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第五話 恐怖の子守唄(ララバイ)






♪ らーらー ねんね……

  雨の音も 怖くない……

 先生と一緒なら 夢の中もあたたかい…… ♪




♪ らーらー おやすみ……

 もう泣かなくていいんだよ……

 君の笑顔が ずっと続きますように…… ♪










南ヶ島第二高校二年二組。

朝の教室は、いつも通りのざわめきに包まれていた。

「今日転校生が来るんだって!」

「女の子かな?可愛かったらいいなー!」

前列で盛り上がる男子たちの声が響き、女子たちもひそひそと噂している。


杏奈は窓際の自分の席に座りながら、その騒がしさをよそに考えごとをしていた。

昨日、はっちゃんに出会ったこと。

最初は怖い怪異だと思っていたのに、彼女は子供を守るために怪異となった存在だった。

(はっちゃん……怪異なのに、あんなに優しいなんて……。ほんとに、怖いだけじゃなくて、優しい怪異もいるんだ)

その出来事を思い返し、胸の奥がじんわりと温かくなる。


「おーい、お前ら、いい加減座れー」

気怠そうな声と共に、教室の扉が開いた。

入ってきたのは担任の 須郷夏美(すごう・なつみ)

茶色がかった髪を後ろでざっくりまとめ、スーツもどこか着崩したような姿。だが、その目は生徒たちをよく見ていて、彼女が生徒思いの教師だと知っている者は多い。


「先生ー、転校生って女の子ですか?」

男子のひとりが笑い混じりに声をかける。


「黙って早く席つけ。お前らがどうこう言っても変わんねえだろ」

夏美は面倒くさそうにあしらい、黒板の前に立った。


生徒たちがわらわらと席につき、やがて教室は静けさを取り戻す。


「よし。じゃあ入っていいぞー」

夏美が扉の方へ声をかけた。


がらり、と扉が開く。

そこから姿を現したのは――黒い長髪を高い位置でひとつに結い、凛とした表情を浮かべる美少女。

背筋は真っすぐで、ひと目でわかるほどに整った美貌。


ざわっ――。

教室中が一瞬にして静まり返り、そして小さなどよめきが広がった。


転校生は前を向き、淡々と口を開いた。

南雲零なぐも・れいです。よろしくお願いします」


その声は澄んでいて、けれどどこか冷ややか。


「じゃあ、南雲は……あっちの席な」

夏美が窓側の後方を指さす。

そこは杏奈の一個前の席だった。


零はゆっくりと歩き出した。背が高く、歩く姿にも隙がない。

周りの生徒たちがちらちらと視線を送るが、彼女は一切気に留めないように見える。


(綺麗な人……)

杏奈は思わず見つめていた。


――その瞬間、零の視線がこちらに向く。


杏奈は息をのんだ。

零は迷いなく杏奈の席へ近づき、ためらいもなく机の端に腰を下ろす。


「よろしくね、神村さん」

先程までの機械のような無機質な表情を崩し、どこか含みをもった笑みを浮かべ、すっと手を差し伸べた。


杏奈は戸惑いながらも、その手をそっと握り返す。

その温もりに、胸が高鳴った。


「おい見たか!? 南雲さん、神村に話しかけたぞ!」

「え、なにそれ!? 初日からもう……!」

クラスのあちこちでざわめきが広がる。

普段あまり注目されない杏奈に、好奇と驚きの視線が一斉に注がれた。


杏奈は顔を赤くしながら慌てて言った。

「な、南雲さん! 机に座っちゃだめだよ!」


零は一瞬だけ杏奈を見つめ、それからすっと机から降りると、何事もなかったように指定された自分の席へ歩いていった。


(変な子……でも、なんで私なんかに……)

胸の奥が妙にざわつく。

そのざわつきに気づかれないように、杏奈は視線を逸らした。


けれど、気になって零の方を見てしまう。


杏奈の一個前の席

零は肘をつきながら窓の外ではなく、前方をじっと見据えていた。

その瞳は冷たく、誰も寄せつけないような空気を漂わせている。


杏奈は小さく息を呑む。

(……てか、……なんで、私の名前わかったんだろう……)


