14.おかしい
それにしても、何故混同解答は機械人形なぞ作ろうと思ったのだろう?
……
ピンクジャージの中毒者、『ハッピーハート』は気楽に夜の校舎を歩いていた。
『ジャッジメント』に与えられた仕事──暗殺を行うために、歩いていた。少年十字軍における薬剤師であるにもかかわらず、与えられた役割は実戦である。本来ならば『ドクターストップ』と共に保健室にこもっていなければならない『魔法』を持っているのに、彼女は戦場を駆け回り殺し回る。
それは、彼女をそんなとこにしまっておくのは、あまりにも惜しいから。
勿体無いから。
もっとも、『ハッピーハート』自身は自覚していないのだろうけど。
「しあーせだねえしあーせだねえ。あはははははははっ! 『ジャッジメント』じきじきのお仕事! あの子といっしょにお仕事だねえ。うれしいうれしい! 『スナイパーライフル』はおかしーし、『プレイルーム』はへんだもの!」
人のことは言えない彼女は、廊下をスキップしながら進んでいく。今の所、目指すは靴箱。その次は校舎裏。その次は、その次は、その次は。
「なんだっけねえ。……きけばいっか! 『スナイパーライフル』じゃないんだから、きっとおしえてくれるはず!」
あの性悪じゃないんだから、きっと。『スナイパーライフル』も『プレイルーム』も、何度か一緒に危機を乗り越えているはずなのに、『ハッピーハート』に対して当たりが強いのだ。まあ、どちらも最愛の相棒がいて、その相棒に対しては超優しいから、相対的にそう見えているだけかも。当たりが強いのは『ハッピーハート』だけじゃないのかも。
どうでもいいけど。
「……どこむかってたっけ?」
ちょっとだけ立ち止まって思考する。くだらないことを考えていたらわからなくなってしまった。よくあることだ。日常茶飯事だ。つまり慣れっこである。『ハッピーハート』はふわふわする頭で考える。先ほどしあーせになったばかりだったから、うまく考えられない。
しかし、それだけだ。
耐性がついてきてしまったのかもしれない。いやだなあ。しあーせになれないじゃないか。調合を変えよう。もっと強くしよう。いつまでも幻覚に溺れて快楽物質を摂取していよう。
それしかないから。
『ハッピーハート』の生き方は、それで停滞しているから。
どいつもこいつもそうなのだ。停滞している。更新されない。進まない。いつまで経っても現状維持。だからいつも絶望している。切望している。己の境遇を嘆き悲しみ、なんとか改善しようと『魔法』を使って、それでも事態は進まない。進むことはない。一生ない。死の間際、少しだけあるかもしれない。あと一秒で幕が閉じる、その瞬間だけ、進むことはできるかも。停滞から抜け出せるかも。
しかしながら、『ハッピーハート』はそれを望んでいない。
終わる時は、しあーせがいい。
笑顔で死にたい。
「あ、そーそー、中庭だったねえ」
『ハッピーハート』は思い出したのち進む。フラフラの千鳥足で進む。ごん! と壁にぶつかっても気にしない。痛覚なぞとっくに麻痺しているので。
上靴のまま外に出た。
夜風が気持ちよくて、『ハッピーハート』は立ち止まって深呼吸をする。清々しい。やはりあの校舎の中は息が詰まる。何故? わからない。じゃあそのままでいい。わかったところで事態が変わるわけではない。じゃあ、いい。理解しても変わらないのなら、『ハッピーハート』はそのまま受け入れる。
ザクザク土を踏んで、ひたすらに進む。土足とかそういうのは、『ハッピーハート』はあまり理解していない。どうでもいいのである。『ドクターストップ』はすごい怒るけどさ。そんなに怒んなくてもいいじゃん。
閑話休題。
『ハッピーハート』は鶏小屋に近づく。まだ鶏がいるというのに、放置されて久しいそこは、今や彼女の城であった。今回の仕事の、相棒。組む回数は一番多い。
