のんびり薬師のはずが、実は魔女の末裔でした
午後の陽ざしが村をやさしく包み、干し草の香りと遠くの笑い声が風に乗って流れていく。なだらかな丘に広がる村は、人々の声も鳥のさえずりものんびりとしていた。
村で唯一の薬店は、踏み固められた細い道の最終地点にある、こぢんまりとした丸太作りの家だ。
この薬店は、先代の孫である十八歳の少女スアが一人で切り盛りしている。森の葉のような瞳と、深いブラウンの髪。すぐ裏手に広がる静かな森を思わせる姿のスアは、村人たちに親しまれ、頼りにされていた。
ぽつりぽつりと降り始めた小雨の中、店先のぬかるんだ道を、馬の足音がゆっくりと近づいてきた。
棚に薬草を並べながら、スアはふとその音に手を止める。
この時間に馬の音など珍しい。そっと窓の外に目をやると、外套をまとった男が一人、馬から静かに降りるところだった。
見慣れない男性だなとスアは首をかしげた。
ドアの上に吊るされた小さな真鍮のベルが、来客を知らせるように小さく鳴った。
「……ロゾフ薬店って、ここで合ってる?」
店先から聞こえた声に、スアの心臓がドクンッと高鳴った。
思わず手にしていた瓶を取り落としそうになる。
雨で肩の濡れた深いグリーンの外套に、茶色の編み上げブーツ。腰には剣が収められていた。外套のフードを深く被った隙間からは、ピンクがかった柔らかな茶髪が覗いている。
「はい、ここがロゾフ薬店です。何かお探しですか?」
スアの問いかけに、男はフードを下ろし、にこっと人懐っこい笑みを浮かべた。
「よかった、合ってた。……ちょっと急ぎで探してる薬があるんだけど」
まっすぐ通った鼻筋に、やや鋭いアゴのライン。空のように明るいブルーの瞳。
少年と大人の狭間にいるような顔立ちは、スアと同じくらいの年齢に見えた。
その容姿には、どこか鋭さと品が混じっていて、目を奪われる。村には同世代がほとんどいない上、こんな風に誰かの顔に息を呑むのは初めてだった。
動揺する自分の鼓動をなんとか落ち着けようとしながら、スアはなんとか微笑みを浮かべた。
「ええと、どんなお薬をお探しですか?」
「エラノブリス草ってある?」
エラノブリス草は、村の奥の森のさらに奥深く太陽の光が差し込む場所にのみ生えると言われる、薄紫の花と青みがかった葉を持つ希少な薬草だ。
根の部分に透明な液体を分泌する特性があり、この液体に身体に宿る毒素を排出し、病を治癒する効能がある。逆に葉の部分はかぶれやすいし、過剰に摂取すると身体に強い負担がかかり体調を崩すこともあるので扱いには注意が必要だ。
また、乾燥に弱く採取して長持ちする薬草ではないので店には通常置いていないし、スアも祖母が採取してきたものを扱ったことがある程度だ。
「エラノブリス草は店には置いてないんです。ごめんなさい」
「……そっか。やっぱりそうだよな」
男はほんの少し肩を落としながらも、まだどこか希望を残したような目でスアを見つめる。
「じゃあ、採取場所……知ってたりしない?」
スアは少し口ごもった。
「一応、だいたいの場所は知っています。でも正確な説明は難しいです。地図にも載っていませんし……」
「そっか。でも、この辺りにしかもう生えてないって聞いてさ。王都から来たんだ」
「王都から……!?」
王都は、ここから徒歩で三~四日ほど離れている。馬で駆けてきたなら一日だろうか。
「実は毒にやられてる仲間がいて。すでにいろんな解毒薬は試されたんだけど、効かなくて。残る可能性があるのが、エラノブリス草だけなんだ」
スアは目を見開いた。
「それって……まさか魔獣の被害に」
「ああ、冒険者だから魔獣討伐も請け負ってる」
男は少し考えるように頷き、真剣なまなざしをスアに向けた。
「だから、どうしても必要なんだ。正直、たぶん時間もあまり残ってない。だから、もし場所を知ってるなら案内してほしい」
スアは一瞬、黙り込んだ。
魔獣も出る森の奥。薬草がまだ残ってる保証もない。けれど、困っている人がいる。助けを求めている。それが見ず知らずの人であろうと、村人であろうと関係ない。
祖母がいてくれたら、きっと彼女もそうするはずだ。
「……うん。わかりました。案内します。私にできることはしたいので」
「本当か!? 助かる!」
男の顔がぱっと明るくなった。
「俺はヴェイル。名前聞いてもいい?」
「スアといいます」
「じゃあスア、よろしく頼む。なるべく迷惑かけないようにするから。もちろん報酬ははずむ」
そう言って、ヴェイルは軽く一歩近づくと、迷いなくスアの手を取った。その手は少し荒れた肌だったけれど、力強くてあたたかい。
スアはほんのり顔を赤らめながら、こくりとうなずいた。
◇❖◇◇❖◇
バサバサッ――
