第1章
[ 如月 澪 ]
32時間を超える難産だった。分娩を終えた私は、無事生まれたことより「“あの人”のように、赤ちゃんの首を絞めたくなったらどうしよう……」と本気で心配していた。
「抱いてあげてください」と助産師から初めて赤ちゃんを見せられた。
……抱きたくなかった。それは、許されないことだと思った。
過去に縛られ、常闇をさまよった私は、この子の幸せすら壊す欠陥人間だと思っていた。
私が母親らしいことをしてしまったら、一生この子は幸せになれない。そんな思いが、中絶を選択しなかったくせに、母親になることを拒否していた。
けれど、私の心は予想外の反応を見せた。
指先が頬に触れた途端、胸が破れそうなほど歓喜があふれ、涙までこぼれた。
……ああ、私はやっと、“あの人”の呪縛から解放されたんだ……
22年前のあの日から、私の心は何度も壊され、灰色となり、朽ちて……やがては何も感じなくなっていた。
それが、この子との出会いによって、ほんのひと欠片、生き返ったのだ。
分娩室で手を握り続けた夫の如月紘人と笑い合う。彼の胸にも、同じ光が宿っていた。
「ありがとう。よく頑張ったね」
紘人は赤ちゃんと私を、包み込むようにそっと抱いてくれた。その手には、優しい愛を感じた。
この瞬間を分かち合えた。それだけで私達は家族だ。
この子を紘人と守り、まだ見ぬ遠い未来まで、家族3人で歩いていこう。
赤ちゃんの産声に、全身で幸せを感じながら、そんなことを誓って、祈って、信じた。
だから私は、彼のあの不穏な仕草を、この時は意図して見なかったことにした。
紘人が一瞬、産声に顔を歪め、右耳を覆ったのだ。
……不愉快。
でも一瞬湧いた不協和は、すぐ紘人の微笑みに溶けていった。
標準体重より小さい2850gで生まれた男の子は、蒼空と名付けられた。紘人とたくさん悩んでから決めると思っていたのに、2人とも最初に浮かんだ名前が「そら」だった。
東京都内にある築5年の3LDKのマンションの3階で如月家の育児は始まった。蒼空の育児は想像以上に大変だった。
いや、蒼空に限ったことではない。
赤ちゃんを育てる親はみんな、自分の生きる時間の全てをかけて、精神をすり減らすような過酷さに耐えてきたのだ、と身を持って思い知った。
「育児ノイローゼ」という言葉も決して他人事ではなかった。
特に蒼空は夜泣きが酷くて、一睡も出来ない日が続いた。
それでも何とかやっていけたのは、紘人が半年近くも育休を取ってくれて、ひとりで不安を抱え込むことがなかったからだ。
「子育ては夫も参加とか、俺は甘過ぎると思う。参加って言葉が出る時点で、そいつは子育てする気がない」
『橋本パパの育児奮闘記』という他所のパパの育児ブログを見て、紘人が文句を言っていた。
紘人は34歳の私とは6歳差で、今は40歳。大手マスコミ企業で刑事事件専門の記者を20年近くもやっていて、本来はかなりの仕事人間だ。
それが半年も育休を取ったのも驚いたけれど、育児の真剣さにはもっと驚かされた。すごく積極的で、産後の私の体調を気遣いながら、愚痴をこぼすこともなく、何でもこなしてくれている。
出会った頃、なまじ顔が整っているせいか、かなりの遊び人だという噂の絶えなかった彼からは想像がつかないほどのイクメンっぷりに、私は嬉しいを通り越して尊敬までして、何より「ありがとう」でいっぱいだった。
紘人の育休が終わる少し前に、蒼空は言葉らしきものを話し始めた。
この頃、蒼空は笑顔や色々な表情を見せるようになり、その度に紘人と2人で「うわぁー」と間抜けな声を出して喜んだ。
糸と針で丁寧に縫い進めていくように蒼空は成長していき、その縫い目ひとつひとつの瞬間に立ち会う度、これが幸せなんだな、としみじみと感じた。
言葉はそのしみじみと来る最たるもので、紘人と「ママ」と「パパ」のどちらを先に口にするかで競った。
「ま、うう……ま」
「お、これは私の勝ちかな?」
「ま、う、まぁ……まんま!」
顔を見合わせて、「親よりごはんかー」と紘人と笑った。
「親がいなくてもごはんがあれば生きられるってことかな? まぁ、ある意味合ってるか。最初の言葉がママじゃなくて残念だったな、澪」
紘人が私の背中をポンポンと叩く。
「いいよ別に。例え一生ママって呼んでくれなくても、私はこの子がお腹空かせたら、一番にごはん食べさせてあげるから」
