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21歳、男性、無職

作者: Yushi

「お前、何やってんだよ‼フザケてんのか!?」

男の怒気の帯びた声に、小森引雄(こもりひきお)は思わず自分の耳からスマホを遠ざけた。

「後期は真面目に大学行くって、言ってたんじゃねえのかよ!?」

スマホを遠ざけたので、男は遠くに行った。小さくなった、ともいえるかもしれない。小さくなって、蓋のされた虫かごの中に閉じ込められて、その中からぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーと言っているように、引雄は感じ、するとなんだかこの男のことが急にかわいらしく見えはじめた。虫かごの中にカブトムシがいて、側面をよじ登ろうとするもひっくり返って、あしをじたばたさせている。「もーしょうがないなー」と蓋を開け、カブトムシを立たせてあげる。引雄は家でカブトムシを飼っていた小学一年生のころを思い出していた。

「アッタマきた‼もう、お前のことは信じないからな‼明日、家に連れ戻しにそっちに行くから、覚悟しとけよ‼」

通話は終わった。

引雄は、ハーッとため息をつき、その息が想像以上に臭かったことに驚いた。そして、スマホの画面はYou Tubeになっていた。

しばらく、「6秒で笑える動画まとめ」を何の表情筋も働かせずに見ていた彼は、ふと辺りを見回した。……カップ麺の容器やポテトチップスの袋などのゴミでパンパンになった45Lのゴミ袋たち、鼻水なのか精液なのか分からないものの付着したくしゃくしゃになったティッシュ…彼は試しに目の前の炬燵用の机の上に山積みになっているティッシュの山から、一つを取り出しそれを嗅いでみた。ツーンとする、クセになってしまいそうな生臭さを感知したので、それを放り投げた。……ティッシュ、ティッシュ、ティッシュの山。そうして、ゴミ袋、ゴミ袋、ゴミ袋……。文化資本の欠片すら見えてこない部屋に、怪しくて眩しくて、彼の心底嫌いな西日が落ちる。彼は、久しぶりに自分の部屋を客観視して、これはマズいな、と思い、久しぶりにスーっと頭が冷めて来るのを感じた。床に置いてあったスマホを見てみると、男子高校生が口の中にメントスを袋一個分詰め込んでいる。どうせそのあとコーラが口から馬鹿みたいに出て来るんだろ、と引雄は思うと案の定男子高校生の口からは真っ黒なコーラがあふれ出してきた。そうして、撮影者のクククククという笑い声が聞こえ、それと同時に画面が揺れる。

引雄は、スマホの右側面のボタンを長押しして、何でこんなことになったんだろう、ともう何百回も繰り返してきたはずの反省会を行うことにした。


こういう時、一体どこまでさかのぼればいいのだろう、と引雄は反省会をするときにいつも思う。だけど、なぜか高校生からなんだよな、と引雄は反省会をするときにいつも思う。


高校生。周りから美男美女だともてはやされている俳優たちの三文芝居が折り重なる華麗な青春ドラマに、引雄は一切興味を持つことができなかった。大学生の姉がテレビにくぎ付けになっているのを見て、よくもまあその程度の教養で生きていけるな、と引雄は姉の能天気ぶりを尊敬していたほどだった。

彼の青春は、机の上にあった。机の上にしかなかった。

数冊の参考書を目一杯に広げ、シャープペンシルを握った彼の右手はとどまることを知らなかった。朝会の前、朝会、授業前、授業中、授業の合間、昼休み、放課後。時代とは逆行している引雄のガリ勉姿に、クラスメイトは畏怖の念を感じ、常に彼とはsocial distance を保つことがクラスでの暗黙のルールになっていた。彼は、とにかく、勉強した。先生に内職がバレてみんなの前で叱られようとも、授業中はいつも寝ている上皮だけは「イケている」男子生徒がテストで一位になろうとも、それで女子からキャーキャーキャーキャー言われていようとも、なりふり構わず、彼は椅子から決して離れようとはしなかった。下校中、周りがスマホを開いているなか、彼は単語帳を開き、周りがTwitterを見ているなか、彼は「twist 他~をひねる」をジーっと見つめていた。


彼は、とにかく勉強した。勉強するしかなかった。勉強することでしか、生きることができなかった。勉強することでしか、高校という名の戦場では、彼は生き残ることが許されていなかった。「勉強」というものだけが、彼の持つ剣であり、そして盾であった。


しかし、それでも、彼はキャッキャッと笑いあう男女を校舎内で見かけたときなどは、自分自身が崩れてしまいそうに感じたことも多々あった。そんなとき、彼はいつも同じ言葉をつぶやいていた。


