4月19日〈ルート共通イベント・幕前?〉①
千照との夕食を楽しく済ませ、そのまま大浴場へ向かう彼女を見送ってから、部屋へ戻って明日の予習を終わらせる。やはり躓くのは数学で、教科書の分からない部分と悪戦苦闘しているうち、時間は瞬く間に過ぎていった。
「白雪ちゃん? あと一時間半くらいで消灯だけど、お風呂入った?」
「あっ」
大浴場は消灯と同時に使用できなくなる。部屋のシャワーに時間制限はないが、同室や隣室にいる生徒の睡眠を妨げないよう、夜間の使用は控えるのがマナーだ。
「お声がけありがとうございます。急いで入ってきますね」
「うん。いってらっしゃい」
入浴セットを片手に、向かうは一階の女子大浴場。その方向へ進むにつれ人影はまばらになり、大浴場へ到着する頃にはすれ違う人もほぼ居なくなる。寮の大浴場は部活終了時間の十七時頃から湯が張られているため、いくら自動追い焚き機能があるとはいえ、あまりに遅い時間だと湯が古いという理由から、消灯前の入浴は避けられがちらしい。
(いかにもお金持ちな考え方ですよね。わたくしは気にしませんが)
今世では自分のためだけのお湯が湯船に溜められ、望めば髪や身体を洗うことすら使用人任せにできた白雪ではあるが、小人たちと倹しく暮らしていた前世の記憶持ちの身としては、お金持ち仕草にこそ違和感があった。前世は入浴という文化が存在しなかったことも相俟って、白雪には風呂で贅沢するという発想がない。時間内であれば、いつでも広い湯船で両足を伸ばして寛げる、この環境こそが最高の贅沢で、それ以上を望む気もないのだ。
――そんなことをつらつら思いつつ、やはり人影もまばらな大浴場で髪を洗い、身体を洗っていると。
「あれ? 白雪さんじゃないか」
「――つむぎさん!」
誰よりも、何よりも敬愛する人物の登場に、白雪のテンションは爆上がりした。一日の終わりにつむぎと出会えるなんて、苦手な数学を頑張ったご褒美だろうか。
服の上からでも抜群のプロポーションだと分かるつむぎは、誤魔化しようのない生まれたままの姿でもやはり、最高のスタイルであった。出るところは豊かに出て、くびれるべきところはきゅっとくびれている。程よく筋肉もついて、日本人にしては白い肌は艶々と光って、その姿はまさしく生ける芸術――。
(寮生活と大浴場、最高じゃないですか!)
憧れの先輩と〝裸の付き合い〟ができるなんて、同じ部活動で合宿でもしない限り、普通はあり得ないことだ。寮生活だからこそ、特に接点のないつむぎと大浴場で出会う機会があるのだと思えば、何かと制約の多い寮暮らしも気にならない。こうして様々なつむぎの姿を見られるだけで、むしろ天国である。
「白雪さん? どうかした?」
「あっ、いいえ! ……つむぎさんがこれほど遅くにご入浴されるの、珍しくないですか?」
寮での暮らしに慣れ、自身のルーティーンが確立すると、それぞれの入浴時間も自ずと定まっていくものだ。白雪の場合、入浴は宿題と明日の予習を終えてからという自宅でのスタイルを引き継いでいるため、それらに手間取るとどうしても入浴時間は遅くなりがちで、実際何度か消灯滑り込みの入浴を経験している。
入浴時間が遅めの白雪が、つむぎと大浴場で顔を合わせたことがないということは、普段のつむぎはもっと早く入浴しているはず。そしてつむぎも白雪と同じく、滅多なことでルーティーンは崩さないタイプに見えるのだが。
「あぁ、そうだね。普段は、今日より二時間ほど早い時間帯に入浴していることが多いかな」
「そうなのですね。……今日は何か、大変なことでも?」
「心配されるようなことは何もないよ。単に大浴場が想定より混んでいたから、入浴時間をずらしただけ。月に数回程度だけど、こうして遅くなることはあるんだ」
「そうだったのですか。わたくし、いつも入浴は遅めなのです。お会いできて嬉しいですわ」
「私も、元気な白雪さんに会えて安心したよ。学校と寮生活はどう?」
「順調です。……が、やはり、中学の頃に比べると授業の内容は難しくなっていますね」
「あー……確かに、中学のものよりぐんとレベルアップしているかな」