『ハッピーハート』は古ぼけた鶏小屋の金網をノックする。ガシャガシャガシャ! と音がして、中にいた鶏がコケッと鳴いた。そのまま金網を揺さぶる。鶏がパニックになって跳ね回る。
「──うるさい」
鶏小屋の、奥の奥。バサバサと鶏が激しく動き回る中、体育座りをしたまま、微動だにしない少女が一人。
「この子らがたまげるき、やめ」
「それはごめん! でも起きてくれないじゃん! 中には入れないから、こーするしかなかったの!」
「さいさい言うてるよな、やめ。言い訳するがなら合鍵もろーてこい」
「ひどいひどいひどい! あたしはあたしなりに手早く済ませようって頑張ったんだよお? いっつも寝てるきみも悪いもん!」
「うるさい……あしが悪かったから落ち着いて。あーもう、すまんすまん」
緩慢な動きで彼女は立ち上がる。ようやっと、姿形が明瞭になった。
ぼろっちい少女だった。
この学校指定のセーラー服は鶏の餌に塗れているし、その上から羽織った白衣は白衣と呼びたくないほどに汚れている。髪は短ければいいと言わんばかりに乱雑に切られていて、ボサボサだった。フレームが歪んだ眼鏡を無理やりかけている。
「……で」
一等騒いでいた鶏の首を掴みながら、彼女は口を開く。
「何の用なが」
「あれれ? 『ジャッジメント』から聞いてない? お仕事だよお! お仕事! あたしと頑張るの!」
「ふうん……内容は」
「レガリア・S・ファルサをしあーせに殺す」
「ああ、あの『侵略種』? まだ生きちょったがんやき。しぶとい女やか、しゃんしゃん殺そ」
「そうだねえ、頑張るねえ。せっかくしあーせに死ねたのにまだ生きてるの、おかしいよねえ」
ぶーっと膨れて『ハッピーハート』は答える。おかしい。せっかくしあーせにしてあげたのに。なんで人の好意を踏み躙るようなことができるのだろう?
そんな『ハッピーハート』を見て、彼女はケラケラ笑った。
「いい心持ちやき、んじゃ、行くっち」
首を絞められ暴れる鶏をそのままに、彼女は小屋から出る。
かははと口を開いて笑った。ボロボロになった矯正器具が灯りに照らされてギラギラ光る。
「あし──『スナッフフィルム』が『ジャッジメント』の望むままにぶち殺しちゃる」
……
『プレイルーム』には仕事がある。
それは彼を遊び道具に変えた大人と同じ種類の大人を始末することであり、その副産物として情報を集めることであり、そして、彼だけの主とたわいない話をするのが仕事だ。主から与えられた素晴らしい役割で、このクソッタレを百乗してもまだ足りないほど腐り果てた世界で生きる意味。人生が地獄より地獄的であるのなら、世界はきっと地獄の最下層よりも苦しく辛い、まさに底辺なのだろう。およそ八十億ほどの地獄が跋扈するこの空間は、閻魔様(あるいはサタン? ヤマ神? 女神ヘル?)がいる地獄よりも、汚らしい。悍ましい。恐ろしい。鬼は裸足で逃げ出して、悪魔は尻尾巻いて降参する。
そんなことはどうでもよろしい。
こんなのはただ、この世界に適応できなかった運のない少年、『プレイルーム』個人の見方だ。この世界に住む大多数はこの世界を愛しているとは思わなくともこんなに思い詰めないだろうし。『プレイルーム』の厭世観はこの物語においてどうでもいいの極致であるため、詳しい説明なんてしなくてもいいだろう……と彼は思っている。彼は一信徒であり、取るに足らない存在であり、モブで脇役。そういう自覚を、彼はしている。少なくとも自分は主役にはなれないと知っているし諦めている。そこらへんが彼の少年十字軍に所属する軍人としての意識が薄いところであるのだが、もとより他の人間のように『ジャッジメント』に心酔していない彼なのだから、当たり前といえば当たり前であろう。彼の主がこうしなさいと言うから従っている。『ジャッジメント』は上司で、彼の主はかみさまだ。どちらの言うことを聞くかなんて考えなくともわかる。
『プレイルーム』は彼の主が乗る車椅子を押していた。
