キミとボクは
「お兄ちゃんにとって、私って何?」
妹が僕に尋ねる。
これはなかなか難しい質問であった。
僕は一見、妹に対して冷たかった。よく、からかったりイジワルしたりした。度が過ぎて泣かしたことも何度もあった。
その実、僕は妹のことが大好きだった。そして、妹が僕のことを好きなことも分かっていた。でも、そんなことは関係ない。
この問題は僕にとってガラス製の知恵の輪みたいに、非常にデリケートで複雑な問題だった。
だから、僕は妹にこう答えようと思う。
「お前は僕の妹さ」
今までも、これからも。
外では蝉が多重奏を奏でている。いや、「奏でてる」とかそんなキレイなものじゃない。むしろ楽器を破壊している音に近い。狂騒的で強迫的。実に不快で暑苦しい音だ。蝉の鳴き声がしないだけで街中の温度は二度低くなる、というのは僕の持論だ。
「あっついね〜」
クーラーの効いた僕の部屋で、妹のユリと僕はダラダラと寝転がっていた。
自分の部屋に行けよと言いたかったが、妹にそんなことを言っても無駄だとわかっているので僕は何も言わない。
こいつは昔から僕の横に来たがっていた。そして離れない。タダでさえ暑いというのに、いい加減、鬱陶しくなるというものだ。
「おい、そろそろ離れろ」
「えー、無理ですー」
わかってる。こいつは僕から離れない。
しかし、と僕は思う。
実際のところ、僕たち兄妹の仲は異常だ。
僕は妹のことが好きだ。妹が僕の事を好きなのも知っている。でも、こんなの間違ってる。いくら仲が良いと言っても、兄妹のあり方としてはあってはならない事だ。
「ワタシ、シンイチ兄ちゃんのお嫁さんになる」
妹の口癖だった。
でも、そんなのは小さいときの話で、僕らがこんな仲になるとは思ってもいなかった。
僕らは、間違いを犯した。
僕らはあの日、兄妹の一線を越えてしまった。
「兄ちゃん、もうちょっとクーラーの温度下げてぇ」
妹の無邪気な声。
やれやれ…………
なんか僕一人が悩んでるみたいで馬鹿らしい。ホント、こいつはなんでこんなにお気楽なんだろう。妹の態度に釈然としない気持ちになってると、「ただいまぁ」と階下の方から母親の声が聞こえてきた。
「アイスあるわよー、降りてらっしゃーい」
どうやら母親が買い物から帰ってきたようだ。
「アイス!!」
母親の声に妹が機敏に反応する。
「兄ちゃん!行くよ!」
はぁ……。
僕は溜息をつく。
「はいはい……」
僕たちは部屋を出て階段を下りた。
リビングに入ると、母親が「南極堂」と書かれたビニール袋からアイスを取り出している。南極堂というのは近所にあるお菓子屋であり、そこのアイスは美味しくて種類も豊富だとなかなかの評判で、我が家でも夏の定番となっていた。
「お〜、南極堂〜」
妹も当然そこのアイスには目がない。
ただし、妹の趣味は少し変わっていた。
「ユリちゃんはキムチアイスが好きだったのよね」
母親がキムチのイラストが描かれたカップを妹の席に置く。
「お。お母さん分かってるぅ」
妹の嬉しそうな声が言う。
「シンイチはどれがイイんだっけ」
こんな暑い日はそんなキワモノでない、バニラとかそういう普通のアイスが食べたかった。が、僕は少し考えた。
「あー、じゃあ僕も同じのを食べてみようかな」
珍しいわねと母親がキムチアイスを渡してくれた。
「兄ちゃんも段々と分かってきたねぇ」
妹の楽しげな声を無視して、アイスのふたを開けてみる。
アイスとは思えないツンとする酸っぱいニオイがしてきた。赤い、キムチにまみれたアイスが姿を見せた。ここのキムチアイスは白菜のキムチがそのまま混ぜてある。キムチの素だけを混ぜるとか、せめてそこら辺で手を打てばよいのに……。
スプーンですくって口に入れてみる。
アイスの甘み、唐辛子の辛さ、キムチ特有の酸味、それらが複雑に絡まった得体の知れない味が僕の表情を歪める。口の中で溶けるアイスの中で、白菜の「キチキチ」とした歯ごたえが異色を放ちまくっている。
「あー、このアイスの甘みと唐辛子の辛さキムチ特有の酸味とがもたらす絶妙のハーモニー。そしてこの白菜のキチキチとした歯ごたえがアクセントになって味に奥行きを与えてるわぁ」
妹は喜んでいる。分かる人には分かる美味しさらしい。僕には、わからない。
「……部屋で食べてくるね」
僕は依然顔面を引きつらせたままで、席を立つ。
あらそうと、母親が美味しそうにバニラアイスを頬ぼっている。
ぐ、美味そうだ……。
僕は当たり前のアイスの、当たり前の美味しさに後ろ髪を引かれつつも階段を上がって行った。妹も当然いっしょに。
部屋に戻ると、好みに合わないと言え、責任持ってすべて食べなければならないと思い、真剣な表情でくだんのアイスと向かい合った。しかしこのニオイ、アイスとは到底思えない。
すると妹が甘えるような声をかけてきた。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
「なんだよ」
少々ぶっきらぼうな声で返す。妹がそんな甘えた声で話しかけてくるのは、決まって何か僕にとって面白くない事を頼んでくるときなのだ。
「あれやって。『あ〜ん』ってやつ」
……………。
「あ〜ん」って、口にスプーン持って行って食べさせてやるアレか?