不思議に思うと同時に、胸の奥にうっすらとした警戒心が芽生えていた。




_____


放課後



薄暗くなり始めた校舎裏。

杏奈は駆け足でやってきて、そこに立つカコとコンの姿を見つけた。


「急に呼び出しちゃって、ごめんね」

杏奈が肩をすくめると、カコはひらひらと手を振って笑った。

「いいよいいよ。今日暇だったし」

その側でコンは無言で野良猫を弄んでいる。

相変わらず仮面をつけており、中の表情は見えない。

「で、どうしたの?」


杏奈は少し迷ったあと、小さな声で切り出した。

「今日ね、クラスに転校生が来たんだ。名前は――南雲零さんっていうの」


その瞬間、背後から低い声が響いた。

「……誰の話?」


杏奈とカコ、そしてコンが振り返る。

そこには、笑みひとつ浮かべない南雲零が立っていた。


風に揺れる黒髪。冷たい瞳がまっすぐ杏奈を射抜く。

その気配は、教室で見たときよりもずっと鋭く、近寄りがたい。


杏奈は思わず息を呑み、言葉を失った。


カコは慌てて笑いながら、

「いやいや、ただの世間話だよ。そんな深い意味は――」

と誤魔化そうとした。


だが、零は冷たい瞳を逸らさずに小さく呟く。

「……演技はしなくていいから」


杏奈は息を呑む。

零はゆっくりと前へ歩み出て、自分の胸に手を当てた。


「私も、あなた達と同じ」


杏奈が震える声で問い返す。

「……どういうこと?」


零はほんの少しだけ口元を歪め、だがすぐに真剣な表情に戻る。

「私も――怪異と戦ってるの」


放課後の校舎裏。

静かな空気に、零の言葉だけがはっきりと響いた。


沈黙の中、杏奈は目を輝かせて、思わず声を弾ませた。

「仲間ってこと?……すごい!同じクラスに仲間がいるなんて!」


その無邪気な笑顔に、カコも「いいじゃんいいじゃん!」と頷きかける。

だが、零は一歩も感情を揺らさないまま、冷たい瞳を杏奈へ向けた。


「仲間?……そんなわけないでしょ」


杏奈の声が途切れ、空気が重くなる。

「え……?」と戸惑いを隠せずに見つめ返す杏奈。


零は微かに息を吐き、吐き捨てるように言葉を続けた。

「あなたは怪異と“友達ごっこ”してるだけでしょ? 一緒にしないでくれる?」


その一言は、鋭い刃のように杏奈の胸へ突き刺さった。


杏奈は唇を噛みしめながらも、勇気を振り絞って声を上げた。

「でも……はっちゃんみたいに、優しい怪異だっているよ! 怖いだけじゃなくて、人を守ろうとしてくれる怪異だって……!」


必死の訴えに、零は眉ひとつ動かさず冷たい声で返した。

「……はっちゃん?」

小馬鹿にするように口角をわずかに上げ、すぐにその笑みを消す。


「ふざけてるの?」


杏奈の胸に冷たい針が突き立つ。


「怪異は“悪”。それ以上でも以下でもない。

人と仲良く? 友達ごっこ? そんなもの、もってのほか」


零はゆっくりと視線を杏奈からカコ、コンへと向けた。

その瞳は鋭く、氷のように冷たい。

「……あなたたち、何を考えてるの? 怪異に情けをかけるなんて」


放課後の校舎裏に、張り詰めた空気が漂った。

杏奈の胸は痛み、カコは苦笑も浮かべられず、コンは無言で零を睨み返していた。


杏奈はぎゅっと拳を握りしめ、今にも涙がこぼれそうな声で呟いた。

「そんなことない……奈々ちゃんだって……助けを求めてた……! 怪異だからって全部“悪”なんて……!」


零の瞳は氷のように揺るがなかった。

「――あんた、本気で言ってる?」


その冷たい声は一切の情を含まず、突き放すように響いた。


零は一歩、また一歩と杏奈へ迫っていく。

制服の裾が風に揺れ、校舎裏の空気が張りつめる。


杏奈は思わず後ずさりし、背中が壁にぶつかる。

零の鋭い視線に射抜かれ、息が詰まりそうだった。


カコは気まずそうに眉を寄せ、

「ちょっと待ってよ、零ちゃん……!」と慌てて割って入ろうとする。

だが、零は一瞬も杏奈から目を逸らさなかった。


コンもわずかに前へ出る。その氷のような瞳と、零の冷たい瞳がぶつかり合う。


コンと零が互いを睨みつけ、今にも火花を散らしそうなほど張りつめた空気。

杏奈は胸を押さえ、呼吸もままならない。


その時――


「おーい、そこで何やってんだー?」

穏やかで通る声が遠くから響いた。


姿を現したのは 三浦大輝みうら・だいき

音楽担当の若い先生で、優しい人柄と爽やかな雰囲気で生徒からも人気が高い。しかもイケメン。

大輝は笑顔を浮かべながら近づいてくる。


零は一瞬だけ鋭い瞳を伏せ、すぐに涼しい顔を取り戻した。

「……なんでもないです」

淡々とそう告げ、大輝の横をすり抜けて去っていく。


その背中は、さっきまでの冷たい緊張感を残したまま。


大輝は零を見送り、ふと杏奈に視線を移す。

「あれ? 神村……。今、あと二人くらい誰かいなかったか?」


杏奈はぎくりとし、背中に冷や汗が伝う。

振り返れば――茂みの中に、カコとコンが必死に身を潜めていた。


杏奈は無理に笑顔を作り、

「き、気のせいじゃないですか?」

と苦笑いでごまかす。


大輝は少し首を傾げたが、すぐに「そっか」と笑って、ゆったりと歩き去っていく。

その背中を見つめていた杏奈は、ふと胸に小さな違和感を覚えた。


(……なに、この感じ……?)


無意識のうちにカメラを構え、カシャッとシャッターを切る。

「っ……!」

覗いたファインダーの中に映ったものに、杏奈の瞳が大きく見開かれた。


角を曲がり、大輝の姿は視界から消える。


「いやー危なかったねー」

茂みからガサガサと音を立てて、カコとコンが出てくる。


カコは呑気に笑いながら杏奈に近づき、彼女が強張ったまま持っているカメラを覗き込んだ。

「……ん? なになに?」


次の瞬間――

「っ!? これ……!」

カコの表情から笑みが消え、目を見開く。


そこに映っていたのは、大輝の後ろ姿。

だが――肩口に 黒い影のような何か が、まるでしがみつくように張りついていた。


人の形をしているようにも、ただの黒い塊のようにも見える。

写真に焼き付いた異様な存在感に、杏奈もカコも言葉を失う。


コンは静かにカメラを覗き込み、低い声で呟いた。

「……憑かれてる」





窓の外はすでに茜色に染まり、校舎の影は長く伸びていた。

広い職員室に残っているのは、須郷夏美と三浦大輝の二人だけ。


「お先でーす」

夏美は気だるげに声を上げ、カバンを抱えて立ち上がる。


「おー、おつかれー」

大輝はパソコンから顔を上げ、にこりと笑った。


「いてて……」

大輝が肩を抑え、腕をぐるぐると回す。


夏美はちらりと見やり、淡々と呟いた。

「……四十肩ですか? 三浦先生?」


「いやいや、俺まだ三十代だから」

大輝は苦笑いしつつ返す。


「だけどアラフォーでしょ?」

「なっちゃんだって三十代だろーが」


拗ねたように言い返す大輝に、夏美はすかさず冷静に答える。

「私は33なんで。……ていうか学校でその呼び方やめてよ」


「今は誰もいないからいいだろ?」

大輝はニッと笑い、画面から目を離さずに言う。


「次はいつデートしてくれるの?」

夏美が髪をくるくると指に巻き付けながら問いかける。

「最近は忙しいからな……夏休みとか?」


「私たちに夏休みがあるのかね」

夏美は小さく肩をすくめ、カバンを持ち直す。

「無理しないでね」


「ほーい」

大輝は軽く手を振り、にこやかに答えた。


夏美が扉を閉めて去っていくと、静寂が戻る。


「もうひと頑張りするか」

独り言をつぶやきながら、大輝は再びパソコンに向かう。


――しかし、その背に、杏奈のカメラが捉えた黒い影がまだ張り付いていることを、本人は気づいていなかった。



_____




翌日



チャイムが鳴り響き、音楽室にざわざわと生徒達が集まってくる。

大輝は教卓の前に立ち、チョークを手に黒板へと向かった。


「よーし、今日はちょっと和声についてだな……」

軽快な声を出しつつ黒板に板書しようとしたその時――


「……っ」

大輝が顔を歪め、肩を押さえた。


「先生、大丈夫ー?」

「肩、痛そうだよ?」


生徒たちが心配そうに声をかける。


大輝は苦笑し、冗談めかして返した。

「最近、肩が重くてなぁ。四十肩かもしれん」


一人の生徒が「先生まだ35なのにー!」と言い、大輝は「なぜそれを!?」とあからさまに驚く。

そのやりとりを見ていた生徒達が笑い出し、教室の空気は和やかに流れる。


だが――杏奈の心臓はどくん、と跳ねた。

(肩が……重い……。昨日、私が撮った写真……あの黒い影……)


彼女の頭の中に、あの不気味に大輝の肩に乗っていた影が蘇る。

(やっぱり……関係あるの……?)


不安に押されるようにして、杏奈は教室の隅――ある人物を振り返った。


そこには、静かに座っている 南雲零 の姿。

頬杖をついたまま、冷たい瞳でじっと大輝を見つめていた。


ただの生徒が教師を見つめる目ではない。

――何かを探るような、まるで「異物を見抜こうとしている」ような視線。


杏奈の背中に冷たいものが走った。

零の視線がふっと動き、今度は杏奈の方へと突き刺さる。


「っ……!」

杏奈は慌てて視線を落とし、胸の前でぎゅっと手を握りしめた。

(怖い……。でも、やっぱり南雲さんも……気づいてるんだ)




昼休み



教室ではグループごとに弁当を広げて笑い声が飛び交っていた。


その中で、前髪を垂らした少年ーー影山亮はおずおずと杏奈の席へ向かった。

前に一緒に帰って以来、あまりちゃんと喋ってないな。

そんなことを考えていると、杏奈の席へ到着する。


「……あれ? 神村さんいない……」

机には弁当も姿もなく、まるで最初からいなかったかのようだ。

亮は困った顔で立ち尽くし、どこへ行ったのか考え込む。


「もしかして杏奈探してる?」

背後から軽い声が飛んできた。振り返ると、ギャル風の女子たちがこちらを見ていた。


その中心でにこやかに笑っていたのは、ギャルグループのリーダー 美浜美玲(みはま・みれい)

