メリナ7歳
最近のメリナはおかしいです。
私が止めるのも聞かず、今も岩に左右の正拳突きを繰り返しておりまして、両手を真っ赤にしております。恐らく指は骨折していますし、下手すると皮も肉も擦り切れて骨が表に出ているかもしれません。
痛みを感じない狂人の所業みたいです。
一心不乱に連打して、拳の限界が来たら回復魔法で修復し、また繰り返します。
さっきまでレオン君と遊んでいたはずなのに、おかしいです。
病気だったメリナよりは全然マシですが、これではまるで知恵のない野犬みたいではないですか。
強くなるにしろ、方向性を誤っているのではと危惧します。もう七歳なのですから、もう少し賢くなって欲しいです。
私は痺れを切らして、蹴りで岩を粉々に破壊します。そうやって初めて娘は岩を殴り続ける行為を止めるのでした。
野原に欠片が飛び散ります。レオン君の「すげー、すげー」という感嘆が聞こえました。
「あー、お母さん、私が壊すんだよ」
「ダメです」
「えー、どうして?」
「動かない物を殴っても練習にならないから。そんなことも分からないの、メリナ?」
「でも、野犬、最近見ないもん」
そうなんですよね。駆逐し過ぎたのかもしれませんが、そもそも野犬の主食は獣でして、可食部の少ない人間は好物ではないみたいです。
「生意気を言うようになったわね。分かりました。私が相手しましょう」
「ふーん、メリナが勝っちゃうかもだよ?」
まぁ、過信は戦闘の大敵なのに。
良い機会です。敗けを覚えさせましょう。
「お母さん、手加減は無し――」
この期に及んで無駄口を叩く娘の顔面に拳を入れます。構えもせずに何をしているのですか。まだまだ子供ですね。
もちろん、力はそんなに込めていませんよ。
吹き飛び仰向けに倒れたメリナですが、折れた鼻が修復されたのが分かりました。回復魔法です。そのまま動かないのは気絶した振りですね。
わざと隙を見せるために私は腕を組みます。予想通り、途端に娘は私に飛び掛かりました。
「小賢しいわよ」
腹に膝を入れて娘の突進を止めました。激しく血を吐いて踞ります。咳き込みもします。
……あれ? 強くやり過ぎましたか。
「メリナ? 大丈夫?」
「ゴホっ! ゴホゴホ」
慌てて私は背中を擦ってやろうと姿勢を低くします。激しく咳き込む姿に、病気で苦しんでいた昔を思い出したからです。
「ごめんね、お母さん……」
気弱なセリフ。私は動揺します。
「良いのよ。こちらこそ――」
なのに、突然、私の目の前へと娘の頭が迫ります。不意打ち。
瞬時に片手で掴み、娘の頭突きを止めます。遅れて風圧が私の髪を揺らします。
全く……。諦めの悪さだけは一人前ですね。
「痛っ! 痛い! お母さん、痛い!」
頭をギリギリと指で締め上げていますから。
「ほら、メリナ。まだ子供なんだから勝てないわよ」
「分かった! 分かったって!!」
涙目のメリナでしたが、その後、レオン君と花を摘んで遊んでいます。私も草の上に座って、それを穏やかな気持ちで見ていました。
そこに野犬の吠える声が聞こえました。加えて、激しく回る車輪の音。様子からすると野犬の群れに追い掛けられる馬車といったところでしょうか。
「メリナー」
「うん、レオン君、行こ!」
仲良しな2人は嬉々として、道の方へと駆けて行きました。よもや野犬如きに傷を負うことはないでしょうが、念のために私もゆっくりと歩いて見に行きます。
「あら、行商人さん?」
野犬はメリナが蹴散らしました。しかし、ここまで全速力だったのでしょう。馬車を牽いていた馬はぐったりと座り込んでおりますし、いつもの片腕の行商人さんも顔色が悪い状態でした。
「ル、ルーさん……。助けてくださり、ありがとうございました」
「どうしたの? 相方の方は?」
「あっ! た、助けて、どうか助けてください! あいつ、荷台にいるんです!」
「メリナ! こちらに来て頂戴」
行商人さんの焦り方から重い怪我をされていると感じました。だから、幼いながらも村一番の回復術士である娘を呼びます。
「酷い出血ね」
「は、はい」