「偏差値の高い大学に行けば、僕は幸せになれる。」


そう、彼は受験戦争を全面肯定する男、大学受験信奉者だったのである。



彼の三年間の努力は見事に実を結び、彼は第一志望校に合格することができた。


第一志望校に合格することができた。


合格することができた。


ただ、それだけだった。


引雄は自分と同じような大学受験信奉者の姿を大学のキャンパスで探した。しかし、彼がキャンパスで見たものは、「受験なんて超楽ショーだったわー」と笑いあい、見る価値のない三文ドラマの話でキャッキャッと笑いあっている、勉強など一ミリもしない、無学で無知な視野狭窄野郎ども、唾棄すべき輩たちだったのだ。「なんの講義が面白いー?」と引雄が話しかけても、「ごめん、俺勉強好きじゃないから」の一言で終わってしまう。引雄は、だんだん自分がおかしいのではないか、と思い始めた。彼は、みんなと同じようになろう、みんなと仲良くなるために普通になろうと決意し、見たくもない三文ドラマを我慢して全クール見たり、Twitterを始めてみたり、周りとおなじようなことをやってみた。しかし、どれもこれも彼を熱中させることはなかった。そうして、しばらくして、ある一つの考えが彼の頭の中に浮かび上がってきた。


「もしかして、偏差値の高い大学に行っても、僕は幸せになることができない?」


この考えが頭に浮かんできてしまってから、引雄は自分の中の何かがぐらぐらと揺らいでいるのを感じ始めた。今まで上ばかりを見ていた彼は、ここで初めて自分の足元を見た。そこは、不規則に積み立てられた積み木の上だったのである。

……危ない、と引雄は思った。このままだと、崩れてしまう。

 彼は、何とか足元を補強しようとしていたのだが、なかなかそれに適したものを見つけることはできなかった。そうして、彼のバイトの女先輩の一言が、とどめの一撃となってしまった。


「君、面白くないね。」


……ドンガラガッシャーーーン‼


彼の積み木は跡形もなく崩れ去り、彼は地面に倒れこんだ。


その後、彼は抜け殻のようになりながらも、単位を落としたらまずい、退学になってしまったらまずい、と二年次の終わりまでは興味のひとかけらも無い講義になんとか食らいつき、単位を落とすことはなかった。

しかし、三年次のある日。いつも通り、彼は、目覚まし時計に起こされ、顔を洗い、朝ご飯を食べ、父親が買ってくれた目立たない服に着替え、歯を磨き、部屋を出た。駅まで徒歩十分の道を歩いていると、周りが彼の方を見て笑っているのに気が付いた。彼は、いままでもそういった経験が何度もあったのだが、それは自意識過剰から生じる被害妄想であると考えていた。しかし、今回は明らかにみんなが彼の方を向いている。彼の方をちらっと見て、一緒に歩いている人とクスクスクスクス笑い合っている。…ご飯粒でも顔についているのかな、と彼はズボンのポケットからスマホを取り出し、内カメラを起動させた。すると、彼の左目から透明の液体が流れていることに気が付いた。

そのとき、彼は、自分という存在が、自分が今この道を歩いているという事実が、急に恥ずかしくなって死んでしまいそうになった。彼は、急いで、今来た道を逆に走り、部屋に戻り鍵を閉め、ベッドに倒れこみ、そうして枕を濡らした。

この日以降、彼が大学のキャンパスに足を踏み入れることはなかった。


三年次前期、彼は一つも単位を取ることができなかった。


実家から電話がかかってきた。母からだった。

「引雄、大丈夫?単位、取れてないみたいだけど…」

実家に成績表が送られるシステムに怒りを覚えながら、彼は言った。

「だいじょーぶだよー。バイトが忙しかっただけだからー。後期は真面目に大学に行くからさー。」

彼はあの日以来バイトに行っていない。

「そっかー。ならしょうがないかー。あそうだ、おととい、いつも通り振り込んでおいたから、わかってると思うけど、あんま無駄遣いしないでよー。」

「大丈夫だって。あんまり心配しないでよ。もう三年目なんだよ?」

 引雄は、左手で胸を押さえつけながら、そう言った。


 ドンドンドンドンドン‼

 布団にくるまっていた引雄は目を覚ました。誰かが部屋のドアを叩いている。

「おーい‼引雄‼開けろー!」

…あいつの声だ。その後、その男と母が二言ほど話す声が聞こえ、ドアは開いた。

「おい引雄かぎくらいしろやー!……うわなんじゃこりゃ!きったねえなあおい!ゴミ袋、ゴミ袋、ゴミ袋!ティッシュ、ティッシュ、ティッシュ!……くっせえ!イカくっせえなおい!」

ずかずかと入り込んでくる者一名。ゆっくりと近づいてくる者一名。

引雄は、布団を頭からかぶった。

「おい!いつまで寝てんだ!もう一時だぞ‼」

 バッ、と真っ暗な視界が一瞬で明るくなってしまった。そして、……寒い。引雄は赤ちゃんが母胎のなかにいるときのように、丸まって暖を取ろうとした。

「いつまで寝てんだよ‼」

背中に強い衝撃が走り、ゴロン、と引雄は横に半回転した。見ると、男性の足があった。

「ほら立て!」

 胸ぐらをつかまれ、引雄は無理やり立たされた。

「…お前に一人暮らしをさせた俺が馬鹿だったよ……。ほら!掃除するぞ掃除!」

引雄の目の前には軍手とマスクを一つずつ持った男性の手があった。見上げると、男性と母はすでにそれらを装着しており、母は玄関周りに新しいゴミ袋を開いて、ゴミを拾ってはその中に入れていた。

