15.おかしくない
なぜって、そりゃあ、混同解答が機械人形を作りたかったからに決まっているでしょう。
……
油断はしていないつもりだった。
そう、つもりである。あくまで自分が思っていたことで、そこに根拠なんてない。あるわけがない。だから、諜報員たる『プレイルーム』は油断していないと自己判断するより先に、気を引き締めねばならなかったのである。死なないようにすべきだった。ネジを外しても大人は大人。力は相手の方が強いし、たとえ全てうまくいったとして、行為の最中腹を刺したとしても、死ぬまでには時間がかかる。火事場の馬鹿力。溺れる者はなんとやら。死にかけの人間の力を舐めてはいけない。
怪物なら、尚更。
しかしながら、ここで『プレイルーム』を責めるのは酷というものだろう。彼は彼の最善を尽くした。完璧なタイミングで話しかけ、ここぞというところでネジを外し誘導し、ぼんやりしたターゲット、つまりはミセルを路地裏特有の汚れ方をした壁に上手く追いやって、気づかれないようにこっそり、ナイフを取り出して。
「なんでですかねえ」
ミセルに首を掴まれた。
片手で、ぎゅうっと。逆に壁に押し付けられて。手に力が入らなくなって、重力に引っ張られたナイフがカランと乾いた音を立てた。ミセルは作業靴を履いた足でそれを蹴る。遠くに行ってしまう。
「が、う?!」
「ハニートラップがしたいならもっと大きくなってからにしてくださいねー、がきんちょ」
本能のままに手足が暴れる。悠々と『プレイルーム』の首を掴むその手を上から握る。意味がわからない。締まっちゃうのに。人間の本能って時たま意味不明だよなあ……。ああ、くるしい。くるしい。目の前がチカチカしてぐるぐるする。焦点が合わない。顔が熱い。やばい、しぬ、ほんとに、これ、しぬんじゃ──
「おっとっと」
ほんの少しだけ、解放された。
慌てて息をする。主のような荒っぽい咳が出た。ぼーっとする頭でなんとかミセルを睨んで、どうしようと考える前に。
また、絞められた。
くるしい。
「殺しませんから、そこんとこは安心してください。おれはあんたを再起不能にしたいだけです。いや、ミセルとしては殺したいんですけどね? そうはいかないのっぴきならぬ事情がありまして」
鬱血しているのがわかる。くるしい。くるしい。何も考えられない。手足が痺れてきた。痛い。首が、痛い。窒息して死ぬ前に首の骨が折れて死ぬんじゃないか、これ。死ぬ、どちらにせよ、これ、もう、だめ。
「うーん、やはり共同生活ってのは上手くいかないものですねえ」
ミセルが意図的に緩めて、また絞める。定期的に息をする機会を与えられて、でも結局また絞められて、だから、ずっと、くるしい。何度も何度も何度も何度も何度も何度も、繰り返し繰り返し、続く。
死ねない。
主の言いつけを破ってしまうから。ミセルがここぞというタイミングで緩めてくるから。『プレイルーム』はただひたすらに苦しむしかないのである。
絞める。緩める。絞める。緩める。絞める。緩める。絞める。緩める。絞める。緩める。絞める。緩める──
「おれとしては……混同解答としては、ですね」
淡々と、まるで誰もいない部屋で独り言を呟くように、言う。
「人を殺したくないんです。ええ、だって人間ってとっても素晴らしいんですよ。互いを愛し合い助け合うことができる。みんなの生活が豊かになるような発明品も、とっても感動する芸術作品も生み出せる。他人を思い遣って、気遣って、尊重する。文明を生み出し作り出した法律をちゃんと守って、理性的に行動するんです。あはは、人間って素晴らしいですよねえ」
ひたすら、ミセルは──混同解答は、語る。
「ミセルは人間が嫌いみたいなんですよ。おかしいですよねえ、不思議でたまらないです。人間ほど優れた生き物はいない。まさに頂点と言っていい。おれ、人間が好きです。大好きです。愛してます。おれは人間が好きでたまらないから、あんたも殺しません」
人間ですからね、と彼は言う。
『プレイルーム』は理解できない。首を絞められているから、犯人の戯言に耳を傾けるほどの余裕がない。
「それでは、これくらいにしましょうか」
放り出された。
ミセルはあー疲れたと手をぶらぶらさせている。ずるずると壁に沿って座り込む『プレイルーム』は思いっきり息を吸って吐いてを繰り返した。酸素を補給した。目の前がチカチカする。暗いのか、明るいのか。そうだ、ナイフ。ナイフはどこにある。回収だけしないと。しないといけない。主に怒られてしまう。もらったから。買ってもらったから。それだけ探して、帰らないと。早く逃げないと。この怪物から、逃げないと!
