050:太陽へ
神話で神格化される星は様々だが、最も代表的な星と言えば太陽だろう。常に人々の生活を照らし出し、その光が闇に差し込む瞬間、人は言い様の無い救済感を得る。活力と希望の象徴として燦々と輝く星では、あれ以上に相応しいものは無い。
故に日光は聖なる光として見られる。存在が希薄な幽霊から、夜の主である吸血鬼まで、日の光に勝つ事は出来ない。陽光が煌めく昼間こそ、人間の時間であると言っていいだろう。
では斜陽となった今、妖怪はどう在るか。人間と同じだ。日の出前にジョギングをするおっさんがいるだろう。あれの夕暮れ版が出現するのだと考えてくれれば良い。
「ひゅっ」
鋭く息を吐きながら、人とも獣ともとれない歪な妖怪の眉間に杭を打ち込む。
そのまま蹴飛ばし血濡れの杭を引き抜き、振り向きざまにまた別の妖怪を穿つ。
その隙を狙って、背の高い妖怪が鋭い爪を振り下ろす。左手に持った杭で防ぐが、耐えきれずに砕け散る。
「ちぃ!」
勢いを殺した爪を左手で殴りつけ、がら空きになった脇腹に再現した杭を蹴り込む。続けて二本生成し、勢いに任せて回転する様に肩、頭を貫通させる。
走りながらも妖怪を屠る僕を見て苦い顔をする上白沢さん。だが苦言を呈する事は無い。
今、自分達がいるのは妖怪の領域で、妖怪の時間だ。そこで襲われるのは当たり前の事だし、自己防衛しようとするのも当たり前。自然の摂理だ。
彼女の職業、人柄を鑑みれば争いを好まない事は分かるが、身に降りかかる火の粉は気に入らない。こうやって立ち向かう手足があるのだから、振り払いながら走ってもいいだろう。
「急ごう」
何度呟いたかも知れない言葉と共に、血濡れの杭を握り締める。
もう、日は落ちていた。朧気に照らされていた木々も赤も紅も、全て黒に飲み込まれていた。目の前に走る上白沢さんの青白い髪が余計に浮き上がって見える。
再び飛びかかって来る妖怪を、杭を使って近くの木に縫い止める。削ってきた杭は残り四本。息切れにはまだ早いが、警戒しないと危険だろう。
本来、自分に杭を扱う技術は無い。再現しているのは、紅さんの体術だ。得物を使うのと拳とでは大分違う筈なのだが、彼女を思い浮かべるだけで身体の竦みが消えて自由に動く。迫り来る丸太の様な足を紙一重で躱し、関節に一寸の狂い無く打ち込み、宙を舞い醜悪な猿の首をへし折る。必要以上の生物破壊の術は、彼女がどういうものだったかを思い起こされる。
紅美鈴――紅魔館の門番。その役目を全うするなら、殺す事よりも壊す事に秀でているべきだ。門前で分かる曲者なら、無力化させて何者かを問い質す必要がある。万が一屋敷に入られたら、切り裂きメイドにより迅速に処理される。
十六夜の様な抜き身のナイフである必要は無い。その在り方は呼び鈴の様に、主人に来客を知らせるものだ。
それは僕も使えなければいけない技術だが、幸いな事に再現する事象に際限は無い。半生半死を心掛け無くとも、相手が死なずに倒れていく。
これは楽だ――そう思ったバチが当たった。
脇から突っ込んでくる熊と蜘蛛を掛け合わせた様な化け物の足を、再現した杭で足無しにする。怒り狂った上半身熊は油断していた僕の胸を引き裂いた。
「あっ」
痛みよりも、破けた服から零れ落ちたものが問題だった。十六夜の手紙。生き地獄への特急券が、熊の爪に引っ掛かってしまった。
「この!」
腕を伸ばすが、手負いの癖に逃げ足が早い。巨大な蜘蛛の下腹部を地面に打ち付けながら、森の中へに跳ねていく。
手足の二、三本ならまだしも、それだけはダメだ。冥土長に首だけの観葉植物にされかねない。首から下がどうなるかなんて想像したくない。
「上白沢さんは先に行ってて下さい」
一声掛けて、地面から這い出てくる妖怪を踏み潰しながら蜘蛛熊を追い掛ける。激しい音を響かせるデカブツを追うのは、そう難しい事じゃない。
手のひらに気を集める。今必要なのは火力だ。激痛の枝の様な破壊力よりも、殲滅性の高い力がいる。そしてそれを、僕は知っている。
手紙がまだ爪に引っかかっているのを確認する。黒々とした固まりは次第に形が整い、八角形の魔法具――ミニ八卦炉が再現される。
「『白雷』」
蜘蛛熊の下半身目掛けて放たれた雷は、丸々と肥えた虫の腹を消し飛ばしながら地形を変えた。巻き込まれた木々は燃える前に消失し、辺りには言い様の無い暑苦しさが満ちる。
「手間掛けさせやがって」
