
ええ、そうね。あなたはそう思うよね。
「だったらこう言い直そうか。特定の人と仲良くするつもりはないの」
ぷうっと大地の頬がふくらむ。
おいおい、かわいくないぞ。
たしかに柔らかそうな頬だけど、委員長の桃のほっぺたには及ばないな。
「こーちゃんと買い物とか、おにごっことか、したかったのに」
「追いかけるのも、追いかけられるのも、好きじゃないの」
「こーちゃんとやったおにごっこ、楽しかったのにな……」
言われてあたしは思い出した。
「たしかに。そういや、楽しかった」
子どものころ、問答無用、容赦なしの追いかけっこをしたことがあった。
こいつ、頭は悪いけど頑丈だから、手加減なしで走ったり、ぶっとばしたりして、……楽しかったな、あれは。
「でしょう! もう一度遊びたいよね」
顔をキラキラさせて、大地が意気込む。
つられてあたしも、ふっと笑った。
「ああ。できたらいいね」
やばい。このままだと太平楽な笑顔に流される。
そんな危機感を抱いたのは、一週間後のことだった。
べつに、ほだされる可能性があったわけではないけれど。
大地なんかが現れるから、天使の影を探っていただけなんだけど。
一カ所にとどまるには、一週間はちょっと長い。
さいわい、天使の能力を受け継がなかった無能な末裔は、単なる人間と見なされ、天から見放されているらしく、あたりに天使の気配はない。
いつもより慎重だったぶん、時間はかかったけど、懐かしい顔に会えたし、まあいいよね。
「さてさて、それでは」
意気揚々と。
大胆に。
――あたしは、食事をとることにした。
朝一番。今日は欠席者がいなかった。
平凡な日常を送る、平凡な教室に――異端の天使はいたけど、それは除外して――、闇は突然牙をむいた。
異変に一番に気がついたのは、もちろん大地だ。
「あらら」
なんて、間の抜けた声をもらす。
瘴気が学校を取り囲む。
突如、教室といわず、廊下といわず、校内すべての床が黒く染まった。
生徒が口々に叫び声をあげる。
やがて、壁も、窓も、陽光すら遮って、あたりは一片の光も通さない真っ暗闇と化した。
あたしは、舌なめずりをした。
おいしいごはんが、てのひらにいっぱい。
みんな、とてもとてもおいしそう。
「いただきまっす」
感謝の心はわすれない。
闇に塗り込められた檻の中、一人、一人と、人の気配が消えていく。
そのぶん、あたしのお腹は歓喜に震える。
方々であがっていた叫び声が、やがて数を失っていくことに気づいた残りの人間は、恐怖にあえいで、いとおしいほど闇雲にもがく。
ああ、かわいい。ああ、おいしい。
善良だった人間が、理不尽な闇にとらわれてあげる怨嗟の炎が、あたしはこの世で一番好きだ。
燃えるような感情の発露は、甘く胃の腑に染みわたるようだし、喉を裂くほどの絶叫は、甘美に耳をとろけさせる。
人間は、最高だ。
闇に溶かされ、生気を奪われて、人々は踊る。
あたしの手の内で、怒り、嘆き、暴走をくりかえす。
もぐもぐ、ごくん。ごくん。
次第に腹が満ちてきた。
いつまででも食べていたい。
――けれど、あたしは賢明だからね。
食べ過ぎが死を招くことを知っている。
ふう。と、お腹をなでおろし、両手をあわせてしっかり拝む。
「ごちそうさまでしたっと」
今回も、たいへんおいしゅうございました。
徐々に闇が薄れていく。
耳をつんざく悲鳴もぱったりやんで、しんと静かな教室内に、たたずむ二人が姿を現す。
ああ、無残に散乱する室内に、いつもと変わらない優しい笑顔がそこにある。
「手際がよくなったねえ」
感心したように口を開くこの少年。
彼だけは、さすがのあたしも食べられない。
天使なんて、毒素のかたまりみたいなもんじゃない。
やだね、こわいこわい。
床をうめつくして倒れているのは、このクラスの生徒たち。
他の教室も、同じ案配だっていうのは、見なくてもわかる。
殺してないよ。
殺すくらいなら、肉と骨までいただくよ。
残飯放置していったら、天使に目をつけられるからね。
保身のために、食事は加減が大切です。
生かさず殺さず。
感情と、記憶と、生命力をわずかばかりかすめ取るだけ。
今は昏倒しているこの子たちも、そのうち目覚めて活動を再開するでしょう。
ぼうっとしてるのは、一週間ってところかしら。
至って穏便。
反吐がでるほど、偽善的でしょう。
でも、インテリジェンスって、こんなものじゃない?
