015:お手合わせ
朝日よりも疲れ目に悪い赤色の外壁。赤と区分けされる色だけで彩りながら単調さを感じさせないのは、自分の日本人的色彩感覚の所為か、塗装工の技なのか。
その変な建物へと向かう道を案内してくれているのは、先程出会った女性――――紅美鈴さん。僕の前を歩きながら時々振り返り、大丈夫、と尋ねてくれる。その言葉に返礼しながら、背中の幽夜を背負い直す。
さて、こんな事になった経緯を説明しなければいけないだろう。時間を少しだけ遡る。
『なんで此処が危ないんですか?』
赤い髪を風に泳がせる女性に問い掛ける。すると、蕾が花を開く様に顔が綻び、
『私が襲っちゃうかもしれないからです』
何言ってんだコイツ。
『って、冗談ですよ。腰浮かせて逃げようなんてしないで下さい』
『はぁ……すみません。さっきからちょいと疑心暗鬼になってまして』
不意打ち強襲はさっきの金髪の少女で懲りてる。訓練された救助隊員じゃないんだから素早く人体を持ち上げるなんて出来ないからこの大の字で寝てるバカを置いてく形になってしまいそうだけれど、コイツだったらなんとかなるかなぁとかなんとか。
『疑心暗鬼、ですか。誰かに騙されでも?』
『いえ。と言うより、自分が引っ掛かっただけですから』
食虫植物が(虫にとっては)良い匂いを出すと言う話は聞いた事がある。もしかするとあの少女もその類なのかもしれない。食べていいかとか言われたし。
だからって僕は年下がストライクゾーンと言う訳では無い。ほら、やっぱ女性と言ったら出るトコ出てる様な――――――
『……どうしました? 目が血走ってますよ?』
『いっ、いや! 何でも無いです! 寝不足なだけですっ!』
考えと身体が直結してた。やはり寝不足は頭の回転も体の動作もおかしくする。
少し熱くなった顔を静めながら立ち上がり、気を逸らす為に自己紹介をする。
『僕は赤瀬凪人です。宜しければお名前を……』
『あっと、うっかりしてました。私、紅美鈴と申します。以後お見知り置きを』
すっと自然な動作で手を差し出され、此方も手を出そうとして――――止めた。幾らなんでも泥だらけの手を女性に出す訳にはいかない。
ジーンズやTシャツで泥を落とそうとするが、服全体が泥まみれなのであまり意味が無い。ゴシゴシ動かしている間に曖昧な笑みで誤魔化してしまう。日本人の悪い癖。
そんな様子を見て呆れたのか、紅さんが苦笑しながらこう言った。
『ええっと……ウチに来ますか?』
『えっ』
いきなりのお持ち帰り宣言。最近の若い子は大胆だ。これからの展開に胸ときめかせ心して聞いてしまいそう。
そーんな五年前に置いてきた筈の妄想が現実になる訳も無く。彼女が言いたい事を要約すると、汚れてるのがみっともないから、ウチに来て身なりをどうにかしろ、と。
「そう言う訳です」
「どう言う訳ですか?」
「いきなり豪邸の前に連れて来られたら緊張もすると言う訳です言わせないで凄く矮小に感じるから」
主に感覚が。金銭感覚とか。
そんな小市民、いや小村民か? とにかく、ちっさい自分にはこの威圧感たっぷりの屋敷は「ドッキリの仕掛けにしては手ぇ込みすぎてるんとちゃうの?」とか言っちゃいそうな位現実感が無いのだ。
そんな屋敷の敷地内に入っていく紅さん。何この人、実はご令嬢?
