4.退屈な便利屋に起きたアクシデント
数分おきにスマートフォンを眺めても、デフォルトの待ち受け画像が光るだけ。着信やメッセージはない。蒼衣さんは、部屋の中をグルグル歩き回りながら、無言の電話を握りしめている。まるで子どもを誘拐犯に奪われた親のようだけれど、待っているのは子どもではなく、翠さん。前もって知らせてきた帰宅時間から二十分が過ぎて、蒼衣さんはいっそう落ち着かなくなる。私は、彼が慌てるのを初めて見た。いつもゆったりと構えている長身の紳士には、まったく似合わない。
「二十分遅れたくらいで大げさね。心配なのはわかるけど、翠ちゃんだって、もう二十三なのよ。ちょっと過保護すぎるんじゃない?」
山吹さんがボウルでひき肉をこねながら言う。確かに。今はまだ夕方の六時半。最近じゃ、小学生でも外を歩いている時間帯。二十三歳の成人男性が危険にさらされるわけがない。
「やっぱり付き添えばよかった」
やんちゃなご主人様をお守りする執事さんは、ひどく心配性らしい。山吹さんの言葉は耳に入らないのか、ぶつぶつと独り言を呟きながら、同じところを行ったり来たりしていた。
「翠さん、どこかに寄り道してるかもしれないですよ」
私は、あくまで蒼衣さんの気を紛らわせようとしたつもり。でも、切れ長の目は冷たいまなざしを向けただけだった。
「翠さんは、ああ見えて律儀なお人なんだ。前もって知らせた時間に遅れるなんてあり得ない。遅れるなら、ちゃんと連絡をくれるはず」
「あ……そうなんですね」
と、愛想笑いで返すしかない。山吹さんに言われたことを思い出して、それ以上に突っ込むのはやめておく。ちょっとした買い物でコンビニにでも寄れば、二十分くらいはかかると思うけれど。それに、通院時間は遅刻ギリギリだったのに、帰宅時間だけきっちり守るなんてあるだろうか。翠さんには少しルーズなイメージを抱く私は、蒼衣さんの発言に心の中で首を傾げる。
「あーッ! 疲れたぁーッ!」
お待ちかねのご主人様が帰ってきたみたい。玄関から何かが倒れるような物音が聞こえて、明らかに苛立たしさがにじむ大声が響いた。蒼衣さんは急いでリビングを出ていき、私と山吹さんもつられて玄関に走る。
スニーカーを履いたままの足を投げ出して、翠さんは仰向けに転がっていた。ハアハアと息が上がっていて、額には濡れた前髪が張り付いている。マラソンでも走ったのかと思うほど、大量の汗をかいていた。どう見ても普通じゃない様子に、蒼衣さんは慌てて駆け寄る。
「何があったんですか?」
「ストーカーだよ、ストーカーっ!」
翠さんが忌々しげに言い放った単語は、物騒で不気味なイメージしかない単語。
「なんか知んないけど、ガタイのいい女が後つけてきて、撒くのが大変だった」
「ストーカー? どこにそんなものが」
「ブッキーが通ってるコーヒー屋のあたりで、待ち伏せしてやがったんだよ」
「アタシが通ってるコーヒー屋? 誰よ?」
「知るかッ! 水ちょうだい、水!」
言われるままに山吹さんはキッチンへ駆け戻り、翠さんはようやく上体を起こした。蒼衣さんの手を借りて立ち上がり、山吹さんが持ってきたコップのお水を一気飲みする。
落ち着いた翠さんの話によると、行きつけのコーヒー豆店の前で、大柄な女が突然話しかけてきたんだそうだ。ピンクのパーカーを着ていたのに、翠さんはあまりの体格の良さに女性だとは思わなかったらしい。しかも、フードを深くかぶった上に、俯いた顔を茶色の長髪がさらに隠していて、顔も見えなかったとのこと。歩く翠さんの斜め後ろに音もなく近寄り、いきなり「あの女、誰?」と囁いたそうだ。大きな体に似合わない、可愛らしい声を聴いて初めて、性別を女性だと認識したんだとか。
「あの女? 翠ちゃん、彼女でもできたの?」
「彼女なんていないし、好きなコもいないよ。残念ながら」