荷台に置かれた虫の獣人の行商人さんは、身動きしていません。服を裂いて、その布で血止めをしていますが、それでも広い範囲の床が赤く濡れています。
幸い、首筋に手を当てると、弱いですが脈はまだ有りました。
「メリナ、お願い」
「うん!」
これで大丈夫でしょう。私は気絶したままの方を担ぎながら、行商人さんを家へと案内しました。
水と木の実を2人に出して、口にするように勧めます。深い傷を受けておられた方も、今は意識を戻しておりまして、ゆっくりと口にコップを持っていかれました。
「何があったの?」
「はい。兵隊が親方を襲ったんです。違法薬物が云々とか言っていました」
まぁ、そんな商売にも手を出していたのですか。それについては触れないでおきましょう。
「親方……殺されました……。店と一緒に焼かれたんです」
「僕達も殺されそうになって必死に逃げたんです。そしたら追われて……。矢まで射たれたんです。こいつが盾になってくれたんで、僕も馬も無事だったんですが……。バカですよね、こいつ。自分だけ逃げれば良いのに」
「止せよ。相方を失って生きていけるかってんだよ」
なるほど。虫の獣人さんの背中、担いだ時に気付きましたが、堅いですものね。それで弓を防いでいたという訳ですか。
「その後、どうにか街道から外れて森に入ったんですが、魔獣避けのお守りを壊されまして野犬に襲われました」
「行く当てはないのでしょ? この村に住まれては?」
行商人さんはお互いの顔を見てから、こちらに向き直しました。
「良いんですか? 僕ら…………不浄な獣人ですけど?」
「あはは。大丈夫よ。何年、あなた達から物を頂いていると思ってるの? 村には住んでいないけど、あなた達は私達の大事な仲間よ」
行商人の方々は村の空き家を貰い、住んでくれることになりました。2件案内したのに、彼らは一緒の家に住まわれるそうです。
その晩、夫は大昔にオズワルドさんから頂いた地図を見ていました。
「どうされたの?」
「うん? うん。もう行商が来なくなるんだよなぁと思って」
あっ、そうか。行商人さん達はこの村に住むことになりましたし、代わりの行商人さんは親方という人が死んでいるので期待できなさそうです。
「生活する分には物は足りているんだけど、やっぱり本が手に入らなくなるのは寂しいなぁと思って」
「それは分かりましたが、どうして地図を?」
「誰かに街へ買いに行って貰うにしても、ロナビットの街は往復だけで半月は掛かるだろ?」
「そうみたいね。あっ、近道出来ないか見ているの?」
「うーん、これを見ているとやっぱりシャールの方が近い気がするんだよ」
「……神様の森に入るの?」
「……そうなるね。昔から住んでいるサルマ婆さんが良い顔をしないかい? 村の掟があるんだってね」
「あっち側の森には行くなってしか聞いてないけど、どうでしょう」
いずれメリナを連れて行こうと思っていましたから、良い機会かもしれません。サルマさんにはちゃんと説明を致しましょう。
「でも、本当にあなたは本が好きなんですね」
「勿論だよ。知識に貪欲なのは向上心を持つ人間の証さ」
「そうなのですね。メリナ、例の物を」
「例の? あっ、持ってくるね」
メリナが本棚から持ってきたのは、『古式占星術論』の本です。題名と似て、古めかしい表紙をしています。
「あ……あ……」
夫の情けない声に失笑しますね。
「占星術の真面目な本だと思ったら、まさか中身はナドナムのいやらしい店の紹介本だとは思いませんでしたよ、あなた?」
「えっ! そうだったんだ! 知らなかったなー!」
耳障りなので睨み付けると、黙りました。
「メリナが開くまで気付きませんでした。まさか表紙だけ張り替えるとは悪知恵が働きますね? その小賢しさをメリナも真似したらどうするのですか?」
「ハハハ! 知恵を付けることは良いことだよ! さぁ、メリナ、次は見破ることが出来るかな!」
チッ! 開き直ったか!
私は横一線の手刀を夫の両目の前で止めます。
「謝罪は? その綺麗な瞳……2度と物を映さなくなりますよ?」
「は、はい。ごめんなさい……土下座で良いでしょうか……?」




