マキナ
覚悟した衝撃は、無かった。
下前板を外し、縦にずらりと張り巡らされた弦が剥き出しになったアップライトピアノ。
横からおっかなびっくり覗き込むと、突然、ピアノの調律師の男にぐいと腕を引っ張られ、ぶつかる! と覚悟をして反射的に目を強くつぶったが、水の中に飛び込んだような抵抗を覚えただけで、弟の悲鳴が遠くで聞こえたような気がした。
十五歳のマキナは、どうしてこうなったのかと上も下も分からない虚空に沈みながら、ぼんやりと考えていた。
両親は共稼ぎで、夏休みで姉弟共に留守番をしている中、母から今日訪れると聞いていたピアノの調律師が午後からやってきた。
メーカー名の刺繍が入った青いつなぎに、青いキャップ。白いスニーカーに白い靴下。道具やマットが入った大きな道具入れを肩に担いできた男には、どこもおかしな様子はなかった。
三歳年下の弟のシュウジは最初から調律の仕事に興味津々で、居間に鎮座し、下前板を外されたピアノの胴体を見て、感嘆の声を上げた。
「お姉さんも、中身見てみます?」
調律師の男が屈託なく言うが、元々弟のような人懐っこい性格でもなく、どちらかと言えば引っ込み思案な性格のマキナは一度尻込みした。
しかし、シュウジの、姉ちゃんも見てみなよ! と誘う声に、渋々と調律師の横に並び、しゃがんでピアノの胴体を見た。
普段見ることのない縦に並ぶ弦、それを叩く木製のハンマーヘッド。足元のペダルもどこかの弦に繋がれている。
郊外に並び立つ集合住宅の中でも、平凡を絵に描いたような家庭環境。
他所と少し変わっていると言えば、居間に鎮座したアップライトピアノを姉のマキナと弟のシュウジの姉弟で習い、後から始めた弟の方に才能の分があるということ。
シュウジがピアノのコンクールで次々と賞を取る中、マキナも長女として優等生であらねばという真面目な性格に拍車がかかり、両親やピアノ教師の期待にも応えようと善戦するも、指の動きは考えるほど固くなり、賞にはかすりもせず終わっている。
中身を覗いたマキナは思わず心が躍り、ほぅと小さく息をついたが、次の瞬間、今まで感じたことのない悪寒を感じ、身震いした。
争いもなく、単調ながら平和で穏やかな日々を過ごしてきたマキナには、全く縁がないものーーー命を失うかもしれないと、捕食者に見つかった小さな獣のような、喉の奥がぐっと詰まるような緊張感。
調律師の男を見ると、その瞳は人間の持つ丸いものではなく、水平方向に四角く伸びた薄い黄土色の瞳孔に変わり、口が耳まで裂けて、鋭い歯が覗いていた。
「ミツケタゾ。ミツケタゾ」
機械で作った合成音のような低い声に、マキナは不思議と、しまったと心の奥底で後悔の念を覚えた。
肌が粟立つ腕を男が掴み、声を上げる間もなく先ほどまで無邪気に眺めていたピアノの胴体へ引き摺り込む。
覚悟していた衝撃はなく、光も見えない虚空の中を男に腕を掴まれたまま、水中を猛スピードでどこかに突き進んでいるような感覚を覚えながら、マキナは抵抗することも忘れていた。
自分の腕も見えない闇の中、ふっと白い光が走り、ギャッ! と男の悲鳴が響いた。
腕を掴まれている感覚がなくなり、頼るものもなく身体が沈んでいくのが分かるが、頭がパニックを起こして身体が動かない。
白い光がもう一度走り、その光で調律師の男の身体が一瞬だけ光に照らされて見えた。
姿形は人間のものではない。手足が長く伸び、角張った体の要所要所はまるで機械を思わせる。
対して、白い光はフクロウにも似た生き物で、フクロウと違うと感じた違和感は、一瞬の光の中だけでは判断がつかなかった。
「ニジノメガミノサシガネカ」
調律師の男だったものが低く何かを唸ったが、その場からどんどんと落下して離れゆくマキナには、上手く聞き取ることも出来ず、闇の中でも更に濃い闇が男だったものを包み、その姿を消したのが見える。
白い光もその姿を表すことなく、マキナは混濁していく意識の中、そっと目を閉じ、その頬をなぜか涙が一筋流れていった。