「あの子、なんか南雲さん探してたっぽいよ」


「えっ、あ、ありがとう……」

突然話しかけられた亮は慌てふためきながら頭を下げる。


だが、美玲と他のギャルたちが一斉にニヤリと笑った。

「ねえねえ影山くん、最近杏奈といい感じなんじゃなーい?」


「え!? そ、そそそ、そんなこと、ないよ……!」

顔を真っ赤にして手を振る亮。その必死さに女子たちは「ほんと〜?」とからかいの笑みを深める。


「じゃ、行くね……」と逃げようとした瞬間――

美玲が彼の腕をぐいっと掴んだ。


「ひゃあっ!!??」

間抜けな声を上げる亮。


美玲はニヤニヤしながら言った。

「影山くんも一緒に食べよっか」


「ええっ!? いや、僕は、神村さんを……」

「杏奈忙しそうだったからいいじゃん。……それに」

美玲は小声で「影山くんから色々聞き出したいし」と呟いた。


「……え? 今なんか言いました?」

「なんでもなーい♪」

美玲はにっこり笑い、亮をギャルズの輪の中心に座らせる。


「さあ、聞こうか、影山くん」

美玲が頬杖をつき、じっと亮を見つめる。


周りのギャルたちも好奇心いっぱいの目で彼を囲み、逃げ場はどこにもない。

亮は目も合わせられず、赤い顔のままタジタジになっていた。





屋上


ギィ……と重い扉を押し開けると、屋上に強い風が吹き込み、杏奈の髪を揺らした。

その先に立っていたのは、風に黒髪を靡かせる 南雲零 の姿だった。


杏奈はカメラを胸に抱きしめたまま、おそるおそる声をかける。

「……南雲さん」


零は振り向かず、ただ横目で杏奈を見るだけ。


「ねえ、南雲さん。今日、見えたでしょ? 三浦先生の肩に……何かいたの」

杏奈は勇気を振り絞って言葉を重ねる。


零は短く答えた。

「……見えたわ」


その一言に杏奈の胸が高鳴る。

「じゃあ――」


しかし、零は冷たい声で遮った。

「だからって、あなた達には関係ないでしょ?」


「え……?」

杏奈は声をこぼし、足が止まる。


零はその瞳を杏奈に向け、冷徹に言い放った。

「あなた達は怪異と“お友達ごっこ”をしたいだけ。だったら下がってなさい」

「怪異は、いつだって命を狙ってるのよ」


屋上に吹き荒ぶ風の中、零の言葉は鋭い刃のように杏奈の胸を貫いた。

杏奈は抱きしめたカメラを強く握りしめ、言い返したい気持ちと恐怖の狭間で立ち尽くしていた。


突然、零はふっと手をかざした。

そして、その掌に小さな光を灯した。

淡い輝きが風に揺れ、まるで小さな星のように瞬く。


杏奈は思わず声を上げる。

「それは……!」


零は感情を込めず、淡々と答えた。

「これは私の能力。――光を操るの」


「すごい……」

杏奈はごくりと息を呑む。


「あんたは?」

零の瞳が杏奈を射抜く。


「え?」

不意に問い返され、杏奈は一瞬言葉を詰まらせる。


「あんたの能力よ。私も見せたんだからいいでしょ?」

「……あ、えっと。私はね」

カメラをそっと構える。


「このカメラで撮ったものの、過去の出来事とか、その物事の手掛かりを探せるの」


零はわずかに眉を動かし、短く「ふーん」と返す。


「あと……最近使えるようになったんだけど、怪異の動きを一瞬ストップ?させることもできるんだよ」

杏奈は少し誇らしげに、嬉しそうに説明した。


「いい能力を持ってるわね」

零の言葉に、杏奈の胸が一瞬ふわっと明るくなる。

(今、南雲さんに褒められた?よかった、南雲さん、ほんとは優しい人なんだ……)


「……なのに、本当にもったいない」

零の声は鋭く冷たい刃に変わった。


「無駄な正義感のせいで、あなたはその能力を存分に使えていない。

怪異の動きを止めてそのうちに叩けばいいのに……あなたはそれを“怪異を救うため”に使ってるんでしょ?」


杏奈は言葉を失い、カメラを抱きしめるように胸に当てた。


零は杏奈の横を通り過ぎる。

その瞬間、すれ違いざまに耳元で囁いた。


「――損してるよ、あんた」


低く、突き放すようなその声は、杏奈の心に重くのしかかった。


零の足音が遠ざかり、屋上には杏奈ひとりが取り残された。

吹きつける風が冷たく、制服の裾をばたばたと揺らす。


「…………」


杏奈は何も言えなかった。

胸の奥に残ったのは、零の冷たい声と言葉――「損してるよ」という一言だけ。


その重さに押しつぶされそうになりながら、杏奈は両腕でカメラをぎゅっと抱き寄せる。

まるで心の拠りどころを必死に守るように。


視界がにじみ、口を開けば涙がこぼれそうだった。

でも、声は出なかった。


ただ、風の中でひとり――

杏奈は小さく震えながら、カメラにすがり続けた。



_____



蛍光灯の白い光が静まり返った校舎に滲み、窓の外はすでに真っ暗。

人気のない職員室に、カタカタとキーボードを叩く音だけが響いていた。


机に座るのは 三浦大輝。

積まれた書類を片付けつつ、パソコンに向かって授業用のプリントを作成していた。


「ベートーヴェンか……この人、曲作りすぎだろ……」

独り言をもらし、眉をひそめながら教科書を確認する。


スクリーンには「交響曲第○番」とずらりと並ぶ文字。

音楽史を整理しながらタイプする手は軽快で、時折「あー、これテストに出したら絶対ブーイングだな」などと笑っていた。





カチカチと時計の針が音を立てる。時刻はもう23時を迎えていた。

大輝は、静まり返った職員室でキーボードを叩き続けていた。

プリント作成に集中し、額に汗を滲ませながら「ここは…三連符の説明も入れるか」と独り言を漏らす。


だが――


「……ふぁ……」

突然、強烈な眠気が押し寄せてきた。


「……おかしいな……」

大輝は両手で頬を叩き、なんとか意識を保とうとする。

「……俺、まだコーヒー飲んだばっか……」


しかし、その耳に届いてきたのは――

どこからともなく響く、低く甘い 子守唄の旋律。


「らーらー……ねんね……」


揺らめくような、子供を寝かしつける歌声。

けれどその響きは、不気味に伸びて校舎全体を包み込むようだった。


「……誰か……歌っ……て……」

大輝の瞼がどんどん重くなる。


そして――キーボードに手を置いたまま、彼の頭は静かに机に落ち、完全に眠りに沈んでいった。


すると、彼の背中にまとわりついていた 黒い影 が、ぐにゃりと蠢き始めた。


影はじわじわと膨れ上がり、背中から剥がれ落ちるように形を変えていく。

四肢が伸び、ゆがんだ人型を作り出す。

顔らしき部分には目も鼻もなく、ただ裂けたような口だけがニタリと歪んでいた。


「せんせェェェェェェェェ――」


低く響く声が、職員室に木霊した。

まるで呼びかけるように、だがその声には狂気と不気味さが混ざっている。


怪異は机に突っ伏した大輝の背に覆いかぶさり、

ゆっくりと、首筋へ細く長い手を伸ばしていく。


「……ふふふ……」

裂けた口が不気味に笑い、怪異の冷たい指先が大輝の首に触れようとした、その瞬間――


「――ッ!!」


眩い 光の弾 が一直線に飛び込み、怪異の体を直撃した。

「ギィィィィィ!!」

怪異は苦痛に身をよじらせ、耳障りなうめき声を上げる。

闇のように黒い身体が一瞬ぐらりと揺れ、爪を伸ばしていた手を引っ込めた。


怪異が苦しげに振り返ると、職員室の入口に立つ人影があった。


風に揺れる黒髪を高く結い、冷徹な瞳に光を宿した少女――南雲零。


彼女は片手を前に突き出し、淡く光る球体をいくつも浮かせていた。

まるで小さな星々が零の周囲に瞬いているかのよう。


「――教師に手を出すなんて、いい度胸ね」

その声は低く、氷のように冷たかった。


怪異はニタリと笑い、歪んだ口からかすれた声を漏らす。

「……せんせェェ……わたしの……せんせェェェ……」


大輝は机に突っ伏したまま動かず、深い眠りに沈んでいる。

怪異は叫びながら零に突っ込む。

零は周囲に浮かんでいる光の球を操り、次々と怪異へ打ち込んでいく。

光の球を次々と放ち、零は怪異を圧倒していた。

「怪異は……消えるべき存在!」

鋭い声とともに、光の弾が幾重にもぶつかり、弾け、黒い肉体が大きく揺らぐ。


怪異は耳をつんざくような悲鳴をあげ、黒煙のように身体を縮めていく。

だがその目は、なおも狂気の色を宿していた。


「これで終わらせる」

零がもう一撃を繰り出そうと踏み込んだ瞬間――

ぐにゃりと伸びた黒い手が零の足首を掴んだ。


「ちょっ……! は、はな……」

零が声を荒げた刹那、怪異は異様な力で彼女を職員室の窓ガラスへと投げつける。


ガシャァァァン!!

零は職員室の窓ガラスを突き破り、闇夜の中を弧を描いて吹き飛んでいく。


彼女の身体は反対側の壁に叩きつけられた。

校舎の壁には穴が空き、零は廊下で「ぐっ……!!」と苦痛の声を漏らす。


ガラガラと崩れ落ちるガラス片が夜の校庭に散らばり、不穏な静けさを取り戻した職員室では、怪異がニタリと笑みを浮かべていた。


「はあ……はあ……」

零は床に倒れながら息を荒げる。

(……クソッ……頭打った………)

零は激痛が走る頭を抑える。

頭からは血が滴り、手は真っ赤に染まる。


必死に立ち上がろうとしたその瞬間――

「セェンセェェェェェ……」

不気味な呻き声と共に、職員室の方から怪異が大ジャンプして突進してきた。


「ッ――!」

零は反応する間もなく、腹に拳を叩き込まれる。


ドガァァァン!!

