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ローズは陽が傾く頃になり漸く熱が下がった。少し覚束無い足取りでお礼を言いペンデルトンの家に戻ることにした。
ゴールドスミス伯爵は家紋の入った馬車を用意してくれておりアルフレッドとローズを見送る。
「自宅まで見送りたかったが今から仕事なんだ。
護衛は2人つけているから何かあったら遠慮なく頼んでくれて良いから。」
「ありがとうございます。ここまでして頂いたのにお医者様のお支払いも持ち合わせが無くて・・・」
ローズは自分がお金を持っていないこと自体が本当に恥ずかしくて俯いてしまった。
「貴女が気に病むことはない。ジョシュが負わせた怪我だし、もし違ったとしてもこんなのはペンデルトン伯爵が支払うべきだ。
ローズ、次回学校で面談がある日に少し話し合おう。君はアルフレッド君のことを思うならこの状況を変えなくてはいけない。」
ローガンの思いやりのある言葉はローズの心に重くのし掛かった。
ハイと簡単に返事をすることが躊躇われるほどにローズにも他人に家族のことを言われることの恥ずかしさとプライドが鬩ぎあったのだ。
「・・・・少し考えさせてください。」
やっとのことで一言絞り出すとローガンは少し困ったように微笑んだ。
「気持ちが分かるとは言わないが、先ずは茶会に出てみるといい。頭の良い君だ。きっと正確に他のご婦人たちからの話で自分の状態が分かるはずだ。」
昔の友人の言葉にローズは揺れ続ける。
「少しだけ整理する時間が欲しいんです。」
「ああ、その日までにゆっくり考えてくれ。」
2人の視線がほんの少しだけ絡み合うが子供たちは学校の課題について話しているのか気がつかない。
ローズは深々と頭を下げてローガンの目の前から去っていった。
ペンデルトンの家では案の定、ジークフリードは不在のまま。ドリルは使用人として最低限の礼儀だとばかりにアルフレッドの体調を一応聞いてきた。
「坊っちゃま体調の方は?」
相変わらず腰を屈めることなく状況確認と言った体だ。
以前のアルフレッドならば家主の息子として礼儀正しく答えていたが、その日は少々違った。
「君でも一応気遣うんだね………
そんな事より母君に護衛も付けなかった事を他家の家人から笑われたよ。君の所為だ。」
不機嫌そうに無表情を貫きその視線は冷たい。ドリルは少々焦った表情を見せたが所詮は子供と完全に無視を決め込んでその場は終わった。
何故か責任転嫁とばかりにローズは責められるような視線を向けられるがローズはローガンとの会話が耳にこびり付いたままでドリルの圧にも無反応で部屋に戻る。
ほんの僅かな違和感をドリルとメイドは感じながらも2人に対してさして気に留めもしなかった。2人の存在はそれ程までに軽く、彼らの関心事はジークフリードと前伯爵夫婦だけなのである。
その日も何も知らないジークフリードは愛人宅に寄ると知らせを寄越した。
蔑ろにされた妻にも子供にも同じ態度で良いと思っている使用人たちは主人の帰宅が遅いと判れば嬉々として夕餉のメニューに手を抜く算段を始めたのであった。
その日から全ては変わった。
アルフレッドはローガンから言われたことやジョシュの話を聞きながらペンデルトン家の将来を今までのように楽観はしなくなった。
クラスで翌日もホークにより針の筵のような状況を作られてはいたがアルフレッドの心はたった1日で荒んだものとなっていた。
クラスメイトの子供っぽい虐めなどに向ける思考は萎えていた。自分たちは父親から放り出されたら食事一つも今後は考えて生きねばならないのだ。
どんなにホークが嫌味を言ってきても学院に今後通えるかも分からない現状では戯言としか思えず、ムキになるホークが駄々を捏ねる幼児のようにしか見えなかった。
そんなアルフレッドの冷めた態度にクラスメイトたちも徐々に落ち着きを取り戻し、触れば切れそうなほどの気を纏うアルフレッドを遠巻きに見守るようになった。
アルフレッドはあの日から冷静に自分を分析することを続けていた。
ローガンは大人の事情を包み隠さず教えてくれた。
自分が家督を継ぐと思っていたがこのままではそれも危うい。