その夜、スアは納戸にて持ち込んだ小さな灯りを頼りにエラノブリス草の資料を探していた。スアが知っている生息地に無い場合を考えて、ほかの生息の可能性のある所を絞り込んでおきたかったのだ。
壁一面の棚にぎゅうぎゅうと詰め込まれた紙束の一つを強引に引き抜くと、その勢いに乗って左右の紙束も宙に舞った。そのすっぽりと抜けて見えた背板の部分に挟まれるようにして黒い表紙が見えた。
その綴られた束をパラパラとめくる。それは「魔女の手記」のようだった。
魔女、それは昔存在していたと言われる特別な「呪い」の能力を扱う女性。
今から二百年前、魔女はこの国の王を呪い、この地を絶望に落としたと言われている。魔女の一族は捕らえられその血は絶えた。それ以降、国民は魔女を恐れ、忌み嫌っている。
その絶えたはずの「魔女の手記」がここにある。
スアは好奇心によりそのページをめくった。
「おばあちゃん……?」
そこに記されていたのは200年前ではなく、つい一年前まで一緒に暮らしていた祖母の魔女としての葛藤と孫の自分への気遣い。
魔女は十八になるとその血が覚醒できる。今の時代、その血をもう覚醒させるべきではないという思いと孫の有事の際に必要になるのではないかという不安が綴られていた。
祖母はずっと魔女の血筋という事実を隠してこの村で細々と暮らしてきたのだ。 そして人知れず、力を使っていたようだ。
思いもよらなかった事実を知り、スアは祖母の形見のペンダントを握りしめた。その夜、なかなか寝付くことはできなかった。
◇❖◇◇❖◇
「おはよう!スア、今日はよろしく」
木々の隙間からこぼれる陽光とともに爽やかな笑顔でヴェイルがやってきた。
スアは薬店ではいつも汚れの気にならない濃いめのワンピースを着ているが、今日は森に入るため、ミドルブーツにスラックスの裾をきっちりと入れて、厚手のマントを着こんだ。水筒は肩に、手作りのお弁当はリュックに収めた。そして、お守りのようにいつも身に着けている祖母のペンダントも忘れない。
生息域は、森の奥深く。希少な薬草が群生する場所であり、同時に魔獣の縄張りでもある。
森に入るとスアは音を立てないように気をつけて歩いた。
ヴェイルの足音も静かだった。
重たいブーツなのに、まるで音をなだめるように、注意深く一歩ずつ進んでいく。無言のまま、それでも呼吸の気配だけで、すぐ背後に彼がいるのが分かる。
スアは、何か気の利いた会話をしたいと考えたけど、思いつく言葉もない。
「なんか、無言なのもおかしいですよね」
ふと、思ったまま口に出すと、ヴェイルが少しだけ笑った気配がした。
「うるさいと、魔獣に気づかれるからな」
「ふふ、それもそうですね。普段は一人で採取するので、案内なんてしたことが無くてなんだか変な感じです」
それ以降も会話少なく森を静かに進んでいく。
途中、細い斜面に差し掛かる。土は緩く苔もあって滑りやすいところだ。
「気をつけて。滑るよ」
そう言った瞬間、背中に影が差した。
振り返ると、ヴェイルが手を差し出していた。スアよりも大きなごつごつとした手のひらだ。
「ありがとう。でも大丈夫。慣れてるから」
そう言って、自分の足で踏み出すと、ヴェイルはほんの少しだけ口元を緩めた。
「うん。そうだよな、そういう歩き方してる」
「どういう?」
「ちゃんと、自分で立って働いてる人の歩き方」
スアはふと立ち止まる。そんな立派な理由じゃない。
こんな風に男性にエスコートされるような手の差し出し方をされたことがないから、少し照れてしまったのだ。
ヴェイルは、気づかないふりをしてそのまま先を歩き出した。
でも、足取りは少しだけスアが追いつきやすいように緩やかになっていた。
――優しいんだな、この人。
そんなことを思いながら、スアは彼の背中を見つめた。
突如、木々の奥から魔獣が飛び出したのは、目的地の少し手前だった。黒い毛皮、鋭い牙。大地を震わせるような唸り声。狼に似た姿をしているが、圧倒的な威圧感がただの獣ではないと示していた。
「スア、下がって」
ヴェイルの声が変わった。
その瞬間だった。彼の目に宿った光が、さっきまでの優しい雰囲気とはまるで別人のように鋭くなる。
剣を抜いたその動きは素早く、一切の躊躇いは無かった。
魔獣の咆哮が止み、倒れ伏した魔獣からは蒸気が立ちのぼる。それがおさまると、地面には魔石と呼ばれる紫色の石だけが残った。魔獣は魔石という魔力の塊を持っているため、通常の獣にはない強さを持つ。
彼は静かに剣を鞘に納め、何事もなかったかのように振り返る。
「大丈夫か?」
スアは、パチパチと目を瞬かせヴェイルを見つめたが、その顔は先程とは違いやわらかく微笑んでいた。
――あの目の変化、何だったんだろう…?
