018:緋と赤〈上〉
「勝手に部屋に入ったりしなければ、何処を見てもいいですよ」
と言われ、半ば強引に部屋から出されてしまった。連れ出した張本人は仕事に行ってしまい、残ったのは着慣れない服に身を包んだ僕一人。
今ならまだ自分がいた部屋が分かるし、戻って寝転んでても差して問題は無さそうだ。しかし見て回る様しつこく言われておきながら寝てるのも無礼……なのか?
「道に迷っても女中さんに訊けば良さそうだし。適当に行こう」
独りごちて、土足が許されなさそうな紅い廊下を歩き出した。
けど、見て回りたい気持ちが無い訳じゃなかった。こういう高級な建物は、ただ歩くだけで目を楽しませてくれる。それが和式でも洋式でも変わらない。中華? 知らない。
電灯では無く、恐らく蝋燭で照らされた廊下は薄暗いが、この紅には良く似合う。派手だが謙虚に構える。そう言う色彩を感じさせる。
「……金持ち趣味、じゃなくて……なんだっけ」
少しゲスな言い方になるが、心に掠った言葉があった様な気がする。思い出せないが、それなら必要の無い事なんだろう。
Tの字に分かれた所を右に行く。
歩いていると時々、透けた羽が生えた小柄な使用人みたいなのが飛んでいるのを見かける。いつぞやの様に追い回されるのは勘弁だが、どうやらそんな事をする前に仕事の方が大事の様だ。
「そっち、そっちいってー!」
「そっちってどっち〜?」
「だからそっちだってばー!」
「ふわ〜ん」
……見た目通りの脳味噌? ああいや、別にガキを貶す訳じゃないが、分かり易く馬鹿と言うか低脳ぶりを見ると何だろう、軽蔑感的なモノが心の底からクるような。
生温さも無くなった目で眺めていると、段々と此方に向けられる視線が多くなってくる。一定の距離に近付けばサッと退けたり隠れたりするが、その範囲外からは遠慮会釈無しに見てきやがる。
「しらない人だ」
「だれだろ」
「しんにゅーしゃ?」
「さっきめーりんといっしょにいたよ」
「…………」
害は無い様なのでさっさと通り過ぎる。遠巻きに見られ続けるのは余り好きじゃない。
ふと、自分が何に向かっているのかと思う。と言うのも、どうも自分の足が好き勝手に動いている気がする。
曲がり角に曲がるのはとにかく、初めての場所にしては見て回る訳でも無く、ただただ『歩いている』だけになっているのだ。見物が目的の筈だったが、はて。
だが、その内。自分がなんでさっさと足が動いているのか分かる様になってきた。
「……嫌な予感がする」
口に出す事では無いのは分かっているが、どうしてもついて出る。
あの空気だ。最近だとあの紫色の場所で感じたか、幽夜がなんかやらかしてた時だったか。とにかく、嫌な気配が館の中に充満しているのがまず分かった。
次に、その流れ。川や海の様にこの空気は流れがある。だが風では無い。煙の様に漂っている……まるでどこからか流出している、そんな感覚だ。
その流れに逆らって、僕は歩いている。証拠も理由も無い。だが、分かる。
「…………?」
歩けど歩けど同じ様な風景。初めて来た自分には何処が何処だか、分かれ道すら分からないこの景色。
その筈なのに。何故自分は迷わず空気の源泉へと向かっているのか。
「おかしい」
ピタリ、と歩を止める。
――――――薄暗く紅い廊下のど真ん中。周囲には窓もドアも無く、ただ灯火が等間隔に在るだけ。
そう、何も無い。
何も、無い。
それなのに、どうして僕の足は動かない? さっきまで早歩きまでしていたのに、まるでゼンマイが切れた人形の様に動かない。
まるで、目的地に辿り着いたロボットの様に、動かない。
「――――――」
嗚呼、なんなんだ、この感覚は。デジャヴとでも言う物なのか。
来た事も、見た事も無い屋敷の中を迷わずに歩き回って。挙げ句――――――視えない筈のドアの場所が分かっている。
そう、『分かっている』んだ。其処にドアがある筈だと。今は隠されてはいるが、元はドアがあったと『分かっている』。『知っている』んじゃあない。だって、初めて来た場所なのにそんな情報を知り得る筈が無いのだから。