しかし父親にはすでに尊敬の念はなく、只々人間として情けない者であるとしか考えられなかった。
クラス中の人間があの瞬間明らかに父親を軽蔑していたし、そう思われる事をしでかして居る父が持つ爵位などにこれっぽっちも魅力を感じなくなっていた。
以前から感じていたが、父親の在り方がジークフリードには欠落していると確信すればアルフレッドの気持ちは更に強固に自立へと向かった。
ローズはあれから直ぐに茶会に参加したいと義姉に頼み込んだ。
そしてその場で自分の状況が異常なことであると妙に納得させられた事件が起こる。
義姉が選んだ席は付き合う貴族の幅も広いシェルコート子爵家の奥方が開催するものだった。
義姉と交友関係のある夫人ではあるがローズには最近の会話の下地がなく、有り合わせの様な知識を義姉にわずかばかり叩き込まれる。
兄に贈られた中古のドレスを多少今の流行りに縫い直し、手土産は義姉に助けて貰う。
現れたローズをシェルコート子爵夫人は優しく迎え入れてくれたが全てが穏やかに進むわけはなかった。
初めは和やかにスタートした茶会もローズが余りにも流行りの菓子や宝飾店を知らな過ぎて、1人、また1人・・・と席を離れていく。
シェルコート夫人を立てて皆明から様な態度は取らないが気の毒そうに微笑みを浮かべるのだ。
そしてポツンと1人になった時を見計らって
『旦那様が遊戯場にいらっしゃるのはご存知?』そう話しかけてきたのは男爵家の新妻であった。
ジークフリードの行動を知っている上での揺さぶりをその場でかけてきたのは明らかで、次回の催し物で話題にしようと目論んでいる少々悪趣味な夫人である。
ローズは極めて冷静にその男爵夫人を眺めた。
流行りのドレスに豪華な宝飾を身にまとい無邪気に微笑んで見せる。13歳年上の夫を持つという会ったこともない年若い夫人にバカにされている事を肌で感じるも持ち前の芯の強さからなんでもない事のように静かに答えた。
「ええ、主人は付き合いが広いので彼方此方に顔を出しますわ。親切に教えてくださる方も絶えませんので。」
そう言うと態とニッコリ微笑む。
すると男爵夫人は二マリと口端を歪める。
『なんだ。ご存知なのね?主人がペンデルトン様達をお見かけしたと申しておりましたの。
そうそう、私もキキル洋品店でお会いしましたわ。でも今日はペンデルトン夫人はキキル洋品店のドレスではないのですわね?』
少し小馬鹿にしたように笑う男爵夫人にローズは嘆息した。
貴女の知らない場所で遊んでいるジークフリードを私も主人も知っている。
キキル洋品店では貴女のドレスを仕立てたんじゃないようね?誰のドレスなのかしらね?そのように遠回しに揶揄ってきているのが十分に伝わった。
こんな初対面の人間にまで自分は馬鹿にされているのだと判ればローズはローガンがなぜ茶会に参加しろと言ってきたのかが十二分に理解できた。
金銭的な問題で欠席し続けた社交界。
それが自分を通り越してペンデルトン家全体を貶めている。
末端の貴族にも社交を疎かにしている奥方を軽視しても良いという風潮が浸透しつつあるのだとやっと肌で知ることができた。
彼の目的はペンデルトン家の奥方は社交界ではこのような地位に居るのだぞと把握させるのが目的なのだ。
伯爵位の夫人が男爵家の人間にバカにされることなど本来はあってはならない事。
ローズはコルセットの紐を締め直すように気持ちを引き締める。
「ドレスね・・・あの洋品店は本当にお針子の口が軽いでしょう?私はもう立ち入らないようにしておりますの。全く殿方は疎いですわね。
そうね・・・おすすめはガバーナ洋品店ですわ。西の国で開発された絹布が取り扱えるお針子たちが最近雇われて公爵夫人たちが挙って注文をなさっているそうよ。それに…賢いお針子ばかりですわ。」
(全て義姉の受け売りの話題ですけど・・・唯一知ってる知識がこれだけなんて情けない)
だが、噯気にも出さずそう言って静かに微笑んで見せると童顔なローズにも妙な迫力が湧き上がってくる。
「ローズ様は本当に他国の産業に明るくてらっしゃるのね。」
不意に背後から感心したようにシェルコート夫人と義姉が席に戻ってきた。味方を得たローズはその後、知的な会話が苦手な男爵夫人を前に少しばかり他国の生産業と経済について持論を語ってみせた。