不思議に思ったけれど、それ以上は考えないことにした。
今は、薬草を探すことが先決だ。たとえ横にいる男が、少しずつ気になる存在になり始めていても。
どのくらい歩いただろうか。森の奥は木々が生い茂り太陽の光をさえぎって、昼間だというのに少し薄暗い。さらに湿気のせいか草木の香りがより強くなってきた。
歩きながらスアは、目の前の景色に集中していた。
視界に広がる緑の濃淡、木々の隙間から差し込む光の加減。
薬草は、ただ目にするものではない。感じるものだ。踏みしめる土、風の流れ、空気の湿り気が、薬草の匂いを教えてくれる。
「ちょっと待って」
ふいに立ち止まり、スアは足を止めた。その表情は真剣で、静けさがさらに深まる。ヴェイルもその気配を察して、すぐに歩みを止めた。
「どうした?」
「……あれだ」
スアは木々の隙間にぽっかりと太陽の光が差し込む場所を見つめ、慎重に一歩踏み出した。ヴェイルもそれを追う。
目の前に、薄い紫色の小さな花が咲いていた。間違いない。ここは、エラノブリス草の群生地だ。
「これがエラノブリス草か? よく見つけたな」
「うん、けど……今からが本番」
スアはリュックを下ろし、取り出した手袋をはめた。指先でその草の茎を慎重に触れる。
ここからが、薬草採取の本番だ。
簡単に引き抜けば、薬効が損なわれてしまう。根っこを傷つけずに、穏やかに、でもしっかりと。
薬草を慎重に袋に収め、ゆっくりと背を伸ばす。
「ふう。大丈夫。うまく抜けたわ」
スアは無意識に肩の力を抜いてほっと息をついた。
「あとは無事に帰るだけね」
スアが薬草を大事に包み込むと、ヴェイルもすぐに歩き出す。
その足取りに、何か心地よいリズムが生まれ、また静かな足音が森の中に響き始めた。
魔獣の危険もあるし油断できない場所だけど、ふたりで歩いているとそんな心配も少しだけ和らいでいく気がした。
行きはあんなにも長く感じたが、帰りはエラノブリス草が無事採取できた安堵もあったんだろうあっという間にロゾフ薬店にたどり着いた。
「おかげで、無事に手に入ったよ。スアがいなかったら絶対に無理だった。ありがとう」
「お役に立てて、本当によかった。森の奥は少し怖かったけど、採取できて安心したわ」
スアははにかんだように笑う。
その顔を見て、ヴェイルはふっと目を細めた。
「また、会えるといいな」
そう言って、ヴェイルはそっと右手を差し出した。
スアは戸惑いながらも、その手に自分の手を重ねた。
「ええ、いつかまた」
一瞬強く握ったその手をそっと離すと、ヴェイルはくるりと背を向け歩き出した。この挨拶が社交辞令であることは明白だった。この田舎の村に王都の冒険者が来ることなど、二度とないであろう。だけど、スアはその背中を見つめながら、心の中で小さくつぶやいた。
――また会えますように。
◇❖◇◇❖◇
ヴェイルと薬草採取した日から数週間が過ぎた。
スアは昼はいつものように薬店を営みながら、夜は祖母が残した手記を読みふけった。二百年前の魔女たちに何が起こったのかはわからなかったけど、一つだけ言えることは「魔女は忌み嫌われるような存在ではない」という事だった。魔女はいつだって、周りの人のために力を使ってきたのだ。
魔女の伝承が書かれた手記なので、もちろん魔女側の意見しか書かれていないけれど、スアは魔女を信じたいと思った。
かといって、自分が魔女になるのか……魔女の力というものを使わなければならない事態が起こるのか。そのときスアにできることがあるだろうか。スアは祖母のペンダントをぎゅっと握りしめた。
ある日の空は妙に重たく、朝になっても霧は晴れなかった。
濃い色の雲は低く一日中押しつぶされそうな空に、スアの気力もなんだか落ち込んでいた。一人で過ごすことがさみしくて仕方なく感じていた。ほんの短い時間しか一緒に過ごしてないのになんとなく、ヴェイルの顔が浮かんだ。彼は王都で元気に過ごしているだろうか。
こんな日は、一番簡単な調剤を淡々とこなし、美味しいものを食べるに限る。たっぷりのキャベツに塩の効いたベーコンを加えたスープを食し、早々にベッドにもぐりこんだ。
そんな天気が三日ほど続いたその深夜、森から黒い霧が流れ込み、そして“それ”は現れた。
牙のような角を生やし、鋭い鉤爪をもった熊に似た魔獣だ。
まとう空気はとても重く、その咆哮ひとつで家の窓ガラスを震わせるほどだった。
魔獣は村中を駆け回り、人や家を見境なく襲った。村人たちは混乱し、怯え、逃げ惑った。
村で一番多く人が集まることのできる教会には、負傷者が次々と運ばれている。スアはありったけの薬を持ち教会へと走った。だが、いくら薬を塗っても、解毒剤を飲ませても、状態は改善しない。
それは魔が持つ呪い——普通の薬では癒せない、"穢れ"そのものだった。
「薬じゃだめだわ。でも、もう、どうしたらいいのか」
スアは震える手で包帯を巻きながら、何か方法はないものかと考える。その中で一つ思い浮かんだもの……この状況にぴったり合致するもの、それは、祖母の手記に出てきた『夜喰らい濃霧の呪い』だった。
そして、それを抑えることができるのは、魔女の力。
だがそれを使えば、自分が何者であるかが知られてしまう。
魔女。忌まわしき存在。
人々は恐れ、そして、排除する。たとえ、それが育ててくれた村であっても。
村はもう限界だった。魔獣に立ち向かえる者はもういなかった。
魔獣と黒い霧にただ震えることしかできないでいた。