私は蒼空を抱きかかえ、優しく頭を撫でた。どうして赤ちゃんは髪の毛まで、こんなに繊細で柔らかいのだろう。
紘人はそんな私を見て、ニコニコと笑っていた。
「澪は本当に優しいな。蒼空を生む前は、子どもを愛せるか不安……とか言っていたのに、今では澪ほど蒼空に相応しいお母さんはいないんじゃないか?」
その変化には自分でも驚いていた。蒼空がくれたひと欠片の心は、どんどん大きくなって、綺麗な形に整えられていく。
それも全部、蒼空がいてくれたからだ。ひとりでは何も出来ない赤ちゃんかもしれないけれど、蒼空はこんなにも私を支えてくれている。
「私なんかが、家族を持つことも、幸せだと感じることも……一生無理だって、諦めてた。でも、今は違う。自分より大切な存在ができて、家族みんなで、ちゃんと幸せになろうって、思えるようになったの」
紘人は寂しそうな顔をした後、それを隠すように微笑んで言った。
「そろそろ話してもいいんじゃないか? 澪が隠してる過去のこと。ご両親への挨拶も行かせてもらってないし、正直、蒼空も生まれて、このまま何も知らないのは……」
「それでもいいから」
私は紘人を遮って言った。
「訊かない約束で、結婚したんでしょ? ごめんなさい。紘人にも、蒼空にも、知って欲しくないの」
あの事件のことは、誰にも知られるわけにはいかない。私が生まれ故郷を捨てて上京したのも、ここには、あの田舎町で起きた殺人事件、そして殺人未遂事件を知る人がほとんどいないからだ。
……特に蒼空には。
きっと知ってしまえば、蒼空は普通の生活が出来なくなってしまう。
私と同じ十字架を、蒼空には背負って生きて欲しくない。
ふと、テレビから「息子が殺された」という声が耳をかすめた。
思わず声の主を目が追う。テレビには30代くらいの女性が泣き崩れる映像が流れていた。
「あぁ、この事件か。12歳の小学生の女の子が、理科室から盗んだ毒物で同級生の男の子を殺したんだよ。テレビに映ってるの、被害者の母親。信じられる? 事情はまだ分からないけど、12歳の女の子が人殺したんだよ? 息子が殺された今のお気持ちは? とか、部外者に訊かれて全国ニュースになるの、蒼空がいる今なら、どれほど無遠慮で、いたずらに傷を抉る最低な行為なのかって分かるけど、育休が終わったら、俺もその最低なことするんだよな……」
紘人が顔を曇らせてため息をついた。
抱きかかえた蒼空が小さな手で私の服を握った。
服のしわ。握る拳の小ささ。細かな息遣い。
蒼空の全てに、胸がぎゅっと痛くなった。
私も、あの母親のようになるかもしれない。
蒼空が、いなくなったら。
いや、それだけじゃない。
もし、蒼空に出会ってなかったら、私はたぶん……このニュースを見ても、心を動かされることさえなかったかもしれない。
それがどれだけ異常なことか、今なら分かる。
蒼空が、私の心を取り戻してくれたから。
私は、蒼空の母になって、ようやく人間になれた。
だから、もしこの母親のように、蒼空を殺されることになったら……
「私は……」
たとえ相手が12歳の子どもであろうと、空っぽになった心のまま、何も感じずに、この手で、その命を……
「大丈夫? 顔色悪いよ。蒼空と、連想した?」
紘人の声に意識が戻った私は、頭の片隅にいる恐ろしい自分の姿をした何かを真っ白に溶かし、笑顔を演じた。
「大丈夫。ありがとう。それより、紘人はどう?」
私はリモコンでテレビを消した。
「ん? なにが?」
「仕事しかしてこなかったのに、40歳で子どもができて、パパにはなれそう?」
急に話を変えたのは、これ以上、テレビで涙を流す母親の気持ちになりたくなかったからだ。私が同じ立場なら、きっと私は壊れてしまう。昔の自分に戻ってしまう。
そんなこと、想像するだけで怖かった。そしてそんなことを恐れている自分を、紘人には見抜かれたくなかった。
紘人は蒼空を抱く私に近づくと、私には唇に、蒼空にはおでこにキスをした。その口づけは、過去に戻ってしまうのではないかという恐怖ごと私を照らし、癒してくれた。
「澪と蒼空には、俺しかいないんだ。命にかえても必ず2人を守る。だからその……ふつつか者ですが、俺にパパと名乗らせてくれ」
ふざけているのか、真面目に言っているのか分からなくて。でも愛だけはしっかり伝わってきた。
この人と私に育てられた蒼空は、どんな子になるのだろう?
