読書の日
村に来てから一年ちょっとが過ぎました。今年の収穫は去年よりも豊富です。そして、遂に麦が取れたのです。さらば、ネコジャラシの種さん。そして、麦粥さん、こんちには。
行商人さんが持ってきた種籾は小麦だけでなく大麦もあったそうです。夫が言っていましたが、私は生えている物を見てもよく分かりませんでした。どっちも同じ背丈でしたし。
村に住む人も増えました。雪は余り降りませんでしたが、やはり冬は食料事情が悪くなるみたいでして、お腹を空かせた隣村の人達が移動してきたのです。彼らも春、夏と過ごす内に、昔からの住民のように仲良くなりました。
このノノン村に来るまでに私達も通過した森の中の村の人達でしょう。その中にメリナよりも少し歳上ですが、子供も数人いまして、メリナの体調が良いときは遊んだりしていました。ただ、少し動くと咳が出る体ですので、駆けっこみたいな激しい遊びは出来なくなっていました。それでも、やはり友達と戯れるメリナは笑顔です。
しかし、今日はあいにくの雨です。王都に住んでいた時の家と違って、この家は窓がガラスではなく、一枚板なんですよね。器用な夫が、横にスライドして開閉が出来るように取り付けてくれたのですが、今日のように強く家を叩くような雨が降る日だとピシャリと閉めないといけません。
魔導式ランプを行商人さんに頼んでおいて良かったです。そうでなければ、真っ暗な部屋に閉じ籠る他、ありませんでしたから。
皆で本を読みます。
上半身だけ起こしてベッドの上で座るメリナも絵本を手にしています。
「せいりゅー様に会ったら、メリナの病気も治るよねー。メリナ、せいりゅー様、だい好きー」
無邪気に言う娘は自分を助けてくれるかもしれない存在を知ってから、聖竜様のお話をよく読んでいます。
「せいりゅー様の神殿がシャールって街にあるんだよ。ぎょーしょー人さんが言ってたー」
私も知っています。都から見て王国の北方にあるシャール伯爵領に竜神殿があります。謂れの古い神殿でして、そこの巫女に選ばれるのは大変に名誉なことだと聞いた事があります。上流貴族の子女でさえ、故郷から遠いシャールでの召し使いのいない生活を受け入れてでも、巫女になりたいと申される方も少なくないらしいです。
「メリナも行きたいなー」
「行けるものなのですか、あなた?」
「うーん。でも、オズワルドさんとの約束もあるだろ? 数ヵ月の旅はダメかな。あっ、でも、森を突っ切ってショートカットすれば数日で帰って来れるかな」
「村の外で暮らしてはいけないのでしたね。うん、メリナ。ごめんね。メリナが大人になったら、道を作って旅行に行きましょう」
「……うん」
「おっ、丁度良い本があった。ほら、メリナ。こっちの本には竜神殿の巫女さんがいっぱい載ってるぞ」
「うわっ! わー、凄い!」
メリナは夫から手渡された本をパラパラと捲っていきます。私も横から覗きまして、黒一色の服に身を包んだ美しいお嬢さん達が1人ずつ1頁毎にリアルなタッチで描かれているのが見えました。お尻をこちらに向けて腰を捻っているとか、スカートをたくしあげて太ももを見せているとかなど、奇妙なポーズの方が多いです。
……こんな本もあるんですね。世の中、知らないことが多いです。
メリナが持つ本を少し持ち上げて角度を変え、表紙を確認します。
『紳士による紳士のためのナドナムのうっふん殿堂紹介 ―シャールの巫女服風のお店特集―』
うっふん? 何でしょう。
しかし、ナドナム? いやらしくて穢らわしいお店で有名な街でして、王都から南側に位置し、地理的にはシャールとは完全に反対側の場所です。
「あなた、新しい本ですか?」
「う、うん……」
「ナドナムの? あの過剰接客で有名なお店がいっぱいあるナドナムの?」
「あー、行商人さんが適当に選んだダロウなー。全く困ったなー。でも、ルー。僕はメリナを励ましたかっただけなんだ。それだけは覚えておいてくれ。いや、覚えなくていいかも。うん、覚える必要はないなぁ」
不自然な言い回し。これは何かを誤魔化している様子です。本件、しっかりと記憶して後日に問い詰めましょう。
「そ、そんな事よりも、ルー、今、僕は薬草の本を読んでいるんだ」
「はい。それで?」
「行商人さんに渡す草が何なのか、知りたかったんだよね。それが載っていたんだよ、これに」
ギザギザの細長い葉が手の平みたいに集まっている、背丈の高い草。確かに、夫が見せてくれた本にはよく取引で使う草の絵が書いてありました。
効能は鎮痛、催眠、抗不安、多幸感。
「どうしましたか?」
深刻な顔を夫は一瞬見せました。それもそのはずです。先程のうっふんうふふん本について、今後行われる厳しい詰問が頭を過ったのでしょう。
「……うーん、オズワルドさんが僕たちをこの村に寄越した理由と王国の外側にある理由が分かったよ」
「そうなんですか?」
怪訝な目で私は彼を見詰めます。彼の憂える演技、お上手です。
「この一瞬で、国への忠誠、いや、罪無き民衆が不幸に陥ってしまう未来か、自分の楽な生活かの究極の選択を、僕は試された……」
さっぱり事情が分かりません。しかし、夫には深い考えがあるのでしょう。
「で?」
「そうだね。このままで良いかな。たぶん、ロナビット侯爵黙認だろうから、僕ら下っ端がどうこうできないからね。村を発展させることだけを考えれば良いんだよ」
素敵な笑顔で答える彼は凛々しさも垣間見えました。そうです。私達は元公僕。偉い人に逆らってはいけません。
「おかしいと思ったんだなぁ。たっかい本も普通に交換してくれるから、こんなカラクリかぁ。貴重な本も有るし、滅茶苦茶儲かってるんだろうか」
「よく分かりませんが、確かに私の本、凄い豪華ですものね」
私の手元にあるのは、魔道大百科。皮装帳の全10巻。一冊一冊が獣を殴り殺せるのではと思うくらいの厚みと重みを持っております。
「ねー、ママ? 巫女の人になるのに、お金いるの? お店に金貨3枚払って、楽しむなら別料金で、この人は金貨3枚で、この人だったら金貨10枚だって。楽しむ? 楽しむってなんだろー?」
「メ、メリナ、ちょっと黙ろうな」
「続けなさい、メリナ」
「うん。あと、後ろの方の頁の人は裸だったー。メリナ、巫女にはなりたいけど、スッポンポンはヤだー」
「えっ? えぇ! メリナ、読む速度が早くない!?」
「絵しかないもん。パラパラで読めるよー」
「メリナ、ママに渡して、お願い」
「はい」
「ダメ! メリナ、ダメ! それ、貴重な本なの!! 父さん、間違えたの! まだ読んでないの!!」
睨み付けて彼の抵抗を制した私は、手元に来た本を木窓を開けて放り投げ、同時に火炎魔法で灰も残さず消し去ってやりました。