14話「赤い絨毯」
グレイシアとエリオットが壇上から降りると、まだホールには大勢の貴族たちが残っているようでした。
彼女は先程の騒動があった後ですから、動揺と混乱に満ちた空気に包まれているだろうと思いましたが、全くそんなことはありませんでした。
むしろ気を取り直して、このクルーズを満喫することへ意識を働かせている者の方が多かったのです。
先程の舞踏会で魅力的な異性を見極め、晩餐会の前に気に入った異性に声を掛ける少年少女達の姿や爵位のある紳士や夫人同士で内緒話や談笑をしている姿が、グレイシアの目に飛び込んできました。
しかしグレイシアはただこのホールから出るべく、エリオットの手を引きながら人混みをかき分けるようにして出入口へと進んでいきました。
貴族達は、ジルフォード侯爵の手下の手を引きながら先を急ぐグレイシアの姿をちらちらと見ていました。
「あれがリリィ・プライスか」
彼女を一目見てそう呟く誰かの声が次々と聞こえましたが、彼女は聞こえないふりをしました。
なぜなら皆、先ほどステージの壇上に上がり、ジェスター伯爵の子供を開放するように叫んだ、ヒューバートン男爵家の娘のリリィに関心を抱いていたからです。
「なあ、何を考えている。ワインなんかかけられてないだろ?」
エリオットは先を急ぐグレイシアにそう尋ねました。
「おかげさまでね。行きたい場所があるの」
彼女は早口にそう言いました。
彼女の言葉を聞いてエリオットは、口元に微笑を浮かべました。
「そうだろうと思ったよ」
エリオットは短くそう言いました。
彼女が何かに気づいたのだと、感覚的にエリオットは分かったのです。
「私、ルイスは本当に自らを撃って亡くなったんだと思うの。恐らく誰かに操られてね」
グレイシアは単刀直入にそう言いました。
グレイシアは出入口まで着くとエリオットの手を離し、ホールを出て長い階段を下りました。
一気にざわめきや会場特有の高揚した雰囲気が感じられなくなり、静かになりました。
「きっと、リアン様とミア様も同じように誰かに操られてナイフショーに参加させられていたと思うの」
階段を下りながらそう話す彼女に、エリオットは納得した様子でこう返しました。
「自らの意思でやったとは思えないからな。でもどうやって」
2人は階段を下りて、エントランスまで戻りました。
グレイシアは真剣な表情でエリオットの方を見てこう言いました。
「笑わないで聞いてね。リアン様とミア様は首輪と足枷をつけていたでしょう。それを外したら急に意識が戻った。
2人ともヒューバートン男爵家の部屋を出た以降の記憶が無かったの。
だから、その拘束具に人を操るような呪いがかけられていて、ナイフショーに参加させられている間は無意識に操られていたから何も覚えていなかったんだわ」
彼女はそう言い終わると、変なことを口走ったのではないかと思い顔をしかめましたが、エリオットはちゃんと彼女の推理を聞いて疑わずにこう言いました。
「じゃあ、ルイスもその呪いがかけられた何かを持っていたってことだな」
グレイシアは頷きました。
「丁度いいことを教えてやるよ。さっき言いかけたことだけど、ルイスの遺体を運んだ時、出てきた紙の切れ端にはこんなことが書かれていた」
そう言うと彼は招待状を確認するために待機している受付の手下と巡回している手下達に変に怪しまれないように、グレイシアの手を引いて調度品の彫刻の隅に行くと、彼女に耳打ちしました。
「君が知りたがっている儀式について教えよう。
宝物庫の書斎の鍵の番号と儀式について記された書物の在りかは、渡した封筒を開けてみれば分かる」
グレイシアは思わず目を見開きました。
「やっぱり・・・あの儀式が関係しているんだわ」
グレイシアの脳裏には忘れもしない倉庫で目にした恐ろしい記憶が蘇りました。
自分と同じかそれ以下の何の罪もない子供達が騙され、殺されて得体のしれない儀式に利用されている。
そんな身の毛もよだつような儀式をジルフォード侯爵が行っているということに、リーフウッド男爵の息子のルイスは気づいていたのだと彼女は思いました。