「嫌だ」
当然、僕はそう答えた。
「え〜〜なんでぇ」
「あのなぁ、僕らもう高校生だぞ。いや、というか僕ら兄妹だぞ。いやいや、ていうかコレはそれ以前の問題だ。僕らがこんな事するのはどう考えてもおかしいだろ」
いいじゃんか〜、してよ〜、と駄々をこねる妹。
「『あ〜ん』ってしてよ〜、『あ〜ん』ってぇ〜〜」
まるで親鳥にエサをねだる雛鳥のようにピーチクパーチクと騒ぐ。
鬱陶しい事この上ない。
でも、分かっている。僕には断れない。結局僕は妹の願いは何でも聞いてしまう。
「……分かったよ。やればイイんだろ…………」
「わぁーい、お兄ちゃん〜〜大好きぃ〜〜」
妹はさも嬉しそうにはしゃぐ。
はぁ…………
「はい」
アイスをすくってスプーンをあげる僕。
「ちゃんと『あ〜ん』って言って」
「…………あ〜ん」
溜息しか出ない。何をやってるんだろう僕は。こんな姿を他人に見られでもしたら僕の人生はお終いだ。首をくくるしかない。溜息を付きながら。
「ん〜。美味ちい〜〜」
幸せだな、ホントお前は…………。
こんな妹が何故か羨ましくもなってきてしまう。
「兄ちゃん、もっかい」
はいはい、と言いながらやはり溜息を付く僕。
妹は昔からよく僕に甘えてきた。
いっしょに何々して遊ぼうとか、夜中に見たテレビが怖かったからいっしょに寝てくれとか、休みにいっしょに映画を観に行ってくれとか、あれやこれやと僕に「お願い」してくる。そして僕は最初そんな妹のお願いを、嫌だ、駄目だと突っぱねる。実際、妹は面倒な事ばかり頼んでくる。
でも、結局僕は断り切れない。最後は何だかんだ言って妹の願いを聞いてやる。
その予定調和的な僕の了承に、妹はいつも本当に嬉しそうな表情を返すのだ。
そして、そんな風に甘えてくる妹を、可愛いと思ってしまっている僕が居る。
僕は妹に、いつまで僕に依存し続けるのだろうという、心配とも期待とも言えぬ複雑な想いを抱いていた。いや、心の底ではこれからもずっと甘えてきてくれたらと思っていたのだと思う。
あの日まではそう思っていた。
バレンタインデーの前日の晩だった。
台所を覗くと妹が何やら作っている姿が見えた。
例年であれば、僕に対して何かしらのプレゼントをくれていたので、今年も僕に対して手作りのチョコでも作っているのだろうかと思った。
そこに母親がやってきて妹に誰にあげるのかと尋ねていた。妹は照れの混じった表情で
「うん、好きな人にね」
と言った。
ああ、と僕は思った。
あんなにお兄ちゃんお兄ちゃんと僕にじゃれついてきていた妹もやっと人並みに好きな人ができたのか。まぁ妹だってもう高校生だ。好きな人ができない方がおかしいというものか。
誰だろう。同級生の男子かな。部活かなんかの先輩かな。同じ学校なら僕の知っているヤツかな。色んな事が頭の中に浮かんだ。
「わたし、シンイチ兄ちゃんのお嫁さんになる」
小さい頃の妹の姿がボンヤリと思い出された。
何だか少しだけ、さみしいような気持ちがした。
バレンタインデーである次の日は休日で、僕は少し遅めに目を覚ました。その時には既に妹の姿はなかった。妹はもう家を出たのかと思っていた。
部屋に戻り、ベッドに横になった。
妹は好きな人に手作りのチョコを渡しに家を出た。
そして、自分のもとから離れてしまった。
あんなに懐いていた妹。何度も甘えてきた妹。離れろと言ってもまるで自分の傍から離れようとしなかった妹。
とてつもなく虚しい気持ちになった。言葉では表せないほどの喪失感に包まれ、そのまま眠った。夢の中で泣いた気がした。
「お兄ちゃん」
目を覚ますと、妹がそこに居た。
既に夜になったのか部屋は暗かった。その中で、横になった僕に妹が顔を近づけている。
妹の目が、鼻が、唇が、僕の顔に触れそうなくらいに近かった。
