第二章『鉄道の国②』
次に目が覚めた時。
アランは、鉄格子の中にいた。
露桟敷を盗もうとした罪で投獄されたのだろう、ということは分かったが、なにしろ起き上がれない。
「…う、」
かすかにうめき声をあげ、朦朧とした意識の中で、辺りを見回した。
光がない。
窓もない。…おそらく地下牢か何かか。
冷たい床に寝転がされているものの、動けないのは別の理由があるせいだ。
…体が、異様にだるい。
それに寒気もする。
薬を飲まされたか、でなきゃ疲労のせいか?
熱を出して倒れてしまったらしい自分の立場を認識し、最悪なことになったと実感した。
そんな時。
ふわりと何かが、額に触れた。
(──ファミリア?)
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
なんだろう、とわずかに頭を傾けた刹那。
小さな女の子が、じっとこちらを見下ろしているのに気付いた。
その幼い手のひらがアランの額に押し付けられ、ひやりとした冷たさに気が緩んだ。
(──なんて可愛らしい)
その容姿に、フェルディナンの妹シェノアを思い出した。
クーデターの後、ぺトラスト山に逃げ込んだアレクシア・クリスタにとって唯一の癒しだったシェノア。
まるで小さな天使のような笑顔に、和まされたものだ。
(…シェノアに似ている)
と思った刹那。
その手が、実体でないことに気づいて愕然とした。
──幽体?!
壁の向こうが透けて見えるのに、ちゃんと手のひらはアランの額に置かれていて、冷たさを感じる。
気持ちがいい。それだけで熱が下がる気がして、ややもすると気分がはっきりした。
だが、やはり起き上がることができず、アランは少し頭を動かしただけで、再び眩暈に襲われた。
こちらを覗き込んだ少女が、その容貌に似つかわしくない冷ややかな声音を吐き出した。
「あなた、お兄様を誘拐しにきたの?」
…なんの話か分からずに、眉間に皺を寄せた。
答えがないと気づき、少女がさらに問いかけてくる。
「そうなんでしょ。あなた、悪い人でしょ。…お兄様を連れて行かないで」
とたんにボロボロと泣き出した少女に、アランは困惑した。
実態がないはずなのに、その透けた姿のまま涙がしたたり落ちる。
その雫が、アランの顔へと落ちていく様に、さらに戸惑ってしまった。
雰囲気がシェノアに似ているだけに、泣かれると気持ちが落ち着かない。
小さくてフワフワした、可愛らしい面立ちを見つめたまま、アランは声すら出すことができずにいた。
どうしようか、と考えあぐね、必死で声を出そうとしていた矢先。
ふいに牢獄の錠前が開き、1人の男が入ってきた。
(──レオン?!)
農園に忍び込んだ同罪で、どこかに投獄されていると思っていたのに。
なぜ彼だけが解放されているのか!
謀られた、と気づいた時にはすでに遅く。
彼は無言のままアランに近づくと、その体を抱きかかえ上げた。
「…この人をどこに連れて行くの」
幽霊のように体が透けた少女の手が、レオンの服を掴む。
その手を振りほどくことなく、彼は目を細めた。
「熱が下がらないから別室に移すだけだ。このままだと死んでしまう」
「でも、この人悪い人でしょう? 農園に忍び込んだのよ」
「オレが誘ったんだ。俺の責任だ」
「やめて、その人に触らないで。優しくしてはダメ」
「そんなことしない」
と、彼は笑った。
その視線が、じっとアランへと注がれる。
「ただコイツに死なれたら困るだけだ。…なにしろ人質だからな」
──人質…。
その言葉を、アランはふわふわとした意識の中で聞いていた。
■□■□
アランの熱が下がったのは、それから数日後のことだった。
最初は怪しい薬でも盛られたのかと心配していたが、どうやらそうではなかったらしい。
ベッドに伏したままのアランを気遣い、複数のメイドらしき女性が幾度も部屋を行き来しては、薬や食事を運んでくる。
アランが動けないと知るや、早々に湯あみが用意され、どこから持ってきたのか男物の服まで持ち込んで、着替えまでさせてくれる。
人質にしては、ずいぶんと至れり尽くせりな事態に困惑していると、まもなくして起き上がれるようになったアランのもとに、レオンが訪れた。
顔をみたとたん、むっとしたアランに彼が苦笑した。
ドアの前に立ったまま、彼はこちらに近づく様子もなく話しかけてきた。
「そんな顔するな」
「…裏切者め」
「裏切り? 仲間になったつもりはないけどな」
「…ここはどこだ?」
「さぁ、どこだと思う?」
会話はするりとかわされ、まったく話にならない。
アランは嘆息まじりに、目を閉じた。
(…ファミリア…)
その名を呼んでみるが、応答はない。
部屋の窓には、鉄格子。そこに特殊な細工でもしてあるのだろうか。
アランは、じっと窓を見つめた。
軟禁されているのは変わらないらしいが、室内の作りは実に豪奢で、高級品ばかりの家具が並んでいる。
レオンは仕事も家もない風来坊だと聞いていたが、仮にここが家だとしても、商人レベルの住まいではないと確信できた。
ドアの前に立ったまま。
レオンは警戒するように、アランを見据えた。
「…イーゴルは今、ゆっくりと衰退に向かっている、急激な近代化の進化に、民の心がついていけてないんだ。この国には、ファミリアが必要だ」
その言葉に聞き入っていたアランは、不満げに睨みつけた。