ガタガタ震えながら、『プレイルーム』は思う。
『フィクション』に初めて会った時も、『ジャッジメント』と相対する時も、ずっとずっとずっとそう思っていたけど。
やはり、自分は怪物なんかじゃない。
『プレイルーム』はこいつらのような、悍ましく煌びやかな生き物では、ない。
「あー、そうだ。一応聞いときますけど、あんた少年十字軍の誰かさんですよね?」
「……」
「沈黙は肯定と見做します。はるばる殺しにきてくれてありがたいんですけど、多分ヴォイドさまのとこ行った方が良かったですよ」
「……なんで」
『プレイルーム』は怪物を直視しないように聞いた。見ていられなかった。見たくなかった。自分がこうなる可能性があったと、そうまざまざと見せつけられると背筋が凍る。それと同時にこうならなくて良かったと安堵もするが、やはり不快感が勝つのだ。そう、不愉快。主の時は感じられない、気持ち悪さ。それはきっと彼女が『プレイルーム』のような信者の手を借りないと生きていけないからだろう。虫嫌いでも蚕から作られた布は触れるような、そんな感じ。怖くない。動かないから。死んでいるから。加工されているから。
でも、この怪物はダメだ。
この男がどんな人生を歩んできて、どうしてこんなことになったのかなんて知りもしない。興味がない。しかしながら、怪物は『プレイルーム』に興味津々らしい。傍迷惑。早くどこか行ってくれ。近寄らないでくれ。
そんな『プレイルーム』の心情なぞつゆ知らず、ゆったりと、怪物は答える。
「ヴォイドさまなら、殺してくれただろうから」
「……」
「跡形もなく、一瞬で。可哀想ですね」
憐れまれたらしい。怪物に同情されるなんて反吐が出るが、文句も言えない。怖いからである。膝を抱えて縮こまる。怪物はしゃがんで、『プレイルーム』の頭をちょっとだけ撫でた。
「かわい」
ゾッとした。
こいつは人間が好きらしい。愛しているとも言っていた。好きで好きでたまらなくて、だから、『プレイルーム』のことも殺さないのだと。
……この怪物は。
人間を、愛玩動物のように愛しているのだと、そう感じた。
それは品種改良された小型犬を見るような、ペットショップで値札を貼られる商品を眺めるような、動物園のふれあいコーナーで飼育員が持ってきた動物に触れるような、そんな、愛し方。
「やっぱり生きている人間の方がいいですよねえ……機械人形なんてやはり紛い物。可愛いからいいですけど。話し相手にはなるからいいですけど」
なんのことだかさっぱりわからないけど、怖かった。『プレイルーム』はもうダメになっていた。戦意なんかとっくにぐずぐずに腐って溶けて染みになっている。気を抜いたら涙が出そうで、立てなくて。こんな悍ましい生き物だと思われていたなんて、信じられなかった。やはり自分は主人公になれないのだと悟った。『フィクション』のように、誰かを救い誰かを殺し、人間とは違う角度で人間を見ることができる生き物。怪物。化け物。魔物。
そんなものに、なりたくない。
人間にもなれないのに、『プレイルーム』は怪物になりたくないと駄々をこねる。
「それでは、ご冥福をお祈りしときますね」
こいつに祈られたくないし、主の命令以外で死にたくはないと思った。
……
レガリアは『ハッピーハート』に真正面から押されたところだった。
ちょうど、電車が来る。来てしまう。白線の外側にいる、つまりはホームから落ちたレガリアは、足が離れて少しだけ宙を舞う。浮遊感をほんの少しだけ味わって、スポットライトの下にいるみたいに、レガリアが照らされる。ああ、自分は今どんな顔をしているのだろう? 列車に轢かれて死ぬのは、苦しいのだろうか? 銀髪がギラギラ光る。光る。光る。『ハッピーハート』は無感情無感動を決め込んで、ただ電車に轢かれゆくレガリアを、見守っている。
ああ、面倒な。
「みんな、全力尽くしてワタクシを助けろ」
轢死は苦しそうだったので、みなさまに変わってもらおうと思った。
先ほどまで消えていた──いや、消えていたように見えていた人間のみなさま。鶏なんていないしアナウンスは通常運転だしピンクジャージなんていない。繰り返し繰り返し。およそ日常と呼べるような、その延長線上のまま。
