1.退屈な便利屋と宿無し娘
女子向けのイケメン君が出てくるお話が書きたいなと思いました。基本的にはほのぼのしていますが、ミステリーです。
某賞に投稿しようと書いていましたが、間に合わなくなり、中途半端な状態になって…でもそのままにするのも悔しくて、キャラクターなどを移行して「星占アフター」にしました。書いているうちに大分違ってきちゃいましたが。。。
1
苺が、落ちた。
可愛らしい印象とは裏腹に、なまめかしいほど果肉をぷっくりと熟れさせた赤い実が、引力に誘われて宙を泳いだ。
それはきっと、一秒にも満たない、とても些末な出来事だったはず。男性の唇からこぼれ落ちた哀れな果物は、口に入れさせてもらえない腹いせか、白いTシャツへ淫らな染みを作りながら地面に着地した。
でも、他愛もないそんな出来事は、私の目にとてもゆっくりと映った。艶やかな苺の表面にある、無数の小さな種の粒が数えられるほど、ゆっくり。
――ああ、あれはもう
真新しい靴の脇に、ぽとりと落ちる赤い果肉。
――あれはもう、誰の
無意識のうちに、足は動いていた。体力というものが底をさらっても見つけられないような状態なのに、美しい紅色の宝石が気力を無理矢理にかき立てる。
目には、いやらしさすら漂う魅惑的な輝きを放つ果物しか映っていない。
――もう、誰のものでもない。
私は、もはや気力のみで動く足を引きずりながら前へ進み、カラカラに乾ききった喉から声を振り絞った。
「く、ください……! そ、そのイチゴを、私にくださいっ!」
「え?」
誰が返事をしているかなんて、どうでも良かった。今の私には、苺の所有を否定してくれさえすれば、言葉を交わす相手が誰でも関係ない。
「お、落ちたんだから、もう誰のものでも、な、ないですよね……?」
「……そう言われれば、そうだけど」
「あ、あ、あ、ありがとうございますっ!」
自分でも驚くほどの大声で礼を述べながら、私は傷一つないコンバースの先にひれ伏した。頭上で小さな驚きの声を聞いたような気もするけど、そんなものは極限まで空腹を耐えた私の脳が感知するはずもなかった。
オープンカフェの床板に両手をついて、齧りかけの苺を恭しく取り上げる。僅かに付いた砂を指先で払うと、濡れた果肉は今の私にとって、何よりも魅力的に見えた。ええ、世の女子中高生を虜にするアイドルグループよりも。
「あ、ああ……」
言葉にならない呻きさえ漏らしながら、私は美しい紅玉色のそれを口に含む。舌に触れた途端に広がる甘酸っぱさに、全身がとろけた。奥歯でゆっくり噛むと、さらに濃い甘みと少しの青臭さが口中に溢れる。果汁がじんわり舌に染み渡ると共に、唾液が出た。どこもかしこもすっかり干からびた自分の、どこにそんな水分があったのかと思うほど、涎が流れ出てくるのだった。
「お、おいしい……!」
唸るような声と共に、おなかがググーッと鳴る。ひとかけの苺は、私の空腹を一気に倍増させたらしい。
「ぷっ……くくくっ!」
頭上から聞こえる笑い声。ハッとして顔を上げると、そこには端正な顔立ちが作り出す美しい笑顔があった。男性は、手に持っていたストロベリーパフェのグラスを差し出す。
「そんなに腹が減ってんなら、これ全部あげるよ」
眉目秀麗という表現は彼のためにあるのかもしれない。
小さな卵型の輪郭に目尻が切れ上がった大きな目、形の良い高い鼻、淡いピンク色の唇。どれを取っても、神様が完璧を目指して作ったみたいに、微塵の狂いもなかった。
――カッコいい。
頭がそう認識した瞬間、顔面の毛細血管がすべて開き切って、カッと熱くなった。恥ずかしさで頬が真っ赤に染まっているのが、自分でもわかる。
「ホラ、腹減ってんだろ? 遠慮しないで、食べろよ」
自分の前にあったパフェグラスをテーブルの端まで差し出し、美しい男性は顎で隣の椅子を指す。『座れ』と促しているようだった。
「あ、いえ、ワタシ……あの……」
口ごもっていると、後ろから背中のリュックサックをぐいと引き上げられ、私の膝はオープンカフェの板床から引きはがされた。
「どうぞ、お座りください」
低く澄んだ男声が後ろから聞こえて、私は慌てて振り返ろうとする。けれど、そんな間もなく手を引かれて、椅子に座らされた。無理やりなのに強引さはなくて、まるでダンスに誘われるように軽やかだった。
