表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/4

3.孤独な居候がホームレスになった事情

 白いアルファードの革シートは、すべすべして高級ソファのように快適な座り心地。木目調の素材があしらわれたハンドルやギア部分を見ても、富裕層しか乗れない車だということがわかる。

 運転席には山吹さんが座り、助手席には翠さんがシートをだいぶ倒して座っていた。長い足をダッシュボードに載せている。

「ガム、要る?」

フロントガラスを見つめたまま、翠さんが山吹さんに勧めるのは、幼稚園児が食べるような、ドラえもんフーセンガム。丸っこいフォントで『ソーダ味』と書かれていた。

「やだぁ。子どもみたい。遠慮しとくわ」

山吹さんはドラえもんを一瞥して、鼻で笑いながらお断りする。バカにするような態度に、翠さんは舌打ちした。

「ドラえもんをバカにするなよ。モモは? ガム、要る?」

「あ、いただきます」

遠慮しないで手が出るのは、私が貧しい人間だからというのもあるけど、とても優しいある人を思い出して懐かしくなったからでもあった。

「これ、子どもの頃に、施設の園長先生からよくもらいました。内緒だよって言って、先生はくれたんですけど、実は他の子にも平等にあげてたみたいで。後から知ったんですよね」

「あら、偽善者っぽい」

「ブッキー、それはヒドいよ。優しい先生じゃん。施設だったら、子どもたちへ好き放題にお菓子配るわけにはいかないだろうから、先生なりの配慮でしょ」

翠さんの言葉を受けて、山吹さんはバックミラー越しに私へ問いかける。

「そういうこと?」

「ええ、そういうことだと思います。おばあちゃん先生で、色々と良くしていただきました」

私には親がいないし、当然、祖父母もいないのだけど、お祖母ちゃんという存在はたぶん、園長先生みたいなものだと思っている。園の友達とケンカしたり、機嫌が悪くて生意気なことを言ったりしても、先生は怒らず、いつも穏やかに話を聞いてくれた。

「じゃあ、就職するはずだった工場が閉鎖されて寮にも入れなくなった時、次の仕事が決まるまで、施設に置いてもらえば良かったのに」

「いや、それは……できませんでした」

「どうして? 優しい園長先生なら、退園した子どもでも、困っているとわかれば面倒見てくれそうな気がする」

「ちょっとの間だけ戻りたいと言ったら、たぶん先生は受け入れてくれたと思います。でも、工場が閉鎖する少し前に、私がいた施設は放火に遭って、全部燃えてしまいました。園長先生は逃げる時に大けがをしたらしく、今もまだ入院しているそうです」

「あらま……それはお気の毒なことで」

遠慮なく何でも言う山吹さんすら、さすがに言葉に詰まる。

 そう。私が育った家ともいえる児童養護施設は、この春、何者かに火を付けられて黒こげになった。工場が閉鎖して行く当てもなく、何とか泊めてもらおうと帰ったら、そこにはもう何もなかったのだ。あるのは黒く煤けた柱や壁と思われる木材ばかり。

火元となった事務所は、子どもと職員が寝泊まりする棟から一番離れていたせいで、死者は一人も出なかったそうだ。ただ、高齢の園長は逃げる途中で足を骨折して、退院の目途は立っていないらしい。子供たちは近隣の施設へバラバラに転所することになり、職員たちは不安と焦りを募らせた。誰が、なぜ古い児童養護施設を狙ったのか、警察さえ見当がつかなかったらしい。

そんな状況で、私なんかが、寝泊まりさせてほしいとお願いできるわけがなかった。お見舞いの言葉だけを顔見知りの先生に残して、去るしかなかった。

「ニュースで聞いた記憶があるな、その事件。愉快犯にしても、子どもたちがいる施設を燃やすなんてタチが悪すぎるって、ワイドショーの司会者が言ってた」

確かに。事件が起きた当初はニュース番組でもワイドショーでも、かなり大きく取り上げられていた。翠さんが言うとおりに、いたずらに子どもを狙ったのなら、犯人には人間の心なんてないんだろう。冷酷な青い血が流れているに違いない。

「ひどいですよね。他人からすれば、ただの施設かもしれないですけど、私たちにとっては、家ですから」

「うん、ひどいね。モモ、お前マジでかわいそうなヤツだな」

「はは……ホントですよね。疫病神でもついてんじゃ……」

いつものように、反射的に苦笑いが浮かぶけれど、助手席から振り返る翠さんの顔を見て、笑みは思わず引っ込んだ。私を見る彼は、単に社交辞令としてお慰みを言ったわけじゃない。もちろん、からかったわけでもない。本当に、心から気の毒に思ってくれている顔をしていた。そう感じたとたん、目の奥が熱くなってくる。ヤバい。泣いてしまう。

