処刑まであと三日ですが、ごはんが美味しいので困ります
「あの、ひとつよろしいですか」
「遺言ならあとで聞く」
「このスープ、玉ねぎを先に炒めていますね」
「は?」
鉄格子の向こうで、若い牢番が固まった。木の器を抱えたまま、こちらを見る。背が高く、姿勢がよく、濃い茶色の髪には寝癖ひとつない。いかにも規則を最初の頁から最後の頁まで暗記していそうな人だった。
「……なぜわかる?」
「甘みが出ています。それに鶏の皮も先に焼いていますね。脂が澄んでいるので」
「合っている」
「とても美味しいです」
「そうか」
「明日は何ですか」
「なぜ明日の献立を聞く」
「楽しみなので」
「明日の昼には判決の再確認がある。その次の日が処刑だ」
「存じています」
「では、なぜ献立を気にする」
私は指を折った。今日の昼と夜。明日の三食。その次の日は、朝食が出るらしい。
「あと六食ですね」
「日数で数えてください」
「食事のほうが正確です」
「何を……」
牢番は額を押さえた。初対面の相手に頭痛を起こさせてしまったらしい。申し訳ないとは思ったが、スープが冷めるほうがもったいないので、先に食べた。
私はヴィオラ・アシュフォード。侯爵家の長女。そして現在、妹を毒殺しようとした罪で、処刑を待っている。
もちろん、妹に毒を盛ったりなどしていない。
◇
牢は、屋敷よりずっと規則正しいらしい。
朝になると朝食が来る。誰も食事中に帳簿を差し出さないし、深夜に「明朝までに」と書類を積まない。寝台には毛布が二枚もあった。屋敷の私の部屋には一枚だったので、牢のほうが一枚多い。
「ここは、ずいぶん待遇がいいのですね」
「牢です」
「三食つきです」
「牢です」
「毛布も二枚あります」
「規則です」
「では、屋敷が規則違反でした」
「そうはなりません」
同じ牢番が、昼の皿を差し入れ口から押し込んだ。麦のパンと豆の煮込み。パンを割ると、湯気が出た。
「温め直してくださったのですね」
「……たまたまだ」
「豆は昨日から煮ていますね」
「なぜわかる」
「角がなくなっています」
「文句か」
「いいえ。今日のほうが好きです」
牢番は黙り、空の桶を意味もなく持ち直した。この人は料理の話をすると、急に挙動がおかしくなる。
「お名前を伺っても?」
「囚人に名乗るのは規則違反です」
「そうですか」
「……クレイ・ボーデンです」
「規則違反ですね」
「あなたが聞いたんでしょう」
「記録しておきます」
「何に?」
規則違反、一つ目。
何に、と聞かれて困った。手元に紙がない。十年ぶりの出来事だった。
私が十二の年、母が寝込んだ。父は私に、領地の帳簿を少しだけ見ておくように言った。少し、という言葉は便利だ。気がつけば、税の割り当て、小作人の陳情、使用人の采配、修繕、婚礼、葬儀まで、すべてが「少し」の中に入っていた。
父は社交。母と妹は買い物。私は仕事。
役割分担としては、たいへんわかりやすい。
「それを、十年?」
「はい」
「休みは」
「夜は寝ていました」
「一日、何もしない日です」
「そういう日があるのですか」
「あるんです」
「知りませんでした」
「十年、一度も?」
「はい」
かつん。
クレイさんの持っていた器が落ちた。木製だったので割れなかった。よかった。
「それで、処刑が怖くないんですか」
「怖くないわけではありません」
「では、なぜそんなに普通なんです」
「屋敷に戻れば、また仕事ですから」
「処刑と仕事を天秤にかけないでください」
「どちらも朝が早いです」
「そこではありません」
クレイさんは鉄格子に額をつけた。冷たいだろうが、本人が選んだことなので放っておいた。
「申し開きは、本当に何もしなかったんですか」
「はい」
「普通はします」
「そうなのですね」
「学ばないでください。次に活かす機会はありません」
「それは残念です」
「残念なのは俺です」
私が毒を入れたことになった夜、妹のオルタンスは夜会の途中で倒れた。私の部屋から毒の瓶が見つかり、妹は涙ながらに私の名を呼び、父も母も第二王子殿下も妹を信じた。
