020:緋と赤〈下〉
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遠い昔。妖怪を■る人間がいた。
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刺さった短剣を捻る程の握力は無い。腕を、いや、肩を動かせただけ頑張った方だろう。
ズタズタになった身体。それを気にする程今無駄な事は無い。今はただ、ただ――――――
「まさか、騙し討ちとは」
ナイフが刺さっていても平然としている化け物をどうにかしないと。
紅い瞳が此方を見下している。いや、ともすれば関心した様子に見えるから不思議だ。尤も、血塗れの目が機能した期間は短かったが。
小さな手で頭を鷲掴みにされる。掌で目を隠される。血の臭いがする。
そのまま、床に頭を打ちつけられる。カーペットの柔らかさが床の堅さに掻き消える。
「おやすみだ」
言葉と同時に頭は衝撃を受け、それと同時に霞んでいた意識が霧散していく。
感じられるのは、視界に広がる闇と、衝撃の度にそこに散りばめられる白いノイズと、掌にある革。
今度こそ。なんとか保っていた意識は、身体から抜け落ちたナイフの様にするりと落ちていった。
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人間は人間。妖怪は妖怪。
そう区分する心が、ソレには無かった。
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落ちた意識に、金の鍔のナイフが話し掛ける。
懐かしい、不快な話。
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だが、ソレは求められた。
だから、妖怪を■■た。
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ノイズすら無い闇の中に、映像が浮かび上がる。
それは、ある男の記憶。異形をねじ伏せ、切り裂き、血を浴びて、また殺す。死骸を撒き散らしながら、男はその作業を続けていた。
右腕を振るいながら、左腕で短剣を投げる。左手で相手を殴りつけながら右手で一閃を逸らす。
舞う、その姿。動作その物に始まりも終わりも無く、風の様に、水の様に、一挙手一投足全てが技であり、あらゆる動きが一繋ぎの技でもある。
そんな姿を眺めている。そんな動きを体験している。
嗚呼――――とても、キレイだ。
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「全く、痛いったら無い。銀のナイフ程度でも、ちゃんと生き物は殺せるんだからな?」
鈴みたいな声で、そんな事を言われた。どうやら、幻覚を見ていたのはそれ程の時間では無かった様だ。コメカミはまだ掴まれているし、身体は相も変わらずハリネズミだ。
だと言うのに、身体は冷めている。呆けた頭が神経を忘れてしまったのか、全く痛みを感じない。いや、それ以上に感じる所があるからだろうか。
「……驚いたな、まだ生きているのか。ひょっとして妖怪なんじゃあ無いだろうな」
四肢から五指に、脳の随にまで染み渡っていた力。バラバラになった身体を繋ぎ止めようとする力の蠢きを、今まで以上に感じる。
……ああ、そうか。よく考えたら、今の状況は、何時もの瞑想と同じじゃないか。目の前は真っ暗だし、身体が自由に動きやしない。
またこの意識が落っこちない様に、口から声を出す。
「……ろ」
「ん?」
逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。
このナイフがまた動き出す前に、逃げろ。
「……にげろ」
そうだ、逃げろ。コレはお前が敵う相手では無い。
逃げろ。逃げろ。逃げろ。逃げろ。
「……逃げろよ、レミリア・スカーレット」
今すぐに――――――両手を上げて降参するか、全霊を奮い逃走しろ!
バチンと、何かが弾けた。
頭を掴んでいた手を斬りつける。拘束を振り払うだけで良い、体勢が悪い。
刃が手首に食い込み、そのまま引き剥がす。もう片方の手で身体からナイフを抜き取る。
剥がした腕を床にまで持って行く。その勢いのままで身体を半回転、抜き取ったナイフを反対側にいる直立不動のメイドへと投げつける。当たらなくても構わない。今はとにかく動く事を止めるな。
思考が行動と直結し、僅か二秒の間で実行される。
「コイツ、まだやるつもりか!」
相手が漸く動き出した。手のナイフは引け、このままだと折られる。太もも辺りに刺さっているナイフはあるか? それを逆手に持て。後ろからメイドのナイフが飛んでくる。
逆手のナイフを後ろに振り上げろ。致命傷を避けられるなら腕に刺さっても構わない。立ち上がる隙を見計らえ。
「――――幻世『ザ・ワールド』」
まただ、またナイフが現れた。ナイフが此方を串刺しにする。だが動きを止めるな。足のバネを意識しろ。必要最低限の感覚以外は殺せ。――――今だ! 跳べ!
「……ッ!? 痛みが無いとでも言うの、この男は!」
背中に刺さっている。当たり前だ、ナイフの壁に向けて後ろ跳びをすれば刺さる。だが今はそれどころじゃない。今興味があるのは――――あの人外の翼。あの人外の瞳。
「狩る」
そうだ、狩る。今まで何の為に生きてきた? ああ言う化け物を狩る為にだろう。お前は何の為にその身体の力を隠してきた? お前の父は何を教えてきた? その短剣から何を教わった? その術を何に使うべきだ?
右手には傷んだ緋に濡れたナイフ。ああ、何時振りだ。こんな風に刃物を握ったのは。
左手には自分の血で濡れたナイフが数本。小さめで持ちやすくて助かる。
ナイフは投げられる。やり方は分かる。後は実戦だけだ。
格闘技なんて高尚な物は無い。只相手を殺せる様に動くだけだ。
「逃げろ。逃げろよ。レミリア・スカーレット」
そうだ、逃げろ。狩りの時間だ。獲物は誰だ? 標的は何処だ? お前が逃げないと始まらない。
「ふざけ過ぎだ、赤瀬凪人。だがお前がそのつもりなら、此方も同等の対応をしよう――――咲夜、手を出すな」
「……はい」
従者を下がらせた少女の手に、紅い槍が現れる。今にも敵を貫こうとする姿は、今の自分に良く似ている。
「さぁ、狩りの時間だ」
「吠えていろ、狂犬」
夢と現の間で見た、あの銀色の軌跡。必殺の魔槍を構える悪魔に、幾重にも重なった金属片を放つ。