7話「守りたい存在」
グレイシアがヒューバートン男爵の部屋に入った頃、エリオットはまだ赤い絨毯の敷かれた長い廊下を歩いていました。
傍から見れば彼はただのジルフォード侯爵の手下にしか見えなかったものですから、全く周りに怪しまれませんでした。
しかし彼の複雑な心境で行く当てもなく歩いていました。「アイツはあの時囮になって俺を逃がそうとした、今だって俺を巻き込まずに一人でボイラー室に閉じ込められている子供達を助けようとしている」彼は心の中でそう呟きました。
「なんでそんなことが出来るんだよ」彼は思わずそう呟きました。するといきなりエリオットは何者かに後ろからガッと右肩を掴まれました。いつの間に背後を付けられていたのでしょうか。
エリオットは完全に油断したと思いましたが、自分の正体がバレたとはあまり考えにくかったので、肩を掴むその手を思いきり掴み、一気に背後を振り返りました。
そこに居たのは自分より少し背の高い、自分と同じ道化師の格好をしたジルフォード侯爵の手下でした。その手下は低い声で言いました。
「ジルフォード卿が部屋に招集をかけている。お前も来い」彼は業務的にそう告げると、自分の手を掴むエリオットの手を払いのけようとしました。
しかし、エリオットは彼の手をがっちりと掴むと、その手の甲を見にして思わず目を疑いました。なぜなら、はっきりとえぐれた様な傷があったからです。
エリオットは一瞬で、その目の前の男の正体が分かりました。「やっぱりそうだ。よお、クソ親父。久しぶりだな」エリオットは顔に着けていた仮面を取りながら、低い声で忌々しくそう言いました。
「お前…やっぱりエリオットなのか」その男は震えるような声で恐る恐るそう言いました。
「ああ、そうだ」彼は逃がすまいと掴んでいた手を引っ張り、その男の体を思い切り壁に叩きつけました。そしてエリオットは彼の正面に立つと、彼の胸ぐらを掴みました。
「お前、今の今まで俺を捨てて何をしていたよ?なんでこんなクソみたいな仕事をしている?どれだけ俺を失望させれば気が済むんだ?なんとか言えよ!!」エリオットは胸の内に秘めていた父親に対する怒りを思う存分、その男にぶつけました。
エリオットは、本当は信じたくありませんでしたが、彼こそがエリオットの父親であり、10歳の頃に姿を消したアダム・ムーア本人だったからです。
アダムはしばらく項垂れて黙っていました。エリオットはそんな父親の姿に憤りを感じ、彼から手を放しました。アダムは正面からエリオットを見つめて言いました。
「すまなかった。全て話をさせてくれないか」エリオットはアダムがこの場から逃げ出さないと判断し、数歩離れて彼の話を聞くことにしました。
「お前が10歳の誕生日の前日の晩、俺は街で突然ジルフォード侯爵の手下数名に囲われ、俺たちの仲間になれ。従わなければ息子である、お前の命を奪うと言われたんだ」アダムは言葉に詰まりながらも、何とかそう口にしました。
「俺は愛する妻のハンナが病気で亡くなってから、どうしてもお前だけは失いたくなかった」彼は苦しげに眉をひそめ、声を震わせてそう言いました。
「だから俺は従うことにした。俺の役目は、ある儀式のために子供達を捕らえ殺すことだった。それからはお前から離れて、遠くの山に住み街に出ては‥‥その役目を果たした」アダムはそう言うと顔を両手で覆いました。
「ただな、隠れて子供を攫って殺しても誰も何も咎めやしないんだ。お前も知っているだろ?ヒューバートンの土地ではジルフォード卿の関係筋の人間は何をしても容認される。俺たちの領主様はジルフォード卿の力を借りて、工場や列車を改装し、経済を大きく発展させた。ただその代わりに弱みを握られ、あいつの言いなりの様になっている」彼はそう言って深いため息をつきました。
「やがて俺は自暴自棄になって、素性を隠さずに街で悪さを幾度となく働いた。人から直接自分を非難してほしかった。こんな恐ろしい罪を犯してに誰にも咎められず平気で生きている俺自身を罰したかったんだ。でも、今お前とこうしてまた再会して…もう、こんな自分には耐えられないと思った」