「や、疫病神でもついてんじゃないですかねー、私。アハハ!」

努めて明るく言ったつもり。軽く笑い飛ばすのは、こぼれ落ちそうな自分の涙。メソメソとすぐ泣く女なんて、私自身が好きじゃない。

「俺んとこにいる間は、好きにしていいから」

翠さんの言い方は素っ気ないけれど、暑苦しい親切じゃないからこそ、ありがたい。

「そうよ。美味しいもの食べて、デブるくらい、ゆっくりしときなさいよ」

山吹さんの声も、少しだけ優しくなる。クセはあるけれど、根っこの部分があたたかい人たちに拾われて良かった。目頭に溜まる涙が流れ落ちそうで、私は瞬きもできずに視線を窓の外へ移す。頬を掻くふりをして、急いで目をこすった。

涙でぼやけた景色は、車が右折するのに合わせてぐるんと回る。私は小さく息をついて、鼻と喉の奥に詰まるモヤモヤを吐き出した。優しい人たちの前で泣いちゃいけない。

「着いたわよ、翠ちゃん」

 アルファードは、人通りの少ない細い路地の途中で止まった。古いオフィスビルが並ぶ中、小さな銀の看板を掲げた自動ドアが見える。

――『朝木メンタルクリニック』

 銀板に白い文字はまったく目立たない。また、それ以外の文字情報はなく、院内の様子も磨りガラスで覗えないのは、精神科ならではの配慮なのか。

「送ってくれて、ありがとね。あと、今日の夕飯は肉でヨロシク。オシャレな創作料理なんて、全然興味ないから。肉! ガッツリ肉、食わしてね!」

「翠ちゃんってば、口がコドモなのよー。作り甲斐がないわぁ」

 無邪気に笑いながら、翠さんは車を降りた。特に変わった様子もないし、コンビニにでも入るかのような足取りで自動ドアの奥に消えていく。

「メンタル、クリニック……ですか」

何となく呟いた私に、山吹さんは淡々と言った。

「見て見ぬふりって、結構大事よ」

「え?」

アルファードはゆっくり走り出し、地味な銀の看板もすぐに見えなくなった。山吹さんは、バックミラー越しに神妙なまなざしを送る。

「翠ちゃんがなぜあそこに行くのか、私は知らないし、知りたいとも思わないわ。モモちゃんも居候の身なんだから、余計なことは言わない方がいいと思う」

 翠さんが精神科に通っていることには触れるな、と言いたいらしい。私は、返事とも相槌ともとれない声を出しながら、とりあえず頷いてみる。

「金持ちのお坊ちゃんだからね。お抱えのカウンセラーがいるんだと思うけど。アメリカのドラマとか映画でよく見るじゃない。別に精神病ってわけじゃないけど、何かあればメンタルクリニックで話をするっていうシーン。だって、翠ちゃんはどう見ても健康そのものだからさ。あれでうつ病患ってます、なんて言われたら、世の中のほとんどの人がうつ病だわよ」

なるほど。お抱えのカウンセラー。お金持ちがリアルに想像できない私は、そう聞くと素直に納得できた。

「それに、蒼衣ちゃんのプレッシャーがすごいのよ。はっきりと何か言うわけじゃないんだけど、聞いてくれるなっていう、コワい目をするの。翠ちゃんの病院通いには突っ込まない方がいいわよ」

山吹さんは遠慮なく何でも言っているように見えるけど、翠さんと蒼衣さんの間には、まだまだ見えない壁があるみたい。それが富裕層と一般人の違いなのか、オトナの付き合い方なのかは、今の私には判断しづらい。

「あのォ……蒼衣さんって、翠さんの何なんですかね?」

聞いてもいい質問なのかわからないけれど、疑問はつい口から出てしまった。オシャレなカフェのテラス席で出会った時から、ずっと気になっていたこと。居候という同じ立場を取る山吹さんなら、聞いてもいいんじゃないかと思った。

「それねぇ、実はアタシもよく知らないのよ。でも、前に蒼衣ちゃんが、自分は執事みたいなものだと言ってたわ」

「しつじ?」

「時代錯誤してるというよりも、異世界の話よね。十二歳も年下のお坊ちゃまのお世話が仕事だなんてさ。金持ちの人間関係って、一般人には理解できないものよ」

 執事と聞くと、単純な私の頭は黒い服を着た初老の男性を思い浮かべる。大きなお屋敷の中でご主人様にお茶を運んだり、身の回りの世話をしたりする、おじさんというか、おじいさんというか。もちろん、私が想像する景色や人物像は平成の世にミスマッチなもの。『ご主人様』といえば人格にも厚みがある中高年の紳士がふさわしいし、そのイメージは翠さんに全然重ならない。年齢が若いのもあるけど、実年齢以上にやんちゃな雰囲気を漂わせる翠さんは、『ご主人様』には程遠いだろう。そして、そんな今どきの若者を主人として付き従う蒼衣さんには、さらに違和感を覚える。山吹さんが言う通り、お金持ちの人間関係なんて、貧乏人には到底理解できない。

「二人の付き合いは相当長いみたいだから、私らみたいな他人が入り込めない部分もあるし、秘密もあるでしょうね。そこらへんは、見て見ぬふりよ」

 パーカーとジーンズが似合い、オンラインゲームを無邪気に楽しむ二十三歳のご主人様と、無口で忠実な執事には、謎が多い。でも、そこを掘り下げても、何も得はなさそうだった。山吹さんに従って、見て見ぬふりをするのが賢明らしい。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