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2.退屈な便利屋の日常


 コピ・ルアック。

耳慣れない名前というだけで高級そうなイメージを抱くのは、私が貧乏人だからなんだろう。また実際に、希少価値の高い銘品だそうで、私なんかは本来、一生口にすることがないはず。事務所内に漂う香りを匂うだけで、十分満足してしまう。

「いい香り! たまらないわね」

ゆるやかな曲線の注ぎ口を持つポットを傾けて、ふわふわの茶色いパーマ頭が左右に揺れる。踊るようにコーヒーを蒸らす人は、どう見ても男性なのに、しゃべり口調が女性だった。度が入らない赤いフレームの向こうで、愛らしい黒目がちの瞳が微笑んでいる。眼鏡をオシャレアイテムとして扱う山吹さんは、容姿が悪いというわけではない。むしろ、男性としてはカッコイイ部類に入るはず。でも、身のこなしがあまりにもしなやかすぎて、本当の性別がどちらなのか、つい疑ってしまう。

「コレ、一杯あたり七千円の価値があるのよ。スゴイでしょ」

 コーヒー一杯、七千円。七千円もあれば一ヵ月生活できると、貧乏人の私は考えるけれど、山吹さんにはありふれた日常らしい。彼らと生活するようになって一週間、私は毎朝、彼が高級コーヒーを蒸らす姿を見ている。

「蒼衣ちゃん。コレ、翠ちゃんに持っていって」

対面キッチンのカウンターにソーサー付きカップを載せて、山吹さんは蒼衣さんを呼んだ。長身の紳士は、言われるまま無言でカップをお盆に載せる。チェロのような心地良い声は、実はそんなに頻繁に聴けるわけではないらしい。蒼衣さんは必要最低限の発言しかしない。少なくとも、この七日間、私はろくに彼の声を聞いていない。

穏やかな朝のひとときは、居候の私にとって手持ちぶさたで気まずい時間。フローリングモップで何となく床掃除をするのが習慣になりつつあった。

「翠さん。コーヒーが入りました」

大きな仕事机の端に、蒼衣さんはカップを置く。二台も並んだパソコンモニターの向こうで、端正な顔立ちの青年が何をしているかはわからない。でも、高速で一心不乱にキーボードを打っているのだから、仕事なんだと思う。マウスの横に置かれた高級コーヒーを一瞥すると、翠さんは両耳にはめていたヘッドホンを片耳だけ少しずらした。

「またこれか。モモ、お前にやるよ」

上品な湯気が上がる漆黒の水面を無造作に乱して、翠さんはコーヒーを私の方へ押しやる。

「え、でも……それは」

「俺、猫のウンコから取ったコーヒーなんて、飲む気になんねーもん」

背中で、蒼衣さんがため息をつくのを聞いた。そして、それほど大きな声で言ったわけでもない翠さんの声を、山吹さんはキッチンの奥で聞きつける。

「また、そんなこと言って! あのね、翠ちゃん。コピ・ルアックはムスクの香りがほのかに漂う逸品なのよ」

「だって、ジャコウネコが消化しきれなくてウンコで出したコーヒー豆だろ?」

「きれいに洗浄して高温で焙煎してますっ!」

「猫の尻穴から出てきたってだけで、吐き気がする。逸品だなんて、ふざけてるよね」

コピ・ルアックに冷たい眼差しを向けると、武良咲翠むらさきみどりさんは机の引き出しからドクターペッパーの缶を取り出した。プルタブを引いた途端、お高いムスクの芳香にジャンクな炭酸飲料の匂いが混じり出す。

「おい、茶屋町萌々香。遠慮せずに飲めよ」

私の顔をまっすぐに見つめてニヤリと微笑むのは、親切さからじゃない。ジャコウネコが消化せずに排泄した豆を使うコーヒーを、私が飲むのを面白がっている。

「ほら、ウンココーヒー」

きゃはは! という子供みたいな馬鹿笑いは、きれいな顔立ちの翠さんには全然似合わない。でも、それが彼の本性らしかった。貧乏人としては、猫の尻穴から出てきた豆かどうか、ということより、一杯七千円という高級感に惹かれる。