もう、僕から離れてしまったと思った妹が、すぐそこに居る。
僕はその時、もう妹を離したくないと思った。自然と体が動き、妹を抱きしめようとした。もう嫌だ、あんなさみしい思いはしたくない。
「あ……」という妹のか細い声が聞こえ、妹の体が僕の上に覆い被さった。
妹が僕を受け入れたのか、僕が妹を受け入れたのか、どちらとも言えなかった。
その晩、僕らは一つに繋がった。
その時以来、傍目には分からないようにではあるが、妹はそれまで以上に僕に甘え、依存するようになった。
僕も、あの時感じた喪失感の反動から、表面的には今までのような少し冷たい態度を取りながらも、妹の甘えにそれまで以上に応じるようになってしまった。妹が喜ぶと思うと、やはり拒みきれないし、何より妹には僕しか居ないのだという思いが強かったからだ。
両親達も僕らの関係には気づいていないようだった。
あの日以来、僕らは毎晩一緒に寝ていた。
もし、両親にバレてしまったらどうなるだろうか。小さい頃は仲の良い僕ら兄妹二人の事を微笑ましく見守っていてくれた両親達。でも、今の僕たちは歪んでいる。
それは分かっている。
妹はもう離したくない。でも、このままで良いハズがない。妹の問題なのか、それとも僕の問題なのか、それは分からない。両方の問題なのかも知れない。どちらにしろ、何とかしなくてはいけない。
僕は決心して妹に言う。
「なぁ。僕たち、やっぱりこのままでは駄目だと思うんだ」
そう言うと、妹の声が途端に静かになる。
「うん……」
日頃の底抜けに明るい声とは対照的だ。妹もやはり気にしているのだ。
「私だって分かってるよ。大好きなお兄ちゃんとこのままずっといっしょに居れたらいいなと思うけど、そんなの無理だし、変だもんね」
甘えっぱなしの妹ではあるが、実際のところはシッカリしてるし頭だって良い。妹のそういった部分を僕は自慢にも思っていた。
だが、僕から何とかしなくては切り出したものの、一体これからどうしたらいいかは分からなかった。いや、本当はただ、このまま離れたくないだけなのかも知れない。
「私ね」
僕が黙っていると、妹が口を開いた。
「最後にひとつだけ、ひとつだけしたいことがあるの」
何かを決意したような声だった。でも、どこかに少し甘えも含まれているような気もした。
「あのね、最後にこれだけできたら、私、もう思い残す事もないと思う。もうお兄ちゃんとのこんな関係にもけじめがつけられる思うの」
なんだろうと僕は思い、妹に先を促した。
「え〜とね、学校の屋上でね…………」
『学校の屋上』という言葉に嫌な気がした。
僕らが通う高校にはワケのわからない噂がある。
それは学校の屋上で告白し、抱き合った二人は幸せになれる、というものである。
なんで屋上なんだよ、もっと気軽な場所にしろよとか思うのだが、どうやら我が校に昔からある噂らしく、そこら辺りは僕の力では如何ともしがたい。
そもそも屋上に通じるドアには鍵が掛かっているのだが、どこの誰だかは知らないが、
職員室に忍び込んでその鍵を手に入れ、合い鍵を作った猛者がいるらしい。そして、その合い鍵は、屋上に通じるドア付近に隠されていて、生徒は誰でもは学校の職員にバレずに自由に屋上に出入りできるのである。余計な事を、と僕は思う。
そして、妹の「最後のお願い」もやはりそれだった。
「学校の屋上で、二人で抱き合いたい」
よりによってそんな…………
う〜、と変な声で唸っていると妹が茶化すように言ってきた。
「やっぱり、そんな場所でそんな事するのは恥ずかしい?」
恥ずかしいとか、これはそれ以前の問題だ。
僕は想像する。誰もいない学校の屋上で、二人で………
うぅぅ〜………………
唸るしかない。これはもう。
でも、と僕は思う。
「でも、これで本当に最後だな。これで満足するんだな」