想像するだけで、わくわくしてしまう。一寸先は、どうしようもないほど眩しい光だ。
その時、不意に紘人のスマホに着信があった。
画面に見えた相手の名前は、“M”。
さっきまで笑顔だった紘人の顔が、一気に真顔に変わった。
その顔は何かに取り憑かれたようで、少し怖かった。
紘人はスマホを取ると、会話を聞かれたくないのか、わざわざ玄関から外へ出て行った。
紘人の育休が終わると、彼の育児への態度は明らかに変わった。もしかすると、あのMからの着信があった時から、すでに変わり始めていたのかもしれない。
最初はほんの少しの違和感だった。
紘人が休みの日、泣き止まない蒼空をあやしながら、溜まった洗濯物を片付けなければならなくて、紘人にお昼ご飯の用意をお願いしたら、ほんの少しだけ不快そうな表情を向けられた。
最初は「疲れているのかな?」と思った。
仕事に復帰して帰って来るのはいつも夜の9時過ぎだったし、記者という仕事柄、泊まり込みの日も少なくない。
それでも育休中は「育児は参加ではなくて、責任を持って自分がするもの」と言っていた彼には、何を相談しても、きちんと聞いてくれるだろうと信頼していた。
「ねぇ、蒼空が最近、家のものを隠すようになって困ってるの。遊びでやってるだけだろうけど、私の口紅も見当たらなくて。どこ隠したのかな? もし、食べてたりしたらどうしよう。ほら、薬とかマニキュアとか、赤ちゃんの誤飲による死亡事故もあるみたいだし」
昨夜は蒼空の夜泣きが酷くて、一睡もしていなかった。
だから余計、ネガティブな思考に囚われていて、些細なことでも心配になったし、紘人に今の不安な気持ちを分かって欲しかった。本当にそれだけだった。
すると、紘人はため息をついて、読んでいた新聞を置いた。
それから口にしたのは、育休中の紘人とは、まるで別人のような言葉だった。
「君の取り柄はさ。優しいって、だけだと思うんだよね」
「え?」
思わず耳を疑った。振り返る紘人の顔は、見下した相手とは、二度と口を利こうとしなかった中学時代のクラスメイトの女子によく似ていた。
「だからさ、察してよ。俺が疲れてるって」
「ごめん」
咄嗟に謝っていた。そのことに疑問を持つ前に、紘人は言葉をまくし立てた
「お前、産休前も大して稼いでないくせに。今も俺が稼いでるから食えてんだよ。家のものも全部、俺が買ってやったの、分かる? 子どもの面倒なんて、仕事で俺が日常的に追われてるトラブルに比べたら、よっぽどシンプルでヌルいと思うけど?」
「私はただ、育児は2人でするものだから、紘人にも相談したかっただけで……」
「相談? もの隠すだけなら、澪がもっとしっかり蒼空を見ておけばいいってだけじゃない?」
「そんなこと言われても……」
「なに? そのくらいも出来ないの?」
紘人は大袈裟にため息をついた。
「分業って知ってる? お前が頭悪くて社会的に価値ないから、俺が外で働いて稼いでんの。だったらお前に出来ることってなに? 優しいだけが取り柄なんだから、育児で蒼空に時間割くくらい我慢しろよ。育児しかやることないくせに、いちいち働いてる俺まで巻き込むな。ムカつく」
これだけ言われて怒りを感じなかったのは、それよりも、紘人はどうしてしまったのだろう? と戸惑う気持ちの方が強かったからだ。
家族に亀裂が生じ始めている。その直感を、私は紘人が疲れているからだ。余裕がないからだ、と今の紘人が正常でないことにして、覆い隠した。
それから紘人が家に帰ってこない日が続いた。
仕事が多忙を極め、紘人は会社に泊まり込んでいる。
以前テレビで見た12歳の少女が起こした毒物による殺人事件の担当に紘人はなってしまったらしい。
あの事件は、少女の異常性がメディアの注目を集め、事件後数か月が経つ今でも、ちょっとした少女の言動でさえ、大きく報道されている。その担当なのだから、紘人の異常な忙しさも納得だった。
夏至を過ぎ、暑い日が続いていた。外を歩くだけで汗が止まらなくなるほどの暑さだった。
こんな暑さの中、紘人は汗だくになりながら何日も同じ衣類を着続けている。
ベビーカーで蒼空を連れ、私は紘人に着替えの下着とワイシャツを届けに行った。
ほんの少しのきっかけでも、最近、険悪気味な紘人との関係修復に役立つかもしれない。忙しい紘人を心配する傍ら、そんな期待があったのも確かだ。
「え? 紘人さんなら連休中ですよ。……殺人事件? ああ、今話題の。それなら担当は別の記者ですが。ほら、紘人さんは育休明けで何かと大変でしょう? うちはそういうところもしっかりしてますので……」
数日後の夜、寝室で寝ている紘人の親指を使って、紘人のスマホのロックを解除した。
紘人の態度の変化。そして私に仕事と嘘をついてまで隠していた空白期間。
それが浮気でないと疑わない方がきっとおかしいのだろうけれど。私は紘人を責める材料を探したいというより、とにかく、何もなかった、と1秒でも早く安心したかった。
見てはいけないという罪悪感もありながら、ラインをチェックした。
すると、“それ”はすぐに見つかった。
“M”という女とのライン。
以前、紘人が血相を変えて電話に出た相手と同じ名前だ。その時は大事な仕事先の相手だと言っていたけれど。
メッセージを読み進めていくうちに、これは夢なんじゃないかと思った。
もしくは今日家に帰ってきたのは紘人ではなくて、よく似た別人なんじゃないか。そんな非現実的な考えの方が、よほど信じることが出来た。
……これは、ただの浮気じゃない。
「私の夫が、パパ活をしている……?」
それも相手は20代前半……あるいは顔だけなら、10代の高校生にも見える……