古ぼけた車椅子に乗る、『プレイルーム』と同い年であろう少女は、それでも立派な主である。夜闇でもはっきり見える真珠色の長い髪に、白雪のような肌。紅玉を思わせる瞳は左が眼帯によって隠されている。服装はいつも変わらず、白い入院着。それと、ペシャンコになった白い膝掛け。
夜の散歩である。校舎の周りをぐるっと一周するだけ。コンクリートで固められた道はでこぼこしているけど、それでも土の上よりかはいくらかマシである。揺れない様に最新の注意を払いながら、彼はゆっくり進んでいく。
「『ジャッジメント』は何を考えているのだろうね」
唐突に、主が口を開いた。
ゆらりとこちらを向いたので、『プレイルーム』は何となく立ち止まる。長話になりそうだなあと、素直に感じた。長く話せるのはいいことだ。体力が極端にない彼女はすぐへばってしまうから、会話を含めた日常動作を好まない。
小さな、しかし透き通る様な声で彼女は続ける。『プレイルーム』はただ、傾聴するしかない。わからなくても遮らない。わからなくても質問しない。彼女は絶対に、答えを言ってくれる。
「事が上手く運んだからと言って、二度も三度も『侵略種』の殺害命令を出したり、『ワーカーホリック』、『スナイパーライフル』を使って宣戦布告したり……どうも、無駄が多い。僕だったら何も言わずに殺そうとするけどなあ。黙っているのが一等効率がいいんだよ。国家間の戦争ではないのだから、いちいち宣戦布告なぞする必要性がない。それに、魔王殺しなぞ戦争と言うよりは害虫駆除に近いのだから、ますます理由はなくなるよね」
『プレイルーム』は気楽な口調で答えた。主は恭しい態度を好まない。どうも昔を思い出すとか言って、苦い顔をしたまま動かなくなる。
「そりゃ『ジャッジメント』のシュミだろ。魔王を害虫と思わず仇敵と思ってんのがあいつだ」
「そうだね。そうかもしれない。しかし、少年十字軍の長、『ジャッジメント』がやっているということに意味がある。『ジャッジメント』の命令に絶対服従する人間の多いこの組織、下手な命令を下せば大損害を被ることは重々承知していると思うのだけど、『ジャッジメント』はお構いなしに危険な橋を渡る。君で言うところのシュミだね。個人の趣味嗜好を優先し、危険地帯に足を運ぶ」
「ま、そうだな。無駄が多いのは事実だ」
「少年十字軍に滞在する理由がなくなった」
主ははっきりと、告げた。
『プレイルーム』は何も言わない。
「『ジャッジメント』に従う理由がない僕らだ。この軍以外居場所がない僕らも、流石に付き合っていられなくなった。僕にとって君の命が一等大事だからね。君を死地に送る様な真似は、出来る限りしたくないんだよ」
「……」
「一週間後に逃げる。準備を」
「はいよ」
「君はこの後仕事だったね。その仕事が終わったら休暇を申請しなさい」
「おけおけ。『ジャッジメント』が受け入れなくてもサボるから」
「悪い子だなあ」
くるくると、主は笑った。『プレイルーム』は黙って車椅子を押す。夜の散歩を再開する。
「『フィクション』という名前は、元から好きじゃないんだ」
少し掠れた声で、主は──『フィクション』は続ける。
「偽物の神である僕に相応しい。相応しいが、気に入るかどうかは別だ。御神体として祭り上げられるのはうんざりなんだよ」
『フィクション』は。
ずっとずっとずっと、とある新興宗教の神として、崇められていた少女だ。
それこそ生まれた時から、ずっと。彼女の血は万物を癒すらしいという謳い文句で神にされた。そしてそれは残念なことに事実だった。生まれながらの魔法使い。彼女の血、いや血液に限らず彼女の肉体は喰らうだけで全ての病が治り傷が塞がって寿命が延びた。明日には死ぬと言われていた老人を十年ほど生き永らえさせた。魔王のように天性の才能があったわけでもない。生まれながらに絶望していたのではない。だから、きっと、彼女はかの『侵略種』のように、そういう生き物だったのだろう。最初からそういう機能が埋め込まれていた。そして止まることはない。変わることはない。不幸な点があるとすれば、魔法という概念が御伽噺になった世界に生まれてきてしまったことかもしれない。