弁明しようとは思った。しかし、無実になれば、その翌朝からまた帳簿である。
私は黙った。すると驚くほど手早く、処刑が決まった。
「手早すぎる」
「父は決断が早いのです」
「そこを褒めない」
クレイさんは頭を抱えて去った。その日の夕食には、小さな焼き菓子がついていた。牢の献立にはないものだった。
規則違反、二つ目。
◇
紙がないと落ち着かない。そこで私は、壁の石を数えた。
北側だけ一列少ない。塞いだ跡がある。
寝台の脚は一本だけ短い。
廊下の燭台は五つあるのに、火が入るのは三つ。
薪は手前から使うので、奥の薪がいつまでも湿っている。
気になる。たいへん気になる。
その日の夕方、差し入れ口から紙と炭の棒が入ってきた。
「余りです」
「ありがとうございます」
「仕事をしていい、という意味ではありません」
「承知しました」
「本当に?」
「はい」
まず牢の改善点を十個書いた。ついでにパンの数を記録した。昨日は十四個、今日は十二個。囚人の人数は同じなので、二個が行方不明である。
しばらくして、白髪交じりの牢番が紙を覗き込んだ。
「嬢ちゃん、それ、なんや」
「牢の帳簿です」
「牢に帳簿なんかないで」
「ですので、作りました」
「薪は奥から使え、と。……ほんまや。奥、湿っとる」
「昨年の冬も、火がつきにくかったのでは?」
「なんで知っとるんや」
「薪の色です」
古株の牢番、バルトさんは感心して、倉庫の記録まで持ってきた。頼まれたので、受け取った。
ちなみにバルトさんは名前を聞いたら、すぐに教えてくれた。規則を守る率は人によるらしい。
「バルトさん!」
「なんや、クレイ」
「死刑囚に仕事を頼まないでください!」
「本人、楽しそうやぞ」
「それが一番まずいんです!」
クレイさんが、私から紙を取り上げようと手を伸ばす。私は紙を胸に抱いた。
「まだ合計が合っていません」
「休んでください」
「ですが」
「あなたは十年、働いたんでしょう。三日くらい休んでも誰も死にません」
「死ぬのは私です」
「そういう意味じゃない!」
声が廊下中に響いた。バルトさんが腹を抱えて笑いながら去っていった。
結局、紙は取り上げられなかった。規則違反、三つ目。
夕食は卵入りの肉団子だった。牢の食事にしては豪華すぎる。
「クレイさんが作りましたか」
「実家が食堂なんです。余った材料を使っただけです」
「卵は余りません」
「食べてください」
「はい。たいへん美味しいです」
クレイさんは、鉄格子に背を向けた。耳だけが赤かった。
「残り、何食ですか」
「四食です」
「数えるようになりましたね」
「あなたのせいです」
◇
その日の夜、クレイさんは調書を抱えて戻ってきた。
「赤根草の煮汁。妹君に使われた毒です」
「はい」
「城下では薬師の許可なしに買えない。購入記録に、あなたの名も、侯爵家の使用人の名もありません」
「では、無実ですね」
「驚かないんですか」
「最初から知っています」
「俺が忘れていました」
瓶もおかしいらしい。封が切られ、中身が半分残ったまま、私の部屋の棚に置かれていた。
「毒を使ったあと、自分の部屋に戻しますか」
「戻しません。できるだけ遠くに捨てます」
「捨てる側の知恵を出さないでください」
クレイさんは調書を丸めかけ、慌てて伸ばした。この人は真面目だ。紙を粗末にしない。
「証拠を集めれば助かります。俺の実家の客に、城の下働きが何人かいる。何か見た者がいるかもしれない」
「規則では?」
「勤務後に、実家の客と話すだけです」
「では規則違反ではありませんね」
「残念そうに言わないでください」
私は肉団子を半分に割った。刻んだ香草が入っている。今朝のスープと同じ香りだった。
「助かったら、屋敷へ帰れます」
「帰って、また働くのですね」
「辞めればいい」
「家族が困ります」
「あなたが死んでも困るでしょう」
「そうですね」
「同じなら、生きて困らせてください」
乱暴な理屈だった。けれど、不思議と嫌ではなかった。
「クレイさんは、変わった方ですね」
