プロローグ
書き上げたので掲載スタートします。
普段、お月様でバカバカしい笑えるものをチョコチョコ書いてますが、この話はこちらで掲載してみます。
最後までお付き合い頂けたら幸いです。
客室に足を踏み入れるとスッカリ顔を覚えた弁護士は立ち上がってキッチリと腰をおり礼をする。
礼儀正しく振る舞う中肉中背の普通の男ではあるがダークグレーの光沢のあるスーツに今日は赤いタイが見事に決まっていた。
30代と思しきその男は「お会いするのも今日で最後になりそうです。」と穏やかに挨拶をし書類の挟まったケースをテーブルに持ち上げた。
慰謝料の提示額と今後の養育費を一括で払うようにとジークフリードに冷静に話しかけてくるがその声は膜がかかったように明確に聞き取ることが出来ない。
だがそんなことはどうでもよかった。
この3ヶ月でペンデルトン伯爵はすっかり精神的に擦り切れており最早この1週間思考能力は停止していると言っても過言ではない。
ジークフリード・ペンデルトン伯爵は書類に目を通す事もせずに弁護士に言われた箇所に黙って印を押し、署名する。どうせ字を目で追ったところで内容は頭に入ってはこない。
書類は10枚以上あったが弁護士の説明も碌すっぽ聞かずに黙々とそれらに捺印していけば彼は少し気の毒そうに眉を顰めた。
「だいぶんお疲れのご様子ですね。仕方のないことですが。」
彼からすればそれが精一杯の慰めの言葉であり、『気の毒です』や『お力になります』は死んでも口にすることは出来ない。
『仕方のないこと』
その言葉の裏には『貴方のこの結果は〈自分がしたことが返ってきているだけ〉だから仕方ないんですよ』という意味が含まれている。
ジークフリードのぼんやりしたその頭でもそれは理解できた。
「私が間違っていたからなんでしょうね・・・」ポツリと呟けば弁護士は薄らと愛想笑いを浮かべた。
「・・・・私には何とも・・・・
ですが、一つだけお聞きしたいんです。
ローズ様は私から見て非常にお可愛らしい素敵なご婦人でした。確かに派手な美人ではないが真面目で頭も良くてらっしゃる。裕福な家庭から嫁いでこられたのにも関わらず慎ましく家政を取り仕切られていた。ドレスも宝飾類も強請られた事はなかったでしょう?
御坊ちゃまのアルフレッド様も学院では非常に人気者で教師たちからの評価も高い。来期の生徒代表弁論大会は既に彼で決定していると聞きます。なのに・・・
なぜ貴方は彼らを毛嫌いしあのような酷い目に遭わせたのですか?
貴方は家族の何がご不満だったのでしょうか?」
ワカラナイ・・・
ワカラナイ・・・
ローズが可愛らしい?
アルフレッドは学校で優秀だと?
そんなことは知らない。
ジークフリードが返事をせずに黙って弁護士を虚ろに見返せば彼は大きな溜息を零した。
「貴方はご自身の幸せに納得してはおられなかったのですね。同じ子を持つ親としてはちょっと理解し難いのですが、今の貴方は家族と別れることを幸せだと思っているようには見えませんからそれが答えなんでしょう。
私も今まで以上に家族に目を向けて行くようにします、ペンデルトン伯爵。
さて、これで貴方は自由ですよ。」
放心状態のジークフリードにこれ以上構っては居られないのだろう。
書類を仕舞うと弁護士は自ら呼び鈴を鳴らし執事に帰るので馬車を呼んでくれと静かに伝えた。
私は自由になりたかったのだろうか?
ジークフリードは首を傾げる。
俺は今までの生活が気に入っていた。
家に帰ると貞淑な妻がいて、自分のすることに口出しはしない。確かに派手な顔ではなかったがツルリとした肌は瑞々しく可愛らしかったかもしれない。
婚姻から数ヶ月でローズは妊娠し翌年待望の長男を出産した。
親戚筋から祝いを贈られる時、ローズは『でかした!貴族の嫁として長男を産み落とすとは非常に優秀だ!』と褒め称えられていた。
柔らかな赤子の髪を掬いながらローズが嬉しそうに礼を述べていたのを覚えているがジークフリードはそれを何とは無しに苦く思った。
(タネを与えたのは自分であってローズが優秀であったからではないのに、なんで親戚はこのように褒め称えるのか?)