「ああ、その封筒はルイスが持っているはずだ」
エリオットは複雑そうな表情を浮かべる彼女にそう断言しました。
なぜならその紙切れがコートから出てきたということは、肝心の重要な秘密が隠された封筒も、肌身離さず持ち歩いていてもおかしくないからです。
「リーフウッド男爵家の部屋に行かないと」
グレイシアがそう言うと、エリオットは真剣な表情で頷きました。
そして美しい花々が活けられた花瓶の傍にある甲冑を着た騎士が大剣を地面に突き刺し、仁王立ちしている彫刻の方に目をやりました。
「さっきまで着ていたルイス様のお召し物なら、この彫刻の裏に隠してある」
彼がそう言ったので、グレイシアは頼みました。
「エリオット、お願い。リーフウッド男爵家の部屋まで行って、ルイスの遺体を調べてもらえないかしら。
私は宝物庫に行くわ。もしかしたらもう既に書斎の扉が開いているかもしれない」
彼女の言葉を聞くなり、エリオットは例の彫刻の傍まで向かいました。
グレイシアはその時にはもう宝物庫に向かって歩き出していました。
* * *
無事にルイスに扮したエリオットは、準備した装備を確認しました。
実はエリオットが舞踏会の最中グレイシアと踊り終わった後、一体何をしていたかというと彼は、違和感の無いように声を掛けてきた数人と必要最低限の会話をしながら、会場内をパトロールしている手下の動きを見ていました。
その後彼はすぐに会場を抜け出してエントランスまで戻りました。
そして施錠されていない状態だった、ボイラー室の隣の倉庫部屋まで行き、隠していたこの船に乗り込む際、着ていたジルフォード卿の手下の道化師の衣装に再び着替えました。
そして、奪った拳銃と弾薬を携帯しやすいように加工し、それらをルイスの衣装のコートやズボンに隠していたのです。
それからこっそり彼はエントランスまで再び戻ると、甲冑を着た騎士が大剣を地面に突き刺し、仁王立ちしている例の彫刻の前へ行き、抱えていたルイスの衣装一式をまたその彫刻の裏に忍ばせてから、手下の一人に成りすまして、グレイシアが危険な目に遭わないか会場内をパトロールしていたのです。
そういうわけで、彼は彫刻に隠してある例の戦闘装備を強化したルイスの衣装を身に纏い、無事に再びルイスに扮しました。
彼は記憶を頼りに長い廊下を走り、先ほどまで居たリーフウッド男爵家の部屋の前まで来ました。
しかし彼は思わぬ光景に目を疑いました。
なんとリーフウッド男爵家のドアが蹴破られていたのです。
ドアには大きな穴が開いており、誰でも侵入出来るようになっていたのです。
エリオットが警戒しながら部屋の中に入ると、そこは盗賊にでも入られたかのように荒れ果てていました。
飾られていた調度品は無残な形となり、カーテンや絨毯はめくれ上がり棚は全て開いていました。
明らかに先に誰かが侵入し、何かを探していたとしか考えられません。
エリオットはそれが自分の目的である封筒なのか思案する暇もなく、真っ先にリビングを抜け肝心のルイスの遺体を隠した部屋に向かいました。
するとそこには、思いがけない人物の姿がありました。
エリオットも思わず「え?」と小さく驚きの声を上げました。
エリオットは、クローゼットの中を隅々まで確認している赤毛の髪に、刺繍の施された黒いコートを着た青年の姿が目に入ったのです。
間違いなく彼はこの華やかな舞踏会の主催者の息子であり、権威ある貴族の長男の”ダニエル・ウィルキンス”でした。
「おやまあ。
私の一家の部屋をみすぼらしい納屋のようにしたのはダニエル様でしたか。
どうして貴方がここに?」
彼は、クローゼットの中を血眼になって探しているダニエルにとぼけたような口調でそう尋ねました。
流石にこのクルーズの主催者の息子に手荒な真似は出来ません。
無理やりここから退かすより、立ち去るように話を通す方が賢明だと思ったからです。
仮にクローゼットからルイスの遺体が見つかったとしても、どのみち自分はヒューバートン男爵家の使用人ということになっていたので、正体がばれてもどうでも良かったのです。
