1:川の中から森の中
新作始めました。
のんびりと、末永くお付き合い願えればと思います。
俺の名は周防鴫。親父が新撰組好きで芹沢鴨を意識した結果、なぜか鴫と名づけられた。
歳は今年で三十二を迎える。十代の青春を謳歌している少年少女たちからいわせると、おっさんの分類になってくるのだろう。
仕事は小さな会社が運営する、デイサービス勤めのしがない介護士をやっている。
世間の皆さんは介護職に対し、どういった認識をお持ちだろうか。
恐らく大抵の人は、薄給激務の超絶ブラックを想像すると思う。実際に従事している身から言わせてもらうと、当たらずしも遠からず。違うとは言い切れないし、そうだと肯定したくもない。
大手の会社であれば、きっと待遇がしっかりとしているのだろう。だがうちのような中小では、限りなくブラックに近い。
いや俺が認めたくないだけで、実状はブラックなのだと思う。なにせ朝の八時から仕事が始まり、終わる頃にはいつも十九時を過ぎている。
うちは日中の間だけ利用者をお預かりするデイサービスだが、要望があれば宿泊サービスも提供しているので、月に何度か夜勤を命じられる。
人手は常に不足しているため、酷いときでは日勤後に夜勤をさせられた。
月の残業は平均して七十時間あり、多いときでは三桁に突入していた。労働時間と職場環境に反して、得られる給料の安さ。まったくもって見合っていない。
この仕事自体は嫌いじゃないのだが、待遇面から常々嫌気がさす。
せっかくの休日も、疲れて一日中寝っぱなし。
背は平均以上あるし、ルックスにはそこそこ自信がある。けれど自分の時間をほとんどもてないので、ずっと独り身。
……まぁ、仕事を言い訳にしているだけの臆病者なんですけどね。
少ない時間を有意義に過ごすためにも、趣味はもっぱら自宅でできる範囲に限られてくる。ゲーム、アニメ、漫画といった、所謂オタク趣味だ。もっとも、子供の頃から好きなのだけれど。
今日も十八時を回り、利用者を自宅まで送り届けた。本日の宿泊利用者はなし。あとは施設に帰って、データの入力と日報を書くだけ。久しぶりに早く帰れる。
「あのクソ施設長め、今に見てろよ。俺が介護福祉士の資格を取ったら、待遇のいい別の施設へ転職してやるからな」
目の下に隈を浮かべ、明日の休みだけが希望である送迎の帰り。同乗者はおらず、愚痴を零しながらひとりで送迎車を走らせていた。
場所は堤防沿いの、対向車とすれ違うのが精一杯の狭い道。傍らを流れる川は、昨晩から降り止まない雨の影響で水かさが高くなっていた。
街灯がなく、車の照射するライトだけが頼りの暗い夜道。いつも以上に気をつけてはいた。注意をしていたつもりだった。
……でも俺の体はとうに体力の限界を迎えていて、頭はそれすら認識できないほど疲れていたのだろう。
不意に意識が薄れ、視界がぼやける。
そこへ運悪く、向かいから対向車が来てしまった。ぶつけるわけにいかないと、慌てて舵を切る。狭い堤防沿いの道の上で。
……結果は言わずともわかるだろう。
俺の運転していた送迎車は、道を外れて坂を転げ落ちていく。こうなってしまえば、非力な人間の力ではどうにもならない。案の定、増水した川に真っ逆さまだった。
激しい濁流に飲み込まれ、車内には水が止め処なく入り込む。懸命に脱出を試みるも、気が動転してシートベルトを外せない。
それどころか疲れきった体は、頭は、力が入らず、最後の足掻きすらも拒んだ。
ああ、終わった。俺の人生、最後まで糞すぎるだろ……。
それが、俺が沈み行く車中で思った最後の言葉だった。
「……ここ、は? 天国……なわけないな。俺、生きてる……のか?」
背高い木々の隙間から差す木漏れ日が、俺の目元を眩しく照らす。耳に入るのは鳥たちのさえずりに、風で草葉が揺れる音だけ。
どうやら俺は、見知らぬ奥深い森の中にいるらしい。
川に落ちたはずなのに、なぜ森の中? 乗っていた車はどこにいった? 服は濡れておらず、泥水を浴びた汚れすら見受けられない。
自分の身になにが起こったのか。ひとつずつ順に整理していくも、理解が及ばない。
「いやいや、だってどう考えてもおかしいでしょ。事故って川に車ごと落ちて、起きたら森の中? 間の過程をすっ飛ばしすぎる」
ただひたすらに混乱。
某魔法少女に登場する白いマスコットの気持ちが、今ならよくわかる。まさしく、わけがわからないよ。
財布やスマホなんかは車のダッシュボードに置いていたので、持っている物といえば、後ろポケットに入っていたハンカチのみ。あとガム。腹の足しにもならん。
身体介護を行う際に利用者を傷つけてはならないと、腕時計すらつけてはいけない決まり。文字通り、着の身着のままを体現している。
しばらくその場に立ち竦むも、当たり前だが事態は解決せず。なんでもいいから行動を起こさねば、どうにもならない状況だった。
