神の棲まう杜
ワシがあの子と初めて会うたのは、いつごろだったじゃろうか。
当時のことは鮮明に覚えている。あの子がワシのもとに現れて、怯えもせずに話しかけてきたあの日。
「ここで何をしているの?」
『童よ、其方こそ何故こんなところにいる?杜に入るなとは教わらなかったのか。』
問えばあの子は首を横に振り、近寄るなとは言われた、と述べた。
ワシは呆れ『それは入るなと言われているのと同じことじゃ』と告げてやった。
それからあの子は「だって」と述べた後、急に話すのをやめる。
さて、どうしたものか。
「あなたは、てんじんさま?」
ふと考え込んでいると、あの子が小声で訊ねてきた。
『いや』と答えた後で、数秒考えてから、
『ワシは守人じゃよ。長きにわたってこの杜に棲まうておる。』
「もりびと?」
『そう、守人。其方らの言う天神の使いとして杜を守る者じゃ』
天神。すなわちこの杜の神は、長きにわたりその恩恵を草木、動物たちや外れのほうにある小さな村に与えており、そしてワシは、何年も昔にその外れの村より選ばれた、杜の声を聴き諫める役を遣わされた化身である。
「もりびとさんは、私をいじめる?」
『…なに?』
「だから、私を脅かしたり、食べようとしたりしない?」
ぶ、はははははは。
ワシが?人の子を食べる?このワシが?
『何を言うかと思えば…傑作じゃよ、童。』
「じゃあ、食べないのね?」
『あのなぁ、何を好き好んで元同胞なんぞ食べるか』
「どうほう?ってなに?」
『お前とおんなじ、人間だったということじゃよ』
人間だった、そう言えば少しだけ悲壮感を覚えたが、大したことではない。
まず腹は空かぬしな、そういうと、あの子はたいそう驚いたような顔をしていた。
お腹が空かないことのほかにもいろいろ聞かれたので順々に答えていく。
それらの会話はなんだかとても懐かしかった。
『して、何故にこの杜に入った、童よ。』
ワシが本題を訊ねると、あの子ははっとしたように顔色を変えた。
そして大変うれしそうに、こちらに向かって話しかけてくる。
「あのね、蝶がいたの。すっごく綺麗で、大きな蝶。」
蝶?この時期に、蝶?
今は旧暦でいう神無月。
神去月とも呼ばれ、神々は出雲にあるという社に出向くため皆出払っている、というところから名がついたそうな。
これは今でいうところの10月であり、こんな時期に蝶など大変珍しいのだが。
「七色のね、キラキラした本当にきれいな蝶だったの」
七色?この杜には長く棲んではいるが、そのような蝶など見たことがない。
何かの間違いではないのかと尋ねれば、あの子はそんなことはないと強く主張する。
「ほんとうなのよ、この先の、あなたが座っている木の横を通って行ったの」
そこまで聞いて、ワシはようやく思い当たることが一つ出てきた。
さすればなおの事、あの子をこの杜から出さねばならない。
『其方、その蝶はもう見つからん。あれはただの戯れに過ぎん』
「たわむれ?」
『まったく何を考えているのやら、下々のものにはわからんな』
「?」
『気にせずともよい、ということじゃ』
ワシは大きな木の幹からすっと立ち上がると、あの子の前に立つ。
不思議そうにこちらを見やるので、かがんで目線を合わせてやる。
『よいか、其方にはあの蝶が七色に見えた。しかしワシにはあれは全く違う色に見える。色とは不思議なものでな、見る者によって見え方が違うのだそうな』
「え、そうなの?」
『あぁ、まず生き物の種類によっても違うな。人同士でさえ少し見え方が違うらしいぞ。たとえば…』
そういってワシは懐から赤い布きれを2枚取り出す。
『これらは赤い色をしているが、ただの赤じゃない。こちらは朱色、そしてこれは紅色という』
「え?」
『赤はこれら全ての名前だ。だが本当の名と見分け方を知るものは少ない』
其方には、見分けがつくかな?
そういえばあの子は悲しい顔をした。
「わからないよ」
あの子はそういって項垂れていたが、そうではないのだ。
ゆっくり諭してやることにする。
『人里では其方ぐらいが普通じゃ。だがこの杜では気を付けた方がよい。どこもかしこも深く鮮やかで、それこそ何が起きるかわからぬのじゃ』
杜は時たま人を誘う。それはあやふやで、身勝手で、とても悲しい結末を生むことだってある。
そんな【災害】から人を、生き物を、杜を守るためにワシはここにいる。
『さて、其方が本格的にいじめられる前に、杜から出るぞ。村まででよいか?』
「うん、おばあちゃんち!」
『全く、人の子は手のかかる』
ワシはあの子をかかえ、杜を歩く。
あの子は道中、たくさんのことを話す。お父さんやお母さん、そしておばあちゃんのちづ子のこと。
『其方、ちづ子の孫だったのだな』
「ん?」
『いや、時がたつのは早いと思っただけじゃよ』
杜の生き物は天神にとってすべてわが子。
村を出た者のことはわからなくなってしまうが、天神、そして守人は杜の村で育った童たちのことをずっと覚えている。
『全く、本当によくしゃべりよる』
「ねぇ、あれは何色?」
『ん?』
指さす方を見やれば、夕焼け。
真っ赤な真っ赤な、燃えるような赤。
『なんじゃろうな…朱…いや、ちがうな…』
「わたしはね…」
【黄色】
そう同時に言ったとき、思わず顔を見合わせた。
「みえたね!」
『あぁ…みえた』
あの子はとてもうれしそうだ。
ワシはただあっけにとられていた。
『あのね、さっきわたしとは違う色が見えているって言ってたでしょ?でもね、おんなじだったね!おんなじ色が見えたね!だったらわたしたちはおんなじだね!』
最初、あの子の言いたいことはよくわからなかったが、つまりはこういうことだ。
ワシとあの子の見た夕焼けは同じ色だった。それはつまり、ワシとあの子は同じもの。同じ色が見える同胞、人間だといいたかったのではないかと思う。
あぁ、そうか。そうなのか。
少しだけ、ほんの少しだけ。
どこかで、安心してしまった。
『さて、帰るかの』
ワシはあの子を抱えなおすと、また歩き出した。
ちづ子には、少し孫を叱らせねばならないな、と思っていた。
ただ、どうかこの子が杜の外で健やかに育ってほしいとは思う。
人のぬくもりの懐かしさに浸りながら、この子を送り届ける。
ワシがしてあげられる唯一のことだ。
『聡明に育てよ、童』
「ねぇねぇ」
『何じゃ』
「どうしてお兄ちゃんは、そんなおじいちゃんみたいな言葉ではなしているの?」
END.