「翠さん。同じものをもう一つ頼みますから」
這いつくばって狭くなっていた視界がぐんと広がり、チェロのように落ち着いた声の主をようやく確認できた。頬にかかりそうなほど長い黒の前髪の奥に、涼しげな奥二重の瞳が見える。大人の男の人。表情が全く読めないクールな横顔に、思わず動揺してしまう。
彼は、テラス席に座る美しい青年の脇に立ったまま、手を上げて店の奥にいる店員を呼ぶ。身長は百八十センチをゆうに超えているだろう。肩幅も広く、バレーボールかバスケでもしていたのかと思うくらいの体格の良さだった。黒いジャケットに黒い細身のパンツ、黒の革靴と黒づくめなのに、暑苦しさはなく、彼にはとても良く似合っていた。
「蒼衣。座れよ。デカいのが突っ立ってると目立つだろ」
半歩後ろに立つ紳士に対して、美しい青年はウザそうに手を振った。パフェスプーンを口にくわえながら喋る行儀の悪さが、美貌にまったく似合わない。また、明らかに年上なのに、長身の紳士が大人しく従うのが不思議。空いている椅子を引き寄せながら、「すみません」と敬語を使うのも違和感がある。
「それより、アンタ。パフェでいいの? 腹減ってんなら、もっとガッツリ食った方がいいんじゃない? 奢ってやるよ」
メニューを開いて差し出し、青年はテーブルの上に頬杖を付く。端正な顔がぐっと近づいて、顔が熱くこわばった。長いまつげが瞬きと共に上下する様すら、美しい。
「ねえ、聞いてんの?」
大きな黒い瞳が私を見た。目が合うという日常のありふれた出来事は、この人との間に限っては事件かもしれない。心臓が急に鼓動を速めて、喉がカラカラに乾いてくる。
「じゃあ、勝手に頼んじゃうよ?」
テーブルの脇に駆け寄る店員に対して、美しい人は「茄子とベーコンのトマトパスタと、エビとアボカドのサンドウィッチ。これ、軽くトーストしてね。あとは……」と、料理をオーダーする。厚くもなく薄すぎもしない唇の動きから目が離せない。
――私はいったい、ここで何をしているんだろう?
見知らぬ美青年と、長身の紳士。三月ウサギの奇妙なお茶会に招待されるアリスと同じくらいに、私は面食らっていた。だって、見ず知らずの女に、いきなり食事を奢るなんて、ありえない。
それに、私はそもそも疑われて然るべき行動を取ったのだから。うっかり落としたパフェのイチゴを拾って食べるなんて、警察を呼ばれてもいいくらいの不審者。普通に考えれば、そんな奇行をしでかす人間とは、言葉を交わすのすら避けたくなるはず。普通の人なら、同じテーブルにつこうとは、まず考えない。
――なぜ? この人たちは、なぜ私を招いて同じテーブルに座っているの?
自分が置かれている状況を冷静に分析しようとするけれど、うまくできない。混乱する頭の中を整理する気が薄れるほど、私は二人に見とれてしまっていた。
「なんでそんなに薄汚れてるの?」
「えっ……」
背もたれに身体を預けて、長い足を持て余すように組む美青年の質問に、どう答えていいか迷う。不思議そうに私を眺める彼の顔を見る限り、悪気はなさそう。純粋に疑問を抱いているらしかった。
でも、そう聞きたくなるのも、無理はない。私は数日同じ服を着たままで、お風呂にも入っていないし、布団で寝ることもできていない。背中にはパンパンに膨れ上がったリュックサックを背負い、肩までの髪も無造作にまとめただけで、ところどころ髪束がほつれている。どこからどう見ても、みすぼらしい以外に表現のしようがない恰好をしているのだから。
美しい人は、数秒じっと私の顔を見つめた後で、ゆっくりと頬のあたりを指さした。
「砂、ついてる」
言われて、慌てて顔を手でこすってみるけど、長身の紳士がおしぼりを差し伸べてくるのが見えて、手の動きは自然と止まる。砂埃で汚れた私の手より、店員がテーブルに置いていったおしぼりの方が、確かに清潔に違いなかった。
貧困と飢餓に縁遠いこの日本で、十八歳の娘が小汚いなりで拾い食いをするには、それなりの理由がある。なければ私は、そんな惨めなことはしない。したくもない。この数日の記憶が一気に頭の中を駆け巡って、私はいっぱいいっぱいになる。
「……大丈夫ですか?」