エリオットはふとダニエルの背後からクローゼットの中に目をやると、思わず言葉を失いました。
確かにそこに自分はルイスの遺体を隠したはずでした。
しかし、まるで神隠しにでもあったかのようにその遺体が綺麗に無くなっていたのです。
そこにあったのは数枚のコートやブラウスなどの衣類と鞄だけでした。
ルイスの遺体は一体何処へ消えたのでしょうか。
そんなことを考える暇もなくダニエルは勢いよくエリオットの方を振り返ると、血相を変えてこう叫びました。
「何故だ!!」
客観的に見たら、ダニエルの方こそ「何故だ!!」と、ここに居ることを問いたくなるところですが、エリオットは我を忘れて動揺している様子の彼にこう尋ねました。
「ひょっとして先程私を殴ったことを謝りに来たのですか?おまけにドアを蹴破って」
するとエリオットの顔が一気に強張りました。
それというのもなんとダニエルがエリオットのコートの襟を鷲掴み、顔を近づけてこう怒鳴ったからです。
「一体何故生きているんだ!!貴様はこの私が殺したはず!」
ダニエルは完全に冷静さを欠いていました。
その態度は舞踏会で目にした彼の様子からは考えられない程でした。
ダニエルは完全に我を忘れており、全く周りに注意を払っていませんでした。
彼が怒鳴る数秒前から、既にこの部屋に舞踏会の会場から戻ってきたリーフウッド男爵と夫人が居たのです。
「どういうことなのおおお。私の息子を殺したのは、お前だったのおお?」
完全に酩酊を通り超して泥酔状態の夫人が、呂律の回らない口調でそう叫びました。
夫人に気が付いたダニエルは自然とエリオットの胸ぐらを掴むのをやめて、彼から離れました。
夫人はダニエルに掴みかかろうとしましたが、千鳥足でうまく歩けず床にばたんと倒れて気絶しました。
リーフウッド男爵はそんな夫人を冷ややかな目で見下ろしました。
「ああ、なるほど。ルイスはお前が殺したのか」
表情一つ変えずに淡々とした口調で言う男爵に対して、ダニエルは強張った表情を浮かべながら懐に隠し持っていた拳銃を取り出すと、彼に向かって構えました。
「どんな手を使ったかは知らんが、あのルイスが自殺するわけがないからな。
あの馬鹿に殺されるはずもない」
男爵は銃口を向けられているのに全く物怖じせず、平然とした態度でそう言いました。
「安心しろ。私はルイスが死のうがどうでもいい。
爵位はレスターに継がせる。銃を下げろ」
男爵はくだらないといった様子で、嗅ぎたばこをコートのポケットから取り出して吸い始めました。
これにはダニエルでさえ思わず困惑した表情を浮かべました。
それというのも、男爵の立場を客観的に見れば息子が実は殺されていて、その殺した犯人と今直接対面しているというのに、当の彼からは強い悲しみや憤怒の気持ちが一切見られないからです。
男爵は本当に冷淡な人物で、ルイスのことを軽視しているのだとダニエルは思いました。
彼は緊張した面持ちで鋭い目で男爵を見つめながら、男爵の行動によっては引き金に指をかけてもいいと思っておりました。
しかし、この男爵の様子を目にした彼はあまり意味がないと判断し銃を持つ手の力が和らいでいき、やがて銃口を下げました。
そしてその瞬間、男爵は勢いよくダニエルに殴り掛かりました。
完全に油断していたダニエルは、不意を突かれて男爵に思い切り殴られた後、夫人と同じように勢いよく床に倒れました。
男爵は薄ら笑いを浮かべながら慣れた手つきで、ダニエルが手放した拳銃を拾い上げて彼に向かって構えました。
「私の言葉に惑わされるようでは甘いな」
男爵はそう言って、目を細めました。
まさに形勢が逆転し銃を奪われてしまったダニエルは、予期せぬ脅威に思わずフリーズしている様でした。
ピリピリとした緊迫した状況の中、男爵が口を開きました。
「この際だから、下級貴族の私目に意見させてくれ」
男爵は敢えて遜った口調でそう言いました。