そうだ。いつまでも僕ら兄妹はこのままじゃいけない。ケジメを、つけなくてはならない。それならば、最後にこの妹の「お願い」も聞き入れてやるべきではないだろうか。
「うん」
妹のいつになく真剣な声が返ってきた。
「わかった」
そうして、僕も決心した。
次の日の放課後。
僕と妹は屋上へと続く階段をのぼっていた。誰かまわりに人は居ないだろうかときょろきょろと辺りを見回しながら歩く。
「やめてよ。何だか挙動不審だよ」
「馬鹿。こんなことをしてたのが誰かにバレたらどうすんだよ。僕はお終いだよ」
いいじゃんバレても、と返す妹に対して呆れつつもまわりに注意を向ける。
しかし、妹はそうは言ったが、その言葉とは裏腹にどこかしら緊張も伺える。
屋上へのドアに着いた。
ドアノブにゆっくりと手をかける。
「いいのか、本当に」
僕の胸の内は複雑だった。
妹への想い。今までの妹との関係。これから屋上でする事。その後の妹の関係。
どうなっていくのか僕たちは。
「うん。いいよ」
僕は頷いてドアを開け、静かに屋上へと出る。
少し風があった。
奥まった、下からは完全に死角になる場所へと足を進めた。
心臓が高鳴っているのが分かる。多分、これは不安の所為だ。また、妹を失うのではという不安。でも、仕方がない。こうするのがイイんだ。
屋上に存在しているのは二つの人影だけ。二人だけの舞台だ。
「お兄ちゃん……」
妹が静かに話しかける。
「うん」
僕も小さな声で答える。
「本当に、今までごめんね」
消え入りそうな声だ。予感が僕を切なくさせる。
「お兄ちゃんの事は大好きだったよ」
「僕もだ。お前はイイ妹だったよ」
えへへ、と泣き笑いの声が返ってきた。
「本当に、ありがとう」
僕は小さく頷き、そっと身を寄せる。
屋上の二つの影が、近づく。
僕はぎゅっと抱きしめた。
離れていた二つの人影が一つに溶け合い、そして、のわぁ、という叫び声が屋上に響く。
僕はどんと大きく突き飛ばされ、もう一つの人影はその反動で尻餅をついて倒れ込んだ。
倒れたその男が僕を見上げた。男はワケのワカラナイという泣きそうな表情で僕を見ている。
ああ、可哀相に。そりゃ泣きたくもなるだろう。屋上で背後から男に抱きつかれたのだから。
「な、な、な、な、なにするんすか!」
男がようやく立ち上がり、声を出す。
「すまん、すまん。驚かせるつもりはなかったんだ。そんなには」
適当にそう返すと、まじまじとこちらを見ていた男の表情が少し固まる。
「あれ、ユリの……」
そこまで言いかけて、彼は口をつくんだ。どうやら僕がユリの兄だと気づいたらしい。
彼はユリの同級生だった竹田君だ。僕より二つ学年が下の後輩に当たる。
「……せ、先輩がもしかしてあの靴箱の手紙を」
「そういうこと」
彼は僕が呼び出した。少々古い手だが、靴箱に手紙を入れておいた。「放課後、屋上に来て下さい」と。
「なんだ、先輩だったんすか。つかイキナリ後ろから抱きつかないで下さいよぉ」
やっと、緊張が解けてきた竹田君に笑いながら謝る。
「まさか先輩、俺にあの『噂』の事をしに来たワケじゃないっすよねぇ」
「噂」というのは勿論、屋上で抱き合う云々のやつだ。「そうだよ」と言うと、再び彼の表情が固まった。ああ、泣きそうだ。可哀相に。あんまりイジメルのは止してあげよう。
僕は彼に袋を投げた。
「それ、やるよ」
「え、なんすかコレ」
固まった表情のまま竹田君は受け取った。袋を開けると、中からチョコレートが出てきた。お菓子の材料とかに使う板状のものだ。それは半分以上使われていた。
不思議そうにチョコを眺める彼に説明をする。
「うちの妹の事は知ってるだろ」
そう言うと彼の表情は一気に曇り、はい、と小さく頷いた。