――せめて、応援の討伐隊が来てくれたら。
「あぁ、もうこの村は終わりだ。俺たちも」
「おじさん、そんなこと言わないで。なんとか、何か方法が」
「そんなものあるもんか! こんな現象聞いたこともないし、もう、諦めるしかないんだよ、スアちゃん」
そんなとき、ひときわ大きな咆哮が響き渡った。
直後、ズドンッという地響きが床を揺らした。
「みなさん、大丈夫ですか! いたら声を上げて欲しい」
声が風を裂くように響いた。窓からのぞきみると畑の中央にはひとりの冒険者が立っていた。肩当てを切り裂かれ、剣を持つ手も血に染まっている。その横には今にも消えんとする魔獣が横たわり蒸気を発していた。
「村の住人はここに居ます!」
スアは、教会のドアを開けて叫んだ。
彼は、その声を聞き真っ直ぐに駆けてきた。
「ヴェイル!」
「スア! 無事でよかった!」
思わず胸が熱くなる。来てくれたんだ、王都から。
「魔獣は討伐した。隣村から王都へと戻った商人が教えてくれたんだ。ここに黒い霧が出始めていることを。黒い霧の元には角を持った魔獣ユニベアーが出ることが多いから、急いでやってきた。本当に無事でよかった」
「ありがとう、ヴェイル。でもまだ、霧は晴れていないわ。また魔獣が現れるのかしら」
「この霧は……普通の霧じゃない。夜喰らい濃霧の呪いだ」
「やっぱり……」
スアは、そっと目を伏せる。
「この霧を消滅させるには、聖女が祈るしかない。そう言われている」
「え?」
祖母の手記には、魔女は夜喰らい濃霧の呪いを解けると記してあった。聖女に関してはわからないが、魔女にもできるはずだ。
「そして、今、この国に聖女はいない……」
「うん」
「スア。俺は魔獣を倒すことしかできないけど、なんとかして、この村を守りたいと思ってる」
「うん。ありがとう、ヴェイル」
また、魔獣の咆哮が響き渡った。すぐさまヴェイルが再び剣を構え走り出した。その姿を、スアは唇を噛みながら見ていた。先ほどの戦いで彼はすでに傷だらけだ。肩からは血が滴り、足も少し引きずっている。それでもヴェイルは、逃げない。村を守ろうと、また魔獣に立ち向かおうとしている。
――どうして、そんなに。
黒い霧が再びうねるように渦を巻き、地面を這う。霧の奥から聞こえる、低いうなり声。現れたのは、先ほどと同じ角を持つ魔獣。毛並みの色はやや濃く、爪はさらに鋭く光っていた。
村人たちは建物の影に隠れ、声も出せずに震えている。
スアはその場から一歩も動けなかった。足がすくんでいるのではない。ただ、胸の奥で何かがせめぎ合っていた。
――魔女の力を使えば、この霧を祓えるはず。でも、それは、自分が魔女であることを知られるということ。拒絶されるかもしれない。怖がられるかもしれない。もう、この村で暮らせないかもしれない。なにより、失敗するかもしれない。
不安に駆られたスアの脳裏に浮かんだのは、駆けて行ったヴェイルの背中だった。
「また、笑顔で会いたい」
小さな声だった。でも、自分の心の中で響いたその言葉が、スアの中の迷いを溶かしていく。
恐れてばかりの自分に、終わりを告げたい。
たとえ、拒まれても。
たとえ、誰にも理解されなくても。
「おばあちゃん……私、きっと、できるよね」
首元のペンダントにそっと手を添える。その瞬間、かすかな温もりが胸に届いた。スアは駆け出した。
「ヴェイル! 私、森へ行くわ!」
振り向いたヴェイルが驚いた顔をする。
「何を……!? スア、それは危険だ!」
「大丈夫。信じて!」
もう迷いはなかった。
スアは森の中を走った。。黒い霧がざわめき渦を巻き、彼女の足元に集まりはじめる。それはまるで何かを見透かしたように、確実にスアに反応していた。その黒い霧の大元を目指して、ひたすら走った。その後をヴェイルも追った。
胸元のペンダントが脈打つように熱を帯び、そこから伝わる温かさが、体中に広がっていく。血の流れが早くなる。まるで、遠い記憶が身体の奥底から呼び覚まされるように。
言葉にできない力が、スアの内からあふれ出してくる。
――おばあちゃん、これが魔女の力なの?
人ならざる、けれど人を守るために存在してきた、その力が、スアを内側から包みはじめる。
ヴェイルが驚きのあまり剣を下げた。魔獣すら、霧の奥で動きを止めた。
「なんなんだ、これは……。スアは一体」
スアは静かに目を閉じ、ペンダントを両手で包み込んだ。
霧が反発するように荒れ狂い、まるで空が怒っているかのような轟音が響く。
でも、スアは揺るがなかった。ただただ強く祈った。
霧が晴れるように。村が平和であるように。
スアの手の中のペンダントがまばゆい光を放ち、その光が空へと伸び上がった。
黒い霧が悲鳴のようにうねり、まるで逃げるかのように四方へと散っていく。魔獣が咆哮をあげるが、その身体も霧とともに軋み、崩れはじめていた。
「スア……っ!」
ヴェイルの声が、どこか遠くで聞こえる。けれどスアは、まっすぐ霧の渦を見据えたまま立っていた。
「お願い!」
叫びとともに放たれた最後の光が、霧と共に音もなく消えた。
森に、静けさが戻ってきた。
霧が晴れたあとには、あの魔獣の咆哮も、風のざわめきも消え去り、ただ鳥のさえずりだけが、まるで何事もなかったかのように響いていた。
スアはふらりとその場にしゃがみこんだ。力を使い果たしたようで、体に力が入らない。
「スア!」