「あなたにだけは言われたくありません」
◇
処刑前日の朝、白い芋のスープが出た。玉ねぎは、やはり先に炒めてある。
「昨夜、薬屋へ行きました」
「勤務後ですか」
「勤務後です」
「残念です」
「なぜ」
「規則違反が増えません」
「……増やさなくていいんです」
赤根草を買った女は、城の使いを名乗っていた。薬屋は顔を覚えている。クレイさんの実家の食堂から、薬屋の裏口が見える。そこで芋を洗っていた下働きの女性も、その女を見ていた。
「妹君の侍女だそうです」
「そうですか」
「証言してくれます。刑の執行を止められるかもしれない」
「そうですか」
「また、それですか」
クレイさんの声が強くなった。
「あなたは何も欲しがらない。助けてくれとも、生きたいとも言わない。俺が走り回っても、飯の話ばかりする。どうしてです」
「ごはんは大事です」
「知っています。俺も料理人の息子ですから」
鉄格子を握る指が白い。私は匙を置いた。
「生きてください」
まっすぐな声だった。
胸の奥に、十年触らなかった場所があった。触れば崩れそうなので、仕事を積んで蓋をしていた場所。そこへ、声が届いた。
「生きて、何をするんですか」
思ったより大きな声が出た。
「朝五時に起きて、夜まで働きます。次の日も、その次の日も。父も母も妹も、一度も帳簿を開きませんでした。私が死ねば、困って、ようやく誰かが開きます。十年分、すべてそろえてあります」
「そのために死ぬんですか」
「そのために生きるのなら、もう十分です」
指先が震えた。膝の上で握っても止まらない。クレイさんは何も言わず、水を持ってきた。それからパンと、ゆで卵も持ってきた。
「食べてください」
「朝食は終わりました」
「二度目の朝食です」
「規則には?」
「ありません」
「では、規則違反ですね」
「はい。四つ目です」
ゆで卵は、黄身が少しだけ柔らかかった。完璧だった。
「明日の朝は豆です」
「生きる理由としては、少し弱いですね」
「卵もつけます」
「少し強くなりました」
「スープも作ります」
「かなり強くなりました」
クレイさんは笑った。初めて見た笑顔だった。
困った。明日の朝食が、楽しみになってしまった。
◇
処刑の朝。予定どおり豆と卵とスープが来た。
予定と違ったのは、クレイさんがいなかったことだ。
「あいつなら、夜明け前に出てったで」
バルトさんが、倉の帳簿を受け取りに来た。こんな日にも帳簿は動く。少し安心した。
「ここと、ここです。同じ人が同じ日に二度、薪を受け取っています」
「盗みか?」
「いいえ。盗む人は、二度書きません。転記ミスです」
「なるほどなあ」
「直しておきました」
「嬢ちゃん、今日、処刑やんな?」
「はい」
「なんで倉の帳尻を合わせとるんや」
「途中でしたので」
「クレイが惚れるんも、わかるわ」
匙が止まった。
「今、何と?」
「時間や。はよ食べ」
バルトさんは逃げた。牢番なのに逃げ足が速い。
最後の一口を飲み終えると、衛兵が来た。手枷をはめられ、中庭へ連れていかれる。父、母、妹、第二王子殿下が並んでいた。妹は白いドレスを着て、病み上がりにしては頬がつやつやしている。
「待ってください!」
門からクレイさんが駆け込んできた。後ろには薬師、食堂の前掛けをつけた女性、そして寝間着の上に外套を羽織った王城の監察官がいる。
「ボーデン! これは何事だ!」
「証拠です!」
「先に私を着替えさせろ!」
「処刑が先に始まりそうでしたので!」
監察官は文句を言いながら、刑の中止を命じた。どうやら、権限は本物らしい。
薬師の記録には、赤根草を買った時刻と、使われた侯爵家の紋入り通行証の番号が残っていた。食堂の女性は、薬屋の裏口で妹の侍女を見ていた。侍女は問い詰められると、あっさり妹の名を出した。
「でたらめですわ!」
妹が叫んだ。
「お姉様が、わたくしの使い込みを帳簿から見つけたと言って、お父様に言うと脅したのです! だから、あの帳簿さえなくなれば――」
中庭が、しんとした。
「オルタンス」
「……何ですの」
