4月20日〈ルート共通イベント〉②
幸い、白雪の小さな声は、周囲の野次馬たちの悲鳴にも近いざわつきが一斉に上がったことでかき消される。
「大浴場が水浸し!?」
「待って。長岡さん、脱衣所も水浸しって言ってなかった?」
「脱衣所まで水が来てるってことは、下手すると体重計とかドライヤーとか壊れてるかも……」
「えー? それじゃ今日、大浴場使えないってこと!?」
「ちょっと許せないんだけど……」
この瞬間、単なる物見遊山状態だった野次馬たちが、明確な怒りと敵意を白雪へ向けた。周囲の空気を肌感だけで察しつつ、白雪の頭は高速で回転し出す。
(昨晩の〝最後〟は、少なくともわたくしではないわ。わたくしが出たとき、大浴場にはつむぎさんが残っていたもの。いえ、仮につむぎさんが最後だったとしても、〝お継母様〟が規則を破るような真似はなさらないと断言できるけれど)
つむぎが最後である限り、浴槽蛇口が全開になったまま放置されるなんてことはあり得ない。つまり犯人は、白雪が大浴場から出た後やって来た第三者だ。白雪が部屋へ戻ったとき、時計の針は22時半を少し過ぎていた程度だったので、ギリギリ滑り込みで入浴するのは充分可能なはず。
(とにかくまず、わたくしが最後だと彼女が言い切る根拠を聞かなければ)
ここで下手につむぎの名を出せば、彼女へいらぬ嫌疑をかけてしまう。つむぎでないことは確定しているのだから、あくまで論理的に話し、白雪ではないことを分かってもらうべきだろう。
僅かな時間で方針を定め、素早く言葉を組み立てて、白雪は正面の長岡と視線を合わせた。
「身に覚えがないことは大前提として申し上げますが、一つ、お聞かせくださいませ。――何故、わたくしが昨晩の〝最後〟だと断言できるのです? 昨晩の入浴が遅めであったことは否定しませんが、それでも入浴を終えて居室へ戻ったとき、まだ時間は22時30分を少し回った程度でした。そこから別の方がご入浴された可能性は、決して低くないでしょう?」
「先ほども、申し上げましたでしょう? あなたが最後だという、きちんとした物的証拠があるのです」
「……証拠?」
そういえば、そんなことを言っていたが……入浴が最後だと分かる物的証拠とは何なのか。
白雪が眉根を寄せたところで、談話室の入り口の空気がざわりと揺れた。次の瞬間人垣が分かれ、数名の生徒が一直線にこちらへ歩いてくるのが見える。白雪の座った位置が、談話室正面扉の真ん前だったため、見たくなくとも見えたが正しい、か。
白雪を睨んでいた長岡が振り返り、口元に微笑みを浮かべて一礼した。
「守山先輩、三条先輩。お待ちしておりました」
「……随分人目のあるところで話を聞いているのね、長岡さん」
「姫川さんの責であることは疑う余地がありませんから。反省を促す意味も込め、開かれた場所で話すべきと判断しました」
「そう」
表情に乏しいショートカットの美少女は、入寮式でも紹介されていた、風紀委員の女子代表の三年生、守山だ。背が低く、童顔系美少女なのもあってぱっと見は可愛らしく見えるけれど、いついかなるときも動かない顔面と機械のような話口調には独特な迫力があり、自然と従ってしまう強さを秘めている。守山と並んでやって来た三条は生徒会副会長で、こちらも女子寮代表である。
彼女たちの背後に数人続く面々も、風紀委員か生徒会メンバーであろう。ノートパソコンをはじめ、細々した電子機器を手に持っており、守山と三条が白雪の正面ソファーへ腰掛けるのに合わせ、手早くそれらをローテーブルの上に設置していった。
――機材の準備が整ったところで、三条が口を開く。
「一年A組の、姫川白雪さん、だったわね?」
「はい、三条先輩」
「大まかな状況については聞いたかしら?」
「大浴場の水槽蛇口が全開になっており、それが原因で大浴場のみならず、脱衣所まで水浸しになっていた件なら、先ほどお伺いしましたわ」