腹を抉るような衝撃が走り、零の身体は後方の教室の窓にぶつかる。

窓ガラスが砕け、木でできた教室の壁も大きく窪む。


零は座り込みながらも必死に立ちあがろうとした。だが、体は思うように動かず、息が段々と早くなる。

「はぁっ……はぁっ……!」


震える手を前に出し、必死に光を集めようとする。

掌に淡い輝きが宿りかけた、その時――


ズルリと黒い腕が伸び、零の首をがっしりと掴んだ。


「ッ……ぐ……っ!」

零の喉が絞め上げられ、呼吸が途切れる。

光が揺らぎ、集中が途切れていく。


怪異の顔は耳元にまで迫り、裂けた口がにたりと歪んだ。

「セェンセェェ……わたしの、セェンセェェ……」


首を絞め上げられた零は、腕に力を込めて怪異の手を振り解こうとした。

「くっ……離せ……っ!」

掌に光を集め、反撃の一撃を放とうとする。


だが――


「……センセェェェェ……」

怪異の腹部が不気味に膨らみ、そこからズルリと 新たな二本の腕 が突き出した。


ずるずると生え出た黒い手が零の両腕をがっしりと押さえつける。

「なっ……!? う、動かせない……っ!」


零の身体は首と腕、三点を同時に拘束され、完全に身動きを奪われた。


裂けた口がさらに大きく開き、零の顔へと迫る。

生臭い息が肌を撫で、耳元で再びささやく。

「……わたしの、セェンセェェェ……ずっと、ねんね……」


零は歯を食いしばり、目を強く閉じながら必死に光を呼び戻そうとする。

だが、両腕を封じられ、首を絞め上げられた状態ではまともに力を発動できない。

光はちらちらと弱々しく揺れるばかり。


怪異の首を絞める力が一気に強くなり、零の視界は赤く歪んでいく。

「やば……い……息……できな……」

零は必死に口をぱくぱくと動かす。

(まだ………こんなとこで………死ねない…)

零は足をバタバタさせるも、その力も弱まっていく。


(やだ…………私は…………まだ…………………)