「ったっく…。何で俺がこんなことしなくちゃいけねえんだ…。……くっせえ!イカくっせ!」

引雄は、靄がだんだんと消えていく頭の中で、ティッシュだけは先に捨てておけばよかったな、と思った。


 運転席に座る男がローンを組んで買った中古のミニバンの最後部で、引雄は、頬杖をしながら、前から後ろへと流れていく外の景色を、久しぶりの明るい外の景色を、見ていた。彼の横下にあるスピーカーからは、あの男の好きなバンドの曲が、耳をふさいでも聞こえてくるくらいの大音量で、無慈悲に流れていた。

「引雄ー?」

…うるさい。

「何?」

引雄は一応返事をした。

「なんか食べたいもんない?」

カップ麺と水だけで構成されていた彼の体内は、それ以外のものを体の中に入れようという欲求を起こさせなかった。

「……特にない。」

率直な意見を、引雄は口にした。

「そっか…。じゃあさ、母さん、あそこがいいんじゃない?引雄が好きな…」

男は、助手席に座っている母にそのお店の名前をきいた。引雄は、そのお店が特別好きなわけではなかったが、それは彼が一人暮らしをする前までは家族4人でよく行っていた、ハンバーグやステーキが食べられるファミリー・レストランで、日本全国にどこにでもあるお店だった。

「……引雄の好きなもの食べていいからさ、とりあえずおいしいものを食べようぜ。」

引雄は、ルームミラー越しに見える男の顔の上部分を見ていた。

…今は、怒っていない。

引雄は、男の堪忍袋の体力ゲージの確認だけは怠らないぞ、と思った。


大学生くらいの男女と彼らの二倍以上の年齢の男性たちが、黒い正装を着て、我が物顔で客たちが押す「ピンポーン」というベルの音に、えっちらおっちら翻弄されている。黒いカバーのかかった、高級感の演出されたメニュー表をテーブルの上に広げながら、引雄はその姿を見ていた。そうして、ブルーカラーの彼らに同情の念を抱いていた。

「決まった?」

目の前に座った男がきいてきた。引雄はちらっとその男の方を見て、メニュー表に視線を落とした。好きなものを食べていいと父親は言っていたが、特に食べたいものがあるわけではなく、そして家族で行く外食の予算は一人当たり千二百円までであるという暗黙のルールがあったので、彼はそのレストランでいつも頼むメニューを指さした。

「またそれ?少しは冒険しないの?」

男の言っていることがよく分からなかったので、引雄は首を縦に振った。

「ブレッドバーは?」

母親がきいてきた。引雄はまたうなずいた。

ピンポーン

はーい、という女性の声が聞こえ、その声と一致した姿の若い女性が来た。

「えっと、ハンバーグステーキを二つと、ミックスグリルを一つ。ハンバーグセットにはライスをつけて、あとミックスグリルにはブレッドバーをつけてください。」

男は、外向きの、型にはまったような言い方で注文した。母と父は、いつもの一番安いメニューを頼んでいた。

「あと、ドリンクバーを二つ。クーポンがあるんですけど…」

母は、クレジットカードやポイントカードなどでパンパンに膨れ上がった、年季の入った茶色の長財布の中から、「ドリンクバー百円」のクーポンを取り出した。

「ご注文承りました。ブレッドバー用のお皿は只今お持ちいたしますので少々お待ちください。」

女性の店員は去っていった。

「ドリンクバー、行ってきていいよ?」

母が言った。引雄はうなずき、立ち上がった。

「何飲むの?」

男がきいてきた。それに答えても話が盛り上がることは無いと思ったので、彼はそれには応じず、ドリンクバーの方へ向かった。

 「ファンタメロンソーダ」のボタンを長押ししているあいだ、引雄はこれからの生活について考え、憂えた。


 薄青いミニバンのスライドドアがピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、という音をたてて、スライドされている。引雄は、自分の胃の中にすっかりたくさんの食物が詰め込まれてしまった、と思った。そして、これからはそれらを消化するためにエネルギーが注がれるから、頭がぼおっとしてくるぞ、と思った。引雄は男からカギをもらって先に車の中に入っていた。車のガラスからは、男性と母が入り口付近で何やら話しているのが見えた。その表情から察するに、きっと楽しい話ではないのだろう、と引雄は思い、座席を倒して目を閉じた。そうして、男性が食事中に言っていたこれからの予定を思い出していた。

……これから、近くのショッピングモールにて買い物。でそのショッピングモールの中にある映画館で17:35からの映画を観る。その後、ショッピングモールの近くのスーパー銭湯に行き、帰宅。

引雄は、「これからは引雄が復帰するまでは土日は三人で一緒に外出してもらうから」という男性の言葉を思い出してしまい、果たして僕が復帰するのはいつ頃なのか、そして「復帰」とは何をもってして「復帰」と呼ぶのか、とだんだんと靄がかかってきた頭の中で考えようとするも、頭の中は次第に黒くなっていき、彼は意識をなくした。