なので、みんないる。
この場に存在する。
なら、助けてもらおうじゃないか。
並んでいたサラリーマン、小学生、中学生、高校生、大学生、フリーター、主婦、みんなみんなみんな、レガリアに向かって手を伸ばして、引っ張り上げた。何人かが勢い余ってホームに落ちる。仕方ない。引っ張り上げるために全力を尽くしてくださったみなさまに感謝。
なので、二、三人が、線路に落ちた。
そして、轢かれた。
「……で」
青ざめた運転手がいたので、レガリアは一睨みして支配する。そのまま何事もなかったかのようにミンチ肉をさらにぐちゃぐちゃにして電車は動き出した。先端だけ赤色に染まった銀色の箱は、また次の駅へ向かって行く。
レガリアは轢かれていく不特定多数のみなさまを観察しながら、呟いた。
「『スナッフフィルム』、でしたっけ? あとはまあ、『ハッピーハート』ですか。そのお二人。二人だけ。たったの、二人」
一回二人で殺せたからって。
まさか、あのレガリアを。『序列』一位、『侵略種』レガリア・S・ファルサを。
また殺せるなんてそんな慢心は、してないよね?
「してたら興醒め極まりないのですが、どうでしょう」
レガリアは淡々とスピーカーに話しかける。まあ、殺されかけたのは事実だから褒めてやってもいいんだけど、やはり詰めが甘い。レガリアの周りに余計な人間を設置するなんて愚の骨頂だ。あの『侵略種』を相手にするのなら、消えたように見せるのではなく、実際に消さなければならなかった。
支配される前に。
消さなければならなかったのだ。どんな方法を使っても、殺しておかなければならなかった。レガリアがこのホームに来る前に。効率良く跡形もなく、全員殺して使い物にならなくする必要があったのだ。
民草がいればいるほど、レガリアは有利になるから。
スピーカーから音がする。支配されたみなさまはそこに突っ立ったままだ。なので、問題はない。邪魔をする愚か者なんていない。
「『ハッピーハート』! 逃げろ!」
方言の主から余裕が消え去り、ただ味方の身を心配して叫んだ。ハウリングうるっさ。マイクの近くで叫ぶんじゃねえ。
人混みの中から慌てたように飛び出すピンクジャージを見つけたので、レガリアは支配したみなさまで取り囲む。ゾンビみたいだなあと思いつつ、このまま物量(人量?)で押し潰してしまおうと思って、みんなを集めた。あのピンクが見えなくなっていく。少女のくぐもった声が、苦しそうな声がちょっとだけ聞こえた気がした。
「う、あ、あああああああ!」
血飛沫が上がったので、お、死んだかなと思ったけど、それはレガリアが支配していたサラリーマンの血だった。
『ハッピーハート』はどうやら武装していたらしい。安っぽい果物ナイフで一人、一人、と確実に殺して道を切り開く。物理的に切って、開く。
そういやこいつ武闘派だったな。
『ハッピーハート』は人殺しが上手い。どのタイミングでどう動いて、どう相手を傷つければ死ぬか、勘でわかってしまう人間だ。彼女にとっては字を書くことや一桁の計算と同じ。わざわざ意識しなくてもできること。それこそ流れ作業のように、『ハッピーハート』は人を殺せる。
なので、みなさまはバタバタと倒れていった。首で血の噴水を作ったりハラワタをでろんとだらしなく見せびらかしたり目から脳みそまで風穴を開けたりして、死んだ。本能的な叫び声が聞こえる。断末魔だ。
赤色に染まったピンクジャージ。
『ハッピーハート』は肩で息をしながら、これまた赤くなったナイフを片手にレガリアを睨んでいた。彼女を押さえ込もうとした人間はそのナイフによって殺される。レガリアはみなさまに命じ、『ハッピーハート』を取り囲むのをやめた。これ以上は無駄だから。
レガリアは無感動に、観察する。腐っても街中の地下鉄、しかも帰宅ラッシュ時である。人間なんていくらでも補給できるのだけど、意味がなくなってきたかもしれない。ゾンビ状態なみなさまを殺すなんて『ハッピーハート』にとっては児戯に等しいだろう。