蝋封が砕けた手紙を、熊の手から取り返す。この程度の損傷なら、僕の血を塗れば直す事が出来る。幸い赤い蝋だ、そこまで目立たない。
べろんと開いている今なら中身を出して読む事が出来なくもないだろうが止めておく。家庭の事情に首を突っ込みたくないし、下手な呪術でも仕掛けてあったら嫌だ。
手早く直し、どうせ立ち止まってしまっているだろう上白沢さんの下へ走る。
それから数分。異常はとても分かり易かった。
「妖怪が、いない?」
雨霰の様に降ってきた化け物共が、一匹たりとも湧いてこなくなった。
「縄張り意識が強い妖怪だからこそ、ここから先には立ち入らないんです」
「……風見幽香の土地だから?」
「ええ。尤も、ここはその端の端。縄張りと言えるのは、彼女の『花畑』からでしょうね」
花を操る、と言っていたか。とにかく、ここから先は要注意だ。
走るのを止め、上白沢さんと並んで歩く。
「赤瀬さん。怪我は大丈夫ですか?」
「ご覧の通り。頭が吹っ飛んだりしない限り、大丈夫ですよ」
血濡れの腕を拭い、白い肌を見せてやる。体質柄、日焼けする事は出来ないので、どうも貧弱に見える。
「……赤瀬さんは、その、」
「人間ですよ、僕は」
問い掛けを潰すその言葉は思いの外、独白の様に響いた。
「ちょっと変な人なんて、どこにでもいますよ。ましてや、こんな場所ですし」
そう茶化すと、上白沢さんはふっと笑みを零した。
「そう、ですね」
「ええ。だから、早くしましょう。こんな場所、普通は長く居るものじゃない」
気取るのは好きでは無いが、そうでなければやっていられない。適当な話をしながら、歩を進める。
「――十六夜も寺子屋の生徒だったんですか?」
「短い間でしたけど。聡明な子で、よく鉄生が比べられて落ち込んでいました」
「娘と比べられる父親って……」
「よくサボる男でしたよ、彼は」
「娘は?」
「生真面目の一言に尽きます。けど、父親の前だと少し緩くなる、そんな子でしたよ」
「なるほど」
「今はどうなんですか?」
「同じ様なものですね。ただ、ちょっと暴力的かとは思いますが」
ナイフを投げるのがちょっと暴力的で済めば、の話だが。
「後、妙に業が深かったり」
「業?」
「……失礼、忘れて下さい。とにかく、それなりにまともな人間をやっているみたいですよ」
「そうですか……」
ホッと胸を撫で下ろした様子。教え子が化け物に捕らわれていたのだから、心配するのは当然か。
「館の面々からは信頼されています。メイド長なんて役職に就いているんですから、やはり有能なんでしょうし。ただ、父親の事になると――」
唐突に、前に腕を出される。止まれと言う事だ。
やはりこの場所で父親に関して話すのは良くなかったのか。片手を上げて謝罪するが、上白沢さんは首を振る。
制した手が、何かを指す。
「――」
樹木が途切れ、少し開けた草地。向日葵が、そこにあった。黄色い花弁は夜闇から浮き彫りにされた飾りの様に、しなやかな茎は決して折れず、曲がらず、悠然と並んでいる。
そこに在るだけの植物に、僕は思わず息を呑んだ。
美しかった。これほど生気に満ちた向日葵がこの世に存在するのかと目を疑った。まるで千年生きた妖怪の様であり、妖艶な美女の様だった。誰も彼もを捉えて離さず、そのまま抱き留める女の様だった。
「花の持つ特性は様々ですが、全ては『誘惑』に集約しています。美しさに、芳しさに、或いは危険性に。食虫植物のみが獲物を求めている訳ではありません。ただの向日葵でさえ、見る者を簡単に惑わしてしまう」
上白沢さんの淡々とした声。気が付けば、自分の指は自分の手のひらに爪痕を付けていた。成る程、僕の無意識は魅了される事も許さないらしい。
「あの向日葵を過ぎれば、風見幽香が掌握する太陽の畑に侵入する事になります。どうか、何があっても気を確かにする様に」
「――了解」
鈍い痛みを残す手のひらに杭を持つ。出来る限り向日葵から目を離しながら、上白沢さんと歩幅を合わせて進む。
ただ歩くだけだったが、緊張は高まるばかりだった。何処から何が現れるか分からないと言う未知への恐怖もあるが、何よりも恐ろしいのは向日葵だった。
咲き誇るのみで妖しく心を動かした存在。そんなものが咲く所へ行かなければいけないのだ。これはもう未知も何も無いだろう。
等と、不安か雑念か分からない考え事をしながら、風見幽香の境界線を踏み越えた。
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