「れ……な……」

途切れ途切れの声。滲む涙が頬を伝う。


その時――


「パシャッ!」

乾いたシャッター音が廊下に響いた。


怪異の身体がビクリと硬直し、伸びていた腕が一瞬だけ緩む。

零は床に崩れ落ち、肺に酸素を流し込むように荒く息を吸った。

「はぁっ……はぁっ……っ!」


直後――

白い影が風のように駆け抜け、怪異の横腹に渾身の蹴りを叩き込む。


「ギィィィィィ!!」

怪異が不気味な叫び声をあげて吹き飛ぶ。


零が必死に視線を持ち上げると――

そこにはカメラを構えた杏奈、隣にカコとコン、そして蹴りを決めた“白い影”―― はっちゃん の姿があった。


「大丈夫!? 南雲さん!」

杏奈が駆け寄り、カメラを胸に抱いたまま必死に零を支える。


カコも心配そうにしゃがみ込み、

「零ちゃん、しっかり!」と声をかける。


零は荒く息を吐きながら、震える指先で喉を押さえる。

「……あんた達……なんで………」


背後では、はっちゃんが大きな体を揺らしながら構えを取っていた。

「子供じゃなくても……仲間なら守るから!」

その声はいつになく力強かった。


カコは零の肩をしっかりと支え、優しく声をかける。

「零ちゃん、無理しないで」


一方で、コンは静かに仮面を外した。

白銀の髪が闇に揺れ、鋭い瞳が怪異を射抜く。

「……やる」

その低い声と共に、全身から気迫が立ちのぼる。


はっちゃんも巨体を少し落とし、脚を広げて構えた。

杏奈もまた、カメラを胸の前に掲げる。

指先は震えているけれど、その瞳は決意で揺らいでいなかった。


「ギィィィィィ……セェンセェェェェ……!」


怪異は不気味にうめきながら、床を叩きつけるように飛びかかってくる。

四本の腕を大きく広げ、鋭い爪を煌めかせながら迫る。


その突進はまるで猛獣のようで、廊下全体を揺らすほどの迫力だった。


カコは零を庇いながら必死に声を張る。

「みんな、気をつけて!」


コンが鋭い目を光らせ、仮面の下から解き放たれた力を拳に込める。

はっちゃんは子供を抱き寄せるように腕を固め、蹴りの体勢へ。

杏奈は震える指でシャッターを切る準備をした。


廊下の灯りがチカチカと揺れ、怪異の影が長く伸びる。

いよいよ、廊下全体を巻き込んだ決戦の幕が上がろうとしていた――。



_____




「ギィィィィィ!!」

四本の腕を振り回し、怪異が突進してくる。

廊下の床板が軋み、窓ガラスが震えるほどの衝撃。


はっちゃんが前に出て、巨体で受け止めるように構えた。

「ここは私が――!」

両腕で怪異の攻撃を受け流し、その勢いを逆手にとって膝蹴りを叩き込む。


同時に、コンが無言で滑り込み、拳に霊力を集中させる。

「"魂撃(こんげき)"!!」

コンの霊力を纏った打撃が怪異の脇腹へ鋭い一撃を加えた。

「ッ――!」

鈍い音と共に怪異がよろめく。


「はっ!」

はっちゃんが回し蹴りを繰り出し、怪異の顔面を狙う。

その隙を逃さず、コンは一歩踏み込み、逆方向から拳を叩き込む。


二人の攻撃が交差し、怪異の身体は左右から挟み撃ちされる形となった。

「ギャアアアアア!!」

怪異はたまらず悲鳴をあげ、廊下の壁に叩きつけられる。


その瞬間、杏奈はカメラを構えた。

「今だ……!」

震える指でシャッターを切る。


「パシャッ!」


閃光のようなフラッシュが怪異を照らし、その動きが一瞬フリーズする。

黒い身体が硬直し、四本の腕が宙で止まった。


「今っ!!」

杏奈の叫びに応え、コンとはっちゃんが同時に踏み込む。


「はぁぁぁぁっ!!」

はっちゃんの蹴りと、コンの拳が同時に怪異の胸部へ突き刺さる。


「ギィィィィィィィ!!!」

怪異の身体が大きくのけぞり、闇の塊が弾けるように吹き飛んだ。

廊下の端まで叩きつけられ、黒煙を吐きながらのたうち回る。


杏奈はカメラを胸に抱き、荒い息をつきながら仲間を見つめた。

「……やった……!」


廊下には、三人と一体の怪異の呼吸音だけが残っていた。


突如、廊下に響いていた怪異のうめき声がぴたりと止む。

はっちゃんもコンも攻撃の構えを解かず、息を荒げながらその様子を見つめていた。

杏奈はカメラを胸に抱きしめ、恐る恐るレンズ越しに覗き込む。


「……っ」

怪異の黒い体がぐにゃりと歪み、輪郭が崩れていく。

ぶよぶよと膨らんだような腕や脚がしぼむように縮み、四本の腕は床に溶けるように消えていった。


その巨体は、見る間に小さく小さくなっていく。

やがて――背丈は小さな子供ほど。まるで幼児のように弱々しい姿に変わっていた。


「なに……これ……?」

杏奈が思わず声を漏らす。


怪異はまだうめき声を出していたが、先ほどの迫力はなく、声も弱々しい。

大人の姿から幼児の背丈へ――その落差は、戦っていた全員に奇妙な違和感を与えていた。


はっちゃんは拳を下ろし、首をかしげる。

「……子供、みたい……?」


コンも険しい顔を崩さずにじっと睨んでいる。

カコが零の肩を支えたまま、眉をひそめた。

「怪異の“正体”……まだ、終わってないね」


廊下に横たわる怪異の姿は、もはや恐ろしい異形ではなく、小さな幼児のように縮んでいた。

零は壁にもたれ、苦しげに喉を押さえながらも鋭い視線を逸らさずに言う。


「……今のうちに……消すべきよ」


その声にはまだ息苦しさが滲んでいたが、怪異を恐ろしい存在と断じる冷徹さが残っていた。


「待って」

カコが前に出て、手を広げて零を制した。

「消すかどうかは……この子の“過去”を見てからだよ」


零はしばらく睨むように黙っていたが、やがて何も言わずに力を抜き、光を収める。


カコは小さく息を吸い込み、怪異にそっと歩み寄った。

小さな子供のような姿になった怪異は、虚ろな瞳でただ震えているだけだ。


カコは膝をつき、その額に優しく手を添える。

「……ごめんね。少し、見せてね」


柔らかな声でそう告げると、カコの頭の中に濁流のように記憶が流れ込んできた。





――場面は放課後の小学校。

外は雨が降りしきり、空は重たく曇っていた。窓越しに射し込む光は薄暗く、校舎全体が静まり返っている。


音楽室にはただ一人、若い大輝の姿があった。

まだ新任の頃、合唱コンクールで伴奏を任され、ピアノを練習していたのだ。


「はぁ……むずいなぁ……」

大輝は鍵盤から指を離し、深いため息を吐いた。


そのとき、ギィ……と音楽室の扉が開く。


大輝が目を向けると、そこにはツインテールの少女が立っていた。


「どうしたの?」

椅子から立ち上がった大輝が問いかける。


少女は答えず、その場に体育座りをして小さな声で呟いた。

「……帰りたくないです」


「夢野ちゃん、だっけ? 名前……」

大輝が記憶を探るように呟くと、少女はこくりと頷いた。


「そっか……なんで帰りたくないの?」

大輝は腰を落とし、視線の高さを少女に合わせる。


夢野の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「……お母さん、今日、朝から……怖かったから……」