「お前が立っているのは、赤いペルシャ絨毯の上じゃない。
血溜まりの上だ。どういうことだかわかるか?」
彼は脅すようにそう言うと、鋭い目でダニエルを睨みました。
「隣国において貿易商として名高いジルバラ伯爵の娘と婚約していたはずの、この国の最高権力者であるヴァンチェスター侯爵の息子のケビンが突然死、
アンドレア女王お墨付きの我が国の英雄であり聖人と称えられたジェスター伯爵は優勢だったはずの戦地で突然致命的な重傷を負い、
ギャングとの繋がりを多く持ち、権力の拡大を企む我がリーフウッド男爵家の長男が突然自殺する」
男爵の話はやや冗長でしたが、彼の言葉を聞いたダニエルの表情は段々追い詰められていくように曇りました。
男爵は話し終わると急に笑いだしました。
ひとしきり笑った後、真顔で彼はこう言いました。
「おかしいだろう?あまりにも不自然だ。
本当はこれだけじゃないが、ジルフォード侯爵家にとって都合の悪い目障りな者だけが、綺麗に消えている」
男爵はそう言うと、鼻で笑ってこう付け加えました。
「まあ・・・お前が私の息子を殺したのは、我がリーフウッド男爵家の不審な動きを止めるというよりは、お前自身のくだらない私情によるものだろうが」
一切の躊躇なくダニエルの左脚を撃ちました。
彼は激痛のあまり叫び声を上げました。
「やっぱり、お前は右目が見えないんだろう。気づかれていないとでも思ったのか」
男爵はそう言って止めるどころかもう一発左脚を撃ちました。
ダニエルが痛みに耐えられず声を上げるのを見て、男爵は倒錯的な笑みを浮かべました。
「お前の家には絶対に何かある。私はそれを」
男爵がそう言いかけた瞬間、ダニエルは男爵の攻撃を避けるために彼はよろけ這いつくばりながらも、なんとか立ち上がろうとしました。
しかし、その必要はありませんでした。
なぜなら、男爵は背後からクローゼットに入っていた硬い鞄で思い切り殴られ、体勢を崩したからです。
なんと男爵は自分を殴った人物がエリオットだと言うことに気づく暇もなく、手に持っていた拳銃を奪われ、更に鋭い蹴りを入れられてあっという間にボコボコにされたのです。
男爵は気絶して夫人と同様にその場に突っ伏してしまいました。
その様子をダニエルは怖気づいたように、呆気に取られながら見ていました。
エリオットは男爵から取り上げた銃を手に持つと機能や部品のパーツを眺めたのち、「こんなものか」という顔をしてから、それをそのまま這いつくばるダニエルにそれを突き付けてこう言いました。
「この男爵みたいになりたくなかったら、宝物庫の書斎の鍵の番号と儀式について記された本の在りかを言え」
ルイスの遺体が無いことですし、ダニエルへの配慮などもうどうでも良くなったエリオットは目的である情報を手っ取り早く知るために脅しました。
ダニエルはまるで盗賊のような彼に目を見開いて驚きましたが俯き、血だまりのようになっている自らの足元に目を落としてから、静かに首を縦に振りました。
* * *
その一方、グレイシアは長い廊下をドレスの裾をたくし上げながら走り、宝物庫まで向かいました。
宝物庫の前にいたはずの見張りが何故か姿を消しており、グレイシアは違和感を覚えましたが部屋の中へ入りました。
すると彼女はいきなりある青年と目が合い、思わず「あっ!!」と声を出しそうになりました。
なんと彼は先程も舞踏会の会場のステージで会っていたはずの、ルーマス侯爵の息子であるノア・サリヴァンだったからです。
彼は、「マグノリア」と背表紙に書かれた、一冊の戯曲に目を落としていたようでした。
しかし、彼はグレイシアと目が合ったので、その本を元あった本棚に戻しました。
「お着替えは無事に終わりましたか?」
彼はそう言ってグレイシアに近づき微笑みました。
グレイシアはそんな彼に構っている暇は無かったので、何も言わずに一瞥すると真っ先に書斎の扉の前まで歩きました。
またも先程宝物庫で初めて会った時と同じ行動をとる彼女を見かねたノアは、思わず片眉を上げました。
