第一章『新たなる花槽卿』
旧リトシュタイン帝国の崩壊から数年が経つと、少しずつだがファミリアの勢力が広がりつつあった。
バフィト王国の民たちはそれぞれに幸せで。
国境近くのぺトラスト山で暮らすアレクシア・クリスタもまた、それなりに穏やかな生活を続けていた。
加えて、元・護衛士のファングが、なにも言わずにそばにいてくれる。それがなによりも心強かった。
バフィト国王の落とし胤であるプルーデンス王太子の王国統治については、当時かなりの騒乱が予想されたものの、事態は意外にも落着した。
ほかに後継者や適任者がいないことも理由の一つだが、ダリール公家とバフィト一族の両方の血を併せ持っていることが好機となり、国民の反感をくすぶらせることなく、ファミリア思想と軍力主義をうまく融合して統治している。
新リトシュタイン帝国の皇帝に妹のシェノアを推したのは、フェルディナン自身だった。
皇帝のいなくなったリトシュタインは、1年のうちに3人の皇帝がついたが、どれも脳なしでうまくいかず、他国への亡命者が後を絶たなかった結果、バフィト王国が植民地統治をすることが決定した。それに伴う采配だ。
薬師ごときが軍事帝国を統治などと思われがちだが、意外とうまくやっているのはシェノアの人徳が大きいものの、リトシュタインにしたら藁をも掴む思いだったのだろうと推測された。
■□■□
「…花槽卿は、まだ生まれないのだな」
バフィト王宮に招かれたアランは、久しぶりにフェルディナンに面会したとたん、そんなグチを吐いて、彼を呆れさせた。
プリンシパルについては、いまだ謎だらけだ。
子供の頃に『公女の務め』として教わる予定が、英才教育を受ける前にクーデターが勃発して機を逸したのだから仕方がない。
今は教えを乞う人もなく、ひたすら情報収集に明け暮れる日々だ。
公国の機密事項だった花槽卿について知る者はなく、風配師トランスフィールドですら、ほぼ名前と存在しか知らない有様に嘆くしかない。
お茶の席で大きく伸びをして。
疲れ切った様子でテーブルに伏せるアランに、フェルディナンは甘いお菓子を勧めた。
「食え。サキソライトが作った」
「…おしどり夫婦で良いことだな」
「お前が言うと、皮肉にしか取れん」
むっとしたフェルディナンをからかうように見つめ、アランはようやく笑顔になった。
テーブルの脇に置きっぱなしだったダリールの歴史本を引き寄せて、ページをめくってその内容に目を通した。
「リトシュタインにはあまり期待できないな。もともとダリールの土地ではないから、ファミリアが定住しないんだ。露桟敷の木を植林しても、実をつける気配がない」
そう考えると、バフィト…つまり旧ダリールは、真にファミリアの加護を受けているのだということがよく実感できる。
「さながらオレの統治力なんて、微々たるものだ」
などと口癖のように言うフェルディナンの気持ちが、少しばかり理解できた。
「それで? 私はなぜこの王宮に呼ばれたのだろう」
アランは首を傾げた。
「まさか王妃が妊娠しやすい薬を調合しろとでも言うんじゃないのだろ?」
「…お前はいつからそんなに下世話になったんだろな。かつての気品と高貴さはどうした」
「ぺトラスト山のふもとに忘れてきたかもしれない」
「笑えないな」
フェルディナンは不愉快そうに眉をひそめ、アランの向かいの席に座した。
「オレの家族計画の話はともかく」
と前置いて、彼は神妙な面持ちでテーブルの上に身を乗り出した。
「お前がリトシュタインにファミリアを根付かせようと考えているのは知っている」
「うん?」
「けれど、オレとしてはムリにこだわらなくてもと思っていた。──先日までは」
「うん、心境の変化か」
「のんびりしている場合ではなくなったんだ」
「──」
どこか抽象的な言い方をする従兄に眉をひそめ、アランは面倒くさいとばかりに目を閉じた。
「なんだよ、早く言えよ」
「…実は、プリンシパルが生まれた」
とたんにアランが椅子から飛び上がった。
愕然とした表情が、瞬く間に色づいて高揚する。
「どこで?!」
「イーゴルだ」
「イーゴル?! 他国じゃないか。なんでそんな場所に」
声を張り上げるアランに、フェルディナンは落ち着けというように片手を上げた。
渋々と席についたとたん、彼の低い声が室内に響く。
「…川沿いのユーリル川付近に自生していたのを、たまたま来ていたイーゴルの民が、珍しい木だと思って持ち帰ったらしい。それで、調べてみてびっくり、まさか露桟敷とは…」
「まぁ他国民なら、そうなるよな」
アランは素直に頷いた。
しかしイーゴルといえば、鉄道業が盛んで橋と海に囲まれた観光地だ。
ファミリアの加護など無くても、立派に成り立っている。
あやふやな妖精の力など必要としないに決まっている。
それならば、
「交渉すれば簡単に返してくれるのでは?」
と言うと、フェルディナンは意外にも面倒くさそうな面持ちになった。
「お相手は、取引を申し出てきた」
「取引? イーゴルはなにを欲しがってんの?」
「バフィトとリトシュタインの統治権」
「うわっ、」
アランは思わず椅子の上でのけぞった。
「あいにくだが、それはプリンシパルの存在と引き換えにしていいものじゃない」
「…、」
「と言ったら、お前はまた勝手に動いて、単身イーゴルに乗り込んでいくんだろうな、アラン?」
「うっ!」
完全に見抜かれている。
これだからフェルディナンは面倒くさい。
まじめで誠実なのが取り柄だが、生まれつき奔放なアランと違って、子供の頃から規律を重んじるきらいがある。
「評議会はなんて?」