「私は帳簿の話をしていません」
「……」
「使い込みの話も、まだです」
妹は両手で口を塞いだ。遅い。第二王子殿下が、音もなく半歩下がった。
「帳簿は、私の部屋の三番の棚、下から二段目です。去年の春から、あなたの宝飾品が四回、仕立てが十一回。名前のない支払いが六回あります」
「お姉様!」
「私が立て替えました。父にも母にも言っていません」
「では、なぜ帳簿を見ろなんて言ったのよ!」
「抜けている支払いの名目を、教えてほしかっただけです」
妹はその場に座り込んだ。誰も助け起こさなかった。
そのあとの取り調べは、監察官の仕事になった。妹の処分も、侍女の処分も、父と第二王子殿下への聞き取りも、全部ほかの人がやる。
私の仕事ではない。
なんて素晴らしい朝だろう。
◇
手枷が外れ、その日のうちに釈放された。門の前には侯爵家の馬車が待っていた。
「戻ってこい」
父は馬車から降りずに言った。
「いいえ」
「お前がいなければ、領地が回らん」
「人を雇ってください」
「そんな金がどこにある」
「オルタンスの宝飾品を三割減らせば、事務員を三人雇えます」
「……」
「帳簿の三番目に、相場を書いてあります」
「お前は、それでいいのか」
「はい。もう働きません」
頭を下げた。完璧な礼だった。十年やってきたので。
馬車が去ると、今度はバルトさんが近づいてきた。
「嬢ちゃん、うちで働かんか。倉も当番表も、まだあるで」
「働きません」
「即答やな」
「決めていますので」
「ほな、これは?」
バルトさんは小さな紙を渡した。牢の改善点十一項目のうち、十項目に丸がついていた。
「全部、採用や。ひとつだけ無理やった」
「どれですか」
「昼食に菓子をつける」
「それは私が書いたものではありません」
「クレイやな」
規則違反、五つ目。本人がいなくても増えるらしい。
◇
クレイさんの実家の食堂は、城門から三本目の路地にあった。赤い屋根。磨かれた窓。扉の向こうから、玉ねぎを炒める匂いがする。
私は一人でも生きていける。十年、一人で何でもやってきた。住む場所を探し、貯めた金を使えば、当分は働かなくても困らない。
それでも、足は食堂へ向かった。
「いらっしゃいま――ヴィオラ様?」
前掛け姿のクレイさんが、鍋を持ったまま固まった。
「来ないでくださいと言われましたが、もう囚人ではありませんので」
「そうですけど。いや、来てほしかったですけど」
「どちらですか」
「来てください」
返事が早い。父より決断が早いかもしれない。
席に座ると、あの鶏と根菜のスープが出てきた。一口飲む。玉ねぎの甘み。澄んだ鶏の脂。根菜の角は、きれいに落としてある。
「毎日、食べられますか」
「作れます」
「では、毎日来ます」
「毎日?」
「ご迷惑ですか」
「いいえ。むしろ、その」
クレイさんは鍋を置き、背筋を伸ばした。牢の前で規則を読み上げるときより緊張している。
「食事だけじゃなく、俺に会いに来てほしいです」
「お会いすれば、献立を先に教えていただけますか」
「教えます」
「卵も?」
「つけます」
「毛布は二枚ありますか」
「食堂の二階に、三枚あります」
「規則より一枚多いですね」
「うちの規則は、俺が決めます」
奥の厨房から、先ほど証言してくれた女性が顔を出した。クレイさんの母親だったらしい。
「部屋も空いとるよ。息子の隣やけど」
「母さん!」
「家族になったら食事代もいらんよ」
「母さん!」
クレイさんの顔が、耳まで赤くなった。
「それは、求婚でしょうか」
「母のは違います! いや、俺は、そのつもりです!」
「では、検討します」
「どのくらい?」
私は指を折った。明日の朝。昼。夜。
「三食ほど」
「日数で数えてください」
「食事のほうが正確です」
クレイさんが笑った。私も、少しだけ笑った。
処刑まであと三日だった私の次の予定は、明日の朝食になった。
困った。
ごはんが美味しいせいで、明日も、その次も、生きる予定が入ってしまった。
はじめての短編でした。お楽しみいただけたなら幸いです。