このドアの先には何があるのか。わざわざ隠さなければいけない何かがあるのか。それとも視えもしない在りもしない幻影幻覚に振り回されているのか。
目には何も映らない空間に/其処にあった筈のドアノブに
掌をかざす/手を伸ばす
「……ッ」
思わず唾を飲み込む。指先が震える。手が湿る。腕が軋む。肩が強張る。頭が痺れる。紅さんのお陰で収まった筈の電流が身体に渦巻く。頭の中と目に入る光景が一致しない。
このまま空を切ってくれ。頼むから――――――そう願う指先が何かを捉える前に、
「お客様、夕食の準備が整いました」
声を発する前に振り返る。何時からいたのか分からない、まるで暗殺者の様なメイド服姿の女性が佇んでいた。
幽夜の髪より少し暗い、白よりか銀や鉛に近い髪。分かり易く無表情が張り付いた顔の両脇には三つ編みがあり、洒落っ気が利いているのはその辺だけだ。此方を見つめているのは青い瞳だと言うのに、その面持ちは故事とは真逆の様に感じる。
返答に戸惑っていると、違和感無く礼をするメイドさん。
「申し遅れました。私、紅魔館のメイド長の十六夜咲夜でございます」
「あっ、と。自分は――――」
「存じ上げております、赤瀬凪人様。こちらへどうぞ」
様、なんて付けられるとむず痒いが、そんな事を一々言うほど馬鹿じゃあない。案内を始めた十六夜さんの後を追う。
突然話し掛けられたお陰で、さっきまで感じていた空気や既視感の様なモノは払拭出来た。だが、あの隠されていると感じた部分にハッキリと『境界』が見えていたのが、唯一の心配な部分だ。
……おかしな目になったものだ。そう思いながら歩いていると、ふと十六夜さんが話しかけてきた。
「赤瀬様。私がお声を掛ける前に、何をなさっていたのでしょうか?」
「……特には、何も。少し立ち眩みがあっただけです」
ある意味嘘では無い。あの時は、まるで幻覚に眩まされていた様だった。
「そうですか。もし何か――――例えば、何処かに入ろうとしていらしたのでしたら、」
一瞬、背筋が凍りつく。
「お客様とは言え、身の安全を保証しかねますので」
「――――そう、ですか」
まるで矛先を目前にしているかの様な悪寒。歩みを止めなかった足に感謝しながら、もう少し会話を続ける。
「でも、少し大袈裟ですね? 身の安全だなんて」
「本当に、そうお思いですか?」
「まぁ、こんなに広いお屋敷だと遭難しちゃう危険がありますけど」
ははは、と乾いた笑いを無理矢理起こす。一人分の声が響く廊下。
「な、なんて言うんでしたっけ、こういう複雑な館。ウィンチェスター館?」
「博識なのですね、赤瀬様は」
は、はは、と引きつった声を喉から捻り出す。足音がやけに大きく感じる。
……待て、落ち着け。何を慌てている赤瀬凪人。お前の通常運行を忘れたか。別に会話が続かなくても全く問題無いじゃないか。
すっかりペースを崩されて数分。少し広いホールに出た。吹き抜け構造になっており、二階三階まで見渡せる。
サスペンスだと間違い無く落ちてくるであろうシャンデリアの下を通り過ぎ、絢爛な両開きの扉の前に着く。
「こちらにスカーレット家当主、レミリア・スカーレット様がおいでです」
良く油が注してあるのか、重そうな扉は線の細い十六夜さんの手でも思いの外スムーズに開いた。そのまま招かれるままに部屋に足を踏み入れる。
食堂と簡単に言うには豪華過ぎる場。仄暗い紅は目の毒にはならず、だが圧迫感を与える。
その中で際立つ、白いテーブルクロスが引かれた真ん中の長いテーブル。目の前には一つの椅子、そして反対側にはソレがいる。
「……ああ、そうか」
今度は何も驚かない。ただ、受け入れるだけだ。この異様な空気の発生源が二つあってもおかしくは無い。ましてや、それが此処の一番てっぺんだとしても。
口角が上がる。目を鋭くする。その先には人の姿をした人外――――レミリア・スカーレットが座っているのだから。