ヴェイルが駆け寄り、彼女の体を支える。
「大丈夫か?」
ヴェイルの目に映っていたのは、いつものスアではなかった。伝え聞いたことのある魔女と同じ金色の瞳だった。ヴェイルはその目に少しひるんだ。
「ごめんね。怖いよね。私、魔女だったの。魔女だって知られたら……きっと、誰にも受け入れてもらえないけど、でも、これで村は助かったよね?」
その言葉にヴェイルは眉をひそめ、少し困惑した。
「魔女の力で、あの霧を……? いや、俺は聖女の祈りじゃなきゃ祓えないって聞いて……」
その言葉に、スアは静かに首を振った。
「私も、そう思ってた。でもね、祖母の手記には、魔女が“夜喰らい濃霧の呪い”を祓ったと記されてたの。何度も、誰にも知られずに」
「そんな……」
「たぶんね。呪いを祓うのを魔女が成功すれば、いつしか“聖女”と呼ばれる。だけど、もし失敗すれば“魔女”として恐れられる。結果だけで、呼び名を変えられる」
それは、祖母の手記に書かれていた断片的な言葉と、自分の力の実感と、ヴェイルの言葉、すべてつなげるとそんな風に思えた。
「真実は、いつも都合よく語られる。誰かを崇めるために、誰かを踏みつけて」
ヴェイルは、目を伏せたまま拳を握りしめた。
「俺は、知らなかった。教わってきたことが全部、正しいと思ってた。だけどスア君の言う通りかもしれない。ありがとう、魔女が霧の呪いを祓ったよ。そう正しく伝えていこう」
彼のその言葉に、スアの目が潤む。そしてもう、限界とばかりに倒れ込んだ。ヴェイルはスアの身体を、必死に抱きとめた。
「スア。村へ帰ろう」
ヴェイルの目からこぼれ落ちた涙が、スアの頬に落ちる。
「泣かないで、すぐに元気になるわ。ちょっと疲れただけ。……ヴェイル、貴方意外と泣き虫だったのね」
その言葉に、ヴェイルは思わず笑ってしまう。泣きながら、スアを抱きかかえて、村へと急いだ。
空が晴れ、霧が去った。
あれほど重くのしかかっていた空気は抜け落ち、村の家々には久しぶりに日差しが差し込んでいた。
スアが力を使い果たし、ヴェイルに支えられながらロゾフ薬店へ戻ったころ、人々が教会から姿を現し始めていた。誰もがまだ不安そうに空や周囲を見渡しながらも、確かに生きていた。
「霧が消えた……?」
「魔獣は? もういないのか……?」
「本当に終わったのか」
弱りきっていたはずの負傷者たちの顔色が、ほんのりと血色を取り戻し始めていた。
体にのしかかっていた“穢れ”が、霧と共に確かに薄れていくのを、皆が感じていた。
「みなさん、安心してください。夜喰らい濃霧の呪いはスアが祓ってくれました」
ヴェイルはスアを支えながらそう宣言し、村人たちを驚かせた。
だれということもなく拍手と歓声が起こり、みなが笑顔に変わっていく。
「その金の瞳に白い石のペンダント。スアちゃんは魔女なのかい?」
そう問いかけたのは、いつもスアの薬を買っていた老婆だった。
村人たちが顔を見合わせる。
「魔女って、呪いを使うんだよな?」
「いや、災厄を呼ぶって……」
「村を助けたのに、魔女?」
「魔女なら、スアちゃんがあの黒い霧の原因?」
「いや、祓ってくれたんだろう? どういうことだ?」
言葉の端々に、微かな恐れがにじんでいた。
誰かが、思わず一歩後ろに下がった。
みんなに困惑が広がったが、誰もスアに石を投げたり、罵声を浴びせることはなかった。
スアの手で救われた人々の、その体が、心が、確かに良くなっているから。
「ごめんなさい。今すぐ、今すぐ出ていきますから」
いたたまれず、スアも村人たちから距離をとろうと後ずさった。
「待って……私たち、魔女のこと、ちゃんと知らないのよね」
そのとき、ぽつりと、若い母親が言った。その腕の中では、小さな子どもが穏やかに眠っていた。
「聞いたことはあった。魔女は怖い存在だって、子供の頃から。呪いだの、不吉だの……でも、それって、噂話のようなものでしかないと思わない?」
その言葉に、他の人々も頷いた。
「俺も、正直怖かった。けど……スアちゃんが助けてくれた。体が軽くなってるんだ。感謝してるよ、本当に」
「魔女だろうがなんだろうが……あの霧を祓ってくれたのは、あんただ。スアちゃん、ありがとうな」
「それだけじゃない、いつだってスアちゃんは怪我や病を薬で救ってくれていた」
村人たちはスアに向かい感謝の言葉を重ねていく。
スアはその場に立ち尽くし、涙をこぼした。
「私こそ、みんなに黙っててごめんなさい」
魔女という事実を、スア自身を受け入れてくれる人がいるということが、こんなにも救いになるなんて思っていなかった。
◇❖◇◇❖◇
春の暖かい風が村を撫でていく。魔獣が荒らした畑は整備され、新たな種が植えられていく。村の人々はみな明るい表情だ。
スアは薬草をすり潰しながら、ふと視線を上げる。向こうで荷を運ぶヴェイルの背中が見えた。ヴェイルは村の復興を手伝うために未だ滞在してくれている。
スアが見つめていたことに気づいたのか、彼は振り返り、いつものように穏やかな笑みを向けた。しかし、その笑顔の裏に、何かを隠している気配を感じる。
夕方、スアが薬草棚を整理していると一通の手紙を持ったヴェイルが訪ねてきた。
「王都から知らせが来た。そろそろ王都に戻るよ」
「うん。いろいろありがとう。魔獣討伐だけじゃなくて、復興の手伝いまでしてもらって、本当に助かったわ」
「今回は、国から冒険者ギルドを通じて依頼が来たことにしてくれるらしい。俺が勝手にスアや村を救いたくてやった事なのに」
