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残念ながら今回もイケメンヒーローではありません。
すみません。
「ペンデルトン夫人・・・いや、ローズ。俺のことを覚えていませんか?」
子供たちが退出するとゴールドスミス伯爵はローズの座っているソファの前に跪きローズを見上げた。
「・・・・・もしかしてローガン様?」
ローズは厳しい顔の中から、穏やかな菫色の瞳を認識するとハッとしたように顔を上げた。
ローガン・ミストリアルは友人の8歳上の兄だ。
軍人を多く輩出する伯爵家の四男で確かどこかの家に入婿したと聞いていた。
ローズの親友アマンダはミストリアル伯爵家で唯一の妹。
歳の離れた男兄弟に揉まれていた2人は学院でも気が合い、いつも行動を共にしていた。
アマンダの実家に夏の休暇で招待を受け避暑地として一度訪れたことがある。そこでローズはローガンとも顔を合わせたのだ。
その頃のローガンは今よりも一回り・・・・いや二回り・・・・・嘘です。130キロは超えている体重であったように思う。
身長は今と同じくとにかく高く190センチほどではあったが、横にもかなり大きかった。
『スノーマン兄様!』とアマンダは巫山戯て呼んだりしていたが穏やかなローガンはそれに怒ることもなくいつもニコニコと接してくれた。
「久しぶりだね。こんな形で会うとは思っていなかったよ。」
ローガンは少しシワの増えた目尻にさらにクシャリと刻みながら屈託なく微笑った。
ローズは散々泣いた後で暫く放心していたが急に羞恥心が込み上げる。
「す・・・すみません。情けないところをお見せしてしまって・・・昨日からご迷惑ばかり掛けてしまって。
ところで、あの・・・奥様は?」
昔の記憶が正しければローガンはゴールドスミス伯爵家に入婿で結婚したことになる。
「妻は出産の時に難産でジョシュを残して死んでしまってね。
家督は俺が今は継いでいるが、ゴールドスミスの爵位はいずれ正当な嫡男のジョシュに譲る予定だ。」
そう言うとローガンは少し寂しそうに微笑んだ。
「まあ、俺のことはいいんだ。」
ローズがローガンだと認識した途端彼は砕けた調子で喋り始めた。
「ローズ、君とても困ったことになっているんじゃないのか?
私も貴族の端くれだから少しは聞いている。
ペンデルトン伯爵はかなり女癖が悪いんだろう?」
ローズは痛いところを突かれて一瞬で呼吸が止まる。
だが、この機会に心も体も整理しなければきっと現状は打破できないと痛烈に感じていた。
ローズの気持ちを読み取ったようにローガンは続けて話す。
「今まではペンデルトン伯爵はキャセリーヌって愛人とコソコソ会うようにしていたが、この一年はその存在を大して隠そうともしていないように思うんだ。それに決まった愛人を作るのは初めてだよな?」
そうだ。ジークフリードは今まで一夜のお遊びは何度もあったが今回のように1人の女性と通じているのは初めてである。だからローズも浮気が本気になりつつあるのでは無いかと危惧していた。執事たちの態度もこの2年で随分と悪くなり自分で家を取り仕切ろうとしているくらいなのだ。
「さっき言ったことは俺はその可能性はあると言うだけだ。昔のペンデルトン家は貧しくて誰も相手にしちゃくれなかったが今の伯爵は商売も軌道に乗ったしかなり強気だろう?