引雄は、小さいころからショッピングモールが大嫌いだった。そのため、家族で外出しても彼だけ車内に残るのが常であった。なぜそこまでショッピングモールが嫌いなのか、彼自身もよくわかっていなかったのだが、ついこの間You Tubeでたまたま見た動画で、その理由が分かった。

彼は、自分がショッピングモールを嫌いなわけは、それが資本主義経済の権化であるからだ、と結論付けた。

ショッピングモールという名の檻に閉じ込められ、商品という名の餌を欲望のままに貪り食い、ブヒブヒと鼻を鳴らして喜んでいる人たちと同じ空間にいるということに、彼には生理的な面で耐えられなかったのである。そのため、引雄はその日もいつも通り車の中に残ろうと思っていたのだが、男性の堪忍袋の体力ゲージがみるみる減っていくのを感じていたので、仕方なしに車から降りた。


「これ、引雄に似合うんじゃない?」

男性が、「¥1,990」と血のように赤い字で書かれたポスターの下に置いてある棚から、病人の顔のように真っ白なジーンズを取り出し、引雄に見せた。自分の欲望のままにあちらこちらに動く人たちがうじゃうじゃいる、「安くてシンプル」を謳う服屋に、引雄たち3人は来ていた。目立たない服、というのが彼のモットーであったのだが、「冒険しようぜ」と男性がまた例の謎の言葉を発し、やたらと目立つ服を引雄に押し付けていた。先ほどのショッピングモールを拒否しようとした件から、男性の体力ゲージはずっと低い状態のままであったので、引雄は言われるがままに服を受け取り、「どう?」と男性が言うと、「いいね」と声を発し、「試着してみたら?」と男性が言うと、「そうする」と声を発し、店の奥の試着室に向かっていく、という一連の動作を繰り返していた。

本日3回目となる試着室のカーテンを閉め、硬すぎて履きにくいズボンをせっせと履いているあいだ、引雄は、なぜ人は周期的に服を買うのだろう、と思った。服なんて数着あれば十分のはずなのに、なぜか人は、成長したから着れなくなったという理由ではなく、おそらく、「飽きたから」という理由で、わざわざ服を買い、そうして毎日異なる服を着る。彼は、服は自分の裸を隠すための道具であるとしか考えていなかったので、魚のような眼をした人たちが、まるで誰かに操られているかのように、買い物かごの中に服を入れていく姿を見て、なんだか不思議だなあ、と思った。彼は何とか白いジーンズを履き、目の前の大きな鏡に自分の全身を写した。特に何かの感情がこみあげてくるわけでもなく、自分の素足を隠すことができた、と彼はいつものように思った。


続いて三人は映画館に来ていた。そこで、「豪華俳優が勢ぞろい」の「笑って泣ける」と告知されている映画を観た。引雄は、その映画を、全く楽しむことができなかった。引雄は、映画はたまにテレビで放送されているのを見る程度なので、特に好きでも嫌いでもないのだが、その映画は、監督が自分の性癖をぐいぐいぐいぐいと押し付けているようで、観ていて心底気持ちが悪くなった。そのため、一時間程度で限界を感じ、両隣りに座った男性と母を置いてスクリーンから抜け出していた。トイレの個室でゲエゲエと一人えずきながら、彼は思った。映画というのは、観る者に特定の思想を植え付ける、宗教的側面の持ったものだったのか、と。彼は、映画というものは人間を人間たらしめるための、自由な心をカルチベートするための芸術の一つである、と考えていたので、もしかしたらそれは遠い過去の話なのかな、と思った。そして、彼はトイレから出て、グッズ売り場近くにある長椅子に座り両親が出て来るのを待った。

 


長椅子に座りながら、こう考えた。


どこへ越そうが、兎角(とかく)に人の世は住みにくい。


それは、(みな)が皆同じであることを望む、この心底窮屈で息のできない汚れた空気のせいだ。

皆がファミレスに行くからファミレスに行く。皆が服を買うから服を買う。皆が靴を買うから靴を買う。皆が映画を観るから映画を観る。そうして、皆が笑うから笑う。皆が泣くから泣く。誰一人として、立ち止まって自分の頭で考えようとはせず、その場に生じている流れを読み、その流れに身を委ね、そうしてこの汚れた空気が生まれる。


「社会」をスムースに回していくためには、その流れに逆らおうとする人は危険だ。だから、そういった人は、「社会」からは排除され、「社会」には空気の流れを読み、またその流れに身を委ねることのできる、無味で無臭で無害な、「普通」の人のみが残る。また、そういった「普通」の人を育てるために、画一的な教育があり、マス・メディアがあり、そうして、「笑って泣ける」映画があり、ショッピングモールがある。


僕が「復帰」をするということは、僕が「社会」に復帰をするということであり、とどのつまり、僕がそういった「普通」の人間になるということだ。


しかしながら、


果たして、僕は、それで「生きている」、と胸を張って言うことができるのであろうか。


スクリーンを出ていく人たちの中に、母と男の姿が見えた。


 