「本当に感謝してるわ。……じゃあ、もうすぐお別れなのね」
「ああ」
沈黙が二人の間を抜けていく。引き留めるほどの理由もなく、わかっていたはずの別れのときが急に訪れて、口を開けば、余計な言葉が流れていってしまいそうで、スアは視線を落とした。
ヴェイルも、言いかけては黙る。
「……スア」
小さな呼びかけに、スアは顔を上げる。
「スア、一緒に王都へ来てくれないか」
その声には、いつものようなハリは無かった。迷いと懇願が混じったそんな彼の表情は初めて見る。
「もしかして、魔女の力が必要?」
「そう、困っていることがあるんだ……スアの力で助けて欲しい」
ヴェイルは視線を遠くに向けたまま、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと語り出す。
「前に一緒に取りに行った、あの薬草。あれで助かった人もいる。でも……」
言葉を切る。ヴェイルは握りしめた拳を落ち着かせるようにもう片方の手で覆った。
「同じように戦った仲間には、治らなかった者もいる。怪我に薬草は効いても、やつらが放っていた黒い霧……あれを浴びた者には、別のものが残る」
スアは静かに聞いていた。
ヴェイルの言う“それ”が何か、彼女にはわかっていた。
「呪い、ね。——“穢れ”の類」
ヴェイルは軽くうなずいた。
「ああ。俺たちの手じゃどうにもできない。けどスアなら、何かわかるかもしれないと思った」
スアは棚から、古びた手記を取り出す。祖母の記した魔術と薬学の記録──あの時から、ずっと読み解いていたものだ。
「行こう、王都へ。私は薬師で、魔女。役に立てることがきっとあるわ」
そして、ヴェイルの手に自分の手をそっと重ねた。
夜、スアは灯りを落とした部屋の片隅で、ひとり湯気の立つカップを抱えていた。
村の在庫の為の調合はすっかり終わっていたのに、なかなか眠れそうになかった。
静かな闇の中で、耳に残っているのは、彼の声だった。
『一緒に、王都へ来てくれないか』
真剣なまなざし。不安な声色。
それがどんな理由によるものか、即座に想像できた。
スアは膝を抱えたまま、小さく息を吐く。
「……ばかみたい」
自分でも驚くくらい、期待してたのかもしれない。
もっと、違う意味があるんじゃないかって。
目を閉じると、ふいにヴェイルの背中が浮かんだ。
しっかりとしていて、でもどこか不器用で、まっすぐで。
「……本当に、ばかね」
小さく吐いた息と共に、カップの温もりがわずかに揺れる。
飲み終わったそれをそっとテーブルに置いて、ベッドにもぐりこんだ。
◇❖◇◇❖◇
翌朝、村に淡い朝靄が漂うなか、スアは小さな荷物を背負い店の前に立っていた。薬草や道具、祖母の手記。そしてその手記に記されていた場所に隠されていた、拳ほどの石。必要なものはすべて詰め込んだ。けれど、それでも足りない気がして、彼女は何度も荷を見直していた。
ヴェイルが馬に乗って迎えに来た。いよいよ王都に向けて出発をする。
――正直に言えば、まだ不安がある。なんせ、私はまだ自覚したばかりの魔女。そんな私に本当に出来ることがあるのだろうか。
ヴェイルが手綱を軽く引いて馬を止めると、スアをちらりと見た。
「先に乗ってくれ、支えるから」
スアは一瞬ためらったが、ひょいっと軽やかに持ち上げられて、思わず「きゃっ」と声が漏れる。
鞍の上に落ち着くと、彼女はちょっとだけ頬を赤らめた。
「……意外と、力持ちなのね」
「これでも冒険者だからな」
軽く笑ってから、ヴェイルも馬にまたがり、スアの前に位置を取った。
すぐそこにある背中。揺れ出した馬の動きに、スアは自然と彼の腰に手を添えた。
「落ちるなよ」
「だ、だいじょうぶよ」
そう言いながらも、ヴェイルの体温がじんわり伝わってきて、スアの心臓はほんの少し早くなっていた。
熱くなった頬を隠すように、そっと彼の背中に額を預ける。
「しばらく揺られるんでしょ? だったら、ちょっとくらい楽してもいいでしょ」
ヴェイルは小さく「好きにしろよ」とだけ返して、馬の歩みを進めていった。
背後に広がる村の風景が、少しずつ小さくなっていく。
風が、スアの髪をさらっていく。まるで、大丈夫だよとその背中をそっと押すように。
◇❖◇◇❖◇
王都の手前の街で一泊し、翌日のお昼には王都に到着した。
王都は、村とは比べものにならないほど栄えていた。人の波、立ちのぼる煙、石畳に響く馬車の車輪の音。街道に並ぶ色とりどりの店の看板。
スアは初めて見る景色はどれも華やかで活気に満ちていた。
「想像していたよりもすごい」
「悪い。本当は案内してやりたいんだが……」
「大丈夫よ。落ち着いたら、観光させてもらうから」
「あぁ、そうだな」
スアは彼の腕を取り、強く引いた。
「よし!そうと決まれば、医療塔に行こう。まずは、仲間の様子を見せて」
王都の外れ、ふたりは石造りの医療塔へと入る。中は静かで、薬の匂いが漂っていた。案内された部屋の扉が開かれた瞬間、スアの肌が総毛立った。
「……濃い、“穢れ”だわ」
部屋の奥、ベッドに横たわる若い男。肌は青白く、腕には紫色の斑がいくつも浮かび上がっていた。うわごとのように何かをつぶやいている。
彼の気配は、人ではない“何か”に近づいていた。
村の人がかかっていた穢れよりももっと濃く深い。
