011:境界の内側へ〈下〉
…
其処はまるで夜の海。
其処はまるで厄の渦。
其処はまるで獣の懐。
一日に二度も変な経験をするなんて、ある意味幸運なのかもしれない。そう思いながら、この紫色の空を見つめ続ける。
僕は何をやったのかは分からない。だけど、やらかしたのは恐らく僕だ。
「……いてぇ……」
酷く頭が熱い。痛い。目に入る光の一つ一つが視神経を焼き切っている様で、それでも読み取った光に脳が焦がされそうな気分。痛みには慣れているつもりだったが、内側からの痛みは鍛えられるものじゃない。
「お、おい! どこだよここ!?」
「知らねえよォ!? クスリなんざやってねえよな俺達!」
チンピラ共の声が響く。遠くうねる様に聞こえるのは場所のせいか、先程までの暴行のせいか。
今この状況下で、まともな常識を振るえる人間がどこにいるだろうか。この、ありもしない境界に遮られた世界で、いつも通りの思考回路を使用出来る奴はいるのだろうか。いっそあれぐらい素直に反応出来たらどれほどいいだろう。だけど、僕には受け入れる。疑問を残して受け入れてしまう。
――――――ふと感じた気配に頭ごと目を向ける。
其処に居たのは、不思議な女性。ゆったりな紫色の服――確か、ネグリジェとか言うもの――に身を包み、快晴の夜なのに傘を手に持ち、頭には大きなドアノブカバーの様な帽子とふんわりとした金髪が目立つ。
顔立ちは、驚いた事にマエリベリー・ハーンそっくりだ。場所が場所ならハーンさんと見紛っただろう、とても美しい。だが、ソレが纏うのはハーンさんには似ても似つかない。だからこそ分かる。共通点の多い対比物があるからこそ、分かる。
この人は、ニンゲンではない。
この紫色の闇に立つ姿が示す。
異常を常とし、常に異常に身を置く存在だと。
僕を見る金色の瞳が表す。
真の意味に『人間』を見下すとはこう言う事だと。
動かない身体が恨めしい。いや、本当なら動ける身体だからこそ恨めしい。
何故、こうも簡単に竦み上がるのだろう。何故相手を理解してしまうのだろう。
目線が僕から外れ、真逆の方向――――即ち、あのチンピラと女性に向けられる。暫く続いた沈黙の後、ネグリジェ姿の女が歩き出した。
「珍しく『巣』に掛かるのがいると思ったら、やっぱり珍しいモノだったわね」
誰にも向けられていない独り言。さっきまで騒いでいた筈のチンピラすら黙り込む。
「守矢の現人神。貴方はまだ此方に来なくて良いわ。貴方だけが来ても意味は無いもの」
――――また今度。
そんな声がしたかと思えば、髪の長い女性はまるで最初からいなかったかの様にいなくなった。
「さて、残りは……」
「お、おいアンタ! さっきの女、どうしたんだよ!?」
言葉を漸く思い出したか、モヒカン頭が金髪の女に言い寄る。
「アンタだろ? いきなり変な場所連れてきやがって、元のとこにッッ、ッ、ッ!?」
モヒカン頭が突然顔に手を触れ、ジタバタしだす。しかし動き回るだけで叫び声の類は聞こえてこない。
「お、おい! いきなりどうしたん……うわぁあ!?」
「く、口がッ、口が無くなってやがるッ! 唇がくっ付いてやがるんだッ!」
変な事を言いながら、もがくモヒカン頭から離れるチンピラ二人。その様子をつまらなそうに見つめる金髪女性。
「うるさいわね貴方達。先にイかせてあげるわ」
チンピラ三人の影も形も無くなる。けれども今度は最初の巫女服の女性の様に溶ける様にではなく、穴に落ちる様に消えたのが見えた。
理解は出来ない。だが掴める。彼女がこの空間の主だと。
「後は、そこの傷だらけの坊やだけ?」
見下されたままは癪なので、竦んだ脚で何とか起き上がり痛みが収まるのを待つ。何処までも広がる空間のせいでまるでガラスの上に立つ様だが、質感は先程と同じコンクリートだ。不思議としか言いようが無い。
傷は無いのだからこれ以上は痛まないけれど、傷の痛みが無くなる事は無いのが少し辛い。
金髪女性の目つきは、まるで品定めする鑑定士だ。頭の先からつま先、背中にまで視線を感じてしまう。
「ふーん……貴方もさっきの現人神と似たようなものか。どうするの?」
「ど、どうするって……」
選択肢が示されていないのに選択を迫られても困る。
「……ああ、自覚が無いのか。だったら、少し話してあげなくちゃね」
口の中で返答を探していると、女性がポンと手を叩いた。なんか、その合点の行き方は古臭い。
「簡単に言うと、貴方には人間の常識では計れない力を持っている。だから、貴方にその意思があるなら……もしくは意志が無いなら、ある場所に来ない? って言う事」
お分かり? と締められたが、唐突過ぎて良く分からないです、はい。
「えーっと…………変な力があるって自覚はありますけど、あったからってなんでそんなお誘いを受けなきゃいけないんですか?」
「そうね、一種の風習みたいなものよ。貴方の為を思っての事もあるけど」
そんなキャッチセールスみたいな風習があるものか。こっちの方が数百倍身の危険を感じるけど。
「じゃあ、その場所って言うのは……」
問うと、女性が傘を畳みを下に向ける。すると、紫の空間がぼんやりと色を変え……一つの映像となった。
森。山。里。大きく見るとそんな風に分けられる、何処か田舎の上空からの映像の様だ。
「人間に忘れられたモノが集う土地」
「忘れられたモノ?」
「そう。今の生活が有るのは昔の生活が忘れられているから。今の科学が有るのは昔の呪術が忘れられているから。今の人間が有るのは昔の妖怪が忘れられているから。
私は忘れられたモノ達が消えない様に、残していく為に、この土地――――『幻想郷』を作ったの」
幻想、郷?