「いやー、でも俺はもったいなかったと思うなー。」

露天風呂の中、男は隣にいた引雄に話しかけた。引雄は、一つの空気の流れを感じ、そうだね、と言った。

映画館を出たあと、車内は始終静かであった。そうして、スーパー銭湯に着き、車から降り、何か言いたげな男を振り切るようにして引雄は一人てくてくと歩き、脱衣所で服を脱ぎ、引き戸を開けて湯気の立ち上る、母胎のように暖かい世界に入った。彼はこの瞬間、今日一日を通じて初めて、心から安らぎを得ることができた。そうして、この心を誰にも犯されたくないと思い、ストーカーのようについてくる男を振り切るように浴槽を転々とし、露天風呂に入ろうと思い引き戸を開けて外に出た。空気の冷たさと体の温かさの絶妙な混ざり具合が、彼の頭をぼおっとさせた。ちゃぷん、とお湯に浸かり、しばらくして上を見上げてみると、スーパー銭湯の無機質な建物と落下防止のフェンスとの間に、彼は一つの宇宙を見た。それに見とれていると、ザブン!と隣に男が入ってきたのである。

「せっかくだから最後まで観ればよかったのにー。俺は面白かったけどなー。ま…」

……ああそうですか。あれを観て本気でそう思っているのなら、そりゃあ、あんたの頭はもうお終いだよ。すっかりと「社会」、に洗脳されちまった、「普通」の人間だよ、あんたは。まあでも、そのおかげで「社会」、で波風立てずに生き残ることができて、そうして銭を稼いで僕を養ってくれているのだから、別に文句は言えないんだけどね。でも、僕はあんたみたいに洗脳されたくないから、「社会」、になんか一歩たりとも出たくない、出てたまるか、って思っているだけで。

「…るというのも分かるけどね……俺も、引雄と同じくらいのときは、両親といるのは恥ずかしくて嫌だったし。でもさ…」

……きました。きましたよ。あんたの鼻クソみたいにちっさい脳みそで拵えた三文ドラマが、今夜も幕を開けてしまう。今夜の舞台は、露天風呂。シーンは、父と息子。親子二人水入らず(温泉なのにね!)、裸の付き合い。やさぐれてしまった子供を、「人生の先輩」として父親が語る人生論。それっぽいBGMが流れ始め、父親が息子に優しく語る。最初は話を聞かなかった息子も、次第に心を許し、最後には息子の目からは涙があふれ出す。そうして親子仲良く肩を抱き合う。ここがクライマックス。お茶の間は大号泣。はーよかったねー、めでたしめでたしー、ぱちぱちぱちぱちぱち……


…って、なるわけがねえだろ。


あんたが昔見た安っぽいドラマに、「父親」に、自分の姿を重ね合わせるのを、もういい加減にやめたらどうだ?


そうやっていつまでたっても自己に陶酔している限り、あんたは「愛する息子」、を一生かけても救うことなんてできやしないし、あんたはその息子の「父親」、になんか一生かかってもなれっこない、って思うよ。


「……だと思うんだけど。」

 引雄は空気の流れを感じ、「うん、そうだね」と言った。


 翌週、また翌週と、週末になると引雄たち三人は外出した。ファミレス、ショッピングモール、ファミレス、ショッピングモール、スーパー銭湯、ファミレス、映画館、ショッピングモール、ファミレス、映画館、スーパー銭湯、ファミレス……


 引雄にとって、スーパー銭湯だけが、唯一自分の心を落ち着かせることのできる空間であった。



 実家に帰ってからどのくらい経っただろう、と引雄は自分のベッドの上にあおむけに寝ころびながら思った。スマホに映るのは相も変わらずYou Tubeで、テレビで一週間くらい前に放送されていたお笑い番組が、スマホの画面よりもさらに小さな画面になって、少し加工された音声とともに流れている。これを見るくらいならテレビで見ればよかったな、と彼は思った。だけど、ちょうどそのときはあの男に連行されていた時間だったから、しょうがないかな、と思った。スマホを縦向きにすると、左上には「17:17」という数字があった。彼は、今日も何もしなかったな、と思った。だけど、生きているだけで十分か、と思った。


 もうお店の配列をすっかり覚えてしまったショッピングモールに、三人は来ていた。そしていつも通りのルートを辿った。ただ、今日は何やらセール中らしく、母と男はブタのように商品をあさっていた。オスブタが、今日はどっか自由に行ってくれていいよ、後で連絡するから、とブヒブヒ言った。引雄は、まだブタ語は習得していなかったので、無言でブタたちに背を向け、一人歩いた。


 しばらくして、引雄は、あたりを見回した。そこで彼が見たものは、人のかたちをした、たくさんの真っ黒としたもじゃもじゃたちだった。前にも横にも後ろにも上にも下にも、人のかたちをしたまっくろくろのもじゃもじゃたちが、歩いていた。彼は、思わず口からミックスグリルを出してしまいそうになった。彼は、下を向きながら小走りで助けを求めた。……誰か!誰か助けてくれ!彼は心の中で叫んだ。しかし、周りにいるのは黒のもじゃもじゃたちで、人はいない。彼は走った。なりふり構わず、彼は走り、人を探した。