ソファに寝そべる翠さんは、力なく、不愉快そうな声で答えた。
「おそらく、モモのことでしょうね。あの女、というのは」
すっかり落ち着きを取り戻した蒼衣さんは、チェロのような澄んだ声で言う。
「ここ最近、翠さんが身近に接するようになった女性というと、モモしかいない」
完全に傍観者を自覚していた私は、ぎょっとしてしまう。切れ長の目はゆっくりとこちらを向き、責めるように見つめた。少なくとも私にはそう見えて、自然と背筋が伸びてしまった。
「そうかな。ストーカーに誤解されるほど、俺はモモと絡んでないけどね。二人だけで外出たこともあまりないし。朝木先生って可能性もあるよ」
「……なるほど」
朝木先生とは、今日通院したクリニックの医師だろう。話の流れから女性のようだし、可能性としては私より朝木先生の方が上であってほしい。救世主ともいえる翠さんを私が不安に陥れるなんて、あってはならないこと。申し訳ないと思うし、またホームレスに戻るのも勘弁してほしい。
「俺さぁ、ちょっと変な人なのかなと思って、シカトしたんだよ。いるじゃん。街中で一人で独り言呟いてるオジサンとか。そういうのかなと思ったけど、ずっと付いてきて名前を呼び始めたの。『翠さん、コレ』って、なんか手紙みたいなの渡そうとするから、ヤバいと思ってさ。ターゲット、俺じゃん! って。超焦った」
「翠ちゃんって、顔キレイだから。近所で見かけて勝手に片想いする女子がいてもおかしくはないわね。でも、名前まで勝手に調べていきなりラブレター渡そうっていうのは、ちょっとやり方間違えてる。ストーカー呼ばわりされても仕方ないわ。で、ラブレターには何て書いてあったのよ?」
「知らねぇよ。受け取ってないもん。走って逃げようとしたら、その女がまた、超速ぇの。俺だって、足は結構速い方なんだよ。あれ、ホントに女かなあ」
「ていうか、その人はちゃんと帰ってくれたのかしら? まだマンションの近くをウロウロしてたりして」
「ええっ! 俺、逆方向に走って撒いて、かなり遠回りして帰って来たんだぜ? もし、ここまでたどり着いてたら、あの女はマジでヤバい。タダ者じゃない」
翠さんのウンザリした口調を聞いて、蒼衣さんは立ち上がる。「見てきます」とだけ言って、リビングを出ようとした。
「あの、私もいきます」
反射的に体が動いたのは、自分がストーカーに誤解を与えているかもしれないから。
「やめときなよ。その女がマジでアンタにムカついてるんだったら、危ないわよ」
山吹さんの意見はごもっとも。ガタイが良い俊足ストーカーに、私なんかが太刀打ちできるとは思わない。けれど、翠さんに対する申し訳ない気持ちを、何とかして表したいと思った。
「なんていうか、責任感じちゃって」
「本気でそう思うんなら、付いてくればいい」
蒼衣さんの声は、どうしても冷たく聞こえる。勝手に言葉の裏を読んで、『そうでもしなければ、お前はこの家には居られない』と解釈してしまう。
「よせ、蒼衣。八つ当たりするな。モモも、ストーカーが言う女がオマエと決まったわけじゃない。勝手に責任感じられても困るよ」
翠さんは、ソファから身体を起こして蒼衣さんをまっすぐに見つめた。少し睨むような眼には、意外なほどの威圧感がある。二人の間に、嫌な空気が流れ始めた。
「いや、あの……私も居づらくなっちゃいますから。足には自信があるので、大丈夫です」
蒼衣さんへのきつい視線を遮るように、私は翠さんの真正面に立って、「大丈夫です」と繰り返した。エへと可愛く笑ってみたけど、唇は変に歪む。張りつめた空気を和ませるほどの笑顔は作れなかったかもしれない。
「さ、行きましょ。さっさと行きましょう」
小走りで蒼衣さんに駆け寄り、大きく広い背中をリビングから押し出した。
「蒼衣! なんかあったら、絶対にモモを守れよっ」
後ろから、不機嫌そうな翠さんの声が見送ってくれた。