路地裏の死闘
人気のない道を歩いていた舞子が、路地にふっと入ってしまった時には、さすがに夏彦も迷った。
ここで追いかけて路地に入ったら、さすがに舞子は尾行に気づくんじゃあないか? 自分以外に路地に入った人間がいたら、それは警戒するだろうし、おまけに俺は今、学生服だ。
ばれるな、間違いなく。
だが、ここで追うのを諦めることもできない。
苦肉の策として、夏彦は道をまっすぐ進み路地の入り口を通り過ぎつつ、ちらりと横目で路地を窺った。
路地には、既に舞子の姿がなかった。
「えっ?」
思わず声を出してしまうが、すぐにその路地の途中に別の路地の入り口があるのに気づいた。
なるほど、あそこを右に曲がってあっちの路地裏に行ったのか。
どうすべきか。
『最良感覚』は使用している。
危険だ、という感じと、今こそ行くべきだ、という感じが半々。どうすればいいかよく分からない。
頼りにならないが、所詮は勘だ。そんなに勘にばかり頼るわけにはいかない。
行くか。
覚悟を決めて、夏彦は注意しながら路地に入り、進む。
ここを右に曲がって、路地裏に――
曲がったところで、夏彦の足が止まった。
曲がってすぐ、五メートル先に。
路地裏に舞子が面倒臭そうに立っていた。
「ったく、こんな場所まで誘導しなきゃいけないなんて超最悪だよ」
脱色した髪を指でいじりながら、舞子が言った。
ぞくり、と夏彦の首筋がドライアイスを当てられたように凍える。
まずい。
意識するよりも早く、避けなければ、とその場にしゃがんだ。
一瞬前まで頭があった場所に、何かが通る。ナイフだ。
俺の頭を狙って振るわれたナイフを、俺が身を屈めて避けた、のか。
一瞬遅れてから、夏彦はようやく何があったかを理解した。
何だ、ナイフ? どうやって?
「あれえ? 今のを避けんの?」
不思議そうな舞子の声。
その舞子と夏彦の間に、路地の壁を蜘蛛のように伝って、眼鏡をかけた男が降り立った。
「――黒、木」
呻く夏彦。
さっきのは壁を蹴って黒木が上からナイフで襲ったのだ、と分かった。
黒っぽいジャージに身を包んでいる点が違っているが、その姿はあの裁判で見た、黒木のものだった。
黒木は両手にナイフを持ち、爬虫類じみた目で夏彦を窺ってた。
「技術点に修正を加えなきゃいけねー、つーか、それでも黒木、お前の方がけっこー強いから、大丈夫っしょ」
舞子はそう言って、太股のタトゥーを撫でるようにした。
「さっさと殺しちゃってよ」
この言葉が終わらないうちに、黒木は両側の壁をまるでバウンドするようして使って上に跳んでいく。
「こっ」
こいつは、まずい。
夏彦は絶望的な気持ちになった。
『疾走宣告』なんて限定能力を持つこいつにとって、壁や天井は地面と一緒だ。そんな奴を相手に、こんな路地裏なんて狭い場所で。
逃げるか。路地を抜ければ。
だが、逃げる為に背中でも向けようものなら、その瞬間にナイフで切り刻まれるだろうし。
そもそもが――
黒木は壁や地面を、凄まじい速度で跳ねながら夏彦への距離を一瞬で詰めた。
――こいつの方が、俺の何十倍も早い。
「死ねよ」
至近距離で、そう耳に囁かれた。
「くっ」
考えるよりも先に後ろに跳び、そして右腕に熱を感じた。
熱い。どうした? 多分、切られた。確認する暇はない。
右。大して考えもせずに、勘だけで右に跳ぶ。
また、熱。右足。
「あれ? また技術点更新?」
奇妙なことを舞子が言う。
気にしている暇はない。次は、どこから来る。
見回す夏彦の目に、遥か上空から壁を使って急降下してくる黒木と、ナイフが映った。
「くそっ」
右。前。屈む。勘で次々と避ける。
だが完全に避けきれはしない。全身に鋭い熱を感じる。それと衝撃。蹴りも混ぜてきている。腹に入った。吐き気。
前。
「ぐっ」
跳んだ瞬間、右足が痛んだ。
どうやら、そこそこ深い傷、右足につけられたみたいだな。これで機動力半減だ。
頭の片隅、奇妙に冷静な部分で夏彦はそう思った。
くそ、俺、死ぬのか?
混乱。いや、混乱する暇すらない。何も考えていない。
左。回避失敗。
「ぐあっ」
今の傷はおそらく深い。
死ぬのか、何が悪かったかな。
やっぱり、待ち構えられてたんだろうな、というより誘導とか言ってたな、姿を見せたところから罠か。
後ろに精一杯跳ぶ。右足に力が入らず、着地失敗。
思い切り地面に激突した。ナイフはかわせた。蹴りが何発か入る。
立ち上がらないと、死ぬ。
そう叱咤して、夏彦は痛む体を無理矢理起こす。
黒木は夏彦から数メートル先で立ち止まって、恨めしそうに夏彦を睨んでいた。肩で息をしている。跳び続けているのも体力を消費するらしい。
「早く……死ねよ」
搾り出すように言う黒木の目は血走っている。
「おっかしいなぁ。そいつお前よりだいぶ弱いはずなんだけど。てぇ抜いてんじゃないでしょうね」
舞子が言うのを聞いて、夏彦は不思議に思う。
弱いのはそうだけど、どうしてこいつが知ってるんだよ?