グレイシアは扉を開けようとしましたが、やはりダイヤル式の鍵がまだ掛かったままでした。
彼女は案の定開かないその扉を見つめ、この場に居るノアを何とかしてここから出す方法はないかと思案しました。
何故なら、ルイスの遺体から封筒を取ったエリオットがここにやって来て彼と鉢合わせたら、色々と面倒だからです。
しかし、そんな彼女の背後から耳元で、ノアは思わぬことを囁きました。
「懲りない人ですね。でもこれさえあれば開くでしょう」
思わずグレイシアは背後を振り返り、ノアと目を合わせました。
なんとノアは黒い封筒を手に持っており、そこから一枚の手紙を取り出してグレイシアに見せました。
「この手紙には、どうやらこの書斎の扉の鍵を開くための暗号が記されているようです」
彼は手紙の内容に目を通しながらそう言いました。
「どうしてそれを貴方が持っているの」
グレイシアは全く訳が分からず、困惑した表情を浮かべてそう尋ねました。
まるで自分の思考が読まれていて、主導権を握られているような気分になったからです。
グレイシアの強張った面持ちとは裏腹に、ノアは何の気も無しにこう言いました。
「ああ、僕を怪しまないでくださいよ。
貴方が行ってしまった後、周りが騒がしかったのでこの宝物庫に再び行きました。
そしたら、既に書斎の扉の前に立っているメイドが居たんです。
貴方と同じように注意しようと思って声をかけたら、彼女は非常に慌てた様子で、手に持っていたこの黒い封筒を落として去っていったというわけです」
ノアは経緯を話すと、ため息をつきました。
「こんなものが床に落ちていたら流石にまずいでしょう。
ここのセキュリティーに渡そうかと思いましたが、何故か居ませんし、どうしたものかと思いまして」
彼は困った顔をしながらそう言うと、手紙の裏表を確認しました。
グレイシアは、ノアの言うことを本当のことだと信じるのか、それとも嘘だと疑うべきなのか分からなくなりました。
ただ、一つ確かなのは、目の前に探していた封筒と中の手紙を持つノアが居るということだけです。
「さあ、どうしますか、グレイシア。この手紙が欲しいですか?」
ノアは試すようにそう言いました。
そして思わず固唾を呑んだグレイシアの表情を目にして、満足そうな笑みを浮かべました。
それからグレイシアがゆっくりと頷いたのを見計らって、ノアはなんとこう告げました。
「なら、条件があります。僕と婚約してくれませんか」
あまりにも唐突で強引な彼のプロポーズにグレイシアは耳を疑い、思わずフリーズしてしまいました。
でも彼女は一時的に忘れていましたが、このクルーズは婚約相手に目星をつけるために参加している若い男女が大半なので、常軌を逸した行動ではないのは確かです。
「貴方は度胸があり、うわべだけでない強さや優しさがあると思います。
それでいて僕には氷のようにつれない。そんな貴方にどうしようもなく惹かれているんです」
ノアは先程とは違ってどこか気取ったような態度ではなく、真摯に自分の気持ちを彼女に伝えました。
グレイシアは彼に何と返すのが適切なのか言葉が出なくなりました。
舞踏会で目にしたノアは大人びた雰囲気を放ち、上流階級の中でも格式高い名家のご子息なのも相まって、非常に令嬢達から人気がありました。
そんな彼が貴族どころか身寄りすらいない、貧しい自分に求婚しているのです。
客観的に見て今の自分は喜ぶべき立場に居ることは明確でした。
ただ、グレイシアにとってそんなことはさして重要ではありませんでした。
彼女はこの不可解な一連の事件を経て、早く真実に辿り着きたいという欲求しか無かったのです。
「わかりました。貴方と婚約します。その手紙を私に下さい」
グレイシアはしっかりとノアの目を見つめて、そう言いました。
彼はグレイシアの返事に満足げな表情を浮かべると、ちゃんとその手紙を彼女に渡してあげました。
「では、次は晩餐会でお会いしましょう」
彼はそう言って微笑むと、心なしか嬉しそうに宝物庫を去っていきました。