怯えた声で、言葉を紡ぐ。


大輝は一瞬、言葉を失ったように黙り込む。

だがすぐに表情を和らげ、微笑んだ。


「じゃあ、少しだけ付き合ってくれる?」


大輝は再びピアノの前に座り、鍵盤に指を落とす。

静かな旋律が雨音に混じり、音楽室を満たしていく。


「らーらー……ねんね」

大輝の口から優しい歌声が零れた。


その声に導かれるように、夢野も顔を上げる。

「雨の音も 怖くない……

 先生と一緒なら 夢の中もあたたかい…… ♪」


大輝の歌声は優しく、夢野の心にゆっくりと染み込んでいく。

そして、少し照れながらも一緒に口ずさむ。


「……らーらー……おやすみ」


夢野が急に歌い出し、大輝は目を丸くする。


「もう泣かなくていいんだよ……

 君の笑顔が ずっと続きますように…… ♪」


夢野の声は美しく、大輝は思わずピアノを弾く手を止めそうになりながらも優しい音色を崩さなかった。


「すごいな、はじめて歌うのに…なんで歌詞分かるんだ?」

歌い終え、大輝は不思議そうに夢野を見る。

「違うよ、はじめてじゃない……。せんせ……前、授業で歌ってた」

夢野はもじもじしながら呟く。


「そっかそっか、夢野ちゃんは記憶力が良いんだね」

大輝は優しく夢野の頭を撫でる。


夢野は顔を赤くしながら声を張る。

「あ、あの!」

「どうした?」

「もう一回………歌いたい……です」

大輝は笑顔で「いいよ」と呟く。

それを聞いた夢野は顔をパッと明るくする。


静かな音楽室に、二人の歌声が溶け合った。

外の雨音すらもやさしい伴奏のように思える、不思議な温かさがそこにあった。


雨上がり。

大輝は校門から夢野を連れ出し、彼女の家の前まで車で送った。

夕日が住宅街を照らし、夢野の家はオレンジに染まる。

(つた)が這う古びた家を前に、大輝の表情は一瞬こわばる。


「せんせ、明日も歌ってね!」

夢野は屈託のない笑顔を見せて小さく手を振る。


大輝は笑顔を返しながらも、その背を見送る目には不安が浮かんでいた。

「……明日にでも、児童センターに相談するか」

ぽつりと呟きながら、彼は夢野の家を後にした。




翌朝。職員室に入ると、同僚の教師が血相を変えて駆け寄ってきた。


「三浦先生! 夢野ちゃんが……!」

大輝は振り返り、眉をひそめる。

「は? 夢野ちゃんが……死んだ?」


昨晩、夢野は母親からの過度な虐待によって命を落としていた。

彼女の家庭は元々母子家庭で、夢野が幼いころに父親と母親が離婚、母親は夢野に八つ当たりのように虐待を繰り返していたという。


淡々と告げられる言葉に、大輝は耳を疑った。

「……嘘だろ……」


その日の放課後。

人気のない音楽室で、大輝はピアノの前に座った。


「……」

鍵盤に手を置くが、音を鳴らすことができない。

昨日、夢野と共に歌った光景が鮮やかによみがえる。


「俺が……もっと、もっと早く気づけてれば……!」

涙が頬を伝い、手が震える。


大輝は床に膝をつき、机を叩いた。

その日の放課後。

人気のない音楽室で、大輝はピアノの前に座った。


「……」

鍵盤に手を置くが、音を鳴らすことができない。

昨日、夢野と共に歌った光景が鮮やかに蘇る。


「俺が……もっと、もっと早く気づけてれば……!」

涙が頬を伝い、手が震える。


夢野の笑顔が蘇る。

『せんせ、明日も歌ってね!』

大輝は床に膝をつき、机を叩いた。

「戻って来てくれよ、夢野ちゃん……! また一緒に歌おうって言ったじゃんか……!」


嗚咽混じりに叫ぶ声が、広い音楽室に反響した。


その姿を、すでに幽霊となった夢野は見ていた。

薄く透き通った姿で、教室の隅に立ち尽くしている。


「……いいの? 先生。……また一緒に歌って」


小さな声で呼びかけるが、大輝には届かない。

それでも夢野はにっこりと笑った。


「……一緒に歌って…いいんだ……」





カコの手が離れると、廊下の空気が静かに戻った。

怪異――幼い姿になった夢野は、うつむいたまま子供のように膝を抱えている。


カコは深呼吸をしてから、みんなの方へ向き直った。

その表情は、いつもの軽さを消した真剣なものだった。


「……見たよ。この子の過去を」

カコの声に、杏奈も零もはっちゃんも耳を傾ける。


「夢野ちゃんっていう女の子だった。……小学生で、家ではひどい虐待を受けてた。でも……最後の放課後、三浦先生に救われてたんだ」


杏奈の瞳が大きく揺れる。


カコは淡々と続けた。

「音楽室でね。ピアノを弾く三浦先生の横で、この子は一緒に歌ってたんだ。あのとき……ほんのひと時だけ、夢野ちゃんは安心して笑ってた」


杏奈は胸が締めつけられるような思いで、無意識にカメラを抱き寄せた。


「でも、その日の夜に……虐待で命を落とした」

カコの声が沈む。


「だからこの子の未練は……“三浦先生とまた一緒に歌うこと”なんだと思う」


カコの言葉に、はっちゃんが目を丸くし、杏奈は涙を堪えるように俯いた。

コンも無言だが、どこか悲しげな顔をしていた。


一方で零は何も言わず、ただ唇をきゅっと結んでいた。


「……夢野ちゃんを救いたい」

杏奈は震える声で、けれど強く訴えた。

その瞳には涙が浮かんでいたが、迷いはなかった。


カコが微笑んで頷く。

「そうだね、杏奈ちゃん」


はっちゃんも「うん!」と力強く頷き、コンも静かに首を縦に振った。

四人の心は、同じ方向を向いていた。


だが、零だけは違った。

壁に寄りかかりながら息を整えていた彼女は、顔を上げて低く呟いた。


「……それでも、怪異は怪異だから!!」


冷たい声と共に、鋭い視線が杏奈へと突き刺さる。

その迫力に杏奈の胸がざわついたが、逃げることはなかった。


「……せんせ……うた……」


幼い姿の夢野が、小さく震える声を漏らした。

その声は哀しくも、どこか救いを求めるようだった。


杏奈はぎゅっとカメラを抱きしめ、零に向き直る。

「南雲さん。あなたが怪異に恨みを持ってるってことは、よく分かった。

……でも、私は夢野ちゃんを助けたい」


決意の宿る瞳でそう言い切った。


零は一瞬だけ黙り込み、杏奈の目を見返した。

その沈黙の中に、彼女の葛藤が見え隠れする。


だが次の瞬間、ふっと息を吐き捨てるように言った。

「あっそ。勝手にしたら」


そして背を向け、足音だけを残して廊下の奥へと去っていった。


杏奈は唇を噛みしめながらも、カコたちと共に夢野の小さな姿を見つめ続けた。

その胸には、必ず彼女を救うという固い決意が宿っていた。



_____




零が去ったあと、杏奈たちは幼い姿になった夢野を連れ、音楽室へと向かっていた。

夢野は怯えた様子もなく、むしろどこか懐かしそうに歩を進めていた。


「もうすぐだからね」

カコが微笑みながら夢野の小さな手を優しく握る。

夢野はその手に縋るように頷き、じっと前を見つめた。


途中で杏奈は立ち止まり、息を整えて言った。

「ちょっと待ってて。……すぐ戻るから!」

そう言うと、カメラを抱えて校舎の奥へ駆けていった。


しばらくして一行が音楽室に入ると、夢野はまっすぐにピアノへと近づいていく。

黒光りする鍵盤をじっと見つめ、その前から動こうとしない。


その小さな背中を見つめながら、はっちゃんもコンも静かに息を飲む。

廊下での戦いの緊張がまだ残っていたが、今この部屋には柔らかな空気が漂っていた。


やがて――ギィ、と音楽室の扉が開いた。

最初に入ってきたのは杏奈だった。


「……ごめん、待たせちゃった」

息を弾ませながらも、どこか希望に満ちた表情をしていた。


そしてその後ろから現れたのは――三浦大輝。


「神村、なんだよ……ここに何が……」

大輝はそう言いかけて、言葉を止めた。


目の前にいたのは、昨日まで「写真」でしか見えなかった少女――夢野。


「……夢野……ちゃん……なのか?」

大輝は震える声で呟いた。


夢野はゆっくりと振り返り、目を大きく開いた。

次の瞬間、花が咲くように笑顔になり――


「せんせっ!」

嬉しそうに叫びながら、大輝に飛びついた。


夢野が飛びついた瞬間、大輝は驚きで身体を固くした。

だが、その小さな体を腕に抱いた瞬間――溢れる涙を止められなかった。


「夢野ちゃん……!」

声は震え、嗚咽混じりに漏れ出す。

夢野はそんな大輝の胸に顔を埋め、嬉しそうに頷いた。


大輝は腕に力を込め、かつて守れなかったその子をもう一度しっかりと抱きしめた。


「……ごめん……本当にごめん……」

大輝の声は涙で掠れていた。

「俺が……もっと早く気づいていれば……」


夢野は涙を浮かべながらも笑顔を見せた。

「……いいの、せんせ。私、もう一度……せんせと歌いたい」


その言葉に、大輝は頷き、夢野の瞳をしっかりと見つめて言った。

「……ああ。もう一度、一緒に歌おう」


杏奈は両手でカメラを抱きしめながら、その光景を見て涙ぐんでいた。

「……よかった……」


カコは優しく目を細め、はっちゃんは口元を押さえて感極まったように見守っている。

コンも黙っていたが、瞳の奥に小さな光が宿っていた。


音楽室の静けさの中で、二人の再会と約束が強く響き渡っていた。

まるで時間が逆戻りしたかのように、二人は再び出会ったのだった。


大輝は震える指でピアノの鍵盤に触れた。

音楽室の静かな空気に、優しい旋律が流れ始める。

昨日までと変わらぬはずの曲、だがそこに込められる想いは、あの日とは比べものにならなかった。


夢野は目を潤ませながら大輝の横に立ち、ピアノの音に合わせて歌い出す。


「♪ らーらー ねんね……

 雨の音も 怖くない……

 先生と一緒なら 夢の中もあたたかい…… ♪」


小さな声で、けれど真っ直ぐに。

夢野はかつて大輝の前で口ずさんだあの日と同じように、震える声で歌った。


大輝も涙を流しながら、その歌声に合わせて口を開く。


「♪ らーらー おやすみ……

 もう泣かなくていいんだよ……

 君の笑顔が ずっと続きますように…… ♪」


二人の声が重なり合い、音楽室に温かな響きが広がっていく。

その旋律は、怪異の恐ろしさを塗り替えるように優しく柔らかい。


歌う夢野の身体が、次第に淡い光に包まれていく。

輪郭が透き通り、ふわりと浮かび上がるように輝きを増していく。


「せんせ……ありがとう……」

最後の言葉とともに、夢野は笑顔で両手を広げ、大輝の胸に抱きつく。


その瞬間――

光は弾けるように広がり、夢野の姿はやさしい残光となって夜空に溶けていった。


「……夢野ちゃん……」

大輝は膝から崩れ落ち、嗚咽をこらえることができなかった。


杏奈は涙を拭いながらカメラを胸に抱きしめ、

「……救えたんだね」と小さく呟く。


カコは目を潤ませながらも柔らかな笑みを浮かべ、はっちゃんは涙を拭きながら「よかったぁ……」と鼻をすする。

コンは目を閉じ、静かにその光景を胸に刻んでいた。




音楽室に静けさが戻ったあとも、大輝は膝をつき、涙を流し続けていた。

その姿をしばらく見守っていた杏奈は、意を決してゆっくりと歩み寄る。


「三浦先生……」


胸に抱えたカメラをそっと掲げる。

「……見てください」


大輝が震える手でカメラを受け取ると、そのモニターには――

光に包まれながらも、ピアノの横で楽しそうに歌う夢野の姿が、しっかりと写っていた。


「……っ!」

大輝の瞳が大きく揺れる。


杏奈は少し照れながら微笑んだ。

「ごめんなさい……こっそり撮っちゃいました」


その言葉に、大輝は涙で濡れた頬を手の甲で拭った。

そして、しばらく写真を見つめたあと、力強く頷いた。


「……ありがとう。……夢野ちゃん、成仏できたんだな」


その声はまだかすれていたが、表情には確かな安堵と、いつもの笑みが浮かんでいた。


杏奈もまた、その笑顔を見てほっと胸をなで下ろした。


しばらくして、大輝はみんなを見渡し深く頭を下げた。

涙を拭ったその表情には、もう迷いはなく、ただ心からの感謝がにじんでいた。


「…本当に……ありがとう」


その声は震えていたが、力強く響いた。


杏奈は胸に抱えたカメラをぎゅっと握り、微笑みながら答える。

「はい!」


カコも肩に手を当てて大きく頷き、

「はいっ!」といつもの明るさで声を上げた。


はっちゃんは少し涙ぐみながらも、力強く「はい!」と答え、

コンは短く、しかししっかりと「……はい」と言葉を添えた。


その瞬間、音楽室を包んでいた重苦しい空気はすっかり消えていた。

夢野の子守唄はもう聞こえない。

けれど、彼女が残した温もりは、確かに全員の胸に刻まれていた。


音楽室で交わされた涙と笑顔の光景。

その全てを、廊下の影から零は静かに見つめていた。


彼女の表情は読めない。

冷たい瞳の奥で、しかし心のどこかがざわめいていた。


「……怪異は、怪異だから……」

零は誰にも聞こえないように呟く。


そう言いながらも、彼女の胸には奇妙な感情が渦巻いていた。

――あの子は、本当に悪い存在だったのか?

――あの笑顔は、ただの“化け物”のものだったのか?


