入学式〈迷子の白雪〉①
今回、視点と場面が変わります。
――さて困った、どうしよう。
お手洗いからの帰り道、見慣れない廊下の風景に、白雪は小首を傾げて立ち止まった。
どうやら迷子になったらしいことは察しがつくけれど、困っているのは迷子そのものではなく、これによって入学式に遅れ、〝お継母様〟と逢えるかもしれないチャンスを逃す方である。可及的速やかに教室まで戻る必要があるけれど、並ぶ教室群に見覚えはない。
(まぁ、でも良いわ)
いくら迷子になるほど広いとはいえ、ここは所詮、ただの高校校舎だ。闇雲にでも歩き回っていれば、いつか誰かと会うだろうし、万一会えずとも非常ベルが点在しているから、誰にも見つけ出されず餓死するなんて危険もない。これくらい、問題のうちにも入るまい。
(そうね。もう少し歩いてみて、誰とも会えなかったら、非常ベルを押しましょうか)
入学早々傍迷惑な新入生になってしまうが、入学式へ出向けず、〝お継母様〟を見逃す方が大事である。――白雪にとって、〝飯母田つむぎ〟と名乗った彼女との再会は、死に向かって歩くばかりだった人生に突如訪れた僥倖、そのものなのだから。
(まさか、お継母様が〝この世界〟にいてくださったなんて。わたくしのことは覚えていらっしゃらないようだけれど、そんなことはどうでも良いわ。お継母様と再び同じ〝空〟の下にいる、これ以上の幸福なんてないもの)
――後悔しかない人生だった。己を真に大切にし、守り慈しんでくれたひとの心と生を踏み躙り、己を利用することしか考えていない愚か者たちの手を取って、それこそが正義だと信じ切っていた。
その欺瞞が白日の元に曝され、己を唯一愛してくれたひとの〝真実〟に辿り着いたときは――……もう、全てが手遅れで。罪を悔いて償おうにも、償える相手すらいない絶望に、何度心を折られただろう。
その〝記憶〟を総て宿して生まれ直したところで、あのひとが居ない生に、命に、意味など一つも見出せなかった。
……なんの因果か、〝前世〟とよく似た名前を与えられ、〝前世〟と通じる家庭環境で過ごしてはきたけれど。どうせ〝前世〟をなぞるなら、もう一度あのひとを〝お継母様〟と呼ばせてくれたら良いのにと、奇跡を星に願い続けた。
(その願いが、星へ、届くことはなかったけれど)
たった一つの願いも叶わぬと、惰性で生きてきたある日、藪から棒に告げられた、「高校は宝来学園へ通うように」という父の命。たまに娘が居たことを思い出し、たまに父親として振る舞おうとする彼の気まぐれにより、白雪は幼い頃より慣れ親しんだ学び舎を離れ、この宝来学園の門を潜ったのである。
(〝今世〟の父は、たまにわたくしを思い出して余計なことをする人、という印象だったけれど、改めねばね。彼が気まぐれに宝来学園入学を決めてくれたから、わたくしはこうして、お継母様と再び、巡り逢えたのだから)
あくまでも結果論ではあるが、今の白雪は〝お継母様〟と巡り逢えた僥倖だけで、この世総てを祝福しても良いくらいの心地であった。
今なら、どれほど憎い相手であっても、笑顔で受け入れてしまえそうなほど――、
「――そこで何をしている」
……訂正しよう。どれほど幸せでも、自分の心はそこまで広くないらしい。
背後から聞こえてきた、つい先ほど〝憎たらしい奴〟認定した人物の声に、白雪は絶対零度の表情で振り返った。
「少し、道に迷ってしまっただけですわ。不案内な新入生が校舎を歩いているだけで、そのように責めた色の声を掛けられるほど不寛容なのですか、こちらの宝来学園とやらは?」
「ハッ。新入生である以前に、入学式の受付も済ませないうちから在校生に絡みに行くヤバい奴だからな、お前は。要注意人物が一人でウロウロしてたら、警戒するのは当たり前だろ」
「まぁ、失礼な。あのときのわたくしは、〝懐かしい知り合いに似た方を見かけて、人違いで親愛の情を向けてしまった〟だけでしょう? 要注意人物に認定されるほどのこととは思えませんわ」