グレイシアは気を取り直してすぐに手紙に目を通し、そこに記された通りの手順でダイヤル錠を開けて書斎の扉を開き、中に入りました。
書斎の中はけして広くなく、深緑色を基調とした簡素な部屋でした。
ジルフォード侯爵の書斎というからにはもっと豪勢なものを想像していましたが、ランプの置かれた机と椅子に沢山の書物が並べられた大きな本棚が1つあるだけでした。
グレイシアはふと、大きな本棚の空いた空間に置かれている写真たてに目をやり、手に持っていた手紙を封筒にしまうとそこにおいて、代わりに写真立てを手に取りました。
そこに飾られている写真には、大きなステンドグラスのある聖堂の様な場所で、権威を象徴するような豪華なドレスを身に纏い上からマントを着て、頭に宝石の輝くティアラを乗せた”美しい女性”の姿が映っていました。
彼女の表情はとても晴れやかで口元に笑みを浮かべていました。
グレイシアから何故か目が離せなくなり、しばらく眺めていると急に頭に激痛が走りました。
彼女はその写真たて持ったまま、その場にしゃがみ込みました。
「頭が・・割れるくらい痛い」
彼女はうずくまりながらそう苦しげにそう呟きました。
自分は一体どうしてしまったのかと、突然の激しい頭痛に恐ろしさを感じました。
するとそんな彼女の肩に誰かが手を添えて、心配そうに声を掛けました。
「大丈夫か」
グレイシアはすぐに聞き覚えのある声の主の正体に気づきました。
「エリオット」
グレイシアはなんとかそう呟くと、自然と頭の痛みが治まっていくのを感じました。
彼女は深く深呼吸すると、写真立てをエリオットに見せながらこう言いました。
「この写真を見ていたら急に頭が痛くなったの」
エリオットは写真を、グレイシアの手元からじっくりと眺めました。
それからまじまじと目の前に広がる大きな本棚を見つめました。
焦げ茶色の花の装飾が施されたその本棚からは不思議と温かみが感じられ、宝物庫の豪華絢爛な雰囲気はしませんでしたが、親しみやすくて年季の入ったものでした。
彼女はゆっくりと立ち上がると、ノアから先ほど受け取った封筒を本棚からとると、手紙を取り出し再び中に目を通して言いました。
「右の4段目の8冊目の背表紙に、黒い山羊が描かれた本を強く押し込めば、別の部屋に通じる隠し扉が出てくるみたい。
その部屋に儀式に関する書物が隠されているって」
彼女はそう言うと、倉庫で目にしたジルフォード侯爵の手下が持っていた本も同じように、”黒い山羊の絵”が描かれていたことを思い出しました。
そんな彼女にエリオットはすかさずこう聞きました。
「一体その手紙はどこで手に入れたんだよ?」
エリオットが困惑したような表情を浮かべてグレイシアに尋ねました。
彼女は正直に伝えるか迷ったのちに、こう言いました。
「ルーマス侯爵の息子のノア様よ。
さっき宝物庫に彼が居て、この手紙受け取ったの」
エリオットはノアの意図が理解できない様子でしたが、今細かいことを追求する必要もないと感じ、グレイシアの手から手紙を取るとこう言いました。
「これが例のルイスへの手紙か。なんであいつが持っていたのかは知らねえけど」
彼はその手紙をまじまじと見つめてからこう言いました。
「今思えばあんな死に方をした奴に真実なんて正直に伝えると思うか。これは罠かもしれない」
彼はそう言うと目を固く閉じて何かを考え始めました。
グレイシアは少し気を落としたように彼から目を逸らしました。
「一理あるわね」
彼女が眉をひそめて短くそう言うと、エリオットは静かにこう言いました。
「俺はダニエルに直接聞いた。
何故かリーフウッド男爵家の部屋にあいつが居たんだよ」
彼はそう言って、再び目を閉じ記憶を思い出しながらこう言いました。
「偉大なるアンドレア女王を崇拝するものは表に出ず、陰に潜む。
彼女の名を一切口に出さない愚か者にこの秘密を教えよう。あいつは確かそう言っていた」
再び目を開けてグレイシアの方を見ました。
すると彼女は何かを思案するように、小さな顎に手を当てて黙っていました。
それから彼女は何かを閃き、こう言いました。
