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これは両家当主のサインが入った婚約解消の同意書だ。
婚約なんてしたくなかった私が、どうしてもと両親に頼み込んで頼み込んで、なんとか手に入れてもらったもの。
ああ!お人好しな両親を説得するのは骨が折れたけど、あの時諦めないで本当によかった!
すでに両家当主のサインはある。だからあとはこの同意書に当事者がサインすれば、婚約を解消することができるのだ。
でもそんなものがあるのなら、もっと早くに婚約解消すればいいのに……そう思う人もいるだろう。
たしかに私も他の人の立場だったら同じことを考えたと思う。
だけどそれはできなかったのだ。
なぜならこの婚約は、金に困った侯爵家から、どうしてもと頼まれた婚約だったから。
我が伯爵家の発言力は中の中。権力・名声・名誉なんてこれっぽっちも興味のない両親。
特出したところなんてない凡庸な伯爵家……なのは間違いないんだけど、実は一つだけ、他の家よりも優れているものがある。
それは財力。
特別何かをしているわけでもないのに、お金が次から次へと入ってくるのだ。
これはもう才能と言ってもいいレベルだと思うけど、両親はお金にも興味がない。
なんかたくさんあるね~くらいにしか思っていないはず。
まぁ浪費しないのはいいけれど、関心がないのも困ったもので。だからお金に関しては私と執事で管理をしている。
だから私がいる時だったら資金援助のための婚約なんて絶対に受け入れなかったんだけど、運の悪いことに、ちょうど私のいない時にこの男の父親がうちにやってきてしまったのだ。
そして涙ながらに頼み込まれた両親は、可哀想だとすんなり婚約を受け入れてしまった、というわけなのだ。
あの頃はさすがに荒れたよね。何してくれたんだって。
とまぁこういった理由から、我が家からの援助で貴族の体裁を保っている侯爵家が、婚約解消を望むわけがないのである。
だから足掻いても無駄。
そう思って諦めていたのに……もしやこの男は何も知らない?
私との婚約を破棄したら、今までと同じ生活なんてできっこないのに。
それを知っていたら、間違ってもこんな選択なんてしないはず。
侯爵は、自分の息子にすら見栄をはっているとか……?
いや、でもそれは十分にあり得る話だ。
プライドの高い貴族なら、借金の存在はできるだけ隠したいはず。家族にすらね。
もしこの推測が当たっているのなら私にとっては好都合。
侯爵家がどうなろうと私には関係ないし、このチャンスは絶対に逃さないんだから!
「……ルース様は私のことがお嫌いでしょう?だからいつかこんな日が来るかもしれないと思って用意しておいたんです。これならルース様の手を煩わせずに済むでしょう?」
少し目を臥せ、悲しそうな声でそう口にする。
あ、もちろんそんなことはこれっぽっちも思っていないよ?
でもさすがにあなたと結婚したくなかったから、なんて言えるわけがないからね。
「ふ、ふん。お前にしては気が利くな」
腹立つ言い方だな。でもまだ我慢、我慢。
「……ではサインをお願いします」
「はぁ。めんどうだが仕方ない」
あなたはただ名前を書くだけなんですけど。
こっちの方が何倍もめんどうなんだからね?
本来ならルース様有責で婚約破棄にして、慰謝料やこれまで援助したお金を返してもらうことだってできるんですよ?
でもそうしないのは確実に揉めるし、そうなるとさらに手続きがめんどうになるから。
それなら同意の上で婚約解消をした方が、すぐにこの男と縁を切ることができる。
お金はもったいないけれど、こんな機会もう二度とないかもしれない。
だったら確実に目的を達成する手段を選ばないと!
「これでいいな?」
なんだかんだと文句を言いながらも、無事にサインをもらうことができた。
あとは私がサインすれば、ようやくこの書類が効力を発揮する。
「はい。では私もサインを……」
「お前のサインなんてどうでもいい。俺はエリーのところに行くから、あとはちゃんとやっておけよ」
そう言って、さっさと教室から出ていったルース様。本当に最初から最後まで失礼な男だ。
でもそんな男との関わりもこれまで。ようやく私は自由になれる。
さぁ急いで帰らないと!
私は周囲からの視線を無視し、教室から飛び出した。
あ、もちろん飛び出したっていうのは気持ち的な表現であって、実際は令嬢らしくおしとやかに出ていきましたよ?
でもね、そうは言ってもやっぱりどこか気持ちは浮わついていて。
徐々に歩くスピードは上がっていき、そしてそのまま廊下の角を曲がろうとした時……
――ドン
「うわっ!」
「きゃっ!」
……やってしまった。
どうやら出会い頭に誰かとぶつかってしまったようだ。
「いたた……す、すみません!少し急いでいたもので」
「い、いえ。こちらの方こそ……あ、荷物が」
「え?わっ!た、大変!」
ぶつかった衝撃で落ちてしまったのだろう。廊下に荷物が散乱している。
大切な書類が入っているというのに、もうなにやってるのよ私。
えーっと書類、書類……よかった。ちゃんと無事だ。
あとは急いで片付けて――
「……あの、これもあなたのですか?」
他の荷物を片付けていると、後ろから声をかけられた。
どうやら違う方向にも荷物か落ちていたらしく、親切にもぶつかってしまった相手の人が拾ってくれたようだ。
「あ、ありがとうござ――」
お礼を言わないと。そう思って顔を上げたんだけど……
「赤い瞳……」
「え?……えっ!?」
今、聞き捨てならない言葉が聞こえてきたんですけど。
私は自分の顔に手を当てる。……嘘、ない。
そして相手の手を恐る恐る見ると、その手の上には決してはずさないと決めていたメガネが……
「~~っ!し、失礼しますっ!」
見られた!
私は相手の手からメガネをぶんどり、荷物を抱え全力で走る。
もう令嬢らしくなんて気にしている場合ではない。
「あっ!ちょっと待って!」
呼び止める声が聞こえるけど、ごめんなさい!
きっと向こうも瞳の色に気を取られて、私が誰だかまでは気づいていないはず……というかそうであってほしい。
婚約解消できると喜んでた矢先に……もう、私の馬鹿!
とりあえず今はこの場から離れないと。
私は脇目も振らず、令嬢失格の速度で廊下を走り抜けたのであった。
◇
「あの瞳の色……間違いない」
シェリアが去ったあとのこと。
誰もいない廊下で何かを呟く人が一人。
「ようやく見つけた……ん?何か落ちて……」
廊下に落ちている一枚の紙。
きっとさっきぶつかった時に彼女が落としたものだろう。
大切なものかもしれないからあとで届けてあげよう。そう思い、落ちている紙を拾い上げると、
「これは……」
拾い上げた一枚の紙。
それはとある劇団のチラシであった。