「じゃあ……いただいちゃおうかな」

苦笑いしながらも、恭しくカップを口に運んでしまう私は、とても正直な一般ピープル。いや、一般以下のピープル。


 私、茶屋町萌々ちゃやまちももかは、ストロベリーパフェから落ちた苺を拾い食いして、なんでも屋『N・D・Y』の社長を務める翠さんに拾われた。初めてのクライアントであり、ホームレスで文無し、仕事無し、身寄り無しの私がまっとうに生きていくためには、翠さんのところに居候しながら彼の助手をするのが、一番手っ取り早い解決法だった。事務所兼自宅の4LSDKは、リュックサック一つの荷物しか持たない私が居ついても、まだまだ余裕がある。

32畳のリビングの真ん中、大きな窓ガラスを背に、翠さんは社長然とした大きな机に、大体座っている。そして、これまた大きなパソコンモニターを二つ並べて、デスクトップパソコンのキーボードをいつも一心不乱に打ち続けていた。

「ちっ! やられたっ!」

 小さく舌打ちした後、翠さんは背もたれが高く伸びる椅子に身体をドンと預けた。その瞬間、耳に当てていたヘッドホンのケーブルがピンと張って、スピーカージャックから外れる。騒がしい攻撃音と獣のうめき声、何かの技を叫ぶキャラクターの声が大音量で一気に漏れた。

「またオンラインゲーム? 遊んでないで、仕事しなさいよ」

山吹さんが呆れ声で注意する。なんだ、仕事じゃないのかと、私は複雑な気持ちになるけれど、声と顔には出さない。だって、翠さんは私の救世主。土下座はできても、文句なんて絶対に言えない。また家なき子になるくらいなら、翠さんの奴隷よろしく、イエスマンに徹するべき。

「翠ちゃんってね、ゲームオタクなの。今はどれだけモンスターを倒せるかっていうのにハマってて、ゲーム内で知り合う参加者たちとグループを組んじゃぁ、こうして毎日怪獣と戦ってるの。お子ちゃまよねぇ」

私に同意を求める山吹さんの話し方は、ちょっとオバサンっぽい。

 それにしても、どう見ても二十代前半という年齢の翠さんが、いわゆる普通の仕事もせず、都心の高層マンションに住んでいるというだけで、彼がただ者でないことは確か。一緒に住んでいる蒼衣さんと山吹さんもサラリーマンではなく、翠さんと血縁関係にあるわけでもないようだった。

「しょーがねぇじゃん。お客がいないんだもん。クライアント第一号のモモも片付いちゃったし」

長い足を机の上に投げ出して、翠さんは私を見ながらドクターペッパーをあおる。

「しかしアレよね。モモちゃんって不幸そのものって感じよね」

「はァ……まあ、そうですね」

山吹さんの言い方はひどいけれど、それに反論できないのは、私の人生が一般的に不幸と呼べるようなものだから。生まれた瞬間からずっと、誰かに守られるという経験がないまま、私は十八歳の誕生日を迎えて、そしてホームレスになった。

 中学二年の時、児童養護施設の先生は「心を強く持って聞いてね」と覚悟を促してから、こう教えてくれた。私は区役所の前に、タオルにくるまれた状態で捨てられていたのだ、と。誕生日と名前が書かれたメモ用紙が添えてあって、警察はそれを手掛かりに親を探したけれど、見つからなかったとも。

 捨て子の私は、それでもあまり悲壮感なんて覚えず、心身共に健康的な学生時代を過ごしてきたと思う。親がいないことは、確かに残念。けれど、親がいる子を羨ましがってもしょうがない。卑屈になったって損をするばかりだと、子供ながらに冷静に判断できた。それに、高校では担任と友達に恵まれて、毎日がむしろ楽しかった。先生が就職活動を親身に応援してくれたし、その甲斐もあって、卒業と同時に、寮のある食品工場へ入社するはずだった。

 そう、工場の親会社が食品偽装を行い、マスコミに散々叩かれたあげく倒産して、工場も閉鎖に追い込まれるまでは。薄給でも狭い寮生活でも、私は人間としてマトモに生きていけたはずだった。そもそも家がなく、頼る家族もなく、施設にも戻れず、仕事も失った私は、自分でもはっきりと自覚するほど不幸になった。