低く心地良い声は、気遣ってくれてるんだろうか。優しさは私の涙腺に響いて、鼻の奥がツンとしたかと思ったら、涙があふれてきた。
また、泣いてしまった。
「あ……スイマセン……やだな、涙が……」
いけないと自分に言い聞かせる。泣いてもしょうがない。この何日か、公園や駅のベンチで泣きながら眠りについても、目が覚めてすべてが夢だったと笑えたことはなかった。厳しく辛い現実は、ずっとずっと変わらないのだから。
「おい、大丈夫か?」
イチゴクリームを舐めながら椅子にふんぞり返っていた青年が、少しだけ前かがみになる。ちょっと動揺しているようだった。
「大丈夫です。おっかしいな、目が……えーと」
薄汚れて腹ペコの私にゴハンを奢ってくれるという、とても親切な人を困らせてはいけない。ゴシゴシとおしぼりで目をこすって、なんとか涙を止めようとする。
「とりあえず、コレ食っとけ」
ねじこむように、彼は私の口の中にスプーンを押し込んだ。舌は生クリームとストロベリーアイスの甘さに包まれる。
「ホレ。食えば止まるだろ、涙」
むぐむぐと口を動かす私に、美しい人はさらにもう一口、山盛りの生クリームを押し込む。口に全部入りきらず、口の周りが汚れたと感じたけど、彼は気にせずスプーンを送り続けた。
「女に泣かれるなんて、別れ話でもしてるみたいで、みっともないじゃん。何があったか知らないけど、泣くのはやめようよ」
そんな風に言いながらも、手は止まらない。泣き出した私に迷惑しているというより、焦り、困惑しているようだった。
「むぐ……もう、くち、はいらないでふ……」
立て続けにスプーンで送り込まれた生クリームとアイスは、私の喉までいっぱいに詰まっている。まともにしゃべれないほど、口の中はストロベリーパフェで溢れていた。
「あ?」
やっと手を止めて、彼は私の顔を覗き込む。左右の目を確認して、スプーンをテーブルの上に置いた。
「まぁ、甘いモンでも食ってりゃ、嫌なことなんて忘れるよ」
彼の言葉は、わかりやすく優しい訳じゃない。でも、素っ気ない言い方だからこそ、私の心は軽くなった。咀嚼にしか機能しない口はお礼が言えなくて、私は頭だけ下げる。
「お待たせ、いたしましたァ……」
料理を運んできた店員が、訝し気に私を見て、でも気づかないふりをしてテーブルにパスタとサンドウィッチ、そしてストロベリーパフェを載せた。どう見ても普通じゃない薄汚れた客の、どう見ても普通じゃない雰囲気を察してか、伝票を置くと静かに去っていく。
「食えよ。遠慮なんかしなくていいから」
「すいません……」
申し訳ないと思いながらも、美味しそうな匂いが胃をキュウキュウに刺激する。私は甘いクリームを飲み込んだ後、エビとアボカドのサンドウィッチにかじりついた。捨てる神あれば拾う神あり。本当に親切な人っているもんだと、胸の奥が熱くなった。
「いい食いっぷりだねぇ。……ねえ、アンタさぁ、すげー困ってるよね。なんか知らないけど、すっげーすっげー困ってるよね?」
「ハイ」
プリプリのエビとまろやかなアボカドを味わいながら、私はとりあえず頷く。困っているのは間違いない。寝る家がなく、社会人一年生にして仕事もなく、食べるものさえない状態が、困っていないわけがない。
「そっかそっか。じゃあ、俺のクライアントにならない? その困ってる感じ、なんとか解決してあげるよ」
「?」
サンドウィッチを凝視していた私の目が、美青年を見上げる。
「俺ね、何でも屋やってんの。今、何かに困っているクライアント、大募集中なんだよね」
「はァ……でも私、お金持ってないです」
今どきは、犬の散歩をお頼いしても料金を請求されるのに、現在の私の所持金は十五円。駄菓子もろくに買えない。
「報酬は……あとで考えるよ。俺、決めた。今決めた。アンタ、クライアント第一号ね」
呆気に取られる私の前で、彼は背筋を伸ばして座り直し、少し気取りながら名刺を取り出した。
「いらっしゃいませ。何でも屋『N・D・Y』です。お困りごとなら何でもお伺いいたします!」
差し出される名刺には、仰々しい明朝体で『代表取締役社長、武良咲翠』と印刷されていた。
「は?」
頭の中がいっそう混乱する私に、美青年はにこやかに微笑む。それは、美しくもよそよそしい、最高の営業スマイルだった。