なので、レガリアが引導を渡してやる。
トドメを刺す。あの時殺されたお返しだ。これであいこ。とんとん。恨みっこなしになるはず。
「『非自然発火』」
ごう! と音がしてレガリアの指先からサッカーボール大の火球が放たれた。
まっすぐ『ハッピーハート』に向かう。地面を熱で焼きながら、飛んでいく。『ハッピーハート』は横に転んで回避した。勘がいいね。普通の人間だったら事態を把握する前に焼き尽くされてるはずなのに。わー、ぱちぱち。
さっさと殺されてくれりゃあ楽だったんだけど?
そんなことを考えている間に、『ハッピーハート』がバネのように起き上がってレガリアに向かってくる。この体は火災強固の物だ。あの世界にいたときのようには動かせない。
「『指向性発火』」
レガリアはとりあえず迫ってくる『ハッピーハート』の服だけを燃やした。これでビビってくれたら御の字だったけど、構わずにナイフを振るってくる。レガリアはとりあえず腕で首を庇って致命傷を回避した。怖い怖い。とりあえず動脈は切れてないのでラッキー。服は破れちゃったけど、必要経費だろ。『ハッピーハート』は二回、三回とナイフを振るう。腕と頬が切れた。結界術は苦手だし、ナイフを受け止めるには、致命傷を避けるには、どうしても後退しながら致命傷にならないところを切らせるしかなかったのだ。
埒が開かない。
このまま回避行動を続けていても意味がない。そもそも近接戦闘はレガリアの趣味じゃないのだ。魔法というのはやはり超長距離戦でなくては、思うように動けない。実際何度も攻撃を喰らっている。屈辱である。どうしようか。どうするべきか。彼女の人殺しには無駄がない。回避し続けるのは辛い。ああ、この場にふさわしい魔法は──
ふらついた。
後ろに下がりすぎていたのか、レガリアは操っていた一人の足を踏んづけて、よろめいた。隙ができてしまったのだ。攻撃のチャンスを、致命傷となる一撃を喰らわせられるその瞬間を、与えてしまった。
「しあーせにしね! レガリア!」
いつもより余裕のない『ハッピーハート』が、そう叫んで。
「『閃光性発火』」
レガリアは真っ白い強烈な光で、『ハッピーハート』の目を潰した。
字面からも分かる通り、これは目眩しの魔法である。しかし効果範囲がものすごく狭い。自分を中心とした半径30センチしか効果がないとかいう、クソみたいな魔法である。覚えても役に立つことはまずない。誰が考えたんだこんな欠陥魔法。
それでも、役に立った。
殺せると確信していた『ハッピーハート』の、その瞳孔が極限まで開かれた状態の時に、まともに喰らったら立てなくなるほどの光量を浴びせられたのだ。
「ぎゃう!」
「はーい、おねむの時間ですよー」
感覚が狂った『ハッピーハート』の首を掴んで、ずるずる引きずった。あー、いてえ。切られたとこちょー痛い。もう涙が出そうだ。とても痛い。切られたのが右腕だから、生活しにくいことこの上ないだろう。いやになる。
レガリアはたった一発でうめく『ハッピーハート』を、ホームの淵まで連れて行った。
「次の電車は……ああ、あと一分で来ますね。言い残したいことがあるのなら一分以内で」
うめいている。何を言っているのかわからない。ただ不明瞭に叫んで、苦しんでいる。
人間は脆い。
つまらない。怪物だと思っていたのになあ。ヴォイドにもそう言ってしまったのに、こいつら、人間じゃん。変わる生き物。格上を怖がる生き物。死を恐れる生き物。
『ハッピーハート』は怪物ではない。
この分だと少年十字軍の皆々様は怪物ではないのだろうなあ。前言撤回。まさかあんなイカれが怪物じゃないなんて考えもしなかったから、しょうがないね。人間にしてはなかなかステキな性格をしていたんだもの。勘違いぐらいする。反省反省。ヴォイドには後で訂正しておこう。マジでクソくだらない集団だからなんなら自分が始末しときますよって、言っておこう。それがいい。ヴォイドに任せてもいいことがない。特に荒事は。
「あ、うぅ」
『ハッピーハート』が何かを発する。電車が来るまで後三十秒ってところか?