「討伐から戻った後、急に崩れたんです。魔獣の傷はもう癒えているのに、このままだと腕が……体が……腐っていくんじゃないかって」
付き添いの男性が言う声は震えていた。普通の医術ではどうにもできないと言われたという。スアは祖母の手記を取り出し、慎重にページをめくった。
「人間の体内に深く入り込んでしまった穢れの浄化には、魔女の祈りとエラノブリス草薬、それから“つなぐ者”。すなわち、助けたいという思いを持つ者が必要……」
スアは静かに息を吸った。
魔女の祈りとは、言葉ではない。魂の深層で響く“意志”のかたち。
それは、魔女ではない人の思いも同じ。
「彼を助けたいという強い思いが必要です。一緒に祈ってください」
周りの人に声を掛けると付き添っていた男性がベッドのそばに膝をついた。
スアはペンダントを握りしめたあと、指先に薬草の液体をのせ、ベッド寝横たわる患者の一番穢れの濃い部分へと触れた。
「どうか、戻ってきて。あなたは、まだここにいる。目覚めを待ってる人がいる」
身体の奥底から呼び覚まされるような温かな力がスアの中を巡る。
あの黒い霧を前にした時と同じ感覚。大丈夫。できる。スアは一層強く祈った。
次の瞬間、部屋の空気が一変し、男性から煙のように黒い気配が立ち上がり、それをスアの祈りがゆっくりと押しだしていく。
「……霧が、黒い霧が」
一緒に祈っていた男性が思わずつぶやく声。
やがて、患者の肩がゆっくりと上下する。その口からしわがれた声が漏れた。
「……俺、すごく悪い夢を見てた。でも光が俺を拾い上げてくれて」
スアは額の汗をぬぐいながら、ほっと息を吐いた。
「良かった……」
「スア、来てくれてありがとう。すごい、すごいよスアは」
興奮したヴェイルが思わずといった具合にスアを抱きしめる。
女性として求められての行為ではないとわかっているけど、男性に抱きしめられたことなどないスアは、行き場のない手をわたわたとさまよわせた。
その後、他の部屋も同様に回り、三日後、ようやく医療塔のすべての患者の穢れを取り払うことができた。
◇❖◇◇❖◇
「はーい、いらっしゃい!」
「お嬢さん、寄っていきなよ!」
王都の中心部にある大きな市場。総菜や野菜などの食べ物はもちろん、薬草、香水、衣類など、さまざまな露店や小さな店が並び、観光客や地元の人でにぎわっている。
頼まれていた医療塔での治療を終えたスアは、ヴェイルの案内で王都の街を歩いていた。
スアは目を輝かせながら、露店の間を歩いていく。
「わあ……これ、本物の火トカゲのうろこ?」
薬師としての性分がうずくのか、自然と素材に目がいってしまう。特に生物由来の素材は、村ではなかなか手に入らない貴重品だ。市場の片隅に並ぶ乾燥薬材に、スアは鼻を近づけて香りを確かめたり、そっと指先で感触を探ったりしていた。
その様子を見ながら、ヴェイルはやれやれと肩をすくめる。
「観光っていうか、仕入れじゃん、それ」
「いいものはどこに転がってるか分からないものよ?」
そんなやりとりを交わしながら歩いていると、ヴェイルがふと立ち止まった。
「スア」
「ん?」
「何か、欲しいものある?」
突然の提案にスアは目を目を瞬かせた。
「急にどうしたの?」
「いろいろ助けてもらったお礼、ちゃんとしてなかったからさ。なんでもいいよ」
「なんでも……って、お代はいつもちゃんともらってるわ」
「それでも、気持ちとしてさ」
スアは少しだけ考えたあと、にこっと笑って指をさす。
「うーん、じゃあ。あそこの屋台のガレット!」
「そんなものでいいのか?」
「うん」
二人で巻かれたガレットを手に、歩きながらそれを頬張る。
途中、スアはふとある露店の前で足を止めた。そこには、小さなおまじないが施されたガラス細工のアクセサリーがずらりと並んでいる。
赤い小瓶のネックレス、白羽根のイヤリング、若葉のブレスレット。その中から、スアは空色と淡いピンクの石が組み合わされ、若葉のモチーフがついた可憐なブレスレットを手に取った。
「かわいい。これください!」
「じゃあ、それで」
ヴェイルはさっと店主に硬貨を渡し、手際よくブレスレットを包んでもらう。
「ヴェイル! お礼はさっきもらったわ」
「でも、これは俺が“スアに似合う”って思って、プレゼントしたかったんだ」
スアは少しだけ頬を染めて、それを受け取った。
◇❖◇◇❖◇
夕暮れの王都は、まるで金色の海だった。
街を包む屋根瓦が夕陽に照らされ、遠くの尖塔までもがかすかに光を帯びている。
スアは思わず声を漏らした。
「……すごい。こんな場所、あるんだ。」
時計塔の最上階。
そこは観光案内にも載っていない、王都の“とっておき”の景色を望める場所だった。
ヴェイルは、塔の壁にもたれながら肩をすくめる。
「昔から、ここの景色が好きでさ。落ち込んだときとか、よく来てた」
風が吹き抜け、ふたりの間の空気がやわらかく揺れる。スアは手すりに寄りかかり、王都を見渡した。
「ヴェイルの秘密の場所って感じ、ちょっと得した気分」
そう言うと、ヴェイルは小さく笑った。でもその笑みには、どこか翳りがあった。
「この景色を、もう一度ちゃんと見たかったんだ」
その言葉に、スアはふと視線を向けた。
ヴェイルの横顔は穏やかで、それでいて遠いところを見ているようだった。
「え、なに? なんでもう見れないみたいなこと言ってるの?」
スアの声に、ヴェイルはゆっくりと目を閉じた。
そして開いた瞳には、明らかに異質な光——空色の奥に、微かに揺れる“紫”が宿っていた。