 気が付くと、彼は本屋にいた。何故だか分からなかったが、彼は本屋に来ていた。ここなら人はいると、彼は直感した。彼は、入り口の近くにあった棚に平積みされている文庫本を手に取り、開いた。そこには、たくさんの文字があった。しかし、文字しかなかった。人はいなかった。彼は胃の中から込みあがってくるものを必死になって飲み込んだ。その黒い文字たちは、一文字ずつ、紙から浮き上がり、織り重なり合い、人のかたちをした黒いもじゃもじゃとなった。彼は急いで本を閉じ、泣きそうになるのを必死になって堪えて、だけど確かにここに人はいる、と信じて店内を歩き回った。


しばらくして、文庫本コーナーの奥に、彼は光り輝くものを見た。


その光を手に取り、開いた。


すると、彼は、自分が緑の原っぱの上に立っていることを知った。


彼は、遠くの方に、光り輝いている人を見つけた。彼は急いでその光のもとへと走っていった。だんだんとその人の姿が見えてきた。彼は、どくどくどくどく、と心臓の鼓動を感じた。そして思わずその人に飛びついた。そして、ギューっと、抱きしめた。引雄は、久しぶりに、人のあたたかさを感じた。ぬくもりを感じた。光も、彼を抱きしめてくれた。彼は、久しぶりに、心から笑った。そして、静かに泣いた。


 引雄は、本を閉じ、表紙を見た。


『堕落論 坂口安吾』


 そうして、周りを見渡した。周りは、服を着た動物たちが、二足歩行で歩いているだけだった。


 そのとき、彼は、生まれて初めて、どこまでも、無限に、続いていく道を、そして、その道の上に自分が立っているということを、感じた。


 ……よかった。これで僕は生きていける。


 彼は強くそう思った。



「あーいたいた!引雄しっかり携帯みとけよー!」

男と母親が本屋に来ていた。彼らは、たくさんの白い袋と、そして箱状の袋とを手に持っていた。

「今日はクリスマスだからさ、早く帰ってご飯にしようぜ!」

男は言った。


机には、フライドチキンなどの「クリスマス料理」、があふれんばかりに並べられていた。

「さあ食べちゃってー!」

目の前の男が張り切って言った。引雄は、別にキリスト教徒でも何でもないのにはしゃいでいる、この男の精神状態を理解することができなかった。そして、クリスマスという外国から勝手に取り寄せた「文化」、を、日本人の潜在意識に植え付けているマス・メディアや、その「文化」、に付け込むように「限定商品」を売り出し、「買わないと損しますよ」とコマーシャルして、人の購買意欲をインスパイヤする企業などが行うお仕事には、全く清々しいものがあるな、と思った。

「ケーキはいつにする?」

母が言った。

「しばらくしたらでいいんじゃない?だって、こんなにたくさんあるんだから、お腹いっぱいになっちゃうでしょ?ね、引雄?」

男がまた流れを生み出した。引雄はその流れを読み、「うん」と言った。そして、ふいにその男の背後を見てしまった。台所には白いプラスチックのパックが散乱されていて、その横には、今日買ったらしい500mlのペットボトルサイズのクリスマスツリーが、ぴかぴかと光り、濁った色のプラスチック・パックたちを、ほのかに照らしていた。


 目の前には円形のショートケーキがあった。

「さ、食べちゃいましょうか。」

母が言った。

「いやいや、せっかくろうそく入れてもらったんだから、つけちゃおうぜ?」

銀色の缶ビールを手に持ち、ゆでだこのように真っ赤っかな顔の男が言った。男は、買ったときについて来たろうそくを立て始め、そしてプラスチック製の透明のライターで火をつけた。

「母さん、ほら電気消して、あとテレビも。」

困惑の表情をした母は、男が勝手に生み出した空気の流れを仕方なしにくみ取り、テレビを消し、部屋の電気も消した。

「なんか引雄が小学生の頃を思い出すなあ…」

暗闇の中でゆらゆらと揺れる炎を見て、創作意欲が触発されたのか、男はまた三文ドラマを拵え始めた。今回の舞台は…と引雄が考えていると、

「じゃあ、引雄、ふーっと吹いちゃって。一番誕生日が近いの引雄だし。」

イエス・キリストのことなど頭にないであろう男が、そう言った。

「歌がほしい?……しょうがないなあ……ハッピバーステートゥーユー、ハッピバーステートゥーユー」

アルコールで脳みそをすっかりやられてしまった男は、手のひらを叩き始めた。母も、流れに身を委ねるように、残念そうな顔をして小さく手を叩いている。しかし、引雄はというと、今まで体の中に溜めに溜め込んでおいた「何か」が、ここでついに、ボン‼と爆発してしまったのである。彼は、勢いよく、目の前のケーキを両手で押しのけ、それを床に落とした。べしゃ、という音だけが、リビング・ルーム全体に響き渡った。ろうそくのことを思い出し、引雄は机の上の真っ黒な砂糖水を手に取った。びしゃびしゃ、という音がした。

