他人の好感度が見えるようになった世界で、学校一の美少女から絶対的殺意を向けられている話【短編】
「鳴海書記。……あまりうろちょろしないで。集中できないから」
それが、学校一の美少女と目される生徒会長――不知火涼香が放った言葉だった。
彼女の頭上で禍々しく明滅する数字、【-999】
システム上の最低値、絶対的な殺意の証明。
僕はただ「ひゃいっ」と情けない声を上げて、その場に縮こまることしかできなかった。
ある日突然、他者の頭上にデジタル数字が現れた。それは【自分への好感度】
この数字が、世界の絶対的な指標となった。そして――
マイナス九百九十九。
親の仇に向ける敵意すら生温い、戦慄の数値を前に、僕は生きた心地のしない日々を過ごしていた。
「も、申し訳ありません、不知火会長……! す、すぐに作業に戻ります……!」
コソコソと自分のデスクへ引き返すと、背後から小さく、深く、ため息を吐く音が聞こえた。
きっと、邪魔者が視界に残り続けていることへの忌々しさの現れに違いない。
◇
放課後。夕暮れが差し込む生徒会室は、静まり返っていた。
他の役員は全員帰宅し、残っているのは僕と会長の二人だけ。
ペンを動かす手を止め、ふと顔を上げると、彼女の鋭い視線とバチバチに目が合った。
彼女は自分のデスクで腕を組み、射抜くような眼差しをこちらへ向けたまま動かない。
それだけで心臓がバクバクと嫌な音を立てる。
「手際が悪いわね、鳴海書記。そんな速度では夜が明けてしまうのだけれど」
氷のような声。
背中にじっとりとした汗を感じながら、「す、すみません……っ」と小さくなって書類に視線を落とした。
ガタ、と微かに椅子を引く音がして、こちらへ近づいてくる気配がする。
恐る恐る顔を上げると、いつの間にかデスクの前に彼女が立っていた。
「……これ、試作品だから。形が歪で処分に困っていたの。残したら承知しないわ」
目の前に無造作に置かれたのは、小さなラッピング袋。
のぞくのは、不格好だけど丁寧に焼かれたクッキー。
「あ、ありがたく、いただきます……」
消え入るような声で答えた瞬間、彼女の視線がふいっと、僕の頭の少し上へと跳ね上がった。
何かを確かめるように、どこか縋るように向けられた彼女の瞳が、見る間に切なげに翳っていく。
――それきり、彼女は逃げるように背を向けた。
その背中が、どこか小さく、しょんぼりと丸まったように見える。
殺意の塊であるはずの彼女が、まるで僕に拒絶されたかのような空気を纏っている。
そんな奇妙な違和感を抱いた、瞬間。
「い゛……っ」
ファイルの金具を閉じようとして、劣化したバネがパチンと跳ねた。
鋭利な先端が指先を切り裂き、鮮紅色の血液が溢れ出る。
広げていた書類の上に、ぽつりと赤い染みが広がっていく――
――ハッと、激しく息を呑む音。
弾かれたように振り返った彼女の視線が、僕の手元へと突き刺さる。
――気づいた時には、僕の手首は掴まれていた。骨が軋むほどの力で。
至近距離にある彼女の顔からは、血の気が完全に引いていた。
浅く速い呼吸の隙間から、取り乱した声がこぼれ落ちる。
「触らないで……っ、そのまま、動かさないで……!」
棚から救急箱を掴み出す彼女の手は激しく震え、今にもそれを落としそうだった。
なのに、傷口に消毒綿を当てる手つきだけは、信じられないほど慎重で、柔らかい。
彼女の長い睫毛が細かく震え、瞳には今にも零れ落ちそうな涙が溜まっている。
「何をしているのよ貴方は……っ! 本当に、本当にドジなんだから……っ!」
怒られているのか、心配されているのかすら分からない。
あまりの矛盾と、手首を掴む強すぎる力に、僕の貧弱な精神はとっくに限界を迎えていた。
「あ、あの……不知火会長」
「何よ……まだ、痛むの? 痛むなら――」
「――も、もう無理です……っ!!」
堰を切ったように、視界が涙でボヤけた。
「あなたを怒らせないように……僕、あの日から毎日、必死にやってきたんです……っ!」
嗚咽混じりの悲鳴に、彼女の手がピタリと止まる。
向けられた瞳は、僕を拒絶する冷酷なものでは決してなくて――ただただ、傷ついた子供のように激しく動揺し、怯えていた。
「な、何を、言って……」
「なのに、っ……頭の上の数字、ずっと……マイナス、九百九十九で……っ」
「……は? ……マイナス……?」
彼女は、心底わけがわからないという風に目を瞬かせた。
「な、何よそれ、意味がわからないわ……っ!
マイナスって何!? 私は、私はただ、貴方のことが好きなだけで……っ!」
勢い任せに飛び出したのは、悲痛なまでの叫びだった。
叫んだ当の本人が、自分の言葉の重さに気づいて「あ」と顔を真っ赤にして口を塞ぐ。
(……え? 好き、って言った……?)
それが、一段目の衝撃だった。
目の前の彼女が口にした、あまりにも不釣り合いな言葉。
(でも、頭の上のメーターは、間違いなく最低値の【-999】を指していて……)
二段目の矛盾が、胸の奥で強烈な火花を散らす。
【-999】という殺意の数字。そして、彼女が涙目で叫んだ「好き」という告白。
嘘をついているようには見えない。
なら、バグっているのは――システム(画面)の方だ。
レトロゲームのステータスをカンストさせた時のような、あの致命的なエラー。
――限界値を突破した数値が、一瞬にしてマイナスの最低値へと裏返る、あの『オーバーフロー』現象。
「……もしかして。千を超えて、溢れちゃった……?」
僕が恐る恐るそう告げると、彼女の目から大粒の涙がぽろりと零れ落ちた。
すべてが繋がった、そんな顔をしていた。
「だから……だから貴方、あんなに私を怖がって……っ!」
張り詰めていた糸が切れたように、彼女は激しく肩を震わせた。
これまでのすれ違いへの安堵か、僕を追い詰めていたことへの憤りか、あるいはすべてを暴かれた猛烈な羞恥か。
そんな、この場から消え去りたくなるような空気の中で。
「……そう。そういうことだったのね」
けれど、彼女は逃げ出そうとはしなかった。
涙を溜めたまま、唇をきゅっと噛み締めて僕を見上げる。
その瞳の奥にある光は、羞恥で爆発しそうなのに、どこか底知れない熱を孕んでいた。
彼女は僕の手をそっと離し、ゆっくりと立ち上がると、ドアへと向かい――生徒会室のカギを、静かにかけた。
――カチャリ。
鍵をポケットにしまい、振り返った彼女の視線が、再び僕の頭上へと向く。
そこに浮かんでいるであろう、僕の『数字』を見て――彼女の目元が、歓喜に、ギラリと濡れる。
いつもの冷徹な仮面はどこへやら、妖艶とも言える、底なしの笑みがその唇に浮かぶ。
「……もう、遠慮は要らないわよね」
彼女の頭上では、相変わらず【-999】という凶悪な数字が明滅している。
その意味を完全に理解してしまった今。
胸のバクバクは、学校一の美少女に狂愛されているという、猛烈なドキドキへと書き換えられていく。
凶暴なまでに愛らしい、その脅威に――ただ、ガタガタと身体を震わせるしかなかった。