「し、しにたく、ない……」
鼻で笑った。
この後に及んで何を言っちゃっているんだろう、こいつ。
「……なんです? ここまできて、駄々を捏ねてるんですか? ああ、それともしあーせに死にたいってことですか?」
「ちが、ちがうぅ……」
「じゃあなんです。しあーせに死ぬために殺してきたんでしょう? あんただけ嫌だって言うのはお門違い。これまで殺してきた人間に失礼ってもんです」
なので、しあーせに死にましょう。
あんたが信じてきた通りに。
「やだ、やだあ!」
魔法の効果が切れたのか、『ハッピーハート』が子供のように駄々を捏ね始めたので、とりあえず線路の上に落とした。ばきゃ! と音がして、どうやら『ハッピーハート』の細く不摂生な体が折れたらしかった。やはりカルシウムはちゃんと摂っておいた方がいい。煮干しを食べよう。それか牛乳。
「ち、ちがうの! やだ、た、助けて! レガリアぁ!」
「そうですか。では、来世助けてあげますから、一回は死んでください。そしたらお友達になりましょうね」
ぐしゃぐしゃに『ハッピーハート』の顔が歪む。死への恐怖とこれまでの行いの後悔と混乱。なぜこんな目に遭わなくちゃいけないのか、わかっていなさそうな表情。子供が親に叱られたときのような、どこまでも無責任で世間知らずな、顔。
「た、たすけて……」
『ハッピーハート』は誰かに手を伸ばしながら。
「たすけて、おかあさん……」
電車に轢かれて死んだ。
……
どうなっている。
ボロボロ白衣の方言女子、そして少年十字軍の工作員『スナッフフィルム』は理解が追いつかなかった。必死に駅から逃げて、逃げて、逃げて、相棒である『ハッピーハート』をおいてけぼりにして、逃げた。逃げるしかなかった。彼女は軍人ではなく工作員である。スパイじゃない方の工作、つまり物を作る方。戦場を用意したり、相棒のサポートをしたりするのが仕事で特技だ。だから、戦えない。あの怪物に──レガリア・S・ファルサに単身で立ち向かうなんて、無理だった。ああ、『ハッピーハート』はちゃんと逃げてくれただろうか。逃げ切れただろうか。あの場で立ち向かったらまず死ぬだろう。『スナッフフィルム』と『ハッピーハート』が共同で作り出した空間はいとも容易く破壊され、レガリアに武器を与えてしまった。どれもこれも『ジャッジメント』のせいだ。一般人を殺さずターゲットを殺せなんて無理に決まってる。あのレガリアなんだぞ。人を一瞬で軍隊に変えることができる、あの『侵略種』。怪物をたった二人で殺すなら、それ相応の犠牲は必要になってくる。敵兵は殲滅でこちらは死人ゼロなんて、そんなことは起こり得ない。何かを傷つけたいのなら、こちらも傷つく覚悟をしなければならない。
そんなことは今は関係ない!
『スナッフフィルム』はまず逃げなければならない。それはもちろん『侵略種』からであり、そして『ジャッジメント』からも逃げる必要があった。
殺されてしまう。
一般人を巻き込み、相棒を見捨て、ターゲットに背を向けて逃げ出したなんて知られれば、『スナッフフィルム』がどうなるかなんて、簡単に想像がつく。ついてしまう。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ!