「がああっ」
黒木が跳ぶ。
しゃがむ。かわせた。
すぐに後ろから壁を蹴る音が聞こえた。まずい。体をひねりながら跳ぶ。背中に熱。切られた。
こりゃ死ぬな。
夏彦は諦めかける。それでも体は動く。
左。成功。前。失敗。右。ナイフはかわせた、しかし蹴りが腹に入る。
「うっ」
体が丸まろうとするのを、夏彦は無理矢理に止めて、逆に体を反らせる。鼻先にナイフがかすった。
死ぬ。
もう、死ぬ。どうしてこんなことになったのか。
左。避けれた。
相手も疲れてる。スピードが落ちている。問題は、こっちはそれ以上に限界だってことだ。
人に任せておけばよかった。どうして、自分の手で事件を追おうなんて思ってしまったのか。
泣いて抱き合っている律子とつぐみの姿が蘇る。
「ずっ」
右手を切られた。もう、足がまともに動かない。
立っていることもつらくなって、夏彦は背中を壁に預けた。
疲れた。死んだ方が楽かもしれない。
エリートに憧れたんだったな。だから、自分で何とかしたかったのか? ああ、そうかもしれない。
口が渇く。
倒れるようにして一撃を避けた。頭痛。頭が割れそうだ。限定能力を使いすぎか。でも、今更使用解除したら、次の瞬間に死ぬだけだろう。
ノブリス学園に入学して、司法会に入会して、そうして、俺は何をしたかったのか。
結果、路地裏で今、死のうとしている。
後悔はあるか? 当然、ある。
ふと、夏彦はいける気がした。次のタイミングなら、反撃できるんじゃあないのか。
勘だが。
たん、たん、たん。
このタイミング。腕を出した。
かすりもしない。ナイフの一撃。
「ぐぁ!」
やられた。目蓋の上だ。血が流れて、右目が見えない。
その状態で、必死に黒木の姿を探そうとするが、夏彦にはもはや捉えることができない。
ただ、勘で横に飛ぶ。かわしきれない。ナイフ。背中を刺された。浅いか?
くそ。もう、とっくに致命傷を受けてるんじゃないか?
だったら頑張っても無駄だな。
夏彦は諦めようか、とふと思う。だが、体は相変わらず生きようと動く。
それにしても俺の勘、当たらないな。反撃できると思ってたのに。
相手のスピードも落ちてきて、相手の攻撃にも慣れてきて。それでも、やっぱり勘がうまく働くには経験が足りないか。そりゃあそうだ、昨日、初めて護身術の特訓をしたくらいだ。圧倒的に足りない。
絶望的すぎて夏彦は少し笑った。
笑いながら首を少し傾げる。紙一重、頬をナイフがかすった。
ああ、駄目か。死ぬのか。結局、俺なんかがエリートなんて無理か。
頭痛が酷い。頭が割れそうだ。
ふと、またいける気がしてきた。もう、そんなに勘なんて信じられないが。
だが、諦めては可能性はゼロだ。体は、まだかろうじて動く。
たんたんたん、このタイミング。
頭痛が、酷い。酷すぎる。頭の中から頭蓋骨を割ってばりばりと虫が這い出してくるようだ。
腕を出す。その腕に衝撃。
当たった。
護身術の基本は、相手の動き、スピード、そして身体的反射を利用するのが基本だ。
ライドウが護身術を説明している。
いや、これは幻覚か。
夏彦は気づく。それは、昨日の話だ。
で、相手の動き、スピード、そして身体的反射を利用か。
こうだろ、勢いに逆らわず、当たった腕が動かされる方向に体を動かしながら。腕を相手の体に絡めて。
それで、腕の内側の筋肉を使うイメージで、こう。
ほら、できた。
耳鳴り。
全身の激痛で、夏彦は我に返った。
「はっ……はっ……はっ……はっ……」
傷だらけの夏彦は、路地裏の壁にもたれて、獣のようにひたすら呼吸を繰り返していた。
脳に酸素が足りない。体に酸素が足りない。手足が重い。
どうなった? 俺、死んでないのか?
ふと地面を見ると、黒木が、左腕の間接のいくつかを逆に折り曲げたまま、気絶していた。泡をふいている。
「……ああ」
よろよろと目線を路地裏の先にやるが、舞子はいない。逃げたか。
「……ふう」
頭痛は消えた。代わりに、頭の中の何かが切れてしまったかのように、意識がうまく定まらない。今にも気絶してしまいそうだった。
夏彦は携帯電話を取り出した。
しばらくは黒木が目を覚ますことはないだろうが、今気絶をしたら、俺よりも先に目を覚ますかもしれない。それに、舞子を追わないといけない。意識が途切れそうだ。
考えがまとまらない。それでも、夏彦は集中力を振り絞って虎に電話をかけた。虎を選んだのに特に理由はない。いや、選んだという自覚すらなかった。必死で誰かに電話をかけようとしただけだ。
「ういっす、どした?」
すぐに出た。
虎の気楽な声。それを聞いて夏彦は何故か涙が出るほどほっとした気になった。
そこで集中力が切れて、視界がふっ、と白く染まる。
「どしたー?」
まずい。ここで気絶したら、どうにもならない。せめて、この場所だけでも伝えないと。
携帯電話が地面に落ちた。手で持っていられない。
夏彦はそのままずるずると地面に座り込んだ。
「おい、どした? おい、夏彦!」
地面に落ちた携帯電話に近づこうとして、夏彦は倒れこんだ。それでも、這いずって携帯電話に顔を近づける。
「来てくれ……」
夏彦は何とかそれだけ言った。
「は? 来てくれって、何? どこに?」
ここ、どこだって説明すればいいんだ?
場所の手がかりを探して夏彦は目を動かす。視界の端に、ドアが映った。ドアには単語が書かれている。
「……ジャンプ」
その単語をそのまま夏彦は口にした。
「は? おい、どういう意味だよ。おい!」
その虎からの問いに答える力は最早なく、夏彦は意識を手放した。