雑談しながらそれぞれ洗い場でするべきことを済ませ、そのままの流れで一緒に湯船へ浸かった。二人が話しているうちに数人いた他の利用者の姿もなくなり、大浴場は白雪とつむぎの貸切状態となる。
「白雪さんは、どの教科が得意なの?」
「国語と社会が得意です。英語はライティングなら得意なのですが、ヒアリングが苦手ですね。理科は生物と地学は好きですが、物理化学は苦手で……数学にいつも苦戦しています」
「典型的な文系かぁ」
「お恥ずかしい話です。どうにか苦手を克服しようと、努力してはいるのですが」
「苦手なことに向き合えているだけで、充分偉いよ。理科に関しては、二年以降に四科の中から好きな一科を専攻できるから、無理に苦手な内容を深掘りすることもないし」
「ですが、やはり何事も、できないよりはできた方がよろしいでしょう?」
「否定はしないけどね。頑張りすぎて白雪さんが辛くなってしまっては元も子もないし、ある程度は肩の力を抜いて、できない自分に寛容であることも大切だよ。――事実、私がそうだから」
「何を仰います。文武両道で完全無欠、欠点など存在しないと評判のお方が」
「うーん……それは大いなる誤解というか、普通にデマだよ。確かに五教科の成績はありがたいことに学年一位をキープできているし、四教科もペーパーテストは点が取れるから、どうにか全体平均を大幅に下げない程度の評価は貰えているけれど。私、体育以外の四教科の実技成績は、下から数えた方が早いから」
「えっ」
つむぎから放たれた意外な言葉に、自身の目が丸くなったのが分かる。白雪の中のお継母様――記憶の中の〝彼女〟は、できないことなど何もない、完全超人のイメージだったから。
驚きのあまり言葉を失った白雪を、つむぎが面白そうに見つめている。
「そんなに驚くことかな? できないことのない人間の方が珍しいと思うけど」
「それは、そうですが。……つむぎさんが、本当に?」
「こんなことで嘘なんかつかないって。家庭科の調理実習では同班になったクラスメイトたちから早々に戦力外通告を受けたし、音楽じゃリコーダーすらまともに吹けず、歌だって練習に練習を重ねてようやく主旋律を外せず歌える程度の音痴だし。美術や書道は筆が言うことを聞いてくれない感じの作品を量産して、『まぁ、筆使えなくても人生そこまで困らないから……』って先生たちから慰められたね」
「ええぇ……」
しかも、聞いた限り、想像のはるか上を悠々と飛ぶ不器用さんだった。ここまで来ると、運動神経良いのが奇跡に思えてくる。
しかし、『筆が使えなくても人生困らない』と慰められたと言うけれど。
「で、ですが、家同士のお付き合いでのお礼状や宛名などは、女主人が筆で書くでしょう? 小規模なホームパーティの場合は、女主人の手料理でもてなすことが礼儀とされておりますし、楽器演奏も嗜みの一つです。五教科の成績ももちろん大切ですが、四教科の実技が一定レベルに達していないと、それはそれで卒業に差し障るのでは……」
「おー、百合園出身のご令嬢らしい言葉だね。白雪さんがそう言うってことは、百合園では四教科の実技が壊滅的だと、進級や卒業できない感じなのかな?」
「はい。初等部、中等部、高等部で、それぞれの実技科目の卒業試験がありました。わたくしが中等部卒業試験で受けた内容は、音楽ですと選択楽器の演奏と歌唱、家庭科は課題料理の調理、書道は住所宛名書、美術は筆と硬筆それぞれで絵を描く、あとは華道で生花作品作成と、茶道で基本的な茶席の実技がありましたね」
「……ふむ。どうやら私は百合園を卒業できなさそうだ」
「そう仰るということは、宝来ではこういった実技試験はないのですね?」
「少なくとも私は経験してないね。そもそも宝来と百合園では、同じ上流階級御用達学校でも目的が違う。宝来に通うような〝未来の家長〟たちには、いざとなれば〝外注〟という便利な裏技があるから、実技が少々不得手でも問題にはならないのだろう」
「確かに……」
「逆に聞くけれど、良家の奥様方に、できないことを〝外注〟するという発想はないのかな?」
つむぎの表情は自然体で、自身の不器用を己の欠点とも弱点とも思っていないのがよく伝わってくる。




