夏の夕べ
厳しい暑気もやわらぐ時刻になっていた。
日中にはべったりとまとわりついてきた湿気は、気づけば吹き始めていた心地のよい微風に、いずこかへと流されてしまっていた。
通常ならば町の通りは寂しくなる時間であったが、往来を往く人々はみな、どこか浮き足立ってにぎやかな声が満ちている。土手に沿って並んだ出店には、こどものみならず、かざぐるまや飴細工を求める大店の店主の姿もあった。
そんな中、紺の稽古着に身を包んだ双子の兄弟は、土手の草の上に寝転び、段段と沈殿してゆく空を仰いでいた。兄を太一、弟を裕次と言った。双子といってもこの二人、姿形はそっくりでも性格はまるきり正反対。兄は頑固で一直線、弟は温厚で思慮深い。言うなれば兄が動、弟は静である。
「なぁ、裕次」
「なに、太一」
気だるい太一の声が、幽かに通る生温かい風と共に、傍らの草花をくすぐった。
すぐ上の往来では、いつもよりどこかおめかしをした人々が行き交い賑わっている。紅を差し着飾った町の娘たちは、楽しげに談笑しながら歩いていった。
かんざしー や、さかなー などの商人の威勢のいい声や、風鈴の涼しい音色に賑やかなちんどんが町を一層活気付けた。
「俺たち、何でこんなとこにいんだろ」
相変わらず太一は空の一点を見つめたままである。その眸には力がなく、ただ空の上澄を映している。
近くの木で、ヒグラシが鳴き始めた。
「さぁねぇ……。勝之兄さんにこてんぱんに伸されて、道場を飛び出してきたからじゃなかったっけ」
「おう、上等だぜ」
何が上等なのかはわからないが裕次は、兄が自分自身の大胆な行動に満足しているのだろうと了解した。
目の前を、しじみ蝶がちらちらと横切った。これからねぐらへ帰るのだろうか。
「なぁ、裕次。なんで空は悠いのかね」
「さぁねぇ……。きっと海なんだよ。海だから悠いのさ」
答えた裕次は口端を緩ませた。
空のてっぺんは、昼間の薄藍から澄んだ濃藍の濃淡へと移り変わり、追いやられるように空の下の方では、赤やだいだいが、混じり合うとも合わないともつかない、沈殿の層をつくり出している。
遠くのほうにひろがる薄雲は、妖艶に輝く韓紅だ。
西の山の端に陽はほとんど隠れて、さいごの光を放っている。
「海? だったら水が落ちてくるだろう」
「雨がおちてくるじゃないか」
「じゃあ海に星はあるか」
「うーん……きっと貝が泡ふいているんだよ」
紺だまりの深いところに、一番星がちかちかしている。
隣で太一がにやり、とするのを目の端に捉えた。
「甘いな、裕次。空が悠いのは巨人が住んでるからに決まってる!」
妙に自信満満に言い切ると、太一は目を輝かせた。
裕次は神妙な面持ちで隣の兄を見た後、思わず噴き出してしまう。太一はそこで初めて空から目を離した。
「なんだよ」
「なんだよって……巨人? 空に巨人が住んでいるの? あははは……太一はおもしろい」
裕次は腹に手を当て笑いだすと、太一は眉間に縦じわを寄せた。
「巨人が住んでいるんだったら、なんで落ちてこないのさ」
「あぁん? 俺らが見てるのは巨人の住んでる世界の床だからに決まってるじゃねぇか」
「じゃあ雨はなんで降るのさ」
「そりゃ巨人が暴れてるのさ」
その返答に裕次は体を曲げ、目尻から涙をこぼした。答えた本人は至って真面目であるからたまらない。
「だったら雷は巨人が怒っているから?」
「夏は巨人がはっちゃけてるから暑い」
「何それ。もうおかしすぎるよ、太一……あぁ、苦しい」
裕次の笑いはおさまらず、体をねじってしまう始末だ。太一はそんな弟の、エビのような姿に笑う。 大きな太陽はとうに山へ帰り、空の紺が残滓を飲み込もうとしていた。天河が流れ、織女星と牽牛星が互いを河の両岸で呼び合っている。
「……ほら、もうあんなに星が出ているよ」弟の視線に気づかない太一は、もう少ししたら、みんなも来るだろうよ。と楽しそうに笑っていた。
と、不意に風を裂く笛の音が響いた。
「お、始まったか」
太一は体を起こす。
夜空に満開の花が、気持ちのいい破裂音を率いて咲き誇る。
赤、緑、黄色に白。途切れることなく夜空を照らす向こうで、兄弟を呼ぶ声。見れば数名のでこぼこの陰が、手を振りながら土手を下って来るところだった。
「もしかして、今夜花火大会だから稽古を抜け出したの? ……巨人も見ているのかな、花火」
「へへっ。うるせぇや」
花火が上がるたびに、四方から歓声も上がった。