「確かに貴族達は女王の名前を口に出すのを躊躇していたわ」
グレイシアは本棚に近づくと、一冊の本を取り出しました。
そして彼女は、その本の背表紙を見てから元の位置に戻し、隣の本を取り出して背表紙を確認すると、エリオットの方を振り向いてこう言いました。
「アンドレア女王の名前が書かれていない本を探すわよ。
念のため背表紙だけじゃなくて中身にも軽く目を通して。私は右側の棚を探すわ」
エリオットはすぐに頷くと、二人はそれぞれ本を取り出しては、本の表紙と中身を確認し始めました。
立ち入り禁止の書斎の扉を開け中に入っていることが、宝物庫に来た他の誰かに気づかれたら大変ですから、二人はとにかく急いで黙々と本を取り出しては中身を確認し、戻さずにそのまま床に本を積み上げていきました。
しかし、あれだけあった本全てを取り出して確認しましたが、どの本の表紙にもアンドレア女王の名前が記されており、ページを捲ってみても内容は学問や宗教関する物が大半でしたが、女王の名前がどの本にも記されていました。
ただ、ルイスが受け取った手紙に書かれていた”黒い山羊の表紙”の本は本棚にはやはりありませんでした。
グレイシアは自分の見当違いだったのではないかと思い、急に空しくなりました。
エリオットもこれからどうすれば良いか分からず積まれた本の山を静かに見つめていました。
疲れた二人は床に座り込み、何も入っていない空の本棚をただ茫然と見つめました。
グレイシアが途方に暮れて天井を見上げた時、ゴゴゴゴゴゴゴという大きな音が、テーブルの辺りから聞こえてきました。
二人が驚いてテーブルの元に駆け寄ると、どういうわけかテーブルの下の床が落ちました。
二人がその落ちた床底を覗き込むと何やら底の方に本のようなものがあることが分かりました。
エリオットは何とか手を伸ばして、本を手に取りました。
しかし、その拍子にエリオットのはめていたブレスレットの「カチャリ」というとても小さな音が、床底で鳴りました。
彼はそれに気づかず、手に取ったこの一冊の表紙に黒い山羊が描かれた、分厚い本を眺めていました。
グレイシアはふとテーブルの下あたりの壁に何か赤い塗料で文字が書かれていることに気づきました。
誰も気づかないようなその場所をよく見てみるとそこには
「I shouldn’t be alive(私は生きてちゃいけない)」と書かれていました。
彼女は、まじまじと自分を責めるような意味深な文章を見て、思わず読み上げてしまいました。
一体だれがこんなことを書いたのかと、グレイシアは疑問に思いました。
その一方で傍に居たエリオットは、もう既に立ち上がり本を開いて、ページをペラペラとめくっていました。
彼がかなり早いペースでページを捲るものですから、彼女は疑問に思い彼の手元を覗き込みました。
それもそのはず、最初から最後までどのページも白紙だったのです。
グレイシアはこの光景に見覚えがありました。
「倉庫でジルフォード侯爵の手下が儀式を行っていたわよね。
呪文を唱えていた手下の一人がこれと同じような見た目の本を持っていて、床に落としていたの。
その本を拾って、ページをめくったらこの本と同じように全てのページが白紙だった」
グレイシアはエリオットにそう説明すると、しばらく考え込んでいました。
すると彼女は何かを思い出した様子で突然こんなことを言いました。
「ねえ、ナイフを持っていないかしら」
エリオットは一瞬戸惑うような表情を見せましたが、すぐに短くこう答えました。
「待っていろ。準備する」
彼は足早に、書斎を出ていきました。
彼は、拳銃は持っていましたが、ナイフは持っていなかったのです。
そういうわけで、彼は宝物庫に展示されているガラスケースを叩き割り、そこから銀のナイフを取り出しました。
そして再び書斎まで戻り、グレイシアにそのナイフを渡しました。
「ありがとう、どうやったかは聞かないでおくわ」
彼女はそう礼を言って、彼から見るからに美しく光る鋭利なナイフを受け取りました。