『スナッフフィルム』は全速力で学校へと──少年十字軍本拠地へと戻る。最低限の荷物をまとめて逃げなければならない。ドタドタと足音を鳴らしながら土足で靴箱に入り階段をかけのぼる。赤色の靴跡が残ろうがどうでもいい。早くしろ早くしろ。『ジャッジメント』に見つかる前に、最低限の所持品をかき集めて、逃げろ。
『スナッフフィルム』は混乱していた。
学校のあちこちに隠しておいた私物を回収しながら、なぜ自分はこんなことをしているのだろうと疑問に思っていた。なぜ、自分は自分らしくない、『スナッフフィルム』らしくない行動をしているのだろう? わからない。わからない。一般人を巻き込んでしまうことは何度もあったし、なんなら相棒が死んで『スナッフフィルム』が生き残ることなんて日常茶飯事だった。『スナッフフィルム』は生き残ることが得意だっだから、仕様がなかった。異様に生存することに長けていたから、仕方なかった。じゃあ、なんで。まさか怪物に恐れをなして全て捨てて逃げ去りたいと思ったわけではあるまい。ない。絶対にない。ないのなら、なんで。
『スナッフフィルム』はなぜ怖がっている?
ガチガチと歯が鳴っている。足はもつれて上手く走れない。心臓は破裂するんじゃないかと思うぐらい高鳴っていて、息が浅くなっている。目の前が真っ暗になるような感覚に襲われもするし、気を抜けば叫んでしまいそうだった。
怖い。
確かに、『侵略種』討伐に向かうまでは我が家のように思っていたこの空間が、怖い。
『ジャッジメント』も、『侵略種』も怖い。恐れている。『スナッフフィルム』は誰も彼もが恐ろしくて仕方がない。逃げなきゃ。早く、生き残るために、逃げろ。それだけは得意だったはずだ。どれだけの底辺でも這いずって泥水啜って笑えるぐらいの胆力は持っていたはずだろう、『スナッフフィルム』。
「はよぅ逃げないと……」
『スナッフフィルム』は二階廊下を走りながら呟く。行く当てはない。ないが、どうにかするしかない。どこまでも逃げなければならない。まずは方向性だけ決めないと──
「キャハハハハ! そんなに急いでどこに行こうとしてるのヨ! 『スナッフフィルム』!」
甲高い声が、後ろから聞こえた。
思わず足を止めて、ぎこちない動作で振り向く。見たくない。見たくない。声でわかった。このタイミングで、あの声がした。してしまったのだ。
背後には、十七歳程度の少女が我が物顔で立っていた。
まるで魔法少女のコスチュームような、装飾の多いピンクのロリータ。高い位置でツインテールにされた髪は桃色に染められており、目はきっとカラーコンタクトを入れているのだろう、ピンク色だった。手には不釣り合いも甚だしい、無骨な斧。アニメの世界から飛び出してきたような、リアリティのある正義の味方。
「『フレンドリーファイア』……!」
『フレンドリーファイア』。
『ジャッジメント』直属の、主に裏切り者を処刑する軍人。
「そうだヨ! アタシたちは『フレンドリーファイア』! 仲間を殺すことで敵を殺す怪物!」
処刑人は心底楽しそうに、獣のように獰猛に笑った。
「『ハッピーハート』を殺した罪、『ジャッジメント』の言いつけに背いた罪を、その身をもって償ってネ!」
……
魔王ヴォイドが死んだ。
お亡くなりでご臨終である。御愁傷様である。心臓も脳も止まって、それはもう肉塊と化した。それを、狂言回したる『トリックスター』が確認した。
「ど、どどどどうしたらいいと思う……?」
『トリックスター』は電話をかけていた。もちろん血気盛ん野蛮極まりない少年十字軍の皆々様ではなく、勇者パーティの面々である。モニカとマギー。あるいは喪音と真実。どうやらお二人は集まってゲームをしていたらしく、グループチャットを使うことなく三人で会話できた。
『どうするも何も、死体の隠蔽はしなきゃでしょ』
心底面倒臭そうなマギーの声が聞こえた。モニカはそれなと単調に同意する。他人事だと思いやがって、チクショウ。
『トリスタンがどういう状況でどういう殺し方をしたのかは知らないけど、魔王だってこの世界じゃ一応は人間なんだし、とりあえず切り裂いて燃やして串刺しにして、それから海に流すなり山に埋めるなりしないといけない。今から向かうからじっとしててね』
あ、これ信じられてねえな。
『トリックスター』は頭を抱える。マジなんだって! と電話越しに声を荒げようがはいはいもうおねむの時間ですよーとしか言われない。クソッ! 今まで散々つまんねえ嘘吐いてきた報いか?! 『トリックスター』はどうしたものか考えて、目の前に転がる少女の死体を観察する。どう考えても死んでいる。頭パッカーンだし。どこもかしこもボロボロのズタボロ。青あざに彩られた、趣味の悪い暴行死体。
魔王が死んだ。
こんなにも、あっさり。あんなに強キャラ感出してたのに、死んだ。転生後だから、魔法が上手く使えなかったのだろうか? いやしかし、あの街一つが氷漬けになった事件はどうなる? あれを魔王の仕業だと確信していたから、勇者パーティはこいつを魔王ヴォイドと信じ込んでいたんだけど。でもなあ……力が戻っていたらこんな簡単に死ぬわけないから、やっぱり別件なのかなあ。『序列』の面々とか、そこらへん? わからないけど。そもそもあいつら以外にもいるんだろうか?
