筋トレで養おうマナの力
太平洋の島嶼地域の文化における原始的な宗教哲学では、霊的な生命力を中心に世界を見て、その力を「マナ」と呼ぶ。マナの流れに従って生きることが正しいのではないかと、私も思う。
麻薬などを使えば、人は一時的な幸福観や全能感を感じられる。つまり、普通なら例えば、良いことが起これば人は喜びを感じ、悪いことが起これば悲しみを感じるものだが、そのような外界の因果をスキップして、脳内麻薬や体内分泌によって人の苦楽は制御しうる。ただし、いわゆる麻薬にはもちろん問題があって、その幸福は持続的ではないし、自分自身や周囲の人々の人生を幸福にするものではない。
人生の幸福にとって大切なのは、心身の健康だ。だが、いわゆる心は、物質的には、脳を含む神経のなす機能だから、その意味では心は肉体の一部にすぎず、ゆえに肉体の健康こそ大切だと言える。肉体を適切に鍛錬すれば、体内分泌のバランスはストレスに対して安定し、脳内麻薬も健全に稼働して、考え方から幸福に近づく。
ただし、私達が存在する宇宙は、自分自身の肉体機能についてすら底なしに複雑で、なのに、私達が思考や議論に用いる言葉は、あまりにも荒く雑にしか物事を表せない。それゆえ、幸福というものが、外界の状況によって必ずしも約束されず、むしろ肉体の健康に由来するごく主観的なものだという事実は、対象を物質的に分解して認知するアプローチの物質科学によって理解されるよりも、世界を感覚的に総合的に捉えようとする宗教哲学によってこそ理解されるべきではないか。
つまり、心身が健全に稼働する状態への近さをもって、それを「マナ」と呼ぼうと私は思った。
それはそれゆえ、目に見えるものではなく、言葉によって語り尽くせるものではなく、むしろ個々人の主観的な体験によって感覚する以外にないものであり、しかし個々人の人生にとって何よりも重要だと言ってしまえる。そのような性質をもつものを既存の言葉で言うためには、「マナ」は妥当だと考えられた。
人体の体内分泌や脳内麻薬は巧妙に設計されている。数十億年にわたる自然選択によってだ。
私達が自らの主観の主体だと見なす意識は、自身に湧き起こる感情や欲求を基礎としている。そしてそれら感情や欲求は、体内分泌や脳内麻薬によってこそ左右されてるから、私達の思考に浮かぶどんな発想も、人体のその巧妙な設計を逸脱することはありえない。世界には物質的な因果関係が存在して、起こることは起こるし、起こらないことは起こらない。この世界の大いなる力とは、そんな因果関係の流路のことであって、例えば分子を適切に配列すれば、コンピュータや核兵器になる。自らの体内の健全を中心にそれらを総合的に考え、マナと呼ぶことができるだろう。
人間は、優れた装置だ。自分達の理性によって分解的に理解するには、その複雑性は理解を超えているから、それが超越的に知的に巧妙なことに対しては、畏怖すら伴って超常的な力を感じる。原始宗教は、まだ因果の流路が近代科学ほどに知られてない時代に、数々の迷信を伴いつつも、それをマナと呼んだ。だが、その概念を正しく拡張して見たならば、人類の文明における科学も、産業も、政治も、娯楽も、すべては偉大な、マナの力のなすところだ。マナの力の全体像に比べれば、私達人類の存在はあまりにも小さく、マナはまさに生命力として地上に満ちているし、星の運行を制御する宇宙力としても作用している。だから、現代にあってなお、マナには、哲学の中心概念たりうる資格がある。
マナが、すべてだ。逆に言えば、理性によって思考をめぐらせることで、より良い結果を求めることには、厳しい限界がある。幸福な人生のためには、頭で考えるよりも身体を鍛えるほうが大切だ。この哲学を脳筋という。そうして、体内分泌を健全化し、内なるマナの流れの声には注意深く耳を澄ませるべきだろう。
健康や幸福そのものは、個人的な価値でしかない。時として人は、愛する人や人々のために、自らの健康や幸福を投げ打つべきときを持つだろう。そんな愛情をモラルと呼び、そういったものこそ感動の対象とするならばもちろん、健康や幸福は、絶対的に優先的な価値ではない。つまり、身体を鍛えるより大切なことは、いくらでもある。多忙などにより、健康や鍛錬を犠牲にすることがやむをえない場合も多い。しかし、見返りを軽視して安易に健康を損なうべきではないし、どんな利他的な社会的な目的を目指すときであってすら、力強く発想し力強く貢献するためには、自身の心身を深く重視すべきだということには疑いがない。
だから、正しい姿勢をとって、正しく呼吸し、育てたマナのその流れを感覚して、何よりマナのままに歩めばいい。実現できることは実現されていくし、実現できないことはどう踊っても実現できない。人体という巧妙な装置を、本来の機能を発揮するようバランスよく調整すれば、ほとんど自動的に、正しい思考も最善の結果ももたらされる。つまり人間の意識は、良かれ悪しかれ、この宇宙の主役ではない。しかし、人間を含む万物にマナは宿っていて、マナは宇宙の主役だ。だから私達はみな繋がっていて、繋がりのなかで個人は生まれ、やがて消え去る。その因果の流路は、逆らうべきものではない。宇宙も誰一人も、人間の理解を超えて、完全に設計されている。