愛人の身元は詳しくは知らないが、平民でなく落ちぶれた貴族の娘なら危ない。
自分が身籠ったら絶対に伯爵家の地位を狙ってくるぞ?」
そうだ。貴族とはそう言うものだ。
学院で嫌と言うほど爵位の差を知ったり、友人たちから勉強だけでは成り立たない理不尽を教わってきたと言うのにローズは家に篭っていた数年ですっかりその部分に鈍感になっていた。
「愛してるのか?」
ローガンは少し優しい声音で話しかけた。
ローズはゆっくりと首を横に振る。
「・・・そうね。主人との結婚はペンデルトンのお義母様が強く勧めてきたものだったの。
お見合いではあったけれど初めの頃は主人と温かな家庭を築くことを夢見ていた。
けれど、小さく何度も何度も傷つけられているうちに私の夢はすっかり壊れてしまった。夜会でエスコートをすっぽかされた日もあったわね。それでもどこかで私自分が可哀想な人間だと思いたくなかったの。
不思議なんだけど、最近まで自分が我慢していれば、晩年はお互いに笑いあえる未来も訪れるんじゃないかって思ってた。
アルフレッドが大きくなって、伯爵位を継いで、小さな領地に引っ込む頃にはミートパイを焼きながら穏やかに過ごすことも出来るんじゃないかって・・・でも、根本が間違っていた。
愛って2人で育むものでしょう?情でもよ。私は必死だったけど、ジークフリードは何も私たちの間に求めては居なかった。私たち夫婦の間には『感情』が無いの。
アルフレッドにだってそうよ。蔑ろにされて・・・頭のいい子なのに一度も褒めてもらったことがない。
でもアルフレッドを私1人で引き取るにはあまりにリスクが大きいわ。
学院にも通わせたいのに先立つものがない。
ペンデルトン家にこれ以上居ても仕方がないのも分かってる。それに万が一彼の相手が妊娠してしまったら私たちは追い出される可能性もあるのに・・・」
そこまで話すとローズは大きく息を吐き出した。
「俺は文官だ。その方面には明るいし、良い弁護士も知っている。
君が本当に自立を目指してアルフレッド君と2人で生きていきたいと願うならそれは応援したい。
彼は賢くてとてもいい子だ。
古い木綿のシャツを纏っていても気品があって生まれながらに貴族のオーラがある。しかも母親を大切に思う心の優しい子だよ。」
そう言うとローズはハラハラと涙を零した。
「泣いてばかりでごめんなさい。
そうね。本当にいい子だわ。初めてアルフレッドを褒めてもらえて私嬉しくて。
残念なのは、あの子に古びたシャツばかり着せてた甲斐性のない私ね。情けないわ。」
「そうじゃない。夫の甲斐性だ。
君は学年首席の才女だったろ?ちゃんと仕事をもち、貴族の後ろ盾を得ればアルフレッド君にまともな洋服を用意できるようになるよ。」
「そうかしら?私に出来るかしら?」
「まだ、君は28歳だ。ジョシュの大切な友達は俺にも大切なんだ。いくらでも助けてあげるよ。カークランドの家だって君が大切なんだからちゃんと頼ってやれ。可能性を自分で狭めてはいけない。」
「・・・私、いつの間にこんなに臆病な人間になってしまったのかしらね?でもどうしたらいいのかわからない・・・。」
ローガンから見て不安げに瞳を揺らすその姿は学生時代のローズが蘇ってきたようにも感じた。
ローズは初めて会った頃小柄で色白の可愛らしい少女だった。一つ難があるとすれば実力を過小評価する所くらい。
しかし一度勉強が始まると冷静で頭の回転が速く、文官であったローガンも舌を巻くほど学ぶことに貪欲であった。何故かアマンダが自分のことのように誇らしげに威張っていたのは未だに腑に落ちないが。
見た目に反して負けん気が強く、乗馬を教えると落馬しかかっても絶対に諦めず最後まで努力を続けた。そんなローズにローガンは目を奪われた。
夏のバケーション中朝目覚めてから、夜眠るまで。
毎日一緒に休暇を楽しみ、友人の兄として紳士に振る舞った。
130キロの体重ではあったが。
大汗をかけば笑顔でローズは手拭いを渡してくれたし、ピクニック先で弾け飛んだ腹部のボタンを嫌な顔一つせず縫い付けてくれた。
実の妹アマンダは『なんだかこのボタンヌルヌルしてない?』と白い目を向けてきたと言うのに。
自分には既に婚約が決まっているのだからと湧き上がる気持ちに蓋をして桃色の動揺を隠したのは昨日の事のように思い出される。
避暑地の思い出はローズの笑顔とともに心の奥底に沈めた。
そう思っていた。
妻が亡くなり必死にジョシュを育てているとローガンは忙しさと心労で3年ですっかり自然に痩せていった。
ゴールドスミス家の主治医は『そうじゃなきゃ!旦那様!あんた奥方が死んでガックリきたかもしれんがそのままじゃいろんな病を併発して40歳で死んじまうトコだったよ。』とバシバシ背中を叩いて笑う。
優秀な乳母に手伝ってもらいながらジョシュの成長を喜んでいたローガンだったが息子の入学式の日思わぬ人物を見つけてしまう。
それがローズだ。
一際抜けるような白い肌に淡い栗色の髪をハーフアップで纏めたローズ。
10年以上経ったというのにその可愛らしさは変わっておらず、少女のような緩めのワンピースを纏った彼女は『母親?姉?』と皆から疑われながら親族席に1人で腰掛けていた。
俺と一緒で伴侶を亡くしているのかもしれない?