「まさか。私はこのお屋敷――――『紅魔館』で雇われている、只の門番ですよ」
「雇われているだけでステータスになるんじゃないかなぁ、これは……」
思わず敬語を忘れてしまう。考える事がまた増えた。
外壁に触るのも憚られる屋敷、紅魔館。こんな由緒正しそうな屋敷、日本の何処を探しても見つからない――――っと、此処は『幻想郷』だったか。日本でも無いかもしれないんだった。
屋敷には入らず、塀に沿って歩いていく。こんな泥んこ姿で中に入ったら殺されそうだ。
建物の抜け道を行く様にして歩いて行くと、花壇、と言うには自然過ぎる庭園。中庭の様な所に辿り着いた。
「これまた、綺麗なお庭ですね」
「いえ、私なんてまだまだですよ」
「いやいや、謙遜なんて止して……って、紅さんがこの庭を?」
紅さんが恥ずかしそうに頬を掻く。なんだこの人、良く分からないけど達者な人だとは分かった。
「知り合いに花の手入れが趣味、と言うか生き甲斐の方がいまして。その人に叩き込まれました」
教わった、でも、教わらせられた、でもなく『叩き込まれた』。何となくだが、屈服させられた経験がある気がする、この人は。
「その人が咲かす向日葵は本当に綺麗で……あ、でも初夏に百合を咲かせてくれだ事もあったなぁ。あの時は色んな人が集まってて…………」
思い出話を咲かせる紅さんの顔は、とても生き生きしている。話す人に飢えていたのだろうか、段々と花の話題からも離れていく。
地名らしき言葉、人名らしき単語、分からない所は多々あるけれど、彼女の顔を見ていると、質問するのが無粋に感じる。
「…………それでその子が言ったんです。『絶対にお前を倒せる魔法使いになるんだーっ』って。今どうしてるんだろうなぁ、あの白黒の子」
「倒すってのがまた、面白い子だね」
「そうなんです。まぁ私としては戦ってくれる相手が増えるのは嬉しいですけど」
「へぇ……紅さんは格闘技か何かやってるんだ?」
「ええ、太極拳を少し。武術は良いですよ。体だけじゃなくて、心も鍛えられます! 健全な精神は健全な肉体に宿るんです!」
……実はその言葉、意味合い的には『健全な精神は健全な肉体に宿るべきだ』らしいのだが……どうでもいいか。
少し笑っていると、紅さんが頬を膨らませてしまう。どうやら、自分の話を笑われたのだと思ったらしい。
「赤瀬さんは何か出来ないんですか? 男子たるもの、武芸の一つは出来ないと」
「武芸……うーん」
小さい頃は柔道を叩き込まれたけれど所詮は子供の技だったし。中学高校では唯一の帰宅部エースだったし。
「……柔道?」
「おお、柔術の類ですか。ではここは一つ」
お願いします、と一礼してくる紅さん。何そのポケモン張りの戦闘申し込み方。
言い訳しようにも、真っ直ぐな瞳には文句も引っ込む。大人しく幽夜を壁にもたれ掛けさせて、服から泥をボロボロ落としながら向かい合うしか無かった。
庭園と屋敷の間、およそ10m。紅さんとの距離は4m程か。競技場を思い出す。
チンピラの数の暴力にも勝てない僕に対して、紅さんはかなり意気込んでるみたいだし、これは早々に決着がつきそうだ。
――――理解させてやる、これが、期待を殺すと言う事だ。
脳裏にそんな謎の言葉がよぎった時、紅さんの拳が僕の胴目掛けて飛んできた。
「くぅ!」
始まりの合図も無しに、と愚痴るのは後。見えていたのが幸いして、反射的に左手の甲でいなそうとするが、速過ぎる突きを完全に外す事は出来ない。勢いが少し落ちたものの、二の腕に命中してしまう。
しかし、これはチャンスでもある。相手の右腕が此方の左側にあるなら、背負いや一本背負いに持ち込める。
痛みを堪えながら体を右に半回転、左腕で紅さんの右腕を掴み、右腕でその二の腕を挟み込む。
「甘いです」
――――――と声がした時には、腹に一撃頂いた。さっきの様にいなせなかった所為か、大分痛みが違う。
どうやら右の突きをする時点で右蹴りを用意していた様だ。成る程、向こうは柔道家じゃあないんだった。
だが、体勢の利は此方にある。もう90度回転、背中を紅さんの身体に密着させる。
「これで――――――!!」
腰を落とし、再び持ち上げながら右脚で跳ねる。久しぶりだが、綺麗に決まると気持ちが良い背負い投げ――――――かと思ったのに。
「速さが足りません」
右肩の方から身体ごと滑らせ、紅さんは抜け出してしまった。残ったのは、紅さんの腕を掴んでいるだけの僕だけ。
そこからは簡単に、紅さんの左足で前のめりになりながら引っ掛けられて、一本。それまで。
「赤瀬さん、大丈夫ですか?」
大分派手に額から倒れたので、紅さんが心配そうな声を出す。芝生だったのでこちらは大丈夫なのだが、返答するには少し疲れた。
そのまま倒れ込んでいると、紅さんの声が止む。……なにか嫌な気配がするんだが。
「えい」
「ぎゃあああぁぁぁああぁあぁ!?」
バチャリ、と水がぶちまけられる音。それと同時に僕の叫び声が響く。
「あれ、元気じゃないですか。なーんだぁ」
アハハー、と笑い声。だがいきなり冷水を引っ掛けられた方は笑えない。
水の供給源である噴水を発見。すぐさま起き上がり突撃、置いてあったバケツにたっぷりと水を汲み上げて……目標、補足ッ!
「わぷぅ!?」
笑っていて警戒もしていなかったのか、正面から食らい変な声を上げた。
ニヤニヤ顔の僕を見向きもせずに、紅さんは数秒止まったかと思えば噴水の向こう側に。
濡れながらも火の付いた僕達には、第二ラウンド開始のゴングが聞こえた……気がした。