彼はそう言って無造作に仮面を外し、溢れんばかりの涙をぬぐいました。見覚えのある懐かしい、眉間に傷があり皺の刻まれた頬、そして彼と同じ紺色の鋭い瞳をした顔を見て、エリオットは思わず息を吞みました。幼い頃、尊敬していた師匠のように慕っていた父親の顔がそこにあったからです。
「俺はもうただの悪人だ。だけどなお前を守るためなら何でもできる。そのために誰かをどれだけ犠牲にしようとも」アダムは愛する息子に涙ぐみながらそう言いました。
「何カッコつけているんだよ。俺は父さんがどれだけ酷いことをしていたとしても、嫌いになんかなれないよ。父さんが居なくてどれだけ寂しかったと思っているんだ」エリオットもそう言うと思わず目から一筋の涙を流しました。
「俺も寂しかった。でも、お前にはグレイシアちゃんが居るじゃないか。さっきボイラー室であのサイコ野郎から彼女を助けたのはお前だろう?あの後、すぐにその場に駆けつけた奴がいたと思うが、あれは俺だ。よくやったな。その調子であの子を守り抜いてやれ」
アダムはそう言って、称えるようにエリオットの肩を叩きました。「ただ、ここまで来るのにあのサイコ野郎含め、何人も殺しただろう。それとお前と一緒にここに紛れ込んだグレイシアちゃんの件でジルフォード卿が直々にお呼びなのさ。という訳で俺についてきな」彼はそう言って、外していた仮面を再びつけると、長い廊下を再び歩き出しました。
エリオットはしばらく放心していましたが、我に返り仮面をつけなおすと、彼の後を追いかけるように歩き出しました。二人は黙々と歩き続け、遂にワインレッド色の装飾の施されたドアの前まで来ました。
ドアのプレートには、ロード・ジルフォードと書かれており、ここがジルフォード卿ことデレク・ウィルキンスの部屋であることがエリオットは一目で分かりました。
アダムはドアの前でくるりと振り返るとエリオットにこう言いました。「最後に一つ、父親らしいことをさせてくれ」エリオットは、緊張で顔が強張りながらもすかさずこう言いました。
「何をする気なんだよ。父さん」しかし、アダムは彼の問いかけには答えずこう言いました。
「また、お前と会うことが出来て本当に良かった。これで楽になれる」彼はエリオットに微笑んだ後、ノックしてからドアを開きました。
エリオットは父親のまるで全てを諦めた抜け殻のような表情を目にして、言葉を失いました。エリオットは思わずその場に立ちすくみたくなりましたが、彼の後に続いて部屋に入りました。
部屋の中はとても広く赤色を基調としており、赤いベルベッドの絨毯やカーテンが見事な荘厳な雰囲気を醸し出していました。貿易のために各地を訪れた際に購入した美しいタペストリーや陶器の置物などの調度品が飾られ、中央の大きな自画像の下に座り心地の良さそうな豪華な肘掛け椅子に座ったジルフォード侯爵がおりました。
そして、彼の隣に仰々しい西洋甲冑を着てヘルメットを被った、まるで騎士の様な身なりの男が一人立っておりました。
そして彼らの前に既に4名の手下達が整列していました。甲冑を着た男は侯爵のバトラーのような存在でした。
エリオットとアダムがやって来たのに気づいたバトラーの男は、二人に整列するように声をかけました。そしてバトラーの男は、手下6名が整列したのを見計らって、命令しました。
「持っている武器を全て床に置け」手下達はごそごそと言われた通りに床に銃や短剣を置きました。全員が置いたのを目にするとバトラーの男は再び口を開きました。
「昨日、儀式の最中に逃げ出した子供がどうやら二人いたようです。そしてそのうちの一人がこの船に逃げ込んだ」彼は冷淡な口調でそう言いました。
「儀式も失敗に終わったようだな。あの男に私の息子の代役を頼んだのは間違いだった」ジルフォード侯爵は不機嫌そうにそう言いました。
「この船に紛れ込んだ例の子供を始末したのは誰だ?」その問いかけにエリオットは、いかにも手下らしくこう言いました。
「それは私です。ミスター・ジルフォード。その子供を殺し、海に死体を捨てました」その言葉に侯爵は、満足げに頷きました。するとバトラーの男が大きな声でこう言いました。