そう考えた矢先不機嫌そうなジークフリード・ペンデルトンが遅刻で入場しドカリとローズの隣に腰掛ける。
あぁ、彼女は人妻なのか・・・そう思うと忘れかけていた胸の痛みが体を襲った。
間も無くしてジョシュが友人が出来たから家に呼びたいと言い出した。
「勿論だ。」
妻が居る家に比べゴールドスミス家の客は少ない。子供との交流が仕事の都合であまり多く取れない自分をジョシュは責めたりしないが友人が来るのは大歓迎だ。
そして現れたのがアルフレッド・ペンデルトンであった。
偶々休みの日に来ていたアルフレッドとチェスを指す。母親譲りの美しい栗毛に子供ながらに通った鼻梁。しかし細かく見れば困窮しているとしか思えないほど彼の服は古びていた。
幾度も遊びに来るたびに見るシャツやスラックスは、偶に上質なものも紛れているがそれは決まってカークランド子爵家の姉妹がプレゼントしてくれたものであるとアルフレッドは言う。
思い返せばローズも少し型遅れのドレスを身に纏っていた。
ローガン・ゴールドスミスはそれからコッソリとローズ親子の身辺を探る。
すると驚くほどジークフリードの悪評が湧き出てきた。
ローガンは独身時代、紳士クラブでジークフリードを見掛けたことがある。
ジーフリードは垢抜けないツイードジャケットを古びたシャツの上から着用し一番安い酒を飲みながら友人に愚痴を溢していた。
「あぁ、俺の人生も終わったよ。子爵家の地味な女と結婚しなきゃならないんだ。
母親が勝手に決めてきたんだが、俺は全然納得できない。人生の墓場についに足を突っ込んだんだ。」
ローガンは苦笑いしながら聞き耳を立てていた。
本当に巷によくある話だ。
家の事情で持参金を当てにした親が縁談を組むのは貴族には常套手段。
安酒の男は少々野暮ったい雰囲気ではあるが顔は整っている。相手の令嬢も断ることはあるまい。
斯くいう自分も伯爵家の一人娘に婿入りするのだから笑えない。
しかし、それがローズの相手だと分かったならば話は別だ。
調べれば調べるほどローズは窮地に立たされているとローガンは感じた。
先ず、ここ数年茶会も夜会も殆どを欠席しており社交場に足を運べていない。
聞けば『ペンデルトン夫人はドレスが用意できなくて欠席してるのよ。』と友人の奥方が気の毒そうに教えてくれた。
自分は古着の様なジャケットからカークランド子爵家のバックアップで流行の服に袖を通し始めたというのに、奥方にはドレスを買うことすら許さない。
ペンデルトン家の商売は上手くいっているはずだ。それなのに茶会一つも開かせようとしないとは・・・そう思案しているとそのうちジークフリードは黒髪の若い女を連れ回して遊びに出てくるようになった。
裏切っている・・・遊戯場で羽振りよく振る舞うジークフリードを見かけた時怒りで詰め寄りたかったが、相手はローガンのことなど全く知らない。
ローガンは拳を握りしめながら怒りに震えた。ローズはそんな夫の動向を知ってか知らずかただ只管に家の切り盛りに頑張っていた。
他家の奥方たちのように自棄になり、自分も火遊びに乗じることもなく、日々アルフレッドに向き合い、子供の成長を喜ぶ姿はローガンの心に火を灯した。
どんな状況下でも最善を尽くそうとする姿は変わらない・・・
そんなある日ジョシュがアルフレッドと共に階段を転げ落ちた。
ローガンにはそれが〈天啓〉のように感じられた。
貴族は夜会や社交場以外で出会うことは殆どない。貴族夫人の日常は家の中なのだ。
外に出てくる切っ掛けがないとローガンはローズと話をするチャンスさえなかった。
不遇を知っていながら助ける手を差し伸べる事さえ出来なかったのにいきなり家に招待する理由を得られるなんて・・・
ローガンは迷うことなくローズを家に呼ぶことにした。
飛んできたローズはアルフレッドの体を心配し、真っ青な顔色であったが、ローガンが状況を説明すれば落ち着きを取り戻した。
それにしても・・・・
伯爵位の奥方がお供も付けずに他家にやってくるとは何とも驚かされる。恐らく夫や執事たちがローズに無関心であるが所為であろうがそれでもかなり非常識だ。
唯一付いてきた御者の爺さんは盗賊が現れてもきっと100メートルも走れないであろうヨボヨボな年寄りである。何かあった時にローズが守ってもらえるとは到底思えない。
そして、貴族の妻が着るような代物では無いワンピースにローガンは眩暈を覚える。