聞き覚えがある様な、あったとしても僕には縁が無さそうな。
「幻想郷は全てを受け入れるわ。どんな異端者も、どんな存在不適合者も、どんな人間も、妖怪も、幽霊も、神も悪魔も。居場所が無い者全ての居場所が此処にあるの」
まるで夢物語を唄う様に、女性は語りかけてきた。
「貴方、名前は?」
「……赤瀬、凪人」
映像が消え、代わりに妙な割れ目が現れる。底は見えず、まるで地獄に続く穴の様。
「じゃあ、凪人。貴方が元居た場所に未練があるなら、振り返って歩き続けなさい。そうで無いなら――――何も無いのなら、この隙間に落ちなさい」
審判を下す様な声が、紫界に響く。
「貴方を待つ人がいるのなら止めはしない。だけど、ただ異を嫌うだけで異を拒絶するのはダメよ」
つまり、無理に連れて行く訳じゃない。だけど、留まる理由が無いなら来い、と。随分良心的な事で。
穴の先には、先程言っていた忘れられたモノの地、幻想郷があるんだろう。興味が無い訳じゃあない。だが、興味しか無い。
彼女が言っているのはこういう事だろう。自分の能力を忌み、忘れ去りたいのなら此方に来い。
嗚呼、勿論忌まない事は無かった。傷があっと言う間に治るなんて、そんな力が人間社会に必要な筈が無い。
だが、それがどうした。ただそれだけで自分の居場所を捨てて新天地に行けと。冗談じゃない。笑い話にもならないだろう。
踵を返し、足を前に動かす。痛みの収まりだした足は、問題無く紫色を踏みしめられる。
「本当に戻るの?」
「…………」
無言で歩を早める。別れの言葉なんて物はいらない。これは、質の悪い白昼夢の様な物だ。
だが、この白昼夢は、冗談と言うのを心得てしまっていて、
「――――もしかしたら、貴方の家族が此方にいるかもしれない。それでも?」
簡単に足を縫い止められてしまう。
「…………僕の家族はもう死んだ」
両親はもうこの世にいない。そう言い返すが、足を止めた時点で負けた様なものだ。
「誰も死体は見ていないのでしょう? 両親なんて、ただ娘を探しに――――」
「黙れッ!!」
女性の言葉と、それと共に蘇る情景を遮る。
どうしてコイツがその事を知っているのかは分からない。忘れ去りたい記憶を何故握っているのか。
金色の瞳を睨みつける。出所が分からない怒りが恐怖を上回り、身体の震えも感じない。
「私が言っていたのを覚えてないのかしら? 幻想郷は忘れられたモノが集う土地なのよ。貴方が罪を忘れたとしても、幻想郷には残ってるわ」
「そんな馬鹿な事が――――」
「もう一つ。幻想郷には貴方の常識は存在しないわ。其方の世界の常識は、まだ忘れられて無いでしょう?」
戯れ言を堂々と断言する女性。だがその迫力は本物で、僕の文句はあっさりとかき消された。
「……貴方の名前は」
「八雲 紫。幻想郷の管理者よ、以後宜しく」
「八雲さん、貴方は大きな勘違いをしてる。僕は今の世界に苦痛を感じている訳じゃあ無いんだ。其方に行く理由が無い!」
「でも、留まる理由は無いのでしょう?」
暴論だ。と言うより酷い理屈だ。確かに留まる理由は無い。だが、僕は訳の分からない所に行くなんて真っ平ゴメンだ。
――――その時、あの人の声が耳に蘇った。
「――――――す」
「ん?」
「――――います。僕の帰りを待つ人が」
怒りが無くなった目で、八雲を見つめる。何を考えているのか、何を見据えているのかは分からない。だが、この人を騙せないと僕は帰れないんだ。
「あら、どんな人なの?」
「僕をこの場所にまで連れてきたトラブルメーカーで、良く分からない旅行者で、何考えてるかも分からない人です」
どんな理屈でもいい。まくし立ててこの人を誤魔化せればいい。とにかく、喋るしかない。
「人の事をからかうのが好きで、自分が楽しければ良くて、みんなが楽しければもっと良くて、何時も何時も騒がしい人で、迷惑極まりないけど憎めなくて」
「名前は?」
「……え?」
黙って聞いていた八雲が、突然呟いた。その顔はさっきまでの余裕たっぷりのでは無く、何故か影のあるものだ。まるで、思い出したくない思い出を味わってるかの様な。
「だから、その人の名前は!」
「み、水元だよ。水元幽――――!?」
勢いに負けて答えると、喉に緊張が走る。手の形の万力で徐々に締め上げられる様な感覚。
「いッ、き、な……り……なに…………」
「……そう、か。赤瀬の血族なら知っていても不思議は無いわね。でも、軽々しく彼の名前を口にするのは頂けないわ」
抵抗しようと八雲の腕を掴むが、女性の腕とは思えない力強さで気道がどんどん狭くなっていく。単純な握力だけで、だ。
息苦しさの中、八雲の呟きが酷く耳に残った。
――――――貴方は此処にいてはいけないの。あなたは人間じゃあないんだから。
そこから先に起こった事は、頭痛と共に何処かへ忘れていってしまったらしい。