それを見た男爵夫人はローズの対応があまりにも肝が据わっていたことと、分が悪いのを理解し気不味そうに席を立った。
シェルコート夫人にローズは礼を述べる。
「今日は無理に参加させて頂いて本当にすみません。」
「いいえ、いつも以前のように招待状を送りたいと思ってましたのよ。お気軽に声を掛けていただければ私も嬉しいですわ。」
義姉との帰りローズは率直に自分の状況をやっと理解できたとポツリと語った。
「貴女は正妻なのよ?我慢しないでもう少しジークフリード様と話し合ってみてはいかが?」
義姉は以前の学友として寄り添うように話を聞いてくれた。
ローズは話せば話すほど自分の状態が家の為にも良くないとひしひしと感じ、諦める前にジークフリードと会話を試みようと心に決める。
しかし決意虚しくそれは全くの徒労に終わってしまった。
まずジークフリードは家に帰ってもローズとの時間を取ろうとしない。
ドリルたちの前で話し合うのは憚られたため何とかして執務室で2人で話し合いたかったが、ジークフリードから悉く拒否される。
帰宅時間、早朝、夕食の時間。タイミングを測っては何度も声を掛けたがその度に睨みつけられた。
「少し私たちとアルフレッドのことで話をしたいのよ。」
そう言っても
「君はこの家を取り仕切る妻だろ?子供の教育くらい自分で何とかしろ。俺は今から出かけなきゃならん。」
「どこに?」
「仕事先だ。それ以外に何があると言うんだ?」
疎ましげに視線を投げるジークフリードにローズも段々と気持ちが萎えてきた。
(仕事じゃないのを知っているのと言えればどんなに楽か・・・でもそれを言って仕舞えば確証もないのにと責められるに決まっている。話し合いさえするのが難しいなんてもう私たちは夫婦では無いのかもしれない・・・)
何度も拒否され続ければローズの気持ちは不思議と凪いでいく。
足掻いているのにも疲れてきたとワインを食堂に取りに行こうとした晩。
『奥様ったら最近は愛人に怯えて一生懸命旦那様の気を引こうとしてるわ。この前の茶会も古いドレスを縫い直して無理矢理出席なさってた。』
『あんな風に無理するなんて貴族って大変よねぇ。伯爵家の体面を気になさって茶会に参加されたのかしら?』『あの愛人の情報でも引き出しに出たんでしょうよ。今更手遅れだろうけど。』
メイドたちが食堂でクスクス話す声が深夜の台所に響くのを聞いてローズは嘆息した。
家を出よう。
アルフレッドを連れてこの家を出る算段をつけよう。
そして翌日の晩アルフレッドの寝室でローズは自分の思いを正直に告げる。
9歳の子供になんと残酷な事かと自分の心が折れそうになるもアルフレッドは大人びた視線でそれを柔らかく受け止めた。
「母様。もう、我が家は家族とは呼べない。
クラスの友達とも僕はお別れしても未練はありません。
家を出て苦労したとしても、あんな父親と一緒にいるよりきっと楽しい生活が待ってます。」
「貴方は我慢すればやがて家督が回ってくるかもしれないわ。それでもお母様と一緒についてきてくれるの?」
「ペンデルトン家はカークランドの資金あっての貧乏貴族ですよ?今更です。
僕は可能であれば文官か騎士を目指します。暫くはお母様のご実家にお世話になるかも知れませんが慎ましく真面目に生きていればきっと報われると信じています。」
ローズは胸に熱いものが込み上げる。
子供ながらに自分を支えようとしている1人の人間としての成長を感じると共に、なんと頼もしいことか。
「お母様頑張るわ。」
「僕も決心は揺らぎませんから。」
そう言うと親子はしっかりと抱き合った。
培った絆をしっかりと感じられれば離婚後の生活への不安も和らいだ。
ゴールドスミス伯爵に相談しよう。
そう決めるとローズはひと月前よりずっと前向きな気持ちで微笑むことが出来た。
伯爵の不倫を切っ掛けに2人は一つの結論に至る。
ローガンと学校で再会を果たすとローズは迷いなく述べた。
「きちんと慰謝料を貰って離婚を望みます。」と。
「では方法をお教えしますよ。」
ローガンは低く落ち着いた声でローズを安心させる様に語り出した。