グレイシアは机の上に本を両開きにして置きました。
「確か…倉庫で手下が呪文を唱えていたの。ミア様も同じような呪文を耳にしていたわ」
彼女は必死で記憶を思い出していました。
「血は赤から黒に変わるまで絶えず注ぐ、悪しき力を主に捧げよ」
彼女はようやく思い出し、本に向かって呪文を唱えると、エリオットから受け取った銀のナイフで人差し指の皮を切り、その本の最初のページに数滴の血を垂らしました。
すると、一気に本のページ全てが毒々しい血の色に染まりました。
グレイシアとエリオットは、思わずその光景に目を疑いました。
彼女は血で真っ赤に染まったその本を手に取り、ページをめくりました。
すると、たちまち全て白紙だったはずのその本に文字が浮かび上がってきました。
グレイシアは恐る恐る本を手に取ると、書かれている文章を読み上げました。
「女王が持つ絶大な力に対抗すべく、私の編み出した黒魔術をここに秘める」
彼女はゆっくりと次のページを捲り、再び読み上げました。
「血で綴った魔法陣の上に子供たちの死体で祭壇を作り、呪文を詠唱する。
呪文を詠唱する者は術者と呼ぶ」
彼女はその本に描かれていた奇妙な挿絵に思わずぞっとしました。
その絵は、倉庫で一度目にした魔法陣と子供達の死体の山の絵でした。
「術者と悪魔に憑ける二人の生贄を用意し術者は呪文を詠唱し、その間生贄は祭壇の周りを躍る。
術者が呪文を詠唱し終えたら、生贄に子供の死体を満足するまで食べさせ、生贄を殺す。
そして術者は生贄の心臓を抉り出しその生き血を、用意した物体に注ぐ。その物体を呪物とする」
彼女は再び長い文章を読み上げ、気味の悪い挿絵に目をやりました。
「術者はその呪物を手にした者を望む頃合いに意のままに操ることが出来る。
黒魔術を解くには術者を殺すか、呪物を手放すかどちらかだ」
彼女が最後にそう読み上げると、本に書かれている文字が呪いのようにグレイシアの目と鼻の先まで浮かび上がりました。
その瞬間、エリオットはグレイシアから素早く本を奪い、その本を机の上に置きました。
そしてその場にしゃがみ込み、あまりのおぞましさに吐きそうになりました。
エリオットは苦しそうに荒い呼吸を繰り返しているグレイシアの背中をさすりました。
「大丈夫だ。お前の傍にいるから」
彼は彼女の耳元でそう囁きました。
グレイシアは恐怖で白い頬がより青白くなり全身をガタガタと震わせていました。
それは自分の想像をはるかに超えた、得体のしれないものへの生理的な恐怖でした。
彼女はしばらくしゃがんでいましたが、エリオットの声を聞いて心が自然と落ち着いたようで、ゆっくりと深呼吸をしました。
「ありがとう、エリオット」
彼女は心配そうな表情を浮かべる彼にそう言いました。
「ルイスはやっぱり呪い殺されたんだわ。この黒魔術によって」
彼女は全てを悟ったように小さくそう呟きました。
彼女がそう呟くと同時にエリオットは、気配を察知したのか短くこう言いました。
「誰か来る、テーブルの下に隠れろ」
グレイシアは急いで言われた通りにしました。
エリオットは彼女を庇うようにテーブルの前に立つと、拳銃を構えました。
それからゆっくりと書斎のドアが開く音がしました。
エリオットがドアの方へ目をやるとそこには、なんとそこには左脚を痛々しく負傷し、傷口から血潮を流しながらもゆっくりと杖をついてこちらへ向かってくる、ダニエル・ウィルキンスの姿がありました。
ぼたぼたと歩くたびに滴り落ちる血をもろともせず、エリオットの元へやって来る様からは病的な執念が感じられました。
「貴様はルイスの亡霊か、それとも私の幻覚なのか」
彼は杖に力を込めて立ち、左脚の激痛に顔を歪ませながら苦しそうにそう言いました。
グレイシアはテーブルの下から、そんなダニエルの様子を見ていました。
彼は先程の舞踏会で目にした、高圧的で堂々とした風格が全く感じられなかったものですから、足を引きずり弱弱しい姿を見せる今の彼と同一人物なのか怪しくなるほどでした。