 ホームレス生活を続けて三週間、手持ちのお金も尽き、もう普通の人間としては生きていけないんだと覚悟が固まり始めた頃、救世主は突然現れた。オシャレなカフェのテラス席で、ストロベリーパフェのイチゴを落としてくれた翠さんは、私をどん底から救い出した天使様。いや、神様と崇めてもたりないかもしれない。助手としてなんでも屋を手伝ってくれれば、家に置いてやってもいいと、とんでもなくありがたい言葉をくれたのだった。

「でも、意外にモモちゃんって、淡々としてるのよね。悲壮感がないっていうか。アタシが同じ境遇にあったら、もっと恨めしい顔してる気がするもん」

「うーん……悲しいは悲しいですけど、現実は現実ですから。恨めしい顔したって、しょうがないですよね。アハ」

モップを床に滑らせながら、私は苦笑するしかない。

「若いのに、なんか達観してるわねェ。メンタルが強いのか、図太いのか」

山吹さんは感心したつもりなんだと思う。でも、蒼衣さんはチクリとと釘を刺した。

「図太いのはお前の方だろ。言葉のチョイスにデリカシーがない」

「あら、アタシはコミュニケーション取ってるだけよ。不愛想でロクに会話もしない人よりマシだわ」

無口な蒼衣さんに嫌味を言った後で、山吹さんは私を見ながらチロリと舌を出す。イタズラをした子供のような表情に、思わず笑みが浮かんだ。遠慮のない人だけど、決して悪い人じゃない。

「しばらくは翠ちゃんのスネかじって、楽な生活送ったらいいわよ。アタシも似たようなモンだから、気にすることないわ。翠ちゃんは桁外れのお坊ちゃまなんだもん。洋服代でも化粧品代でも、なんでもおねだりしちゃいなよ」

――桁外れのお坊ちゃま。どこかの社長の息子だろうか?

「俺は、自分が興味のないものに金を出すつもりはないよ。ブッキーだって、料理が美味いから置いてやってんの」

コピ・ルアックを優雅に飲む山吹さんは、翠さんの言葉に対して聞こえないふりをする。元は有名店のシェフをしていたという彼は、確かにとても美味しい料理を作るけれど、現在は翠さんと蒼衣さんの食事しか作っていない。山吹さんがこの家にいるのも、何かしらの事情があるんだと思う。

「翠さん。そろそろ通院のお時間です」

パソコンモニターから目を逸らそうとしない翠さんの前に、蒼衣さんは右手を差し出す。視界が遮られてようやく、翠さんは顔を上げた。

「ジャマすんなよ。今、最強の戦士がパーティーに合流したばっかなのに」

「ゲームはお終いです。朝木先生がお待ちです」

「この、ラモン・デッカーが来れば、どんなモンスターも倒せるんだよ!」

「ラモン・デッカー? ……地獄の風車の、あのデッカーですか?」

「地獄の風車? 何それ?」

「ラモン・デッカーは、キックボクシングで伝説のチャンピオンと呼ばれた男です」

「キックボクシング? よくわかんないけど、ラモン・デッカーていうハンドルネームの戦士が、超強ぇの。コイツが来ると、ぜってー勝てる!」

翠さんが指さすモニター内を遠目に覗くと、そこには金髪ツインテールの華奢な少女キャラクターがいた。フリルがフワフワした可愛いドレスを着ているのに、両手には顔よりも大きい鉄のグローブをはめている。私もキックボクシングなんて全然知らないけど、蒼衣さんの言う『地獄の風車』なる男のイメージとは、かなりかけ離れていた。

「こんな愛らしい女の子が、ラモン・デッカー……?」

蒼衣さんも首を傾げるが、翠さんは首を振ってすぐに否定した。

「リアルの性別は女じゃないね。ネカマだろ。男だよ、たぶん。パソコンの向こうには、ツインテールの可愛い女の子が大好きっていう、巨漢の男がいるはず。蒼衣の言う、ラモン・デッカーていうチャンピオンに憧れてハンドルネームを同じにしたのかもしれないけど、リアルではメチャ弱! なんじゃないの? ゲームの世界で自分の理想をすべて実現させたら、このキャラができた……て感じでしょ」

「なるほど」

蒼衣さんが頷く後ろで、私も納得してしまう。ゲームだとかインターネットだとかには疎いけれど、そういうのが好きでハマっているオタクな男性に、翠さんが言うような人がいてもおかしくないと思った。