あー、頭がこんがらがってきた。
混乱に混乱を重ねバッグの底で絡まったイヤホンぐらいのっぴきならない『トリックスター』の思考。どうにもならないのでとりあえずそこらへんの壁にもたれかかって詰めていた息を吐いた。バットを放ると、からんからんと転がって、死体にぶつかって止まった。
これから、どうしよう?
……
『ど、どどどどうしたらいいと思う……?』
ガサガサと雑音が混じった音声が流れる。ひどく音質の悪い、注意深く聞いていなければ人の声だと思えないような音である。くぐもっていて、雑音がひどくて、しかも音が遠い。品質は最低だ。
『どうするも何も、死体の隠蔽はしなきゃでしょ』
さらに聞き取りづらい声がした。ちっちゃすぎて聞こえない。音量を最大にして、なんとか音声として認識できる。電話越しだろうか?
「……想定よりも落ち着いているな。これはマギーの性質か、トリスタンの人望のなさか……」
安物のイヤホンを耳にはめたまま、呟いた。何かゴソゴソ喋っているが聞き取れない。どうせ山か海かの話をしているのだろう。前世が魔王だろうがなんだろうがこの世界ではいたいけな少女で、人を殺せば刑事裁判である。主犯であるトリスタンを始めとしたパーティのメンバーたちは必死に隠蔽しようとするだろう。それこそ前世の恨みを死体に思いっきりぶつけた後で。オーバーキルなんてマナーがなってない奴らだ。
ヴォイドはちゃぶ台をトントン人差し指で叩きながら、ひたすらに耳を澄ます。
「ただいま戻りましたー……って、何やってるんですか? ヴォイドさま」
ようやっと帰ってきたミセルが玄関の鍵をかけながら問うてきた。素直にイヤホンを外して向き直る。にまり、と悪い笑顔を浮かべながら。
「おかえり。実験」
「はあ、いいっすね」
「絶対適当に返事しただろ」
「なんの実験かわかんないんですもん。あれですか、米粒にうがい薬かけるやつですか」
「でんぷんの有無を調べてどうする」
ケラケラ笑ってヴォイドは中断した。今日のところは──というか、未来永劫お開きだ。これにて第一弾はしまいおしまい。ちょっかいはかけられたのだからよしとしよう。
一台しか作れなかった盗聴器は、暇潰し程度にはなってくれた。
この物語は何もおかしくない。
誰かが期待しているような予想外も大番狂わせも起こらない。あるのはただ、実力に則った勝敗だ。誰かが心を折られて誰かが死んで誰かが逃げて処刑される。
魔王ヴォイドは勇者以外には殺されない。今回殺されたのは魔法で作った複製品だ。生きているように見えるが、その実態はただヴォイドの魔力で動くだけのお人形である。偵察に行って殺されてきてもらった。成功成功。これで勇者パーティに邪魔されることは無くなった。少年十字軍を潰した後、心置きなく処分できるだろう。
全部全部、予定調和。
だから、何も、おかしくない。