さてと。
あたしは、無能な天使と向き合った。
悪魔がいると知りながら、摂食を止めることもできない、人を救うこともできない、傍観者。
「おいしかった?」
「ええ。もちろん」
「次はどこへ行くの」
さあ、どこだろう。
「決めてない。それにそう、どこだって同じだもの」
どこに行っても、ごはんはある。
あたしはきびすを返した。
「じゃあね」
これで大地ともおさらばだ。
目を覚ましたとき、みんなはあたしを忘れてる。
そしてきっとこれからも、大地はここで笑っているだろう。
なのにいったいどうしたことか。
大地の手があたしを阻んだ。
「こーちゃん、待って」
あたしの口の両端が、きゅっと上がる。
「……あたしと、敵対するつもり?」
この天使、人間に仲間意識でも芽生えていたのか?
戦意が満ち、体が高揚した。
許せないというなら、相手をしよう。
「いいよ、かかっておいで」
かつてのおにごっこのように、全力で遊ぼう。
大地はふるふると首を振った。
「ちがうよ。ぼくも行く」
「は?」
「こーちゃんに、ついていく」
この天使は、思った以上の出来損ないらしい。主に頭が。
「なに言ってんの」
「だってほら、まだ買い物にも行ってないし、遊んでないし」
「それで?」
「久しぶりに会えたのに、すぐにお別れなんて淋しいよ。もうちょっと一緒にいよう」
頭をかかえた。
なんだこの生き物は。
「天使のあんたが、悪魔のあたしについてくるっていうの」
大地は、またまたって感じで手をぱたぱたさせる。
どうでもいいけど、おばちゃんみたいだよ、そのジェスチャー。
「ぼく、天使じゃないよ。半分だけだよ」
大地は、友愛の天使と人間との間にもうけられた子どもだ。
きっと、大地の頭の中には友愛が目一杯つまっていて、他の理性とか知性とか常識とかがあぶれてしまっているのだろう。
非常識……っていうより、ただの間抜けだ。
「ぼく、こーちゃん好きだし、ついていくよ」
「あたしの食事の手伝いでもしてくれるの?」
まさかね。
「それはできないけど……」
いや、はなから期待してないよ。
「友達でしょ。助け合うことならできるよ」
「――さよなら」
うざ。と思って、教室の窓から飛び降りた。
もういいや。めんどい。アホの子は放置だ。
「待ってぇ」
あとを追って、大地も外に飛び出してくる。
日の光にきらめく髪は、小麦のように黄色くてまばゆい。
あたしは駆けだした。
一人がいいんだ。一人が気楽だ。
天使なんて、あんな目立つものを引き連れて歩く悪魔がどこにいる。
あっけらかんとした笑い声が追いかける。
「こーちゃん、走るの速いねー」
「ついて来んな!」
振り返らずに叫んだ。
楽しそうだ。実に楽しそうだ。
走りながら思う。
以前にも、こんなふうにガラにもなく全力で走ったことがあった。
「やれやれ」
肩をすくめる。
さて今回はどちらが勝つのか。
追いかけっこの始まりだった。