「ヴェイル、その目……」
「……俺さ、魔石に侵されてるんだ。」
その一言で、空気が一変した。
夕暮れの柔らかな光の中、スアは息を呑む。
「冗談……でしょ?」
ヴェイルは黙って、右腕の袖をたくしあげる。
そこには、血管に沿って浮かぶ黒紫の痕。魔石の侵蝕の証だった。
「もう長くはもたないって、医者にも言われた。
でも、おかしいよな……
ほんとはもっと、時間があるって思ってた。
まだ、やりたいことだって――」
言葉が途切れた。
沈黙の中、ただ時計塔の鐘が時を告げるように、低く響いた。
言いかけた瞬間、ヴェイルは胸元を押さえ、膝をついた。
その服の下──胸の中央に、脈打つような紫色の光が、皮膚越しに浮かび上がっていた。
ヴェイルの胸に浮かび上がった紫の光。それは、まるで心臓の鼓動に合わせて脈打っていた。スアが恐る恐る手を伸ばし、シャツをまくり上げると禍々しい黒い班が胸を覆っていた。
ヴェイルはそれを止めず、ただうつむいたまま静かに言った。
「俺の中に魔石が埋まっている。たぶん、魔獣と戦い続けてるうちに黒い霧を浴びすぎて、体の奥まで侵されてたんだろうな。気づいたときには、もう……スア、俺のことはいいんだ」
「魔石……穢れなんかじゃない魔獣の力を封じた、魔力の結晶」
スアは祖母の手記を開き、震える指でページをめくる。
そこに、記された一文を私はもう知っている。
──“魔石に侵された者を救うには、魔女の祈りと、魔女の血を含ませた封魂石、エラノブリス草の根液を魔石の埋まっている場所に塗り付ける。そしてそれらが魔石を溶かす”
スアは顔を上げ、ヴェイルを見つめた。
「私、やってみる。あなたの中にあるこの異物を、私の手で溶かす」
ヴェイルは厳しい表情を浮かべた。
「危ないかもしれないぞ。俺ごと砕けるかもしれない」
「それでも、やらないわけにはいかない。後悔したくないの」
その言葉に、ヴェイルの瞳が一瞬揺れた。
震える手ではスアの手を握ることさえできないけれど、その命の鼓動が、彼女に確かな勇気を与えていた。
スアは鞄から石を取り出す。
祖母が大切に隠し持っていた、拳ほどの石。封魂石——きっと、これだ。
指の腹を、軽く噛んだ。ひとすじ、血が滲む。
その血を封魂石に垂らすと、石の中心がふわりと光を帯び、脈動するように震え始めた。
エラノブリス草の根液をヴェイルの胸に塗り広げると、スアはそっと目を閉じ、両の掌に封魂石を重ねた。
その手が、ヴェイルの胸元に触れる。
――どうか、魂が、ここに留まりますように。
――どうか、この人が、明日も笑えますように。
声には出さない祈り。
けれどその想いは、スアの全身からにじみ出て、まるで空気ごと震わせるように周囲に広がっていく。
風が止む。
鳥のさえずりも、街のざわめきも、すべてが遠ざかっていく。
まるで世界が、その一瞬だけ息を潜めたかのようだった。
どのくらいの時間が経っただろう、スアはひたすら祈りを続けた。
そして――
ゴォォォン……ゴォォォン……
鐘の音が、塔の中に鳴り響いた。
その音を合図のように、封魂石の輝きがふっと消えた。
静寂を切り裂くように、ヴェイルの身体が小さく震える。
「……っ、あ……」
掠れた声が、確かにその喉から漏れた。
スアはぱっと顔を上げる。
ヴェイルのまぶたがゆっくりと開かれ、目の奥にふたたび空色の光が宿る。
「スア……? 胸が軽くなってる」
その一言に、彼女は堪えきれず、膝をついたまま、静かに涙をこぼした。
「……よかった……! 本当に……」
ヴェイルはしばらく何も言わず、ただ彼女を見つめていた。
やがて、絞り出すように、言った。
「スア。俺……おまえが好きだ」
その言葉が落ちた瞬間、スアの胸に熱いものがこみ上げた。
どうしてこの人は、こんなタイミングで、大事なことを言うのか。
「……遅いよ。私も、とっくにそうだったのに」
笑って、スアは彼に額を預けた。ふたりの間を風が優しく撫で静かに空へと昇っていった。
夜の風がふたりを包む。
鐘の音が鳴り響くなか、スアの祈りは確かに命を繋いだ。
◇❖◇◇❖◇
王都の朝は、昨日よりも少しだけ暖かかった。
宿屋の前、スアは鞄を背負いながら振り返る。扉のそばには、まだ少し顔色の悪いヴェイルが立っていた。
「無理しないでって言ったのに」
「見送りくらいさせろよ」
そう言って、ヴェイルは小さく笑う。その瞳はもう、あの日のように紫に濁っていない。空の色を映したような、やさしい青。
ふたりの距離は、あと一歩ぶん。
スアは、少しだけためらって、けれどそのまま近づいて、ヴェイルの胸元に額をそっと預けた。
「私ね、あのとき、本当に怖かった」
「……うん」
「ヴェイルを救えて、本当に良かった。王都に来てよかった」
ヴェイルの手が、おずおずとスアの背中に触れる。
「あの夜、名前を呼んでもらったとき……本当に、生きたいって思った、スアと」
ふたりはしばらく、言葉もなくそこにいた。
王都の朝は静かで、どこか遠くで鐘の音が一度だけ、小さく鳴った。
スアが顔を上げると、ヴェイルは目を細めて言った。
「また、会えるからな」
スアはふふっと笑い、鞄を背負い直した。
彼女は歩き出す。
ヴェイルはその後ろ姿に、いつまでも手を振っていた。
振り返らなかったのは、たぶん、泣きそうだったから。
だけどふたりとも、知っている。
あの穏やかな村でまた会えることを。