仕方なく、方角すらわからない森の中をあてもなく彷徨う。近くに人家があれば助かるのだが、あまりにも淡い期待だ。
自分がいるのは明らかに奥深い森の中。人が立ち入った痕跡は皆無。せめて熊や猪といった、危険な獣に出会わぬことを祈る。
だが俺の祈りは空しく、歩き始めて十分と経たず早速危機的状況が訪れてしまった。
数歩先で、白い牙を剥き出しにした大きな黒い狼。
いやそもそも本当に狼なのだろうか? もののけの姫に登場する、母狼に匹敵するサイズだぞ……。
非現実的に大きな獣が、敵意を俺に向けている。
「あ、死んだ。これは死んだわ。今度こそ終わった……」
溺死は回避できたと、内心喜んでいたのも束の間。次はもっとエグい、捕食という死が迫っている。
目を逸らさず、じりじりと後ろに下がる。俺が神経をすり減らしせっかくとった距離を、狼はお構いなしに一歩一歩詰め寄った。もはやいつ飛びかられてもおかしくない。
願わくば、ひと噛みで即死できますように……。
目を瞑り、天国へ旅立つ覚悟を決める。しかしいくら待てど、痛みが襲ってこない。
恐る恐る目を開くと、狼は俺から視線を外していた。警戒心を強め、森の奥を威嚇しながら睨んでいる。
ほどなくして俺の耳にも、巨狼が警戒する音が届いた。ずしんすじんとした、大地を轟かせる震動。第三者が鳴らす、重い足音だ。
やがて足音の主は、木々を掻き分け姿を現す。
「やった、人……じゃないな。石の、巨人……?」
身長が百七十五センチある俺より、遥かにでかい。優に三メートルはあるな。
こいつはあれか、ファンタジーな物語で言うところの、ゴーレムってやつ……か?
無数の石が寄せ集まり、組みあがって人型をなしたゴツゴツの体。頭部には宝石を思わせる緑の球体があり、まるで単眼。いや、実際に目なのかどうかは知らないけどもね。
ゲームや漫画は子供の頃から大好きで、普段からも慣れ親しんでいる。なのですぐに推測がいく。そしてゴーレムの登場によって、狼と遭遇してから思い浮かんでいた可能性が、確信へと変わった。
「やっぱりここ、俺のいた世界じゃない。もしかしてもしかすると、ここは異世界なのか!?」
主人公が事故や召喚によって、違う世界に転移する。そういった物語はいくつか知っている。まさか自分の身に、現実として起こるとは思いもよらなかったが。
しかし悲しいかな。俺はそういった物語でお決まりの、チート能力をくれる神様には会っておりません。ええ、普通の一般人のままです。だからこそ、狼に殺されそうになっていたんだけども。
狼の意識は俺から、突如として現れたゴーレムへと完全に移った。
狼とゴーレムが対峙する。効いているのかいないのか。狼の激しい威嚇に、ゴーレムは動じていない。向かい合ってからは不動を貫いたままだ。
どちらが先に動くのか。逃げることすら忘れ、事の顛末を見守る。
すると突然、ゴーレムの単眼が眩い光を放った。光は光線となり、対峙していた狼の脳天を一瞬で貫く。
ヒグマ並みの狼の体が、ぐらりと力なく倒れこむ。絶命の声さえあげず、手足はぴくぴくと痙攣していた。
超高温によって焦がされた肉の臭いが、周囲に漂って鼻につく。
ゴーレムは意にも介さず、狼の屍骸を乱雑に持ち上げた。当たり前のように屍骸を肩に担ぐと、俺を無視して来た道を戻っていく。
遠のくゴーレムの後姿。
勇気を振り絞り、決心する。怯える足を奮いたたせ、歩みだす。追いかける。
あのゴーレムはきっと、俺を救ってくれたわけじゃない。
口のない形状から、食事は必要としていないはずだ。どうみても無機物だしね。寒さも感じないだろうし、毛皮目的でもないだろう。
なのに狼の屍骸を持ち帰るのは、利用目的があるから。
あのゴーレムの向かう先には、恐らく彼を従える主が控えているはず。主人に命じられて狼を狩りにきた、と考えればしっくりくるからだ。
主が人間か否かはひとまず置いておいて、現状を脱する糸口には違いない。
距離を保ちつつあとをつけると、尾行する俺の存在に気付いたらしい。
ちらりとゴーレムを後ろを振り返り、緑の単眼に目と目が合う。やばいと覚悟したが、狼を仕留めた光線が放たれることはなく。
ゴーレムは再び前を向くと、何事もなかったかのように歩き出した。
時折振り返っては、俺がついてきているかを逐一確認するゴーレム。誘われているのか否か。ついていった先が安全だという保証はない。
しかし今の俺には、先導するゴーレムに縋るしか道はなかった。
お読みいただき、ありがとうございます。
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作者の別作、「必中の投擲士」も連載しております。
お時間がよろしければ、そちらもどうぞよしなに……。