そんな彼女は物心ついた時にはもう緩衝材で覆われた部屋に閉じ込められていた。たまに信者がやって来て彼女を崇めるだけ。人としての会話の仕方も知らない彼女。自分の足で歩くこともできない彼女。箸すら持てず、うまく食事を飲み込むこともできない彼女。人としての生き方も知らない彼女。名前すらつけられなかった彼女。彼女はただ己の血が抜き取られ、体液を搾り取られ、爪を切られ髪を奪われた。切り取った肉片を喰む信者どもを、ぼんやり見つめるしかなかった。
そして、『プレイルーム』は信徒だった。
以上、説明終わり。
「僕は君が嫌いだ」
『フィクション』は吐き出すように続ける。今日は長く話せている。嬉しい。主と話せるのは、とても嬉しい。
「嫌いだよ、嫌いでたまらないよ。いつまでも僕をあの宗教の神だと信じ込んでいる君が嫌いで仕方がない。悍ましいとさえ思うね。早く早く早く、僕の側でくたばって欲しいんだ」
「……」
「僕を信仰するな。僕を崇めるな。僕を頼りにしないでくれ」
荒れた息のまま、続ける。
「早く、死んでくれ」
そう言った途端に、彼は咳をした。ゲホゲホと、苦しそうに、喉を痛めつけるように。背中をさすってやる。無理をしすぎたのかもしれない。早く戻ろう。戻って、『ドクターストップ』に診てもらおう。仕事の時間も近づいてきている。
今回の仕事は。
ミセル・パーセキュトリーの殺害だ。
……
レガリアは帰宅途中だった。
いつものバイトの帰り道。これでも真面目に女子高校生をやっている彼女は学校にも行っているし友達と一緒に遊んだりもするし部活だって入っているしバイトもしている。普通ではない箇所があるとすれば、全員支配しているためやってもやらなくても評価は変わらず最高点だということ。サボったって殴ったって暴言を吐いたって無断欠勤したって、レガリア(火災強固)はいつだって最高点の女子高生である。
というわけで、ほどほどにサボったバイト帰り。
そろそろ飽きてきたなあと思いつつ、それでも惰性で真面目にこなした本日。やめてしまおうかと考えはするものの、一度ついた癖はなかなか取れずサボることができない。無性に罪悪感が湧く。まあ、宝くじの一等を当てた人間はすぐさま仕事を辞めずに続けるらしいし、そういうものなのかもしれない。辞めてもいい状況なら、人間はなんとなくで苦行を続けることができる。……なんてことを、地下鉄のホームでレガリアは考えていた。昨日舌噛んでできた口内炎がちょっと痛いなあとか、そういや英語の課題やってないなあとか、晩御飯いらないって連絡し忘れてたなあとか、そんなくだらないことと同列に、薄らぼんやり思っていたのである。
もうすぐ電車が来る。
最前列に立つレガリアはなんとなく線路を見る。気が抜けていた。バイト終わりで、疲れていた。肉体は普通の少女なんだもの、疲れる。トートバックを抱え直して、レガリアはあくびを噛み殺す。
「なんや、しょうが気が抜けちゅうな」
後ろから、声が聞こえた。
レガリアは急いで振り返る。誰もいない。先ほどまで大量にいたはずの人間がいない。すっからかんだ。もうすぐ電車が来るから白線の内側まで下がっとけと伝えるアナウンスが、虚しく響いている。
べしゃんと音がした。
ホームの中央に、鶏の死体が落ちてきたのである。
まだピクピク痙攣しているソレ。地下鉄だから変わり種のファフロツキーズではないだろう。そもそも生き物が降ってくること自体がおかしい。異様だ。アナウンスは変わらず注意喚起をしている。変わらない。何も変わらないのにおかしい。鶏も、誰もいないことも。
先ほどの声も。
なんで、取り付けられたスピーカーから聞こえた?