恐らくだがその服は10代の頃カークランド家で作ってもらったに違いない簡易ドレスだ。
既婚者になれば夫人は嫌でもぺチコートで足元までしっかり覆い、ブラウス、スカートと組み合わせるものだがローズは胸下で切り替えられたワンピースに上からベルトを巻きペチコートで少し着丈を伸ばしているだけである。
少女の時と変わらない姿はローガンとしては可愛らしくて悶えそうだが、夫人としては余りにお粗末だ。
気の毒に・・・・
これでは他家の茶会に呼ばれても出席できるはずがない。
ローガンはその後アルフレッドとローズの話をしっかり盗み聞きすることに成功し、ジョシュにも事情を伝えた。
ジョシュはアルフレッドの友人であり信奉者だ。人望があり賢く、顔の良いアルフレッドをジョシュはいつも自慢していた。
(友人が素敵だと何故か嬉しげなところはアマンダにとても似ている)
そして彼が父親の不倫騒動で学校に戻れなくなることを一番気に病んでいた。
今回の父親の騒動は大っぴらに愛人と出歩くようになったジークフリードが招いた結果だ。
だが、普通にこの浮気をローズが話し合いに持ち込んだところでジークフリードが2人を家に監禁する未来しか見えない。
アルフレッドが「恥ずかしくて学校に行けない!」と言えば部屋に閉じ込め後先考えず退学届を提出するだろうし、ローズが「離婚したい」と言えば離婚に必要な持参金の返済を渋りカークランド家に逃げ込めないようにこれまた自宅に監禁するであろう。
兎に角家族に対する愛情が報告者からは全く上がってこなかったのだから。
自分の両親に関してはいつも気を使うくせに妻や子供には自分が与えてもらっていた愛情を与えることが出来ていない。
仮令それが親の決めた不本意な相手であったとしてもだ。
ローガンは死んだ妻に恋することは無かったが、家族としての情はしっかり育んでいた。これは貴族の夫婦として非常に大切なことだと思う。
ゴールドスミス伯爵令嬢に見合いの席で会った時これほど食の好みが合う人は今後現れないかもしれないと思ったのが結婚の決め手だ。
2人で食事について語る時はいつも笑顔が絶えない。
パン粉をしっかり塗して揚げた豚肉がローガンの好物だが、妻はそれに更に煮凝りのソースをかけて食べるとパンが山のように食べられると言ったり、シチューにミートボールを入れてもあれは飲み物だと2人で同意したり・・・
食事に関する話題を通じて2人は信頼関係が出来上がっていた。良し悪しは別にして。
妻は身長が170センチのポッチャリした生クリームの大好きな明るい女だった。残念ながら向こうもローガンを愛すことは出来なかったようだが、非常におおらかで『まぁいいじゃないの』が口癖。他の令嬢が太っていることを揶揄する中ローガンの体型にも全く頓着しなかった。
残念ながら妊娠と出産の色々が重なり出産時に亡くなってしまったが・・・
だが彼女の残してくれた息子にローガンは日々喜びを見出している。
成長する姿や、家族として支え合うことに何より力を貰えるのだ。
ペンデルトン家の中には愛情が見えない。
アルフレッドに対する真っ直ぐな愛情や信頼関係はローズと2人の間にしか見えなかった。普通貴族の家には住み込みで働く使用人たちも多いので、お互いに気を遣い合ったり、主従関係ながらも信頼関係が成立するが、あそこの使用人たちはローズたちを非常に下に見て馬鹿にしている。
それにジークフリードはまるで自分と血を分けた子供を他人のように扱う。
ローガンにはそれが自分の方が『家主』であるとマウンティングしている子供のように卑しく見える。最初に資金提供を受けている負い目のせいかローズには妙に強気に出ようとする。
子供ならいい。まだ許せるが彼は大人だ。
ちゃんと信頼関係さえ築いていればローズ、アルフレッドから尊敬される父親として扱われるのに、務めを果たさずして敬われようとしているから不協和音を奏でているのだと分かっていない。
家長として扱われたいのに当主としての務めを放棄しているジークフリードは約束をいつも守りきれない子供のようだ。宿題をしないのに先生に褒められていたいなんて先ず無理だろう。
仕事をして稼いでいるから一人前なのではない。
家族を支えて信頼関係を赤の他人たちと築き上げて行くからこそ一人前になるのだ。
ローガンの信念にジークフリードは全く及ばない人間性だ。
あんな人間にローズを預けては居られない。
ゴールドスミス伯爵としてローガンは密かな決意を固めるのであった。