アランが尋ねると、彼はますます苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
「露桟敷は返してほしい。でも統治権は渡せない…というのがお偉い方の意向だ」
「そりゃそうだ」
──だからこそ、アランが王宮に呼ばれたのだろう。
討論会の席に呼ばれず、フェルの私室に案内されたのは、公式でなく内密に動けという暗黙の命令だ。
「つまり、」
と、フェルディナンの人差し指が、びしっとアランの鼻先へと向いた。
「イーゴル国王レオニード・ラスター三世と刺し違えても花王を奪還して来い。これは命令だ。リトシュタインの再生には、どうしてもプリンシパルの存在が必要なんだ。なんとしても露桟敷は取り戻さなきゃならない。なにしろファミリアには大国ひとつ潰すだけの力があるんだからな…とシェノアも言っていた」
リトシュタインは前・花槽卿ヴァンが死んだ場所だ。
それにフェルディナンの父・ルノー侯爵の亡骸も埋まっている。
あの土地にファミリアが根付いてくれたらどんなにいいかと、2人ともが祈っている。
「ふむ。つまりリトシュタイン帝国シェノア皇帝陛下のご命令でもあるわけだな」
「嫌な言い方をするんじゃない」
フェルディナンに諫められて肩をすくめていると、おもむろにテーブルに1枚の写真が差し出された。
「…これは、」
とても美しい露桟敷の木だった。
こんな幻想あらたかな原木は、いまだかつて見たことがない。
緑色の葉に、プラチナの光が取り囲む。
実が割れてるということは、もうすでに生まれているのだろう。
アランが知っているどんな露桟敷よりも、興味をひかれた。
「あまり期待するなよ」
と、フェルディナンは警告した。
「プリンシパル=ヴァンとは限らないんだぞ」
「あぁ、でも…ぜひ会ってみたい」
アランは、瞳を輝かせた。
こんなに楽しい気分になったのは、何年振りだろう。
新しい世界が開けたことに、今はただ感謝するしかなかった。
■□■□
フェルディナンの私室を出たとたん。
まるで待ち構えていたかのように、彼の妻サキソライトが歩み寄ってきた。
「アラン、…大丈夫なの? 一緒に行きましょうか?」
よほど心配しているのだろう。
ろくな挨拶もなく、いきなり本題を切り出されたことに、アランは困ったように目を細めた。
確かに、軍隊経験のあるサキソライトが同行してくれれば、こんなに喜ばしいことはない。
未知の国であるイーゴルに赴くことが、どれだけ危険なことなのか。
アラン自身、まったく予測がつかなかった。
けれど…
「気持ちは嬉しいけど、連れていくわけにはいかないよ。ファミリアが増えたと言っても、バフィトの秩序を妖精ばかりに頼るわけにはいかないし。第一そんなことをしたら私がフェルに怒られる。…遠慮してるわけじゃないよ」
「もちろんファングは連れていくのよね?」
「…あー、それは王妃としての命令かな」
「イジワルなこと言わないでよ」
と、サキソライトはふてくされて唇を尖らせた。
──命令でなくて良かった。
適当にごまかしてみたものの、アランはファングを同行させるつもりはなかった。
いくらヴァン所縁の男だからといって、これ以上の迷惑はかけられない。
トランスフィールドに頼んだところで、おそらくムリだろう。あの風配師も、今頃はシェノアの元で必死に働いているはずだ。風土に根付いた風配師は、国民にとってなによりの拠り所になる存在だからだ。
■□■□
国境の小屋に戻り、アランがイーゴル行きの話を打ち明けるとファングは案の定、目くじらを立てて大反対した。
「どんなところかも分からない国に1人で行く気か!」
「…別に、未開の土地に赴くわけじゃない。法律もあるし、正義もある。無秩序な世界に飛び込むわけじゃない」
「あんたは女性だろ。その自覚があるのか」
思いもよらないプライベートな詰問に、アランは眉を寄せた。
バフィト王国にファミリアの力が増してきた昨今。
アレクシア・クリスタは、再び男のなりをするようになった。
『アラン』としての日々を満喫し、まるでそれが生来の生き方であるかのように振る舞い始めている。
「またそんな恰好をして」
とファングが呆れるたび、アランはいつも
「このほうが動きやすいから」
と意に介さず、ファングの説教をするりとかわして逃げ出してしまうのだ。
──しかし、そんなことは言い訳だと分かっている。
自分が女性に戻るのはヴァンの前でだけ、とアランが決めているのなら、ファングの口出す余地など欠片もない。
不機嫌そうな顔で沈黙を守っていたアランは、
「ファングには、畑の世話を頼みたい。お前はとても丁寧な仕事をするから、安心して任せられるんだ。だから私は、1人で行く」
と、ぼそりと呟いた。
もちろん、本心だろう。
しかし顔をそむけたまま、まつげを伏せてそう告げるアランに、ファングは不愉快さをにじませた。
「…危ないことは絶対しないんだろうな?」
「もちろんだよ!」
アランは、ぱあっと花が咲いたように笑った。
「約束する! まずは偵察だけだ。連絡はきちんとする!」
「──」
アランの頭の中には、もはやファングの入る隙はない。そして庭の畑のことも…
あるのはただ、プラチナの輝きを放つ露桟敷と、生まれたであろうプリンシパルのことだけだろう。
そう考えて、ファングはかすかにため息をついた。
「気をつけて。あなたに何かあったらプルーデンス国王に申し訳が立たない。それにヴァン殿下にも」
「分かっている。ありがとう、ファング!」
大きく頷くアランに、彼はますます不安が募った。