4月19日〈ルート共通イベント・幕前?〉②
人それぞれできないことはあって当たり前で、できないことで困ることがあれば誰かの手を借りれば良いと、きっとつむぎはごく普通に考えているのだろう。
それはとてもシンプルで正しい考え方で――同時に自分たちが生きるこの〝世界〟では大いなる〝弱点〟でしかないことを、〝前〟も〝今〟もどうやら血統書付らしい白雪は、よく知っていた。
「……自身の不得手をどなたかに肩代わりして頂く、という手段が、認められていないわけではありません。ですがそれは、家の〝格〟が上がれば上がるほど、暗黙のうちに〝恥〟と見做されるのですわ。あそこの女主人は、あれほどの家に嫁いだ身にも拘らず、この程度のことすらこなせない〝無能〟であると、そうレッテルを貼られるのです」
「あぁ……そういう〝あれ〟か」
「そういう〝あれ〟です。ですから、百合園の先生方からは、〝外注〟する場合はくれぐれも慎重に、決して外へは漏れぬよう細心の注意を払うように、と重々しく忠告頂きました。〝外注〟の真実を知るのは己と〝外注先〟のみで、夫すら妻が全てこなしていると疑いすらしない状態が理想であると」
「……たかが礼状の代筆一つでそこまで重苦しく考えることもないだろうに」
「つむぎさんのお立場が、『飯母田製菓』の経営者であれば、そのお考えが正解ですわ。――しかしながら、もしもつむぎさんが格上のお家へ嫁がれることになったら、そのお考えはたちまち、御身を危険に晒します」
「上流階級の不文律、というやつだね。――聞けば聞くほど、私には不向きな世界だな」
肩を竦めるつむぎに気負いはなく、自身がまさしく上流階級の一員であるという自覚はなさそうだ。つむぎと再会してから、〝彼女〟の〝今〟を知るべく表に出ている『飯母田製菓』と飯母田家については調べ尽くしたが、昔はともかく今の彼女はれっきとした一流企業の社長令嬢だろうに。
「つむぎさんは、どこかのお家へ嫁いで奥をまとめるご予定などありませんの?」
「もし万一そんなモノがあったら、宝来じゃなくてそれこそ百合園に入ってたよ。中学までは地域の公立校で普通の中学生をしていたからね、上流階級のお家へ嫁ぐ予定なんかあったら、百合園レベルの学校で扱いてもらわないと、花嫁修行が間に合わない」
「……お筆が言うことを聞いてくれないのでしたっけ?」
「聞いてくれないねぇ。今に始まった話じゃないけど。小学校の図工の授業で初めて絵の具を使ったときから今まで、筆が私の思う通りに動いた試しなんか一度もないよ」
「それは……百合園でも相当なスパルタコースへ直行ですわね」
「だと思う。むしろ、高等部の三年間で矯正されるのか不安だ」
「留年という名の大学部進学……前例がないわけではありません」
「なるほど。七年かければ人並みに……なるかな?」
どうやらつむぎは、己の不器用をすっかり諦め、そういうものだと受け入れているらしい。あっけらかんと笑い、湯の中で伸びをした。
「私は両親にとって、たった一人の子どもだからね。母はそれほど身体が丈夫な方じゃなかったみたいで、私が生まれたとき、二人目の妊娠は難しいとお医者様から告げられていたらしい。必然的に飯母田の家を継ぐのも私だから、〝他家へ嫁ぐ〟って選択肢そのものが存在しないんだ。だから、家がこうして上流階級の仲間入りを果たしても、百合園へ進学するという発想は浮かばなかったな」
「確かに。そういうご事情であれば、百合園よりも宝来ですわね」
「実家が小さな和菓子屋のままだったなら、宝来にすら入ることはなく普通に大学まで卒業し、いずれ歳の近い、将来有望な和菓子職人と見合いでもして結婚し、店を継いだだろう。紆余曲折あって、そこそこな規模の会社の社長令嬢にはなったが、そうなったらなったで、ある程度の社会経験を積んだ後、父から地位を譲られて取締役社長になるだけだ」
「えぇと、会社を継がれた場合、ご結婚などは……」
「女が社長で家長でもグダグダ言わない、外で仕事をしても問題はないが飯母田の不利益になることはしない、家政全て外注でも問題ない男であれば、結婚するのに不都合はないが。家が和菓子屋のままなら、家長が和菓子を作れないなど問題外だし、婿取り必須だったけれど、『飯母田製菓』の社長業に夫は取り立てて必要ないからなぁ……ま、優先順位は低いか」
「わぁ。割り切っていらっしゃいますね」
「子どもを産みたいとは思っているぞ? 曲がりなりにも〝飯母田〟は江戸の頃から血族で和菓子屋を営んできた家だからな。家と血を後世へ繋ぐ使命感くらいは持っている」
「それは……結構な大事では?」
「まぁ、大事は大事なんだが。一昔前と違って、今は未婚の母でもそううるさくは言われないし。いざとなれば、優秀な男の種だけ貰って体外受精し、子どもを産むこともできなくはないから、〝結婚〟にそれほど重きを置いていないんだ」
「本当に、スッパリと、割り切っておいでですのね……」
白雪の本音をぶっちゃければ、つむぎには是非とも、今のスタンスを維持し続けて欲しいところだ。この世の何よりも尊い存在であるつむぎとどこぞの馬の骨が結婚し、馬の骨が彼女のダンナ面する未来など、気に食わないことこの上ない。そもそも、これほど優秀で有能なつむぎが、三歩下がって夫を立てることを美徳とする上流階級の奥様コミュニティに閉じ込められるなど、全世界の損失に他ならないではないか。
うん、と大きく頷き、白雪は満面の笑みを浮かべる。
「良いと思いますわ。最近は、女社長もありふれた存在ですもの。未婚のまま、父親を明かしていない子を育てている有名人だって多くいらっしゃいます。つむぎさんはつむぎさんのやりたいようになさるのが一番かと」
「ありがとう。白雪さんにそう言ってもらえると嬉しいよ」
頭頂部でまとめた長髪から雫を垂らしつつ、小首を傾げて微笑むつむぎは、とんでもなく妖艶で美しい。己にもっと画力があればつむぎをモデルにした女神絵を描くのにと、憧れが昂った白雪の思考回路は変なことを悔しがり出した。
そんな白雪を見て、つむぎは目を何度か瞬かせる。
「白雪さん? さっきから、顔がちょっと赤い気がするんだけど」
「え? そうですか?」
「うん。つい、長話に付き合わせてしまったね。のぼせでもしたら身体に悪いし、もう上がった方が良いよ」
「……はい、そうします」
欲を言えばもっともっとつむぎと話をしたい。が、平熱が平均より下の白雪にとって、長湯が体調を崩す原因になりがちなのも確かだ。大浴場での長話が原因で具合を悪くしました、なんてことになれば、今後お風呂でつむぎと会っても、話をしてくれなくなるかもしれない。そうなっては本末転倒である。
一瞬でそこまで小賢しく頭を回転させた白雪は素直に頷き、つむぎを残して湯船を上がった。歩き出しざま、ちらりと背後を振り返る。
「……つむぎさんは、もうしばらく浸かられます?」
「そうだね。ちょっとお湯に浸かりながら、色々と整理したいこともあるし」
「承知しました。またお会いすることを、楽しみにしております」
「ふふ。うん、ありがとう」
「ごきげんよう、つむぎさん。――お休みなさいませ」
「おやすみ、白雪さん。良い夢を」
――微笑んで手を振るつむぎにぺこりと一礼し、白雪は大浴場を後にしたのだった。