「あーあー、そうだな。お優しいつむのお陰でそういうことにはなったが。――事実は違うだろうが」
「……ふふっ。『飯母田つむぎ』様、でしたわね、〝今世〟のお継母様のお名前は」
悪びれなく笑う白雪に、目の前の男――『風紀』の腕章をつけ、鳶色の髪に黒曜石の瞳をした、〝前世〟と容姿こそ変われど醸し出す気配は何一つ変わらない、彼は。
「『姫川白雪』だったな、〝今世〟のお前は。まさか『ブランシュネイル』まで、生まれ変わっているとは思わなかったが」
最後の〝あの瞬間〟と同じ、怒りと憎悪に満ちた眼差しで、白雪を射抜いてくる。
〝お継母様〟への情は底知れずとも、男のことは〝前世〟から大嫌いだった白雪は、その眼差しを鼻で笑って対峙した。
「同じ言葉を、お返ししますわ。〝前世〟でも、あなたがお継母様へ向けていた情の重さには、思い返すだに辟易したものですけれど。まさか、時空を越えて生まれ直してもなお、お傍を譲られないとは」
「情の重さを察していたなら、俺が〝彼女〟の傍を誰にも渡さないことも、同じく察せそうなもんだけどな」
「……〝前世〟のあなたは、神懸かった弓矢の腕こそあれど、あくまでも魔力を持たない〝只人〟であったでしょう。このような事象に、〝前世〟のあなたの魂が耐えられたとは思えません」
「そこは、まぁ。俺にも〝魔術師〟のツテの一つや二つ、あったってことだ」
「要するに、そうまでして、お継母様のお傍を離れたくなかったと」
「何か悪いか?」
開き直りも甚だしい男の言葉に、白雪ははっきり、軽蔑と呆れを表情に乗せて。
「あなたはわたくしを要注意人物呼ばわりなさいますが、〝前世〟での振る舞いについて思い返すべきはあなたの方ですわ。お継母様のお隣に、あなたのような危険人物を置くなど、とんでもないことです」
「よく言うぜ。――〝前世〟で俺を危険人物にした、その張本人が」
「……っ」
言外に〝あの日〟を当て擦られ、白雪の表情はぐしゃりと歪む。
そう。どれだけ目の前の男が気に食わなかろうと、〝それ〟だけは、正しい。
――〝前世〟の悲劇の全ては、何も知らない愚かな小娘だった己が、引き起こしたことだ。
「……そこで黙るってことは、お前、〝あれ〟から、それなりにきちんと〝あの世界〟と向き合ったんだな」
言葉を失い、視線を落とした白雪に、静かな声が降ってくる。
「……ご存知では、ありませんでしたの」
「〝彼女〟が居なくなった〝あの世界〟に、〝あれ〟以上留まる意味はなかったからな」
「そう。どうりで、いくら探しても見つからないはずですわね」
「俺を探した? 何故?」
「……〝世界〟の〝真実〟が見えれば見えるほど、お継母様が何をして来られたのか、何のためにあのようなことをなさったのか、予想がついて。でも、その予想が正しいのか、間違っているのか――分かる方はもう、あなたの他に思いつきませんでしたから」
「正しいも間違いもないだろ。〝あの世界〟のクソッタレな真実が見えたなら、ルルの……〝彼女〟のことだって、同じように見えたはずだ」
「……えぇ。そうなのだろうな、とあるとき気付きましたわ。だから、あなたはもう、あの国にも、〝あの世界〟にも、用は無くなったのだろうとも」
崩れ落ちそうな膝を、気合いで伸ばす。……気付いたときには全てが手遅れで、残ったものはただ、貰った愛を踏み躙り続けた愚かな己と、踏み躙られてもなお愛を捧げてくれたひとへの思慕。〝彼女〟を愛する者たちから呪いのように託された〝世界〟を、この先死ぬまでたった独りで背負っていかねばならないのだと、それだけが己に許された〝贖罪〟なのだと、人知れず突きつけられた日の夜闇を、白雪は今でも克明に覚えていた。
少しでも気を抜けば、あの日の夜闇が迫ってくるようで……ぎゅっと目を閉じた、白雪に。
「……言っておくが、〝彼女〟――ルルが死んでから俺がしたことは全て、完全な俺の独断だ。誰に頼まれたわけでも、命じられたわけでもない」
静かな、落ち着いた声が、注がれる。