「ホラ、見て! 超強ぇ!」

金髪のツインテールを揺らしながら、ドレスの少女は大きなモンスターにパンチを連打する。

「来るぞ、必殺技。ターバンフロンザへ!」

翠さんの掛け声は、少女の甲高いアニメ声と重なる。細く華奢な腕が繰り出す必殺パンチは、稲妻のような光を放った。途端にモンスターの動きが止まり、色が反転したかと思ったら、粉々に消えていなくなる。バトルは終了したらしかった。画面の端のチャット欄に、このバトルに参加したユーザーがメッセージを次々に上げていく。

『ラモンさん、おつかれさまっす!』

『ラモンちゃん、またよろしく』

『さすが、ラモン姉!』

誰もが、ラモン・デッカーに感謝のメッセージを送っていた。

「俺も送ろっと。ラモンっち、今日もキレキレだね。ありがとう、っと……」

翠さんがそう打ち込むと、誰のコメントにも無言をつらぬいていた金髪の少女が一言だけ返した。

『また一緒に戦いましょう』

フリルのドレスを翻して、少女はくるくる回りながら姿を消した。キラキラと輝く細かな光の粒が、彼女の余韻を数秒だけ残す。

「ヤバくね? ラモンっちのターバンフロンザへ! 最近、よく一緒に戦いに行くんだよ」

「ターバイン・フロム・ザ・ヘル……ですかね」

つい指摘してしまったのは、私の得意科目が英語で、ヒアリングも結構できたからか。翠さんはキョトンとした顔で振り返る。

「えっと、地獄の風車って意味です」

蒼衣さんが言ったとおり、金髪少女を作り出した人物は、実在のキックボクシングのチャンピオンを崇拝しているようだった。

「モモ、お前……意外にアタマ良いんだな」

「意外にって……! 私、そんなにバカっぽく見えますか?」

迷うことなく頭を盾に振る翠さんは、本当に感心したような表情をしている。

「だって、モモってなんか、犬っぽいじゃん」

「い、犬ぅ?」

自分でも思いのほか、素っ頓狂な声が出たと思った。この十八年の人生で犬に似ていると言われたのは初めて。

「犬はバカじゃありません。かなり賢い哺乳類です」

蒼衣さんの呟きは全然フォローになっていないし、むしろ私がバカっぽく見えるということを念押ししている。

「あのォ、自分が知的な顔してるなんて、自慢はできないですけど。もうちょっとマトモな例え方があるんじゃないでしょうか?」

私だってお年頃のオンナノコですから、やんわりと反論してみる。もちろん、笑顔で。

「いいじゃん。ブタとか馬とか言われるより。犬、カワイイし」

翠さんには、まったく悪気がなさそう。

「豚はトリュフを取るくらい優れた嗅覚を持ちますし、馬も極めて聡明な哺乳類です」

蒼衣さんの言葉は、申し訳ないけれど無視していいだろうか。

「ねぇ、くだらない話してないでさァ。アタシ、そろそろ夕飯の買い出しに行くんだけど、翠ちゃんは病院行かなくていいの? 送ってってあげるわよ」

「あ、行く行く。遅刻しちゃうよ」

すっかり身支度を整えた山吹さんが、私は犬に似ているという話にピリオドを打った。翠さんはあっさり話を切り上げて、椅子から立ち上がる。そして、視界の端にジャケットを羽織ろうとする蒼衣さんを確認すると、言った。

「蒼衣は来なくていいよ。ガキじゃないんだから。一人で行ける」

「いや、しかし……」

「いいんだよ。何かあったら電話するから!」

早口で蒼衣さんを黙らせると、速足でリビングを出て行った。強引な言い方は、誰が聴いても拒絶を示している。蒼衣さんは、何か言いたげな顔をするけれど、何も言わない。追いかけもしないで、大人しく従うらしい。

「モモちゃん、買った食材持ってほしいから、一緒に来てくれない?」

翠さんと蒼衣さんのやり取りを気まずく聞いた私は、山吹さんのお誘いをありがたく感じる。モップを部屋の隅に立てかけて、小走りにリビングを出る間際、ちらと振り返ると蒼衣さんはこちらに背を向けてソファに座り込むところだった。明らかに年下の翠さんの言いなりになる蒼衣さん。二人の関係性には違和感しか覚えない。


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