「なんか、うちの妹さ、お前の事が好きだったみたいなんだよね」
え、と彼が驚きの表情を見せた。
「で、お前にチョコをあげたかったみたいなんだ。でも、まぁ、ああいう事があってさ。流石にあいつが作ったチョコは残ってないんだけど、それがうちの冷蔵庫に残ってたんだ。それで多分なんか作ってたんだろうな。んで、せっかくだからそれだけでも、お前に渡しといてやろうと思ってさ」
そこまで言うと、彼は泣きそうな顔になっていた。
バレンタインデーのあの日。
妹は朝早くに家を出たらしい。誰かと約束していたのかどうかは知らない。
そして、運悪く交通事故に巻き込まれた。
僕が目を覚ましたすぐ後に病院から電話が掛かってきた。
病院に駆けつけると妹は既に死んでいた。
体に目立った外傷はそんなに見られなかったが、頭の打ち所が悪かったらしい。
僕はその後、一旦家に帰ると妹を失った喪失感に打ちのめされたまま眠りについた。
夢なら良いのに。目が覚めたら何事もないように妹が笑っていてくれたらいいのにと思った。
目が覚めると妹が目の前に居た気がした。そして、抱きしめようとすると妹が自分の中に入ってくるようなイメージが見えた。
その日からだ。僕の頭の中に妹の声がするようになったのは。
奇妙な事だった。
妹は僕に話しかけてきた。
「私、死んじゃったみたい」
と。
ワケがわからなかった。妹の姿はどこにもなく、妹の声だけが頭の中に響く。そして他の人には全く聞こえないらしい。ワケはわからなかったが、とりあえず僕は妹とこの奇妙な共同生活をする事にした。
まさに寝食を共にする生活だった。姿はないと言っても、実の妹と風呂や布団を一緒にするというのは少々ややこしいことであったが、それも次第に慣れていった。妹が喜ぶので、妹の好みに合わせて食べ物を選ぶという事も最近になって覚えてきた(でもキムチアイスはいただけない。それと『一人あ〜ん』ほど虚しいものはない)。
さて。では、この頭の中の妹は一体何なのか。
説1。
これは科学的で、僕的には一番納得のできるものだ。それは、妹を失った事への大きな喪失感に耐えきれず、僕の脳が妹の「人格」を作りだしてしまったというもの。つまり、僕は、頭の中で二つの人格(僕の『オリジナル人格』と新たに作った『妹人格』)が会話をしている、ということである。「妹内生説」とでも言おうか。
説2。
これは非科学的でにわかには信じ難いが、その可能性は捨てきれない。つまり、死んだ妹の幽霊が僕の頭の中に入ってしまったというもの。「妹外来説」と言う。
可能性としては「人格」の方が高いような気もするが、どちらの説にしろ今の状態はあまり「健康的」であるとは言い難い。病んだ僕の心が生み出したものにせよ、幽霊であるにしても、これには何かしらの「治療」が必要だと思った。そしてこの治療には「妹の望むべき事をする」というのが最善な方法であるように思える。
というのも、幽霊であるとするならば、「妹の望む事をする」事によってこの世への未練を断ち切り、妹の幽霊は迷い無く成仏できるようになるかもしれないし、また別人格であったとしても、その原因は僕の心であり、「(頭の中の)妹を満足させる事ができた」という満足感が僕自身の病んだ心を癒す事に繋がって、別人格も消失(統合?)されるかもしれないと考えられるからである。
そんなこんなで今回の話に繋がる。
妹は確かに竹田君にチョコをあげたかった。あわよくば結ばれたかった。
だから今回の「屋上で抱き合う」というのは、まぁ「治療」の方法としてなかなかのものであったと思う。
ただ、いくら妹がそう願うとはいえ、妹が居るのは僕の頭の中でその実体はない。実際に彼に屋上で抱きつくのは僕自身なのだ。これは少々、気持ち悪い事だった。今回は真っ向から説明しても無理だと踏んだので、(彼には気の毒だったが)不意打ち気味に後ろから抱きつかせて頂いた。