実に馬鹿馬鹿しい考えが胸を過った。
しかし彼女の笑顔を思い出そうとするとそんな表情は出てこず、悲しげで困ったような微笑みしか頭には浮かばなかった。
息子はジークフリードの容貌に似ており、伯爵家を継ぐために努力を重ねていた。学院でも成績は悪くないのだと晩餐の席で祖父母にローズは話していたがペンデルトンの家で彼の成果を褒めてやった記憶はない。
アルフレッドはそんな横柄な態度の年寄りたちに文句一つ言わず真面目に相槌を打っているような子供であった。
父親と母親はローズの持参金で修繕された館で悠々と過ごしていたし、孫の様子にも満足していた。『高額な持参金を持ってきたからといって嫁を付け上がらせてはいけないよ。』母親は幾度となくジークフリードに言って聞かせた。我が家は伯爵家で爵位は上なのだ。あの子の家は金があっても所詮子爵だ。
そう陰口を叩いては家が傾いていた時には口にすることが叶わなかった贅沢品を腹に詰め込んでは帰っていった。
父親は爵位をジークフリードに譲ったことを後悔しているのか領地経営について幾度となく要らぬアドバイスをしてくる狭量な男であった。正直そんなことより偶には孫を褒めてやれば良いものを祖父として威厳を見せつけたいのかペンデルトン家の在り方について延々と昔語りばかり。
面倒なそんな年寄りに付き合って話を聞いてやっていたのだからアルフレッドは矢張りいい子だったのだろう。
アルフレッドが優秀であればあるほどペンデルトン家としては安心だ。と祖父母は満足気であったが離婚が決まった今となってはそれもどうでも良い。
家族のことがジークフリードは思い出せないでいた。
自分は一体何をしていたんだろう・・・?
思い返せば学生時代ジークフリード・ペンデルトンは伯爵位しかない平民に近い生活で過ごしていた。
父親に金を稼ぐ才はなくあと数年で領地は手放さなければならないほど家計は一時期逼迫していた。
そんな自分が人並みに幸せを掴み始めたのは母親が持ってきたカークランド家の縁談からであった。
結婚後、領地経営も嫁の実家『カークランド家』からの援助を得たことで経営が軌道に乗り、商売にも余裕が生まれた。
愛人を作ったのが間違いだったのだろうか?
出産後のローズにジークフリードは興味が持てなかった。
だが、そんな貴族他にもいる。
友人らと自分のどこが違うのだ?
キャセリーヌは所詮愛人だ。
妻に据えようと思っているほどの人間ではなかった。
なのに・・・
なのに、どうして自分だけが離婚しなければならないのだろうか?
忠実な執事がローズを粗雑に扱ったからだろうか?
彼を解雇したら妻は戻ってくれるのか?
ジークフリードはそんなまとまらない思考を家族がいなくなってからずっと考えている。
「あの。ローズとアルフレッドは今後どうなるんでしょうか?」
立ち去ろうとした弁護士にふと尋ねた。
慰謝料は当然払うつもりではいるがそんな金は何年か経てばいずれ日々の生活で消えてしまう。
その金がなくなった時彼女たち親子はどうするのか・・・急に心配になった。
弁護士は何を今更・・・と言わんばかりに顔を顰めた。表情を全く隠すことなく。
「接見は許可がないと出来ませんからそれだけは肝に銘じておいてくださいね。先程の書類に判を押してますから。
あまり教えることは出来ませんが心配ということなら少しだけ。
先ずローズ様はこの度とある試験に合格され公職に就くことが決定いたしました。
そうですね。
収入は暫く高くはありませんが非常に安定しているのは間違いありません。いずれ成果が認められれば更に安定した金額を得られるでしょうし保証も多い職場ですから、もし再婚されても働き続ける場所はあるでしょう。
アルフレッド様は貴方がきちんと養育費を一括で払ってくだされば学院には通い続けることが出来ますし卒業したらその後・・・すみません。これは話せません。アルフレッド様のご希望でして。
まあ、あのお二人ならば余程のことが無い限り困窮することはないかと。
因みにカークランド家には居ませんから今後緊急の予定がある場合は当事務所を通じて連絡をください。
間違ってもご実家に乗り込むような真似はなさらないよう申し上げておきます。では。」
バタンとドアの閉まる音が響くとジークフリードは力なくソファに凭れ肩を落とした。
別に家族を壊したかったわけじゃないんだ・・・
心の声は口から零れ落ちていたがその音は誰からも拾われることが無かった。