答えはまだ出せない。

だが、今まで疑ったこともなかった“怪異=悪”という自分の信念に、

小さなヒビが走ったのを零自身が一番感じていた。


「……バカみたい」

短く吐き捨てるように呟く。


だがその言葉は、夢野に向けたものなのか、

夢野を救おうとした杏奈たちに向けたものなのか、

それとも揺らいでいる自分自身に向けたものなのか――。


零はそれ以上何も言わず、踵を返して夜の闇の廊下へと消えていった。



_____




翌朝の学校は大混乱だった。

廊下に響き渡る声はどれも「壁に穴が!」という話題で持ちきり。

生徒たちはざわざわと集まり、教師たちまで慌ただしく走り回っていた。


杏奈は教室に入る前に、校舎の外壁にぽっかりと空いた大穴を見上げて「やば……」と小声でつぶやいた。

(昨日のあれ……バレたら絶対大ごとになる……)


恐る恐るクラスに入ると、騒動のせいで誰もいない。

教室は不自然なほどに静まり返っていた。


そのとき、再び廊下が騒がしくなった。


「な、南雲さん!?」

「どうしたの、それ……!」


生徒たちの声に杏奈はびくりと肩を揺らした。

(なんだろ……?)とそっと廊下に目を向けると――


そこには、頭に白い包帯を巻いた 南雲零 の姿があった。


クラスメイトたちが心配そうに声をかける中、零は一切答えず、冷たい表情のまま教室に入ってきた。

彼女の雰囲気に、生徒たちは自然と距離を取る。


杏奈は慌てて立ち上がり、声をかけた。

「南雲さん……大丈夫?」


零は足を止め、ゆっくりと杏奈を睨みつける。

その視線は言葉以上に鋭く、杏奈は思わず息を呑んだ。


「……」

返事はなかった。ただその目が「余計なことを言うな」と告げているようだった。




昼休み。

杏奈のスマホに「音楽室に来て」とカコからメールが届いた。

(なんだろう……?)

首を傾げながら音楽室へ向かう。


扉を開けると、そこには――


「カコちゃんと……コンちゃん!? なんでここに!」

杏奈は驚きの声を上げた。


ここは校内。

生徒でもない二人が当然のように音楽室にいることに、杏奈は目を丸くする。


「驚いた?」

音楽室の隅に立っていた大輝が、柔らかく微笑んだ。


「カコちゃんとコンちゃんは……昨日、夢野ちゃんに会うのを手伝ってくれたから」


杏奈はハッとし、視線を二人に向ける。

コンは無言で頷き、カコはにっこり笑ってウィンクしてみせた。


「……でも、いいんですか?」

杏奈は小さく呟く。

校舎にいることも、生徒じゃないのにこうして関わることも――不安と驚きが混ざった声だった。


大輝は真剣な目で杏奈に答えた。

「いいんだよ。……だって、君たちは確かに、夢野ちゃんを救ってくれた仲間だから」


杏奈の胸がじんわりと熱くなる。

その言葉は「自分たちの行動が間違いじゃなかった」と肯定してくれるものだった。


「そういえば……はっちゃんは?」

杏奈がふと思い出したように問いかけた。


カコは机の上に置いてあった缶ジュースをストローで唆りながら、のんびりと答える。

「公園で子供たちを見守っとくんだって~」


(なんか地雷系女子みたいな飲み方してるな………)

杏奈はそんなことを思いながらも顔を引きつらせた。

「……それ、大丈夫なの? あの子、ショタコンでしょ……」


カコはケラケラ笑いながら手をひらひらさせた。

「大丈夫大丈夫! はっちゃんは根は優しいから!根は!」

(……余計に心配なんだけど)杏奈は心の中で突っ込む。


カコは手をぱんっと叩き、ぱっと表情を切り替える。

「さて! 気を取り直して!」


コンが無言で視線を向ける中、カコは大げさに身を乗り出した。

「杏奈ちゃん、次のスポットは“廃遊園地”だよ!」


杏奈の顔が一瞬にして固まる。

「……はいぃ!? なんでそんな怖そうな場所……」


カコは楽しそうに肩をすくめる。

「だってさ、そこに“夜な夜な回る観覧車の怪異”が出るって噂があるんだよ? 面白そうじゃん!」


杏奈は「全然面白くないよ!」と即座に突っ込み、コンは静かに頷く。


大輝は苦笑しつつ、彼女たちのやりとりを見守っていた。

音楽室の窓から差し込む昼下がりの光が、次の冒険を予感させるように眩しく揺れていた。



_____




チャイムが鳴り、担任が「起立、礼」と締めの挨拶を告げると、ざわめきながらクラスメイト達は帰り支度を始めた。

杏奈は鞄を肩に掛けると、ちらりと零の姿を見つける。


「南雲さん……」

思い切って声をかけたが、零は何も言わず、教科書を抱えたまま足早に教室を出ていった。

その背中は、誰も寄せつけない壁のように冷たい。


杏奈が追いかけようとしたその時――

「……あの、神村さん!」

不意に声をかけられ、振り返るとそこに亮が立っていた。


彼は少し緊張した面持ちで、両手をぎゅっと握りしめながら言った。

「今日、一緒に……帰れるかな?」


杏奈は一瞬、言葉に詰まった。

零を追うか、亮と帰るか――心の中で揺れた。


だが数秒の逡巡の末、ぎこちなく両手を合わせ、申し訳なさそうに微笑む。

「ごめん……!影山くん。今日はちょっと用事があって……」


そのまま鞄を抱え、教室を後にした。


取り残された亮は、ガクッと肩を落とす。

「……あ……」

目線は床に落ち、勇気を出した言葉が無駄に消えてしまった悔しさがにじんでいた。


すると――背後から勢いよく背中を叩かれる。

「ドンマイ!」


驚いて振り返ると、そこにはにやりと笑う美玲がいた。

「影山くん、頑張ったじゃん!」


亮は顔を真っ赤にしながら、「う、うん……」と小さな声で答えるしかなかった。


その様子を見て、周りのギャル仲間たちがわらわらと集まってくる。


「え〜? 影山くん、もしかして告白しよ〜としたん?」

「ウブすぎてかわいい〜!」


亮は慌てて両手を振った。

「ち、ちがっ……そんなんじゃ……!」


だが否定すればするほど、彼女たちの笑みは大きくなる。


「いやいや、むしろグッジョブでしょ〜」

美玲はにやにやしながら、亮の肩に肘をのせる。


「フラれても挑戦する勇気、あたしたち見習いたいくらい♡」

「そ、そんな言い方……」

亮はさらに耳まで真っ赤になる。


「でもさ〜杏奈と影山くんって、なんかお似合いっぽくない?」

「うんうん、地味系同士で尊いってやつ!」


「ちょ、ちょっと待って、それ……」

亮は目を泳がせながら言葉を詰まらせる。


美玲はわざと大きな声で叫ぶ。

「キャ〜! 影山くん赤くなってる〜!」


クラスにいた数人までチラチラ視線を送ってきて、亮は顔を赤くしながら俯いた。


「まあまあ、次のチャンスあるって〜」

美玲はわざと明るく言い、背中をバンバン叩く。

「落ち込むより、また頑張ればいいじゃん!いつでも相談乗るからさ!」


「……は、はい……」

亮は消え入りそうな声で答えながらも、どこか少し救われた気持ちになっていた。


一方、杏奈は零の姿を探していた。

(南雲さん……!)

廊下を走っても、零の姿はどこにもない。


「どこ行ったんだろう……」

階段を駆け下り、校庭を見渡すが、やはりいない。

(きっと、もう学校を出ちゃったんだ……!)