「……んあ? あー、そや、ここにいた人間どもなら心配しのうていい。ちっくと別のとこに行ってもろーたばあやき。それにしたち、その子はかわいそうじゃ。食われることもなく死きいく。何の役にも立たず死きいく」
アナウンスに被せて、そんな声が聞こえる。誰もいないホームに響く。ガサガサとノイズが走って、独特な方言がさらに聞き取りづらくなる。鶏はまだ痙攣している。
「内臓ぶち撒けて、血ィ吐いて、ただ気持ちわりぃ言われて、死ぬ」
電車はいつまで経っても来ない。アナウンスはまだ続いている。繰り返し繰り返し白線の内側まで下がれと言っている。
誰だ。
誰の仕業だ。『ハッピーハート』じゃない。『スナイパーライフル』でもなきゃ『ワーカーホリック』でもない。『フレンドリーファイア』、『フレンドリーマッチ』はそもそもレガリアを殺しには来ないだろう。
じゃあ、これは、誰の。
「誰だおんしみたいな顔してるなあ……ゆうてなかったっけ?」
あしの名前、名前ちゅうか、コードネームなんやけど。
ゆうてたとしたちはやいっさんゆうてあげる。
「少年十字軍工作員、コードネーム『スナッフフィルム』」
アナウンスはまだ続く。
「あの子みたいに、ぐちゃぐちゃくじゅうて死きくれ、な?」
白線の内側にお下がりください。白線の内側に、白線の内側に、白線の、白線の、白線の、白線の、内側、危ないですから、お下がりください、白線の内側、に、危ないですから、白線、内側まで、内側、危ないですから──
「しあーせに、もっかいしんで」
正面から。
声が、して。
そこでやっとレガリアは真正面まで迫ったかつてレガリアを殺した仇敵『ハッピーハート』を認識し反射的に魔法を使おうと思ったけど喉は震えてばっかで声が出なくて目の前に立つ彼女は胡乱な瞳で死んだはずのいや一回死んだレガリアを見つめていてそれでピンクジャージの中毒者はいとも容易くとても簡単にものすごく単調にまるで日常動作のように。
レガリアを、押した。
……
『プレイルーム』は夜の街にいた。
路地裏の壁に寄りかかりながら、人の流れを見つめていた。もちろん、ミセル・パーセキュトリーを見つけるためである。それが終わったら主、『フィクション』と逃避行のための準備だ。何で逃げようかなあ。新幹線ってやっぱり予約しといた方がいいのだろうか? 車椅子のスペースがあったらそこを予約しておきたい。あとお菓子買おっと。やっぱり三百円までにしといた方がいいのだろうか。ねって作るお菓子って今何円? 値上げしてない?
取らぬたぬきの皮算用。
こういうのは、仕事が終わってからにしよう。たかが一匹魔王の側近を殺すだけとはいえ、油断は禁物。『ハッピーハート』や『スナッフフィルム』じゃないんだから、舐めプして殺されるなんてことはないようにしよう。死ぬなら主の目の届くところで、苦しんで苦しんで死ぬのがいい。そういう約束をした。『プレイルーム』だけの主の前で、死ぬ。死ぬのを見届けなければ夜も眠れないらしいので、そうする。
さて、頑張らねば。
ミセル・パーセキュトリーという青年。どうやら辛気臭い深緑の髪に、ツナギを着ているらしい。個性的でなにより。探しやすくてなにより。『プレイルーム』はただ息を潜めて観察する。探し出さなければならないから、探す。
お、見つけた。
うん、サクサク仕事が進むのは気分がいいね。あの沼色の目をした男。人間不信。陰鬱極まりない、怪物。そんな生き物は、人間様に紛れて堂々と街中を闊歩していた。
『プレイルーム』はゆったりと路地裏から出た。自分が殺されるなんて微塵も思っていなさそうな、警戒心なんて存在しない、まさに一般人の出立をした青年に、信号待ちをしていた怪物に、自らぶつかった。
「……う、わ」
なんとも薄い反応だった。
ぶつかってきた少年を、つまり『プレイルーム』を見るその目は、ああ、申し訳ないことをしたなあというぼんやりした罪悪感と、なんでこいつは止まっていた自分にぶつかってきたのだろうというもっともな疑問に塗れていた。当たり前の反応。一般的な感情。平々凡々極まれり。
「ごめんね? おにーさん。ちょっとボンヤリしててさア」
「は、はあ……こちらこそ?」
ミセルは何もわかっていなさそうな顔で返した。『プレイルーム』は彼の手を、ぎゅうっと握る。
頭を見る。
深緑に染められた、その頭。
『プレイルーム』にだけ、その頭に刺さったネジが見える。