「ジルフォード卿、そんなことは今どうでも良いでしょう。問題なのは、今日その子供をこの船で始末するまでの間に、なんと6名の手下達が何者かに殺されているということです。
同胞殺しを探す方が先かと」彼は忌々しくそう言い、整列している手下達を睨みました。しかし、侯爵は鼻で笑うと、手下達から顔を背けました。
「そうだな。だがね、私はお前達手下がどれだけ死のうが構わんのだよ。金か人質さえ用意すれば腐るほど雇えるからだ」侯爵は淡々とした口調でそう言ってのけました。
「それに私はこの件に長い時間を割く程暇ではない。これから舞踏会に例の計画だってあるのだ」ジルフォード侯爵はそう言うと急に椅子から立ち上がりました。
「だから率直に言う。私の手下6名を殺した犯人はお前達の中に居るはずだ。今ここで名乗り出ろ、もし誰も名乗り出なければお前ら全員をここで始末する」侯爵はそう言うと、バドラーの男に合図しました。
バドラーの男は、懐から拳銃を取り出しました。一気に緊張感が部屋全体を包み込みました。そして整列していた手下の一人が声を上げました。
「私がやりました」なんと声を上げたのはアダムでした。「一応聞くが、何故そんなことをしたんだ?」ジルフォード侯爵はアダムの前に立つと疑わし気な目でそう聞きました。
「この船に紛れて逃げた子供を守りたかったからです。私はもう子供を殺し続けることに耐えられない。自分も仲間も許せなかった」彼は俯きながらそう呟きました。
ジルフォード侯爵はその言葉を聞くと高笑いをした後、拍手をしました。そして、急に真顔に戻りバドラーの男に冷酷にこう伝えました。
「銃を貸せ」バドラーの男から銃を借りた侯爵は、その銃口を迷うことなくアダムの頭に突きつけました。「膝をつけ」侯爵に指示されて、アダムは大人しく両膝を床につけました。
アダムは銃口を額に食い込ませられながらも、侯爵を見上げて最後にこう言いました。「お前はいずれ、地獄を見るぞ」侯爵はその言葉を聞くなり、引き金を引きました。
鈍い銃声が響きアダムは床に倒れました。侯爵は再び椅子まで戻り、バドラーの男に拳銃を押し付けて、涼しい表情で椅子に腰かけました。
「さあ、お前ら。持ち場に戻れ」バドラーの男は何事もなかったかのようにそう言いました。残された5名の手下達はそろそろと部屋を後にしました。
エリオットは胸にやるせなさと苦い気持ちがこみあげてきました。エリオットは部屋を後にすると、廊下に出て壁にもたれかかるようにしてしゃがみました。
「…これで楽になれるか」エリオットは暗い声で生前彼が言っていた言葉を呟きました。「父さんは俺を死ぬ直前まで守ろうとしてくれたのか。俺は‥‥・俺が守りたいのは」彼はそう呟くと勢いよく立ち上がり走り出しました。
燃え盛るボイラー室の中は、換気が不十分で煙が蔓延していました。グレイシアとジェイスはその煙たさに思わず咳きこみました。「火事だ‥まさか火事が起きているなんて」ジェイスは苦しそうに咳き込みながら言いました。
グレイシアは燃え盛らんばかりの一面の炎を目にして、一瞬脳裏にある光景がよぎりました。そして、それと同時に激しい頭痛が彼女を襲いました。
「うぐっ…」彼女は呻き声を小さく上げましたが、なんとか持ちこたえて辺りを見回しました。中に居た作業員は瀕死の状態でもがき苦しみながらその場に倒れており、ジェイスは急いで彼を担いで外へ運び出しました。
グレイシアも扉の近くで、気を失い倒れている例の幼い子供達を発見しました。彼らを運び出そうとしましたが、足枷についた重りが非常に重く、グレイシアは踏ん張って少女を持ち上げようとしましたが、びくともしませんでした。
彼女が狼狽えているとその場に何者かが駆けつけ、もう一人の少年を運び出しました。
グレイシアはその彼がジェイスではないことをなんとなく察しました。グレイシアは何とか力を振り絞って、再び少女を扉の外に引きずり出しました。
そして、炎が扉まで迫って来ていたものですから、慌ててその扉を閉めました。彼女は思わず床に倒れ込み、苦しそうに呼吸を繰り返しました。