「えぇ。先ほど、そちらの守山さんと一緒に確認したのだけれど、漏水や床の状態の確認、機材の安全などを確認するのに、少なくとも三日はかかるみたい。その間、大浴場が使えないとなると、困る人が大勢出てくるのは分かる?」
「もちろん、想像できます。部屋風呂もあるとはいえ、大浴場の利便性の高さに助けられている方々は多いでしょうから」
浴槽のお湯は電子制御で入浴時間の間一定の温度に保たれ、シャワーも蛇口を撚ればすぐにお湯が出てくる。一般家庭と同じ給湯システムの部屋風呂ではそうもいかず、「さっと入りたい」という欲求に応えてくれる大浴場の人気は根強い。
三条の言葉に否定すべき要素はなかったため、丁寧に頷いて。そこから改めて、白雪は自身の潔白を訴えていく。
「しかしながら三条先輩、わたくしには蛇口を開いた記憶がないのです。長岡先輩はわたくしが最後だと、証拠もあると仰いますが、覚えている限り、入浴を終えて自室へ戻ったのは22時半過ぎでした。消灯までまだ30分ほどある時間帯に上がった人間を〝最後〟と決めつけるのは、いささか早計だと思うのですが」
「そうね。姫川さんの真面目さは評判だし、私も疑いたくはないわ。……でも、ね」
そこで一度言葉を切り、三条は隣の守山へ視線を流す。
バトンを受けた守山は、それまでずっとノートパソコンで何やら操作をしていたのだが、目当てのデータを開いたらしく、画面をこちらへ向けてきた。
「姫川さん。……これを見て」
守山が示した画面に映っていたのは、天井付近から廊下を撮影した映像の静止画で――。
「これ、は、わたくし……が、大浴場を出てすぐの廊下を歩いているところ、ですか?」
「うん。もう少し先へ進んだら、テラスへ出られるガラス戸がある、その廊下。大浴場を出入りする人間が必ず通るこの廊下には、安全のために防犯カメラが設置されてるの。……知ってた?」
「いいえ。今、初めてお伺いしました、けれど……」
〝防犯カメラ〟の単語を聞き、一気に嫌な予感が背筋を登ってくる。長岡が自信満々に言っていた〝証拠〟がこの映像のことだとすると、もしや――。
「この時間表記の部分を見て。〝22時31分〟……この時間にあなたが廊下を通ってから、さっき、長岡の掃除班が掃除に訪れるまで、この廊下を通った人間は、ゼロ。つまり、あなたが昨晩の〝最後〟だったってことなんだよ」
「そ、んな……」
そんなはずは、ない。だとしたら、あのとき大浴場で会ったつむぎは、白雪の願望が見せた幻だったとでもいうのか。敬愛するつむぎは完全無欠だと信じていた白雪に「四教科の実技成績は下から数えた方が早い」と教えてくれた彼女が、生身でなかったなんてあり得ないのに。
目を見開いて驚きを雄弁に知らせる白雪に何を感じたか、守山は少しだけ長く息を吐いて。
「姫川さんが真面目な生徒だということは、私も方々から聞き及んでいるわ。けれど、防犯カメラの映像という、動かぬ証拠がここにあるの」
「それは、そう、ですが」
「もちろん、姫川さんが入浴するため大浴場を訪れた映像もある。その頃にはまだ、あなた以外にもこの廊下を通っていた人はいたけれど。その人たちはみんな〝帰る〟方向に歩いていて、あなたの後に大浴場を訪れた人も居ないのよ」
「そんなわけ!!」
白雪の記憶と〝物的証拠〟の食い違いに混乱し、冷静な判断が難しくなっていくのが分かる。ここが〝前世〟なら、都合の良い〝お継母様〟との記憶を敵方から植え付けられたのかと疑わねばならない場面だ。
けれど。この〝世界〟に生まれ落ちてこれまで、生まれ変わった知り合いたちと遭遇しこそしても、魔術的な要素を感じたことはない。〝今世〟が魔法を使える世界でないことは、小人たちの生まれ変わりである彼らとも確認している。
(でも、それならどうして。つむぎさんと大浴場で会ったことは、こんなにもはっきり覚えているのに)
それでも、つむぎの名は出せない。記憶こそなくても、その身一つで一つの〝世界〟を救った偉人の魂を宿して生まれたひとなのだ。彼女に限って、こんな凡ミス、あり得ないのだから。