「……何してんだよ‼」

男は机に身を乗り出し引雄の胸ぐらを掴んだ。引雄は、グググ、とその手を全身の力を込めて握りしめた。

「いてえよ!」

男はその手を振りほどいた。

「……お前さ、……いい加減にしろよ‼……家帰ってきてから何か月?何か月経ってると思ってんだよ!?……フザけてんの?なあ?」

引雄は、男の出す威圧感に体が吹き飛ばされそうになった。しかし、彼は男の方をよくよく見てみると、威圧感だけだな、と思った。強烈なのは外見だけで、残念ながら、中身は空っぽ。

「…フザけてんのは、どっちだよ?」

引雄は自分の声が震えていることに驚きながらも、しっかり言葉にすることにした。

「ハア?」

男は言った。引雄は、バシン‼、と両手で机を思いっきり叩き、両足でしっかりと地面に立った。

「一番フザけてるのは、あんただろうが‼現代社会の病巣のような場所に自分の息子を好き勝手連れまわして‼それで息子の病んだ心が回復するとでも思ってんのかよ‼」

彼は、真っ赤な顔で困惑している男の隣に、ちょこんと座っている母の姿を見てしまった。彼女は静かに涙を流していた。引雄は何かこみあげて来るものを感じ、そして、迷った。しかし………………言ってやろう、と思った。ここで屈したら、何も変わりはしない。またあの地獄の日々が繰り返されるだけだ。…………屈するものか。全体の空気に、屈してたまるか。………全部、何もかも、包み隠さず、……全部、言ってやる。全部だ。全て、自分の中のものを全て、ぶちまけてしまえ。

「あんたのそのすっかり『社会』に洗脳されちまった脳みそで拵えた思想を、かわいい自分の息子にまで植えつけるつもりなのかよ!?あぁ!?そうやってこれからもお前みたいな『社会』の奴隷たちを生産していくつもりなのかよ!?お前が一番フザけてんだよ‼」

「……何、……言ってんだ?」

男は明らかに戸惑っていた。

「あんたにはわかんねえだろうよ‼あんたの洗脳されちまった脳みそじゃあ、純粋な心をもつ息子の考えていることなんぞ、わかるわけねえだろうよ‼」

「……おい…落ち着けよ…」

男が引雄の方に手を伸ばした。引雄はそれを振り払った。

「さわるんじゃねえよクソムシが‼…………全部が全部‼あんたのせいだからな‼俺がこんなになっちまったのも‼こんなになっちまう俺が住む社会も‼全部が全部‼あんたのせいだからな‼あんたが‼『こんな社会おかしいです』なんて言わずに‼従順なペットのように働いて‼社会の歯車になって‼そんでそのことになぜか誇りを持っている‼あんたのせいだ‼成長しきっている社会で‼それでも馬鹿みたいに働いて‼普通に考えれば‼そんな社会おかしいはずなのに‼誰も何も‼お前だって‼声を挙げようとしない‼社会で生き残るために‼空気を読んで‼空気を読むことだけはいっちょ前にうまい‼あんたらクソムシのせいで‼あんたらのせいで‼俺のような‼『社会のお荷物』が生まれちまうんだよ‼分かってんのか!?それなのに‼そんなクソムシなお前自身のことは全く省みずに‼お前が社会で植えつけられた‼おかしい『普通』を‼一方的に俺にぐいぐいぐいぐい押し付けやがって‼おかしな『普通』に‼俺をはめ込もうとしやがって‼それだから‼何も変わんねえんだよ‼俺も社会も‼何もかも‼少しはな、少しは、無学で無知なお前自身のことを悔い改めて‼社会のことについて少しくらいは勉強しろよ‼勉強して、本気で、俺を、そして社会を‼変えようとしてみせろよ‼この馬鹿クソ野郎のクソだらけのクソムシがあ‼クソムシがああああああッッッ‼」

ぜえ、ぜえ、はあ、はあ、と引雄は肩で息をしていた。

「……俺は、お前みたいな人生は、まっぴらごめんだね‼お前みたいな、『社会』で生き残るために、型にはまった考えしかできない、クソみたいに心底つまらない人生なんか‼」

はあ、はあ、はあ、はあ、と息を整えながら、彼はつづけた。

「…だから、俺は、作家になる。『社会』に出ずに生き残るために、俺は作家になる。大学も、辞めて、小説をかく。ひたすら、小説を書いて、『社会』になんか洗脳されずに、純粋な心で、子供のような透明な心で、生き残ってやる。生き残ってみせる。」

何かがかかったような声で、彼は口にした。

「……ハア………?作家………?……それ、真面目に言ってる……?」

男の目は充血していた。

「…お前、……一級建築士になるんじゃねえのかよ………?だから、建築学科に入ったんじゃなかったのかよ……?それで、大学辞めて、作家になるって………。今まで払った学費は?馬鹿みたいに高い学費は?俺と母さんが死に物狂いで働いて稼いだ金、ほぼ全部お前につぎ込んできたんだよ?わかってる?……それなのに、作家って…。」