すると、彼女のすぐ傍で同じように床に倒れこみ荒く呼吸をしている見覚えのある少年の姿がありました。それはエリオットでした。
彼は先ほどまで着ていた道化師の格好ではなく、いつもの色褪せた黄緑色のシャツに焦げ茶色のズボンを履いていました。グレイシアは呼吸を整えると彼の傍まで近づきました。
「エリオット‥まさか、貴方がもう一人の子を運び出してくれたの?」彼女がそう聞くとエリオットは頷きました。「ああ、急ぐぞ」エリオットはかすれた声でそう言い、少年を担ぎました。グレイシアも何とか少女を引きずりながら二人はヒューバートン男爵家の部屋まで歩きました。
それから少し先のことは、彼女たちは覚えていませんでした。何故なら、二人はヒューバートン男爵家の部屋の前で疲労からか疲れて倒れてしまったからです。
どうやら、あの後ジェイスはボイラー室が火事になっていることを、ジルフォード侯爵の手下に連絡し、至急消火活動を行うように伝えた様でした。
そして、グレイシアとエリオットと例の子供達は、たまたま部屋のドアを開けたローラによって発見され、部屋に丁度戻ってきたジェイスによって保護されました。
グレイシアは意識を取り戻した時、目の前で泣きそうな顔をしているローラの顔が見えました。「ここは…」彼女は朦朧とした頭でそう呟くと辺りを見回しました。
急に意識が鮮明になり、ヒューバートン男爵家の部屋のリビングの天井が視界に入りました。隣を見るとそこには自分と同じように仰向けで寝ているエリオットの姿がありました。
グレイシアが起き上がった時、ローラが駆け寄ってきました。「良かった!!!無事で!!本当に心配したのよ!!」ローラはそう言ってグレイシアに泣きながら抱きつきました。
メアリーはグレイシアが目を覚ましたのに気づくと安堵した表情を浮かべました。エリオットも目が覚めたようで、起き上がるとグレイシアの方を見ました。
「貴方もボイラー室に来たのね。助けに来てくれてありがとう。エリオット」彼女がそう言うと、彼はもう先程とは違い、彼女に歩み寄る気持ちを抱いていました。「いいや、さっきは悪かったよ。お前に酷いことを言って突き放した。本心じゃなかったんだ」彼は少し後ろめたそうにそう言いました。
「いいのよ。私も貴方に突き放すようなことを言ったわ。本当にごめんなさい」彼女はそう言うと、突然頭に鋭い痛みが走り、思わず俯きました。
「おい、どうしたんだ?」エリオットは心配そうに彼女の背中をさすりました。グレイシアは苦しそうに呟きました。「さっき‥‥ボイラー室で燃え盛る炎を目にした時、ある光景が脳裏をよぎったの」彼女はそう言って、顔をしかめました。
「私は…燃え盛る炎に囲まれた聖堂のような場所に居て、目の前には二人誰かが立っていて‥何か‥呪文のようなものを唱えていたわ」彼女は力なくそう言いました。
「それは‥お前の記憶か?それとも幻なのか」エリオットは真剣な顔で項垂れている彼女にそう言いました。「分からないわ」彼女は狼狽えるようにそう口にしました。
すると、ローラがエリオットにこう言いました。「あっ!もしかして、貴方は、昨日広場で私を助けてくれたグレイシアと一緒に居た人?」ローラはそう言ってエリオットに駆け寄りました。
「ああ、そうだよ」彼は短くそう返しました。するとなんとローラは嬉しそうに微笑み、体を起こして座っているエリオットとグレイシアの頬にキスをしました。
「二人とまた会えてうれしい!!」ローラはそう言って無邪気な笑顔を浮かべました。キスをされたグレイシアとエリオットは思わずお互いを見つめ合いました。
エリオットは、グレイシアの灰色の瞳が神秘的な優しい光を放っているのに気づき、思わず見入ってしまいました。
なぜなら彼女は心から、エリオットを愛おしく思い、見つめていたからです。エリオットは思わず彼女を抱きしめたいと思う衝動に駆られました。
「そういえば、さっきまで着ていた道化師の格好は?」グレイシアが何気なく彼にそう問いかけました。「流石に暑苦しいから全部脱いだ」彼は我に返りすぐにそう答えました。
「先ほどは助けていただきありがとうございます」二人に向かって、先ほど助けた幼い少年が声をかけてきました。そして、彼の後ろには先ほど助けた幼い少女の姿がありました。