いわゆる所のストッパー。理性。本能を抑え文化的な社会生活を送るための制限。そのまま、頭のネジである。それは法律でありモラルであり倫理でありルールでありマナーである。外しやすいように可視化しているためネジに見えるが、まあ、本質は、本来はそんなとこだ。
そして、それを外せるのは、『プレイルーム』だけ。
ぎゅい、と不可視の力で、ネジが回る。会話を重ねれば重ねるほど、ネジは緩む。頭がパッパラパーになっておかしくなる。ならば、くだらねえ会話をダラダラ長ったらしく続けようじゃないか。
「ね、お詫びにイッカイどお? やっすいとこ知ってんだよ。折半がやなら街中でもいいぜ」
「えーっと、何を? お詫びはいいっすよ。てか中学生ですよね?」
「シュミじゃねえ? 大人のおねーさんとかの方がいいタイプ?」
ぎゅい、ネジが回る。
「いや、おれの趣味は自分を曝け出してくれるひとで……って、どうでもいいです。さっさとお家に帰んなさい」
「家、ない」
「じゃあテキトーにホテルにでも止まってください。それか交番にでもレッツラゴー」
ぎゅい、ぎゅい、ぎゅい。
「ちょっとでいいから付き合ってよ。悪いようにはしねえって。お金はとらんからサア」
「間に合ってますってー。強情ですねえ」
「いいだろ」
ぎゅい。
ぎゅい。ぎゅい。ぎゅい。ぎゅい。
「……」
「悪いようにはしねえって。ちょっとだけ、付き合ってよ、おにーさん」
「……はあ」
返事のようなため息。ミセルはしょうがないなあとでも言いたげに『プレイルーム』に向き直った。信号は青になったのに、渡らない。『プレイルーム』を気にかけている。
「早く帰りたいんで、手短に。何を企んでんのかは知りませんがね」
「そう来なくっちゃ! さ、こっちこっち」
『プレイルーム』は路地裏へと足を運ぶ。ミセルの手を引っ張りながら。
ポケットに入れておいたナイフの感触を、確かめながら。
……
おかしい。
おかしい、おかしい、おかしい、おかしい!
これは、違う。全くもっておかしい。異常だ。非常に異常で、しかしそれ以上はない。ただおかしいだけ。それだけ。しかしながら、その異常が全くもって前例がない、それぐらいのおかしさなんだから笑っちゃう。笑えない。
『トリックスター』は笑えなかった。
トリスタンも笑えなかった。
あの狂言回しが笑えなくなる事態。『トリックスター』は夜中の住宅街で放心していた。頼りない電灯がチカチカ瞬いている。蛾が群がっている。
「……は?」
ようやっと飛び出たのは一文字だけ。ついでにはてな付き。わあいお得。お得かどうかは個人の判断に委ねよう。……何を考えているんだ? 自分。意味がわからない。意図もわからない。何もかも、理解不能。
『トリックスター』はただ、目の前で起こった出来事を消化できていないだけだ。
そもそも飲み込めていないのかもしれない。この出来事を咀嚼できていない。クラクラする。立ちくらみなんて久々だ。真夏、クーラーの付いていない日当たりのいい部屋で昼寝したとき以来だ。待って、過去の自分大馬鹿者? 今はそんなことどうでもよろしい。でもさ、待ってくれよ、これは、だって。信じたくないし、信じられないし。拍子抜けというか、がっかりというか、そんな次元じゃなくて。ただ、ああ、こんなあっけなく終わってしまうなんて、そんな終わり方は、狂言回しである『トリックスター』は許せないってだけで、実際はこんなものなのかもしれないけど、それでも。
これは、おかしい。
『トリックスター』は狂言回しであるが故に、異常事態を好む。予想外大歓迎。想定外大歓喜。『トリックスター』はいついかなるときも、それこそその異常で死ぬとしても、予想すらしていなかった変化が起きたら笑うだろう。笑って死ぬだろう。あー面白かった! とでも言いたげに、死ぬ。
でも、これは。
いくらなんでも、笑えない。
「なんで、なんでなんでなんで!」
手に持っているのはなんの変哲もない金属バット。曲がりなりにも野球少年である彼は、得物としてバットを好んでいた。
だから、そこまではいい。
「なんで、死んでんだよお!」
問題は。
『トリックスター』の目の前に。
金属バットで全身を殴られて死んだ、魔王の死体があること。
黒髪の少女は全身の骨を折られて死んだ。魔王の魂が入り込んだ肉体は生命活動を停止した。簡単に死なないはずの存在が、いとも容易くあっけなく、死んだ。
ヴォイドは死んだ。
『トリックスター』によって、殺されたのである。