「その前に、言うことがあるだろう。自己紹介ぐらいしろ」
すると彼はようやく気付いたように、あぁ、と目を開いた。
「申し遅れた。オレは、このイーゴル国の国王レオニード・ラスター三世だ」
「…眩暈がしてきた」
おおかた、そんなことじゃないだろうかと予想はしていた。
だが、いざその名を耳にすると、さらに頭痛が増して、うんざりした。
「お前、バフィトの間者だろ、アラン?」
その意外な言葉に、仰天した。
「は?!」
「お前の国から持ち帰った露桟敷が目的だろ? どうせこのオレと刺し違えてでも奪ってこいとでも言われたのだろうが、花槽卿を狙うやつは誰だろうと生かしてはおけない」
「とんだ勘違いだ」
アランは笑い飛ばした。
ここでフェルディナンの手紙を見せれば、万事うまくいくはずだったのに。
交渉どころか、まさかスパイ扱いされるとは思ってもなかった。
アランはただ笑うしかない現状に脱力した。
「人の金を盗むようなヤツに、盗人呼ばわりされるとは心外だ。プルーデンス国王が聞いたら、さぞかしお嘆きになることだろう」
「お前、バフィトの使いなのか!」
「今さらだけど、私も自己紹介しようか。アラン・エル・ノジエだ。…イーゴル国王との交渉のために、バフィト国王から派遣されてきた」
ぽかんとしたレオンの表情が、とたんに固くなる。
その厳めしい面持ちが、まっすぐにアランへと向けられた。
「…オレは、バフィトとリトシュタインの統治権と引き換えだと伝えたはずなんだがな」
「そんな要求、飲めるわけないだろう」
「だから奪いに来たのか。盗人はどっちだ」
「プリンシパルはどこだ? すでに露桟敷から生まれているのだろう?」
「それをオレが喋ると思うか?」
あざ笑うように言われて不快感をあらわにすると、レオンは仕方がないとばかりに両手を掲げてみせた。
「あぁ分かったよ、言うよ。あんたは交渉人だものな。──もちろん誰にも見つからない場所に隠してあるさ。でも詳しくは教えるつもりはない」
「まったく話にならないな。みせしめに私を殺すか?」
「バフィト国王の返答しだいかな」
「…それなら、今ここで死ぬ。フェルの枷にはなりたくない」
「えっ、フェル?! えっ?!」
ぎょっとした彼の目の前で。
アランは近くにあったティーポットを割り落すと、その破片で自分の首を狙った。
慌てたレオンがドアの前から走り寄ってきたものの、すでに時遅く、アランは自分の首を痛めつけて、血しぶきに床を汚した。
「アラン!!」
手を伸ばした先で、アランの体が床へと崩れ落ちる。
それを寸でのところで受け止めて、ソファへと下ろした。
「なんてことしやがる。血が止まらない。どうしたらいい?!」
狼狽いたまま案を失ったレオンが、蒼白する。
「お前を助けるにはどうするべきかと聞いている、アラン! 今死なれては困るんだ!」
その傍らで、
アランはかすかに唇を震わせて、声を振り絞った。
「窓を・…窓を開けて」
レオンが窓のガラスを叩き割ると、鉄格子が崩れて、その狭間から外の空気が流れ込んできた。
「ファミリア」
そう呟いたとたん、結界が解けた場所から、小さな光が無数に飛び込んでくる。
ただの光の粒にしか見えないものが、瞬く間にアランの体を取り囲み、包み込むようにして首の傷を癒しはじめた。
すぐに完治するわけではないが、そう長い時間をかけずに痛みが引いていく。
「…まったく、」
しだいに薄くなってきた傷を前に、レオンはようやくほっと安堵の息を吐いた。
「お前の国王に対する忠誠心はよくわかったよ、アラン」
「そんな大げさなものじゃない」
と苦笑し、その時、レオンもケガをしているのに気が付いた。
彼の服が破片で破れ、その胸板からわずかに出血している。
「破片で切ったのか。巻き込んで悪かった」
「大したことない」
「そういうわけにはいかない」
アランはシャツの袖を引きちぎると、申し訳なさそうに傷口にあてがった。
メタルの義手が珍しいのか、彼の視線が迷うことなくアランの義手に向けられる。そのことに、アランは気づかないふりをした。
「人質に手当されるとは、奇妙な光景だな」
と、レオンが笑う。
「もう勝手に死のうとするな。お前の生死は、国王であるオレが決める」
その言葉に、今度はアランが笑う番だった。
「差し支えなければ、さっき地下牢にいた少女について知りたいのだが」
投獄された時に見た少女は、まるで幽霊のようだった──
《お兄様を連れていかないで》
そう訴えた理由はなんなのか。
アランは、その意味を知りたかった。
「あれは、オレの妹だ」
と、彼は即答した。
「あの子は、病気なんだ。もう何年も仮死状態で眠ったまま。死んでいると勘違いされて火葬にされそうになったところを、オレが助けた。…妹はいつか絶対に目を覚ましてくれると、オレは信じている」
「その子に会ってみたい」
「ダメだ」
「なぜ?」
「人質のくせに文句を言うな」
急に険しい顔になったレオンは、廊下にいた警備士に鉄格子の窓を直すように伝えると、アランが逃げないように見張っておけと厳しく申しつけて、部屋を出ていった。
──あんな態度を取られると、ますます怪しい。
妹君にはなにか秘密があるに違いない。
が、いったいいつまでここに幽閉されることになるのだろう。
鉄格子のせいで、窓の向こうの空は、幾多にも切り裂かれているように見えた。