ジェイスとメアリーによって、足枷についていた大きな重りが外されており、腕を縛っていた麻縄も解かれているようでした。
そしてジェイスは今、ブラシでローラの髪やドレスの汚れを取っていました。その一方でメイドのメアリーはこの部屋には居ませんでした。
彼女はリリィを連れて茶会の会場であった客間まで向かい、無事にその会が終わった後この部屋に戻りました。そして少年達を保護していましたがやたらとリリィの戻りが遅いことを疑問に感じ、つい先ほど再びその客間へ向かったからです。
「僕はリアンと言います。こっちの女の子は僕の妹のミアです」助けた少年はそう言って会釈しました。すると後ろで隠れていたミアと言う少女も姿を現し、同じように会釈しました。グレイシアとエリオットは改まってこの二人の姿を見ました。
彼らはローラよりも少し背が高く、大人びていましたが全体的な雰囲気からすると、恐らくローラと同じくらいの8歳程の年齢でした。しかし、ローラとは対照的にボロボロの端切れのような服を身に纏い、首輪と足枷は鍵が付いていて外せずについたままでした。
頬は煤で汚れており、栗色の髪はぼさぼさでもはやその風貌は奴隷か囚人のようでした。「貴方達のお名前をお聞きしてもよろしいですか?」リアンは遜った口調でそう聞きました。
「私はグレイシアと言います。隣の彼はエリオット言います」グレイシアはエリオットを横目見ながらそう言いました。「では、グレイシアさんとエリオットさん。お二人に聞きたいのですが…貴方達も僕達と同じでこの船に無理やり連れてこられたんですか?」リアンは深刻そうに尋ねました。
グレイシアは首を横に振って言いました。「いいえ。私たちは実は‥ジルフォード侯爵の手下に騙されて殺されかけたんです。それでなんとかこの船に逃げ込んできました」グレイシアは当時のことを思い出し、顔をしかめて言いました。
「そうだったんですね。実は僕達も所有地の公園で遊んでいたところを、急にジルフォード侯爵の手下に取り押さえられて、気が付いたらこの船のボイラー室に居ました」リアンは躊躇いがちに言いました。
「所有地の公園?一族とか言いましたね。ひょっとしてあなた方は貴族のお血筋だったりするのですか?」エリオットが珍しく妙に丁寧な言葉でそう言ったので、グレイシアは笑うのをぐっと堪えました。
「ええ、僕達の父親はジェスター伯爵です。こんな見てくれからは想像できないとは思いますが、僕らは裕福なベレス家に生まれたのです」リアンはそう言って額に手を当ててため息をつきました。
「僕の父は数年前、戦争への加担で重傷を負いました。それから母親はギャンブルで散財し、領地内でのトラブルも相次ぎ、僕達の家はあっという間に破産寸前となりました。
言わば僕らは没落貴族の子供です」リアンはそう言うと自嘲的に笑いました。「途方に暮れていた僕達は、気分転換に公園で遊んでいました。そしたら捕まってしまったのです。本当に迂闊でした。ジルフォード侯爵は僕達を攫ってどうする気だったのでしょうか」リアンがそう聞いて来たので、グレイシアは口にするか迷っていましたが、しばらくしてからこう言いました。
「恐らく‥貴方達をショーの出し物にする気だったんだと思います。手下の一人がそんなことを言っていました」リアンは思わず絶句しました。
「そんな…それって私達を見世物にするつもりだったってこと」ミアは傷ついたような顔をして震える声で言いました。
「あっ!やっぱり、なんか見たことあると思った!貴方、前私とお庭で遊んだことがあるでしょう?」突然、ローラがミアの顔を見上げると笑顔でそう言いました。
「ローラ様」ジェイスは彼女を牽制するようにそう言いました。そんな時、ミアが唐突にこう言いました。
「血は赤から黒になるまで絶えず注ぐ、悪しき力を我に捧げよ」グレイシアは思わず目を丸くしました。彼女も昨日、倉庫の中で同じ言葉を聞いたからです。
「捕らえられている時、ジルフォード侯爵の手下がこの言葉を口にしていました。貴方達も聞き覚えはないですか?」ミアは恐る恐るそう言うとグレイシアの顔を見つめました。