男は右手でこめかみの部分を抑えた。

「お前は小さいころから変わってるって思ってたけど、まさかここまでとはな…。……明日、病院に行こう。そこで先生に診てもらおう、な?母さん…」

「うるせえクソムシ‼…ハッ‼精神科だなんて‼相も変わらず‼型にはまった考え方しかできねえなあ‼この馬鹿クソ野郎がよ‼…本ッッ当に‼お前は馬鹿だなあ‼馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿‼クソ馬鹿野郎が‼そしてそんな馬鹿な自分を少しも恥ずかしいとも思わない‼お前は‼正真正銘‼純度百%‼真の馬鹿野郎だよ‼世界一の脳足りん野郎とはお前のことだ‼馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿‼何遍言っても足りやしねえ‼この馬鹿野郎があああああッッッ‼………馬鹿なお前のためにわざわざ言ってやるけど、大学は専門学校じゃねえんだよ‼俺は建築士専門学校に入ったわけじゃねえから‼」

ぜえ、はあ、ぜえ、はあ、と、引雄は、肩で息をしていた。

「……でも…作家って、……それでしっかりお金を稼いで、食べていけるものなの?」

放心状態の男を差し置いて、母がきいた。

「……それは、分からない。………けど、俺、バイトするから。日本は、バイトをすれば十分生きていける国だから。『非正規雇用』だから不安定だとか言ってくる連中はいるけど、そういう人は、『正社員』でやりたくもない仕事をやっている、自分のかわいい身を正当化するためだけに、そう言っているだけだから。そういうかわいそうな人には、好き勝手言わせてあげればいい。僕は、バイトをして、それで生活費を稼いで、余った時間に小説を書く。ひたすら書く。そうすれば、いつかその小説が認められて、それで小説だけで食べていけるようになれるのかもしれない。そうしたら、バイトを辞めて、小説を書くのに専念するから。…………けど、いつまでたっても、自分の書いた小説が認められることはないのかもしれない。死ぬまでバイトを続けるようになってしまうのかもしれない。でも、俺は、それでも構わない。構わない、と思う。小説が書けるのであれば、それで構わない。俺にとって、小説を書いているってことが、『生きている』ってことだから。『正社員』になって、小説のことを考えられなくなるまでこき使われるような人生なんか、俺は嫌なんだ。」

引雄は再び男の方を向いた。

「だから‼あんたみたいにクソみたいな真っ黒い服を着て訳の分からない仕事をしてほそぼそと生命線をつないでいくような人生だったら‼俺は好きなように小説を書いてそれで野垂れ死ぬ人生を選ぶ‼お前みたいなクソつまんねえ人生を生きるくらいだったら、死んで結構だ‼」


 彼はリビング・ルームを去った。


バクバクと鳴っている胸を両手で押さえながら、言ってやった言ってやったぞ、と満面の笑みを浮かべながら、彼は階段をのぼった。



(エピローグ)

「ありがとうございます!」

商品をスキャンする引雄の顔を全く見ずに、スマホでいかにも「お仕事」の電話をしていた、レシートを受け取らずにさっさと立ち去る黒い服を着た「ビジネスマン」の背中に向かって、彼は深々とお辞儀をした。そして、コンビニ店員を機械だと思って接している、機械のように無機質でカピカピに乾ききった心を持つ男に向かって、「あんたの人生つまんねえだろうなあ」、と心の中でつぶやき、彼に同情の念を寄せた。


彼が小説を書き始めてもうかれこれ一年近くが経過した。この間、彼はひたすらに小説を書き、そして書いたものを新人賞に送り続けた。しかし、どれだけ送っても一次選考止まりで、二次選考に入ったとしても、何もわかっていないマニュアル人間たちの型にはまった評価を受けるだけで、賞を取るまでには至らなかった。


 それでも、彼は毎日が、心の底から、楽しい、と思えた。夜、バイトが終わってから、部屋に戻りパソコンを立ち上げ、廃棄用のおにぎりを食べながら、自分の内側にあるモヤモヤを、キーボードを叩くことで、言語化する。たとえ深夜になっても、小説を書いていると不思議と全く眠気を感じない。1:34だろうが13:34だろうが、彼のキーボードを叩くリズムは変わらなかった。一日は二十四時間である、という「事実」を本気で疑ったほど、彼は時間という感覚を忘れ、ひたすらパソコンに字を打ち込んでいた。


彼は、こんなにも毎日がキラキラして輝いて見えるのは、そんな俗な言い方で表現したくなるくらいに毎日が楽しいのは、人生で初めての経験だと思った。魚の眼をしてふらふらと徘徊している人たちに、申し訳ないです、と言いたくなるくらい、るんるんらんらん、とスキップしてしまいたくなるくらい、心躍っている毎日は、人生で初めての経験だと思った。


 生きている。僕は、生きている。確かに、僕は、生きている。


 レジ前に近づいてきている、大きな黒いエナメルバックを背負った、一リットルの紙パックを持った高校生に向かって、彼は元気よく言った。

「いらっしゃいませ!」


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