チョコは偶然に見つけたものなので、オマケとして渡した。オマケとは言うがなかなか気の利いたものであったと思う。
泣きそうな顔をしていた竹田君が少し緊張した面持ちで顔を上げた。
「こんな事、先輩に言うのはアレですけど」
じっと真っ直ぐな目つきで僕を見る。妹は見えているだろうか、と思う。
「俺、妹さんの事、好きでした」
そうか、と僕は小さい声で頷いた。
何だかすごく救われた気がした。
妹に今の彼の言葉が聞こえただろうか。聞こえていたらいいのになと思う。いや、おそらく妹はもう僕の中から消えてしまっただろう。
妹が彼と遊びに出かけたりする。たまに家に連れて来たりする。出くわした僕が、彼と妹を弄ったりする。
そんな、もうあり得ない三人で居る姿を想像して少し泣きそうになった。
「ありがとう」
僕は自然にそう言っていた。
「いえ、こちらこそです」
涼しい風がそよいでいた。なんだ、屋上って気持ちイイじゃないか。今度また、一人でここに来てみようかな。そんな事を少し考えた。
「じゃぁ、俺行きます」
「ごめんな、わざわざ。ありがと」
もう一度お礼を言って彼に手を挙げる。
いえ、と言い、一度ペコリとお辞儀をして彼は屋上を後にした。
ドアが閉じられた。
屋上の人影が一つ減り、僕だけが残った。
首をあげる。空が青い。澄んだ風が舞っているのが感じられる。その風を思いっきり吸う。気持ちが良い。何かが胸一杯を満たしてくれた。妹を失った喪失感は埋めきれるものではない。それでも今は、とても満ち足りた気分になっていた。
ドアへと向き直り、足を向ける。
「お兄ちゃん」
まだ居た。
……何だよ。なんか今すごい解決したみたいな感じになってたじゃないか。
「なんで、まだ居るんだよ」
「そんな事言っても知らないよ。まぁいいじゃん。お兄ちゃんだってまだ私と居たいでしょ?」
大きな溜息を付く。なんかさっき吸った新鮮な空気を全部吐き出しちゃった感じだ。なんだろうこの徒労感は。
さっきので妹の大きな望みは叶えたし、(別人格も幽霊も)居なくなると思ったんだが。まだまだこの妹の望みを叶え続けろという事だろうか。
やけくそな気持ちになりつつ妹に尋ねた。
「お前、なんかやり残したことある…………?」
やり残した事ねぇ……と考え込む妹。もう好きにしろ。
「あ!」
「なんだ」
「あのね、去年の夏にビキニ買ったのね。割と大胆なヤツ」
「…………」
「あれ結局着てなかったのよね。あれを着て海に行きたいなぁ」
はしゃぎながら妹は言った。
僕は想像する。
ビキニを着て海にたたずむ姿を。ただし、そのビキニの中身は、僕だ。
「死ね」
「あー、ひどーい。それシャレにならなーい」
妹が笑いながら言う。
じゃぁ生き返れよと僕は言いたくなる。でも、言えない。言うと悲しくなる。
本当にそうだ。生き返ればいい。僕はお前に成仏して欲しいと思ってるんじゃない。ずっと生き返って欲しいと思ってるんだ。でも、それが叶わない事は知っている。だから言わない。
妹はまだ笑ってる。こっちの気も知らずに。
また僕は溜息を付く。やれやれ。
「ねぇ」
妹は相変わらず愉快そうだ。
「なんだよ」
僕はぶっきらぼうにそう答える。
「お兄ちゃんにとって、私って何?」
意味があるのか、意味がないのか、何かの期待があるのが、それともないのか分からない。ただ妹はなんだか嬉しそうにそう聞いてきた。
わかんないよ、そんな事。僕が知りたいさ。
お前は僕が作った人格なのか、それとも成仏できないただの幽霊なのか。
でも、どっちでもいいさ。
僕はお前と仲良くいっしょに居たいだけなんだ。
お前が生まれて来てからずっとそうだったように。
だから、僕は妹にこう答えようと思う。