「ええ、あります。倉庫で‥」彼女がそう言いかけたその瞬間。勢いよくバタンとドアが荒々しく開く音が聞こえました。
その場にいた一同は全員扉の方へ目をやりました。エリオットは部屋に入って来たその人物に見覚えがあり思わず目を回しました。
部屋に入って来たのは、ブロンドの髪に宝石のついたブラウスを着て、上から宝石の散りばめられた白いコートを着た、見てくれだけは整った青年でした。
彼の名はルーシャス・プライス。ヒューバートン男爵家の長男であり、いずれは爵位を継ぐはずの若い貴族の青年でした。
彼がズカズカと部屋に入り、彼の母親である夫人が後に続いて部屋に入ってきました。一気に部屋が騒がしくなり、ジェイスは思わずため息をつきそうになりました。
「ルーシャス!!いい加減にしなさい!!」夫人はカツカツと踵の高い靴を鳴らして歩きながら怒鳴りました。「リーフウッド家男爵の長男のルイスと決闘をするだなんて!!どうして、茶会の場でそんなことを言うのよ!!お前は本当にどうかしているわ」夫人がルーシャスに向かって恐ろしい形相で捲し立てました。
彼女は非常に混乱し、ルーシャスの振る舞いに酷く失望し狼狽えているように見えました。「さっきの茶会でアイツに散々侮辱されたんだぞ!俺だけじゃない。リリィやお母様のことも酷く言いやがって!」
ルーシャスは勢いよく、夫人の方を振り返ると吐き捨てるように言いました。そして、力任せに壁を何度も殴り、なんと穴をあけてしまいました。ローラは乱心する彼の姿が怖くてグレイシアにしがみつきました。
グレイシアとエリオットは怒り狂う彼の様子とヒステリックさを増した夫人の姿をただ茫然と見つめていました。
「あの家はいつも俺達を貶めようとしている!この間の舞踏会でもルイスが階段からリリィを突き落として、酷い怪我をさせたじゃないか!今日だってローラとお母様がギャングに襲われた!!それもどうせあの家が仕組んだことだろ!!」ルーシャスは我を忘れて溢れ出る怒りの感情を露わにして叫びました。
「もう!!許せない!!この手でルイスの体を切り刻んでやる!」彼が再び壁を思い切り壁を殴ろうとした瞬間、なんと夫人が部屋に調度品として飾られていた見事な花瓶を思いきり床に叩きつけて割りました。激しい破裂音と、辺り一面が水浸しになり、飾られていた花々が床に散らばりました。
破片が飛び散り、メアリーはローラを庇いました。一同は皆、彼女の衝撃的な行動に驚き、言葉を失いました。
「ルーシャス!!!本当にいい加減にしなさい!」夫人はピシャリとそう言い放ちました。これには流石のルーシャスも我に返り、黙りました。
「さっきの茶会でも同じように理性を失い、怒りに身を任せて怒鳴り散らし、野良犬の様に周りに迷惑をかけたでしょう!!人前で痴態を晒して楽しい茶会を滅茶滅茶にしたのは一体どこの誰なの!!」夫人がルーシャスに指を突きつけながら、怒鳴りました。
一連の激しい光景を目にし、エリオットはルーシャスの気性の荒さは母親譲りなのかもしれないと思いました。
一方ジェイスは、手慣れた様子で目の前に散らばった花瓶の破片を回収し始めました。ルーシャスは再び怒りがこみ上げてきたようで、今度はグレイシア達の方を一瞥しました。
「ああ?何だこいつら」ルーシャスは血走った目で興奮気味に言いました。「彼らはグレイシアさんとエリオットさんですよ。昨日広場でギャングに襲われそうになったローラ様と奥様を助けて下さりました。そして、先ほどボイラー室が火事になったのですが、いち早くそれに気づけたのも彼らのお陰です。あと一歩気づくのが遅ければこの船は火の海だったでしょう。彼らは私達の命の恩人ですよ」ジェイスは荒ぶる彼を宥めるようにそう言いました。
「ふうん。それで俺達に取り入ろうって訳ね。ずる賢い!とっとと出ていけ!!」ルーシャスは非常に腹を立て冷静さを欠いていましたから、すかさずそう言いました。
次に彼はまるで奴隷のような二人の少年と少女に目をやりました。彼は思わず目を丸くして、けたけたと笑い出しました。「ああ…お前ら、ひょっとしてジェスター伯爵の息子のリアンと娘のミアなのか」彼は嘲るようにそう言いながら、二人の前まで歩いてきました。