杏奈は胸の鼓動を早めながら校門を飛び出した。


気づけば、足は自然と港の方へ向かっていた。

(なんでだろ……でも、なんとなく……)

風に吹かれる潮の匂い。夕暮れに染まり始めた空と、波の音。


その光景の中で――杏奈は見つけた。


海岸に、一人座り込む零の姿。

制服のスカートの裾を潮風が揺らし、長い髪が夕陽に照らされて橙色に染まっている。


杏奈は思わず息を呑んだ。

普段は教室で見せる冷たい瞳の彼女が、今はただどこか寂しそうに海を見つめていた。


「……南雲さん」

杏奈は声をかけながら、ゆっくりと歩み寄った。


零は振り返らない。

ただ海の彼方を見据えたまま、低く呟く。

「……どうして追ってきたの?」


杏奈は少し立ち止まり、それでも勇気を振り絞って答えた。

「だって……南雲さん、ひとりで辛そうだったから」


その言葉に、零の肩がわずかに揺れる。


波がざざんと砂浜を濡らし、二人の間に一瞬の沈黙が落ちる。

杏奈は胸の奥で緊張しながらも、零の隣に腰を下ろした。


橙色の光が二人を包む中――

「……やっぱり、あなたは甘い」

零は冷たく言い放つ。だが、その声音にはほんの少し、温度が宿っていた。


杏奈は、ふと口を開いた。

「……あのとき。南雲さん、“れな”って呼んでたよね」


その言葉に、零の肩がびくりと小さく震えた。

だが、すぐに冷たい声で返す。

「だから、何よ」


杏奈は小さく微笑んで首を振る。

「無理に話さなくていいよ。……でも、話してくれるなら、嬉しい」


沈黙が流れる。

波の音がふたりの間を埋めるように響き、夕陽が赤く海を染める。


やがて零は、深く息を吐いて口を開いた。

「……麗奈。あの子は……私の妹」


杏奈の目が大きく見開かれる。


「昔から、私より弱くて、すぐ泣いて、うるさくて……」

零の声が少し揺らぐ。

だがその表情には、一瞬だけ、柔らかな笑みが浮かんだ。


「……でも、可愛かった」


杏奈には、その一瞬の零の素顔がしっかりと見えていた。


零の声は淡々としていたが、その奥底には深い後悔と悲しみが滲んでいた。


「麗奈は、いつも私にくっついて来て……修行だって一緒にしてた」

「私が10歳で、あの子はまだ7歳。

私もまだ光をまともに操れなかった。……でもあの子はもっとダメダメで」


零の表情がほんの一瞬だけ緩む。

「私はあの子をからかいながらも、いつまでも……こんな日々が続くのかなって、思ってた」


杏奈は黙って耳を傾ける。

彼女の横顔には、ほんの一瞬の笑みが浮かんで、そしてすぐに消えた。


「……でも、そんなことは無かった」

零の声が低くなる。


「ある日、私と喧嘩した麗奈が泣きながら森に入ってしまったの」

「夜になってやっと見つけた……。だけど、彼女は怪異に呪いをかけられていた」


杏奈の喉がひゅっと鳴る。

「呪い……」


「数日で死ぬ呪い」

零は握り締めた拳を膝に置き、爪が食い込むほど強く力を込めた。


「私は鍛錬を積んだ。必死に。

早く光を完全に扱えるようになれば、結界を作れば……麗奈を救えるって思った」


波の音が切なく響く。

「……そして、私はついに能力を完成させた。光を完全に操ることができるようになった」


そこまで言った零は、一瞬声を詰まらせる。

「だけど――」


杏奈は息を呑む。

零の声が小さく震えた。


「麗奈は……もう、間に合わなかった」


杏奈は言葉を失い、ただ隣で涙をこらえるしかなかった。

零の冷たい態度の裏に隠されていた痛みが、ようやく杏奈の心に伝わってきた。


零は夕暮れの海を見つめたまま、ゆっくりと吐き出すように言った。

「だから……私は怪異を絶対に許せない」


その声音は硬く、決意に満ちている。

杏奈は胸が締め付けられる思いで俯き、何も言えなかった。


だが零は、しばしの沈黙の後に続けた。

「……だけど。昨日の夢野って子を見て……本当に怪異は全部悪い存在なのか、ちょっとだけ……わからなくなってる」


杏奈ははっと顔を上げる。

「あの子は……先生を愛してた。それは、何も悪いことじゃない」


杏奈は意を決して、零の手をそっと握った。

「……南雲さんのやり方でいいんだよ」


零は目を細める。

「私のやり方……?」


杏奈はこくりと頷く。

「私は南雲さんのやり方は優しくないって思ってた。だけど……怪異は本当に危ない。被害者が出る前に倒すのって、とても大事なことだと思う」

「それだって……南雲さんなりの優しさなんじゃないの?」


杏奈はまっすぐに零を見つめた。

「だって南雲さん、私たちのやり方は気に食わないって言ってたけど……あれも、私たちを怪異との戦いに巻き込まないようにしてくれたんじゃないの?」


零は握られた手を見つめ、かすかに声をこぼす。

「……なんで、そんなに優しいの」

「私は……あなた達に酷いことばかり言ったのに。なのに、どうしてそんなに優しくしてくれるの?」


杏奈はそっと微笑んだ。

「困ってるからだよ、南雲さんが」


その言葉に零は思わず顔を上げた。

「困ってる人は、優しくしてあげないとでしょ?」


一瞬――零の脳裏に、妹の麗奈の笑顔が浮かんだ。

(同じことを……麗奈も言ってたっけ……)


零の瞳に、じわりと涙が溜まっていく。

とっさに顔を背け、涙が見えないようにする。


杏奈が首を傾げる。

「どうしたの?……泣いてるの?」


零は慌てて目をこすりながら叫んだ。

「うるさい! 目に潮風が沁みただけ!」


杏奈は一瞬ぽかんとした後、思わずクスッと笑った。

「ふふ……潮風って……南雲さん、意外と独特なボケするんだね」


「ち、違うし!!」

零は涙を引っ込め、拗ねたような顔で杏奈を睨み返す。


沈黙の後、零はふいにぽつりと呟いた。

「……南雲さんって呼ぶの、なんかやだ」


「え? じゃあ……なんて呼べば……?」

杏奈が首をかしげると、零は少しだけ照れた顔で言った。

「零でいい。……私もあんたのこと、下の名前で呼ぶから」


杏奈の瞳がぱあっと輝く。

「ほんとに!? やったー!!」


「喜びすぎだし……」

零がツンと顔を背けるが、杏奈は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「ふふふ……零ちゃん」


「なによ……」


杏奈は勢いよく手を差し出した。

「これから改めて、よろしくね!」


零は一瞬だけ迷った。だが、差し出された手をしっかりと握る。


「……うん。……杏奈」




翌日の教室。

頭に包帯を巻いたままの南雲零が姿を現すと、クラス中がざわめいた。


「南雲さん、ほんとにその怪我大丈夫なの?」

「交通事故にでも遭ったの?」


クラスメイト達が次々に声をかけるが、零は一切答えず、すたすたと歩いていく。

彼女の冷たい雰囲気に、生徒達は言葉を失い、自然と距離を空けてしまう。


そのまま零の足は、教室の奥――机にカメラを広げ、フィルターやレンズを丁寧に拭いている杏奈の前で止まった。


「……?」

杏奈が顔を上げると、零が上からじっと見下ろしていた。


「おはよ……杏奈……」

ほんの少し恥ずかしそうに、だがはっきりと名前を呼ぶ。


杏奈は一瞬驚いたが、すぐに笑顔を浮かべた。

「おはよ、零ちゃん」


そのやりとりは柔らかく、どこか温かい空気をまとっていた。


しかし、二人の様子を見ていた周囲のクラスメイト達は、一斉にざわつき始める。


「え? あの二人って……あんな仲良かったっけ?」

「昨日まで全然話してなかったよね?ていうか今、神村さん零ちゃんって………」

「えー、なんか雰囲気ちょっと違うんだけど!」


教室の空気が妙にざわざわと騒がしくなる中、杏奈は照れくさそうにカメラを抱き、零は席に着いてツンと澄ました顔のまま視線を前へと向けた。

次回予告


杏奈:「ねえ……デジャブってやっぱりあると思う?」


カコ:「あるある〜!昨日お菓子食べたのに、今日も“昨日も食べた気がする!”ってやつ!」


杏奈:「それはただのお菓子の食べすぎじゃない……?」


コン:「……過去と未来が重なった幻影……」


杏奈:「ひぃっ!?コンちゃん、そういう言い方ほんと怖いから!」


はっちゃん:「わたしはね〜、カワイイ男の子に“あれ、前にも会った?”って言われたら大歓迎〜♡」


零:「……くだらない。どうせ偶然の一致でしょ」


杏奈:「あれ?零ちゃんのその感じ……どこかで見たような………」


カコ:「コンちゃんも、こんな感じだったよね⭐︎」


零:「なっ……!?」


みんな(零とコン以外):「次回――二人の時間!!」


カコ:「まあとりあえず二人ともツンデレってことだよね?」


零:「違うし!!!」


コン:「………」


零:「否定しなさしよ!!!」


杏奈:「ふふ、やっぱりツンデレだね」

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