「小汚い服に首輪なんか付けちゃって、随分と落ちぶれたもんだなあ。とっても良く似合っているぜ」彼はそう言って、リアンの首輪を見つめ、嫌味に右の口角を上げて笑いました。
リアンは彼を睨みつけながらも恥ずかしさと屈辱の余り、顔を赤くして目からボロボロと大粒の涙を流していました。その様子を目にしたグレイシアはひどく同情しました。
何せ彼らは、元は裕福で権威のある良い家柄の子供だったわけです。そんな彼らが経験した計り知れない程の恐怖と劇的な変化を、ルーシャスは馬鹿にしたのです。
どうせ彼は夫人から叱られた鬱憤を晴らしたいだけなのだとグレイシアは思いました。
「どうか‥おやめください」グレイシアは彼の口を止めなければならないと思い、そう言いました。その言葉にルーシャスは驚き、怪訝な顔でグレイシアに目をやりました。
「なんだと?お前、誰に向かって口を聞いている?」ルーシャスは、今度はグレイシアの方へ近寄ると、彼女を睨んでこう言いました。
「侮辱される辛さがどれほどのものか。貴方もお分かりのはずでしょう」グレイシアは彼の目を見つめてはっきりとそう言いました。
勿論、ルーシャスは汚い言葉で彼女を罵倒しようと思いましたが、彼女の瞳に宿る覇気に思わずたじろぎました。彼女の灰色の瞳は輝き、強いオーラを放っていたのです。
思わずルーシャスはグレイシアから目を逸らすと、代わりに彼女の側にいた見覚えのある少年に気づきました。彼は標的を変え、意地の悪い顔をして言いました。
「よお、嫌われ者。お父さんは元気か?」ルーシャスはエリオットを嘲りました。彼を侮辱するにはその言葉が一番だと知っていたからです。
エリオットは静かに冷たい視線をルーシャスに向けました。エリオットとルーシャスの関係は非常に険悪でした。ルーシャスは父親と一緒にゴードン山で威張り散らしながら、荒々しく動物を狩りました。
そして、彼は街でも威張り散らしては些細なことですぐに逆上し、気に食わない者には理不尽に暴力をふるっていました。このような彼の行動全てが、エリオットを苛立たせました。
ところが、何故かルーシャスの方もエリオットを目の敵のように思っておりました。そして、ルーシャスは彼とゴードン山や街で鉢合わせるたびに、言葉や暴力で侮辱しました。
ですが、エリオットはどれだけルーシャスに苛立たされようが、彼がこの土地の所有者であり、圧倒的な地位と財力を持つ男爵の息子と言うことは分かっておりました。
ですからエリオットは彼を懲らしめてやりたくてたまらない気持ちを抑えて、手を出さずにいつも彼の言葉や暴力を受け流していました。そうして彼らは、現在のような関係になっていったのです。
「なんでお前が、ここに居るんだよ?まあ丁度いいや。お前の顔、いつ見ても本当にルイスそっくりだよな」ルーシャスはエリオットの顔をじろじろと眺めて言いました。
「お前、俺の玩具になれよ。お前を殴り飛ばして憂さでも晴らすからよ!!」ルーシャスはそう言うなりエリオットの顔面に殴りかかろうとしました。
しかし、それより先にエリオットはルーシャスの振り上げた右の手首を素早く掴みました。「相変わらず血の気が多くて大変な奴だな」エリオットは冷淡な態度でルーシャスにでそう言うと、強い力で掴んでいた彼の手を放しました。
エリオットの方が物理的な強さはルーシャスよりも優れていたのです。非常に緊迫した空気が辺りを包みました。しかし、リアンとミアが唐突にこう言い出しました。
「すみません。僕達用事を思い出したので、ここで失礼します」リアンは虚ろな目をしてそう言うと、ミアの手を引いて急いで部屋を出ようとしました。
グレイシアはすぐに彼らの様子がおかしいと感じ、引き留めて理由を聞こうとしましたが、一瞬でそのことが頭から吹っ飛んでしまいました。
なぜなら、再び荒々しく部屋のドアが開いたからです。リアンとミアは目の前に立ちはだかる恐ろしい形相の紳士に気づくと、思わず絶句しました。
なんとそれは偉大なるヒューバートン男爵だったからです。




